虹の向こう
折原に抱っこされるとき、愛莉は緊張と興奮に目をまんまるくしていた。
新田は二人の姿をいろいろな角度から、数えきれない枚数撮影する。プレーオフを勝ち上がったレパーズは、いよいよ最終決戦となるアジアワールドシリーズに国代表として出場することになっていた。
その開幕戦を明日に控えた多忙の中、「近くに来てるんだけど、飯いっしょにどうだ。よかったら、愛莉ちゃんも一緒に」と折原は新田を誘ってくれたのだ。
「すごいことやったな、新田。やっぱりお前はただものじゃないって思ってたんだよ」
愛莉を下ろした折原は、そう言って新田の肩を叩き、「いやーすごい、ほんとすごい」とやたらに称賛してくるのだが、新田はと言えば、
「俺は何もしていない」
と首を振るだけだ。これは、本当に実感としてそうなのであるし、新田が「何かをした」と
見做す人間は、この地球上で折原だけであろう。
民・正連立政権となる……、という大方の予想を裏切って、浅井内閣は官房長官に起用した大山をはじめ、野党各党から要職に人材を登用し、その中には正民党の君島の名前はなかった。いや、自党から閣僚入りした議員の中に釜元派はおらず、旧派閥で言えば陣内派、豊浜派から一人ずつ、そして岩森前内閣のもとで共に実績を重ねていた外務大臣の蓮田と総務大臣の緑川に留任を求めた。頭文字を並べれば「民憲揚協教進健連立政権」ということになるのだろうが、誰もそんな呼び方はしない。
釜元に近い議員たちからは、寄せ集め内閣、無国籍内閣、ごった煮内閣……、といった悪口が溢れ、メディアでもそうした言葉は多く使われたが、
「虹内閣」
という言葉に、間も無く覆われてしまった。
「これまでにないほど多様な人材が集まって、この国の進む先へ掛かる、虹の架け橋のようです」
これを言ったのは、浅井の三顧の礼をもって、党幹事長に就任した岩森前総理であった。
一方、再興を目論んでいたものの、よもや飼い犬に手を噛まれることとなった釜元とて、黙ってはいない。反主流派となった党内自派議員たち、そして正民党、ファミリーグループといった他党で自身に距離の近い議員たち、更には光の子といった宗教系政治団体にも声をかけ、一大派閥を結集せんと動いている。
釜元はこの議員集団「神閥」と称し、倒閣運動に余念がない。
しかし、少数与党を反転させ、連合挙国内閣となった浅井内閣の支持率は発足直後のご祝儀相場を差し引いてもなかなかに高い。旧態依然たる派閥政治に逆行したところで、往時から現在にかけて経済が成長したわけでもなく、それならば新しい政治の形に賭けてみようという考えに国民が至るのは、ごく自然なことだと言えよう。
そして、折原が言うには、「それは新田がきっかけを作ったんだ」という。
「俺は当てずっぽうに動いてただけだ。……もちろん、愛莉のためにも、ちょっとは世の中が良くなってくれなきゃ困るって思ってはいたよ。でも、俺がしたことで浅井がああいう変節をしたわけじゃないだろう」
なにが「民・憲連立政権」だ、と今振り返ると笑いたくなる。お前が思ってたのよりも、もっと無茶なことが起きてるんだぞ、と。
「……それよりも、お前だよ。浅井も大山も、お前の大ファンで、レパーズファンってところで繋がってただけだ。それも、あの時点では関係が切れちまったとしても仕方がなかった」
振り返れば……。
釜元の秘書に脅迫され、そのことを大山に話した直後、大山から「会いたい」と連絡があった。わざわざ自宅まで訪ねてきた大山に、
「新田さんにおりいってお願いがあるのです。これは、この国のすべての人に関わる問題です」
と、やや大袈裟とも思われる言葉とともに、頭を下げられた。
新田は一介の記者である。しかしながら、彼は同時に、西国大附属青陽高校のキャッチャーとして甲子園に出場し、折原尚人の球を受けた男でもある。
「……いや、でも、無理ですよそんなの……」
「それは重々承知の上、無理を押して、お頼み申し上げているのです」
演技であれ、大の男が土下座をせんとする姿勢を見せられては、「やめてください、わかりました、わかりましたよ、出来る限りのことはしてみますから」という答えしか発せない。とどのつまり政治家は、こういうところが強いのだと思わされた。
大山と秘書を見送ってすぐ、折原に電話を掛けた。
「びっくりしたけどなぁ……。近くにいた球団スタッフさんにお願いして、監督と、本社の方に話を通してもらって。そしたら、そのときにはもう、本社に大山さんから連絡が行ってて」
手が早い。これもまた政治家の強みだろう。この一点しかない、と土下座をする前にはもう、ちゃっかり別の方向から手を打っていて、双方向、あるいは三・四方向からこちらを動かしに来る。強打者相手のキャッチャーのリードも、内角・外角・高め・低め、そして緩急により手前と奥を駆使して抑えるものであるが、それぐらいに抜かりなく、手を打ってくるのだ。
結果的には、ホーム最終戦の日。もともとファーストピッチセレモニーには庚申球場の在する市の市長に頼んでいたのだが、この人が民友党所属であったため、「浅井先生にお願いしたい」という球団からの申し出に対してすぐに了承の返事が来た。
一方で、これがこの時点で政治的な色を強く持つものであってはならない。そのエクスキューズとして、浅井の球を受けるキャッチャーとして、大山が同時に出場することとなった。
「まあ何にしても、浅井さんも大山さんも嬉しそうにしてくれてさ、大の大人があんな風に、顔くしゃくしゃにして喜んでるの見て、正直ちょっと、いいなって思っちゃったんだよ。俺もあれぐらいの歳になっても、ああいう感じにさ、いろんなしがらみとか超えて、友達でいられて……。そんで、そんな二人が総理と官房長官だろ。二人三脚で国を良くしていくっていうなら、やっぱり期待しちゃうよな」
無邪気に言う折原の顔を眺めながら、新田は愛娘の手を握り、少しばかり別の考えでいるところだ。
浅井内閣は、排外主義や外国人差別に対して、NOの姿勢を鮮明に示した。現状それは確かに現状多くの国民の支持を受けているし、内閣支持率にもそれは顕れている。
しかし、高い支持率は、一度下落の傾向が現れると、歯止めが効かなくなることも少なくない。
過去の内閣でも、発足当初は極めて高い支持率を得ながら、一気に崩れていったケースを、新田は多く見ている。国民性というものもあるのだろう。チャレンジに伴うリスクばかりを重く見るし、過去の成功体験に依存する一方、ミスであったことが明確な過去の判断に固執し、しばしば回帰しようとしてしまう。新奇性の高い浅井内閣は、国民の支持を失った場合、政界における基盤のなさから、急速に求心力を喪うことは避けられないだろう。
そうなったとき、再び釜元や、君島率いる正民党のような者たちが主導権を握ることとなる。「敵」を規定し、あらゆる不安の責任を負わせるやり方に回顧し、そこから再びニュートラルな状況にまで世論を立て直すことは容易ではない。
つまり浅井は、自身の掲げた「平和」を達成するためには、決して負けるわけにはいかない戦いに身を投じたことになる。彼が負けた瞬間、この国の平和はたちまちレイシズムの波に飲み込まれ、その先に待つものは……。
「……なあ、折原」
折原が予約してくれたレストランが見えてきた。食事をしながらするべき話ではないかもしれないと思ったから、一度立ち止まって、新田は訊いた。
「一点リードの九回裏の守り、ツーアウトランナー満塁、フルカウント、相手は四番打者。……例えば、ガイアーズの戸澤だとしよう。お前が僅かでもコントロールミスをしたら負ける、今シーズンもそういうシーンはあっただろう」
「あったねぇ……。お客さんにだいぶ胃の痛い思いをさせちゃったんじゃないかなって、反省してるよ」
折原は苦笑した。クローザーを務めながら、圧倒的な投球で相手を寄せ付けない、という投球はなかなかないのが折原という投手である。
「でも、……お前に鍛えられたからかなぁ、『怖い』とは思わないだろうね。野手のことを考える、ファンのことも考えるよ。そうすると、頑張るかって気持ちになる。みんなに喜んでもらいたいからね」
ピンチを迎えるたび、今にも泣き出すのではないかという蒼白な顔になっていた男の面影は、もうどこにもなかった。
野球人として遂に最高の栄誉を掴んだ男の穏やかな微笑み、……この国の平和を守るストッパーとして、国会というマウンドに立つ浅井も、彼をリードする大山も、共に折原尚人という投手に憧れ、彼のように在りたいと思ったはずだ。
ならば、俺も信じてみようか。
手のひらの中の、小さな手。愛おしく、まだ小さくか弱い命がやがてこの腕の中から巣立つ日に、何の恐れもなく、幸せだけをただ祈れる未来の訪れを。
虹の掛かった後の空が、青く晴れ渡ることを。




