沈みゆく船の饗宴
家までの道、最後の歩道橋を渡るとき、新田はワイシャツのボタンを三つ目まで開けた。
九月の夜、十時になろうかというのに、風呂の残り湯のような温度の空気が、みっしりと彼の腕や頬にまとわりつく。風も吹かず、街路樹は微動だにしない。
この国に、治さなきゃいけないところは数多あるけれど……、
「この夏の暑さは、もういい加減、なんとかしなきゃヤバいんじゃないか……」
我知らず、考えの途中から声になって漏れ出ていた。経済、国防、政治とカネ……、課題は山積みだが、仕事に疲れた身体でこの熱帯夜を這いずって帰るという経験をしたことがある政治家ならば、喫緊の課題は暑さ対策である、なんて考えを抱くのが自然ではあるまいか。
岩森さんは久しぶりに、そういうまともな感覚を持った政治家だと思ったんだがな。
階段を降りつつ嘆息した新田の側を、住宅街には不似合いな、黒塗りの車が走って行った。反射的に振り返って、ナンバープレートに目を凝らし、四桁の数字を記憶して、……いいや、何でもない、偶然だろうと家路を急ぐ。音を立てぬよう玄関のドアを開けたときには、夕立に打たれたみたいに汗でずぶ濡れだった。
「おかえり」
老いた母が、台所から顔を覗かせる。
「愛莉は寝た?」
「もちろん。あんたすっごい汗ね、とりあえずシャワー浴びてらっしゃいよ」
二階、愛莉の寝室に未練がましい視線を送ったが、五歳の娘の寝入り端を起こすのがどれほど大きな罪に問われるかは知っているつもりだった。
汗と汚れを洗い流し、冷蔵庫のビールを手に、居間のテレビを点ける。
プロ野球、時鉄レパーズの選手たちがビールかけをしている様子が流れていた。
開けかけたビールの缶をローテーブルに置いて、数秒、目を止めて、……チャンネルを変える。民放のニュースはどこもレパーズの優勝ビールかけを報じるばかり。ほかはドラマとバラエティ。
昨日、岩森総理が辞意を表明した。今日になって、待ってましたと言わんばかりに幾人もの民友党の人間がポスト岩森に声を上げ、特に後継最右翼と見られる浅井信之の出馬表明会見があった。それは、歓迎すべきことかどうかはさておき、プロ野球チームの優勝よりも大きなニュースバリューのあるものとして受け止められなければならないはずだが、……これがいまのこの国のレベルなのかもしれない。
そう、溜め息を吐きそうにもなる一方で、熱狂的なファンの多いレパーズの優勝、しかもここ数年何度もあと一歩のところまで至りながらも土壇場で優勝を逃してきたことを思えば、今日ぐらいはレパーズが主役であってもいいという気もする。新田自身、フリーの政治ライターという職業柄どうしても政治的話題に肩入れしてしまうから、ついついひねた視線を送ってしまうのであるが。
「折原くん、やったわねぇ。あんた、メールぐらい送ったの」
ソファの斜向かいに座った母が言う。画面の中の折原尚人はいま、後輩投手からビールを顔面に浴びせられ、声にならない声を上げているところだ。
「別に、俺が送らないでも……。どうせ一々見ちゃいないだろうし」
「でも、アドレス知ってるんでしょ」
「それは、まあ……」
「ちゃんと、そういうときは一言でもいいから何か言ってあげるもんよ。なんなら……、スマホ貸しなさい、お母さんが代理で送ってあげるから」
「いいよ……、いいって、自分で送るから……」
三十六になろうと、母から見れば息子は息子だし、レパーズ投手陣の精神的支柱である折原も「息子の同級生」でしかない。
「折原くんは、ウチに来たときにねぇ、私のおにぎりを美味しい美味しいって、ぱくぱく食べて。おばさんはおにぎりの天才なんですねって言ってくれたのよ」
なんて、折原がもうきっと覚えていないようなことも、永遠に忘れないのだろう。
「消していい?」
母は張り合いのなさそうな顔で肩をすくめ、ソファから立ち上がった。飲む気の失せたビールの缶が、じっとりと汗をかいていくのを見るのが忍びなくて、足音を立てぬよう二階に上がり、寝室の戸を開ける。
愛莉は静かに寝息を立てていた。ダウンライトの光でも、長い睫毛が頬に影を横たえているのが判る。
新田の命そのもの。
いや、この幼女の命と比べれば、新田自身の心臓などどれほど軽いだろう。
枕元にはぬいぐるみがいっぱい。仕事で生活が不規則で、今日のように常識的な時間に帰って来られることのほうが珍しいような父親に代わって彼女の心を守るやわらかな騎士たち。
彼らに敬意を表しつつ、よく見れば今夜お姫さまが抱きしめて眠るのは、レパーズのマスコットである「豹太郎」であった。
このぬいぐるみを贈ってくれたのが、他ならぬ折原である。ゴールデンウィーク明けに休みが取れたので、娘と一緒に観に行く、とメールをしたら、折原はわざわざクラブハウスまで新田父娘を招待し、サインをした豹太郎のぬいぐるみを愛莉にプレゼントしてくれたのだ。
人見知りする愛莉は、一目で折原のことを好きになった。折原もよく知る女が唯一この世に遺したのが愛莉である。
今年は優勝するよ。絶対、優勝する。
熱っぽい口調で、折原は語っていた。
若手が育ってきて、これまでにない手応えがある。俺もあと何年目こうして腕を振れるか判らない、……だから命に換えても、今年、優勝して見せる。
新田は、スポーツの文章は書かないのか? 政治だけ? ああそう……。いや、もし書くなら、折原がそう言ってたって、お前だけが書ける文章になると思ったんだけどさ。
愛莉の静かな寝息に耳を傾ける新田の脳裡にはあの日の折原の声が蘇り、「お前だけが書ける文章」という言葉が呼び水となって、今日見た光景が思い出された。
やはりあれは、憲政党の大山浩典だったに違いない……。
今年の夏、与党である民友党は前政権から引きずる「政治とカネ」問題により参院選で大敗を喫した。
昨年の晩夏に総理総裁の座に就任した岩森は「裏金議員」あるいは「疑惑議員」たちの身体検査や、前政権以来遅れに遅れていた各種の疑惑調査を掲げていたが、当の裏金議員たちに選挙戦惨敗の責任を負わされ、言うなれば詰腹を切らされる形で道半ばの退陣という判断を下したのが昨日。
岩森の辞意を受け、すぐに総裁選の日程が決まり、早速今日の昼過ぎ、出馬表明の会見を行ったのが浅井信之である。
最大派閥釜元派の支援を受け、前回の総裁選でも最右翼と言われていたが、岩森にすんでのところ及ばなかった男は、当然今回の総裁選で雪辱を期している。他にも候補は現れるだろうが、岩森が辞めれば浅井というのは、いわば既定路線である。
新田も民友党本部での「次期総理」会見場に入りはしたが、無風状態の会見に厭気が差して、急用が出来たふりで退室した。少数与党という立場に落ちた民友党、円滑な政権運営を期して、先の参院選で急伸した極右政党・正民党を連立パートナーとして迎えることは既定路線であり、よりによって浅井が正民党の党イメージカラーのネクタイを締めて出てきたことに、会見上を訪れた記者たちの誰も疑問を呈さないことは、いっそグロテスクでさえあった。
トイレに寄って、用を足す背後、個室から誰かが出て来たのは察知していた。新田が洗面台に向かうタイミングでトイレを出て行った後ろ姿がちらりと見えて、「えっ」と思わず声が出そうになった。
それでもきちんと手を洗うことを優先したのは、五歳の娘の父親という立場ゆえか。
慌てて駆け出たとき、その背中は既に党本部出口へ向かい、待ち構えていたハイヤーの後部座席に収まるところだった。特に視線を憚る様子もなく、悠然と、運転手に向けて柔和な表情で何か語りかけるその横顔。
紛れもなく、憲政党のベテラン・大山浩典のものだった。
憲政党は最大野党、民友党とは常にライバル関係にある。しかし夏の参院選では民友党が苦しむ中、思うように議席を伸ばすことは出来なかった。
国民の生活と自由を優先し、多様性を認め、差別を決して許さない……、が憲政党の党是であるが、地球全体がナショナリズムの波に乗ろうとしている中にあって、移民の受け入れ反対をはじめとする強硬な反グローバリズム的主張を行う正民党に「食われる」格好となってしまったのである。
この国はこの国の国民のためのものであり、外国人のために使う税金は無駄である、とか。
先の戦争はアジア各国を救うための大義あるものであった、とか。
グローバル企業は日本を侵略する「敵」である、とか。
こうした、正民党代表・君島任子のヘイトスピーチぎりぎりの、あるいは、はっきりヘイトスピーチであると指摘されるべきものはこの夏、多くの支持を得ることとなった。
排外主義的主張は、長引く経済の停滞に鬱積した不満を一時的に下げる効果を発揮するだろう。しかしそれは、頓服の痛み止め程度の効果しか持たない。不調の根本的原因を取り除くための時間を割くべきところ、目を逸らしていれば病巣を増長させる結果にしかならず、国益を損なうことは避け難い。しかし、仮想敵、あるいは「理想敵」とでも呼ぶべきものを設定することで、国民の不満をかわすのは、古来より使い古されたファシストの常套手段である。
君島のルーツは民友党にあり、当時は、現在まで続く最大派閥の釜元派に所属していた。参院選で躍進後にも度々釜元と面会していることからも、正民党は参院選にて民友党から流出する浮動票の受け皿であったことは既に明らかだった。また、釜元が参院選大敗の責任を岩森に着させ、自らの愛弟子たる浅井を総裁・総理に据えることで、強い影響力を持ち続けるのが狙いであることは、専門家の分析を待つまでもない。
なお悪いことには他の与党、民産党や保進党なども、正民党をある種のトレンドと捉え、迎合するような発言を行うようになっている。岩森の退陣によって、今後ますますそうした主張が勢い付くことになるだろうということは、もっと知られて然るべきところだが、メディアはもうすでに「新総理まんじゅう」をいかにして売らんかという商魂逞しさで、懸念を示す声は一向に上がらない。総裁選を、御用記者、御用コメンテイター、のみならず御用芸人まで引っ張り出してのお祭りとして取り扱うばかり。
民友・正民連立政権前夜の躁状態を、タイタニック号の晩餐会のように眺めている者は、そう多くはないようだ。
そんな中でなぜ、憲政党の大山が浅井の会見が行われる民友党本部に現れたのだろう?
新田はこの後、岩森の側近議員への取材をした。その最中に、はからずも岩森本人とも顔を合わせる機会があった。
「あなたは、いい記事をずいぶん書いてくれたね。ありがとうね」
肩を抱くように言われたとき、新田は自身の中立性を忘れて胸に熱いものが込み上げるのを覚えたが、党力学の敗者として去ることの決まった岩森にどんな言葉を向けるのが正しいのか、結局答えは出なかった。
民・正連立政権については、「排外主義的な考え方が国民に広がることを懸念しているけれどもね」という真っ当なコメントを得たが、恐らく岩森はこの言葉を公的には飲み込んだまま、官邸を去ることになるのだろう。バランス感覚があり、寛容で、しかし清廉であろうとする、近年稀に見る純な総理であったが、その清純さゆえに追われるように辞めなければいけなくなったのは、悲しいことだ。国民の多くが同情するのも無理からぬこと。後釜が旧態依然の象徴たる釜元派の浅井であるから、余計に……。
愛莉の寝顔を見つめながら、新田は暗澹たる気持ちになっていた。
愛莉の母親は、外国人だ。
愛莉はだから、この国の人間にはない肌の色をしているし、彫りは深く、長い睫毛をしている。
それだけの理由で排除されることが罷り通る世の中になったとき、愛莉はどんな苦労を強いられることになるのだろう? この世界一美しい少女だけを遺してこの世を去った彼女は、まさか自分が人々の愛に包まれ育ったこの国の人々が、愛娘に牙を剥く日が来るなどとは夢にも思わなかったはずだ……。
岩森政権下でも、かつてからすれば信じがたいほど苛烈な、この国に住む外国人、この国を訪れる外国人に対しての言葉が飛び交った。岩森はそれに立ち向かうように、進んで外国首脳との交流を図り、またかつてこの国が行った侵略行為に対して真摯な謝罪を口にしてきた。彼の政治信条は新田の思いと全面的に重なるわけではないが、こと、国籍や出自を理由とした差別を許さないという姿勢の真っ当さについては、ハーフの娘の父親として、ありがたく、また頼もしく思っていた。
外国人は自分の国に帰れ、この国から出て行け。
愛莉はこの国に生まれた、この国の人間である。しかし、見た目は外国人と見られることが多い。「ならいいのよ」ではないのだ。愛莉と、愛莉の母と、愛莉の父つまり自分と、そしてあらゆる人間と、何も違わない。誰かによって区別などされる筋合いはない。
当たり前のことではないか。
にも関わらず、新田は愛莉を連れて歩くとき、愛莉に向けられる視線に対していつしか極めて神経過敏になっている。愛莉の祖母に当たる新田の母は、母親としての経験ゆえか、堅牢な砦のように頼もしく、そもそもそんな視線があろうと頓着せず愛莉を守ってくれているが、親になってからまだ五年の父親には、そこまでの心の余裕はない。
新田にはわからない。どうして人々が愛莉を、愛莉でなくとも誰かを、肌の色が、髪の色が、言葉が、国籍が、違うだけで攻撃できると思ってしまうのか。
自分が、自分の大切な人が、攻撃の対象になることを少しも想像しないからか。あるいは、自分が自分の大切な人が既に、何らかの形で攻撃されていると信じているからか。
外国人の犯罪が増えていると、それを裏付けるデータはないまま、独り歩きする言葉はさながらハーメルンの笛吹きだ。ぞろぞろ付いて行った先で、揃って川に沈んで溺れ死ぬのか。
こんな世の中であろうと、愛莉を守り養うために、筆を止めないのが自分の使命だと新田は心得ている。
折原の投じる球を受けて、共に甲子園に出場した。しかし野球の道はすっぱりと諦め、学問の道を生きることを志し、雑誌社に身を捩じ込んで、夢中になって仕事をしてきた末に、野球部のマネージャーであったイサベラと結婚した。
彼女に背中を押される形で独立して六年。愛莉が生まれ、イサベラが亡くなり、この国の形が大きく変わろうとしているさなか、折原がヒーローとなった。
おめでとう。
短く送ったメッセージは、届かなくてもいい。もう自分とはあまりに遠い世界の話である。それよりも新田の脳裡からは、大山の横顔がなかなか去らない。なぜ浅井が総裁選出馬会見を行っている同刻に、大山が民友党本部にいたのか……。
途方もないアイディアが浮かんだのは、声を出さずに「おやすみ」と言って立ち上がったその瞬間だった。
リビングのテーブルで出しっぱなしのビールの缶を持ち上げたら、缶から滲んだ汗が丸い水溜りを作っていた。テレビは相変わらずレパーズの優勝特番一色だろうか。冷蔵庫に缶をしまい直し、濡れた指をシャツで拭いながら、妄想に囚われている自分を意識すればするほど、切り捨て難く思われてくる。
新田は年に一度、年末だけ馬券を買う。元はといえば前の職場の同僚に誘われたからだが、当時まだ元気だったイサベラの誕生日である九月十二日に願いを託して、九番と十二番の組み合わせで千円だけ。
何年も外れ続けたすえの去年、うっかり買いそびれたら、そんな年に限って九番と十二番で決まり、もし買っていれば愛莉と母を五回は豪勢なレストランへ連れて行ってやれるぐらいの配当が出た。三日ぐらいは溜め息を吐き続けた記憶がある。全く、逃した魚は日を追うごとにどんどん大きく感じられるようになるものだ。
荒唐無稽な妄想、そう切り捨てた自分の分析が、万に一つでも本当だったなら、悔やんでも悔やみきれまい。
野球の道に進むという選択肢もあった人生で、選んだ道の上に今立っているのならば、この道に後悔を記すことがどれほど馬鹿らしいことか。些細な引っ掛かりに反応した結果として、確かに無駄足に終わったことも数知れないが、千のうち、万のうちの一つを見逃すことはしたくない。
そして、何よりも……。
娘の未来に、僅かばかりの救いとなるならば、無駄な仕事と切り捨てられるものなんて、きっと、何一つありはしない。
ビールを一口も呑まないうちに思い付けたのは、折原の、……レパーズの導きだろうか?
大通りに出るなり捕まえたタクシーの座席に収まるなり、
「永田町まで」
と告げた。もうすぐ日付が変わる時間のあの街の路上に、何が落ちているか、全く覚束ないけれど。