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父が死んだ。

作者: 馬草 怜

 「父が死んだ」その報せを兄から電話で聞いた瞬間、思わず吹き出してしまった。

 なにせ、死んでから数日経って発見されたと聞いて、孤独な父らしいと思ったからだ。

 もっと妻や子どもを大事にしていればもう少し長生きできたかもしれないのに。因果は巡るものだ。


 思えば父は孤独な人だった。結婚して、子どももいて、働いていたにも関わらず。


 孤独で、愚かで、可哀想な人だったと思う。客観的に見れば、の話だが。


 主観的な感想を言えば、父は率直に言って憎たらしい人だった。


 人の悪口ばかり言い、当然妻も子どもも誉めず、何かにつけては皮肉と当てこすりを呟かずにはいられない。

 少しでも反論すれば子どもを怒鳴りつけ、暴力も辞さないような人間だった。


 おかげで当時幼稚園児だった私は、父の暴力により裂傷を負い、病院で手術する羽目になった。

 あの頃の記憶は薄れつつあるが、それでも手術室で泣き叫んだことだけは覚えている。


 そう言えば、当時の暴力について父から謝られた覚えはない。あの時投げつけたスプレー缶について「もっと中身が少ないかと思っていた」という意味不明な言い訳を口走っていた記憶はあるが。

 結局謝らずに勝手に死んでいきましたね。ご愁傷さまです。


 いま自分が一児の父になって思うことは、「こんな可愛い子に暴力を奮うなんて理解できない」その一点である。


 毎日家に帰れば「おとうさん、おとうさん」と足にまとわりついてくる娘。こんなにいたいけな存在にどうして傷をつけることができようか。

 そりゃあ子どもなんだからワガママで泣きわめいたりすることもあるし、時にはこちらもイライラしてしまうこともある。

 だからといって物を投げつけるだなんて……私は投げつけそうになったことすらない。


 父はよく物を投げつける人だった。流石に私がケガをしてからその悪癖は多少控えるようになったが。(直ってなきゃあ今ごろ私は死んでたかもしれない)

 とはいえすぐ怒鳴ったり、時には手が出たりすることもあった。昔だから何故か許されてたが、今なら立派な虐待で、全国ニュースになっていただろう。

 「飲み物をこぼした」とかそんなくだらない理由で家の外に追い出されたこともあった。

 玄関の前でずっと泣いていたら、隣のおばさんが親を説得するためチャイムを鳴らしたこともあったか。今思えばおばさんも迷惑していたんだろう。怒鳴ってばかりの親と泣いてばかりの子ども。当時は児童虐待相談ダイヤルなんて気の利いた物も無く。


 私が中学生になった頃、家庭の雰囲気は最悪だった。

 飲み会なのか浮気なのか、夜の22時まで帰ってこない母。その放埒さに怒り、子どもに八つ当たりする父。

 父と母は毎晩のように怒鳴りあっていたし、私や兄弟は毎日泣いていた。

 時には父と口論もしたが、まったくこちらの気持ちは伝わらず、ただ怒鳴りつけられただけだった。


 「頼むから死んでくれ」と母に叫んだ父。「俺が間違っているなら刺してみろ」と私に叫んだ父。

 最早家族の会話ではない。そこにはいがみ合う敵同士しかいなかった。


 父の非礼かつ非常識かつ非人道的な振る舞いは書き始めるとキリがないのでこのあたりにしておく。


 私が高校生になる頃には両親は冷戦状態となり、滅多に口も利かなくなった。

 当然私も話の通じない父にほとほと呆れ、もう会話する気もなくなった。

 家庭に見かけ上の平穏が訪れた……と思いきや私の内面には嵐が吹き荒れていた。


 ぶつけどころのない私の悲しみは、私自身に向かった。強烈な自己嫌悪。今から思えばどうしてそんなに自分を憎んでいたのかわからないが、とにかく私は自分を傷つけたくてたまらなかった。

 そのころ創ったアームカットの傷は、未だに私の左腕に残っている。繰り返しズタズタにしたせいか、傷跡が一生残ることになってしまった。

 しかし私は未だにこの自傷跡を嫌いになれない。この傷は、私が苦しんで生きてきた証であり、また耐えてきた証でもあるのだから。


 一番自殺願望が強かったのも高校生の頃か。なんとなく入った高校に私は馴染めず、ずっと一人で過ごしていた。

 家にいれば死にたいし、学校に行っても死にたいし、本屋とゲームセンターに一人で行くことだけが当時の救いだった。


 『完全自殺マニュアル』なんか買ってみたけど、自殺を完遂するのは難しいということだけしかわからなかった。

 面白かったのは、一度「〇月〇日に死のう」と決心したら、「どうせあの日になったら死ぬしどんだけ惨めでも気にしなくていいか」とずいぶん気が楽になったこと。

 その時の程よい脱力のお陰で結局死ねなかったのは皮肉か僥倖か。


 とにかく私は未だに死ねず生きている。

 妻や子を養っていく必要があるので死ぬのは当分先にお預けになってしまった。





 母もたいがい非常識な人ではあったが、父と比べれば冷静な時は話の通じる方ではあったので、年に一度か二度は娘とも会わせている。

 父は……意味不明な理屈を繰り延べて私の娘(彼からすれば孫娘)にほとんど会わなかった。お宮参りの際に一度会ったきりか。

 そのお宮参りでも妻の父に失礼なことを言ったらしく、どこに出しても恥ずかしい不肖の父だった。

 孫娘が祖父の狂った本性に触れる前に事が起きて良かったとすら思う私は薄情だろうか。


 父はイカれた性格でありながら世間体を気にする方で、母とも離婚せず、大学生までは兄弟の生活費も払ってくれていた(大学の学費は払ってくれなかった。奨学金を借りて自力返済した)が………

 しかしそれだけで父を許せるほど私は寛容ではなかった。

 未だにそうだ。慰謝料をもらったからといって、被害者が加害者を許さなければならない法も道理もないのだ。

 もっと酷い生い立ちの人も知り合いにはいるが、自分より不幸な人がいるからといって私の痛みが帳消しになるはずもなく。




 そんな悪辣な父が死んでスッキリするかと思いきや、私を襲ったのはどうしようもない脱力感だった。

 ずっと背負っていた重い荷物がいきなり肩から滑り落ちて、そのまま雲散霧消してしまったような、強烈な肩透かし。

 生涯かけて憎んでいたダース・ベイダーが、そこらの雑魚兵士にいつの間にかやられていたような展開に、呆けることしかできない。


 ぼんやりしすぎて家では不注意を連発し、妻からはしばらく車(自転車含む)の運転を禁止されてしまった。

 何が起こったかまったく理解していない2歳の娘はいつも通りニコニコと抱っこをせがんでくる。その純心にはずいぶん救われた。


 父が死んでから一度も涙は流していない。だから私は悲しくはないのだろう。まったく悲しくはない。「今までの苦悩は何だったのか」と虚しくなる気持ちだけがあるだけだ。


 ところで我が家にはまた6月に男の子が生まれる。

 その子のお宮参りと娘の七五三を実施するにあたり、「来るかはともかく、父に声かけすべきでは」と妻から言われてどう処置すべきか迷っていた。

 妻のご両親は良心的で、親切な人たちだ。私の父が来ないとなればずいぶん心配することだろう。

 しかし母は父と連絡を取りたがらないし、私だって父とは口も利きたくない。

 さあどうしたものか、と悩んでいたところに今回の訃報だ。

 率直に言えば悩みが一つ減って気楽なのだが、お世話になった人たちが育んでくれた社会性のせいか「人の死を喜ぶのは良くない」という思考が私の感情にブレーキをかける。

 そんなアンビバレントが余計に私の情念を複雑怪奇なものにしているのかもしれない。


 妻はずっと、私の発する父への恨み節に横槍を入れず聞いてくれた。かといってそれに甘えて負の情念をすべて彼女にぶつけたくはなかった。

 もちろん私の上に乗って奇声を上げている娘にもそんな姿は見せたくはない。

 畢竟私にできるのはこんなウジウジとした文章をしたためることだけだ。




 感情の整理も感傷の置き場もわからないままとにかく葬儀を迎えることになった。

 死化粧された遺体を目にすればいくらか悲しみも生じるかと思いきや、またぞろフレッシュな怒りが湧いてきて少し安心した。

 遺体も遺影も相変わらず腹の立つ顔をしていた。

 遺体の前に飾られた父の名刺を見ると「〇〇係長」と書いてあった。家庭を省みなかったくせに出世もできなかったとは……我が父ながら情けない。

 育休をフル活用している私の方が出世道を歩いているとは皮肉なことだ。時代のせい? いいえ、個人のせいです。


 そういえば、父の昔からの友人も葬儀には来ていた。「次男です」と名乗ると、「ああ! あの頭にビンをぶつけられた子か!」と返されて思わず笑ってしまった。どんな覚えられ方だ。

 父の家族・親戚はそこまで残念そうな顔をしていなかったが、数人訪れた弔問客はさすがに気の毒がっていたように見えた。そういう表情を装ってくれていたのかもしれないが。

 決して周りに慕われる人間ではなかったので、弔問客の人数も少なかったが。


 2歳の娘は葬儀中もずっと私の膝の上で遊んでいた。活発なうちの子にしてはいくらか大人しかったので、何か異様な雰囲気を感じたのだろう。

 私は父とファミレスに行ったことがない。旅行に行った記憶もない。もっと言えば、「父との楽しい思い出」が存在しない。思い出すのは彼の怒鳴り声と皮肉ばかりだった。


 ならば自分は逆を行こう、と土日祝はほとんど毎日娘と出かけている。

 近所のスーパーだったり、大きなショッピングモールだったり、図書館だったり児童館だったり、娘と2人のランチや電車旅も楽しいもので。

 娘がぐずった時は少し大変だが、たいていの場合彼女はご機嫌で、周囲の目も驚くほど優しい。

 自分が子どもの頃は敵ばかりに見えた世界が、こんなに慈しみに溢れているなんて、もっと早く知りたかった。


 何より、娘に優しい言葉をかけるたび、美しい景色を見せるたび、己の中の傷ついた子どもも癒されるように感じるのが有り難い。

 子どものためにやっているつもりだったが、救われていたのは私の方だった。


 葬式の何たるかを理解せず、大はしゃぎで棺桶に花を詰める娘。利発な子ではあるが、さすがに「死」を理解するには幼すぎる。

 じぃじ(母方の祖父)とはよく会っている娘だが、父方の祖父とは赤ちゃんのころ一度会ったきりで、祖父を喪っても彼女の中で日常は続く。

 もしもこれが逆だったら「じぃじに会えないなんてヤダ」と泣きわめいてたことだろう。妻のお父さんには長生きしてほしい、と心からそう思う。


 私の兄弟も従兄弟も従姉妹も、誰も子どもを持っていない。

 父を最も嫌う私だけが子孫を残すとはなんと皮肉なことか。いや、父を心底憎み父と違う道を選べると確信した私だからこそできた決断なのかもしれない。

 私よりずっと前に結婚した弟はずっと子どもを持たないままだ。彼が何を考えているか私にはわからないが、過酷な家庭環境の影響が無いとは私には思えなかった。


 焼けた父の骨を見ても少しも悲しみは湧いてこなかった。祖父や祖母が亡くなった時はもう少し感傷があったものだが。

 父があんな人間だったので祖父や祖母に対しても思うところはあるが、それでも彼らは孫には優しかった。


 母や伯父、伯母が亡くなってもきっと私は悲しむことだろう。血も涙もある人間なのだ、一応私も。ただ父の死を悲しむことができないだけで。


 とはいえ父の死に動揺が無かったわけではなかった。

 妻の朝食を用意するのを忘れたり、皮剥き器で手を切ったりとか、数日はつまらない失敗が増えた。

 ずっと憎んでいた人間が急に亡くなるというのもストレスにはなるものだ。

 押し続けていた壁が突然消失すれば人は平衡感覚を失い、そのまま転んでしまうのは必定で。


 職場の上司や同僚はみな優しく、ずいぶん気を遣われたものだ。

 ただ、みんなが思っているほど私は悲しんでいないので、なんとなく申し訳ない気持ちもあった。




 弟は相続放棄するらしい。ずっと前に関東に行ってしまった彼は、さっさと縁を切りたいのだろう。

 気持ちはわかる。私も子どもがいなければ相続放棄していたことだろう。


 ただ、今の私には娘がいる。数ヶ月後には2人目の子も生まれる。

 もはや私だけの人生でなく、私のちっぽけな意地よりも、彼らのことを最優先で考えねばならない。


 悩んだ末に出した結論は、相続されたお金は子どもらの口座に与え、私は一切手をつけないという形だった。

 私にとっては不肖の父だったが、彼らにとっては「よく知らない祖父」なのだ。何も知らないまま、お金はお金として受け取ってもらえばいい。

 妻は「あなたが苦労してきた分だし、好きに使っていいんじゃない」と優しい言葉をかけてくれるが、好きに使うとすれば結局子どものために使うので、結論は大差ないものだ。




 むかし読んだ、アリス・ミラーというスイスの心理学者が記した『魂の殺人~親は子どもに何をしたか~』という著作にはずいぶん救われた。

 タイトルのとおり児童虐待について心理学的な観点から書かれた本だが、ミラー曰く、ひどい親の所業はちゃんと否定しないと虐待親と同じことをしてしまうらしい。

 私が子どもの頃はまだ「親を嫌うなんて何事か」といった封建的な主張が幅を利かせていて、親を大っぴらに嫌う意見も言いにくい世論だった。

 「親を憎む俺は異常者か」と悩んでいた私に、光を与えてくれた本だ。


 今のところ娘は私に懐いてくれており、冗談なのか本気なのか「おとうさんだいすき!」なんて発言するくらい愛らしい子に育ってくれた。

 外で遊んでいてもよその家の子にも優しく、特に赤ちゃんを慈しむ、あたたかな心を持っている。

 彼女の情緒面の大半は妻の訓育により成ったものだとは思うが、私の貢献が少しだけでも活きていれば嬉しいものだ。


 虐待を受けて育った人でも、「いい親」にはなれると私は信じている。

 だってそうじゃないとあまりに救いがないだろう。そう信じるしかない。


 世間の人は無邪気に「虐待の連鎖」なんてのたまうが、そんなありふれた公正世界仮説よりもいま娘に頭突きされながらヘラヘラ笑う私の表情こそ真実なのだろう。


 無邪気に世界を肯定する娘は、知らない大人にもニコニコと話しかける太陽のような子に育ってくれている。いつも半ベソをかいて、どこか拗ねていた私とは大違いだ。

 娘にはこのまま真っ直ぐ育ってほしい。私とはまったく違う、喜びに溢れた人生を過ごしてほしいものだ。




 父は死んだ。


 私の人生における最大の悩みは、ついに焼かれて灰になった。ここからが、私の人生の再出発だ。


 私とて大した人間じゃない。理想的な父親になんてなれないだろうが、それでも子から慕われるような父親にはなりたいものだ。

 子から軽口を叩かれ、それでも笑顔で返せるような親に……

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