side巻き込まれ薬師【76】
命の重さに関する言及、ヤンデレ・メンヘラ的な描写があります。
苦手な方はご注意ください。
巨大な魔獣が近づいてくる。
それに気づいた騎士たちは大鎌を捨て、剣を構える。
ヒースさんは後ろから私のお腹に腕を回し、抱えるようにすると「撤退すル!」と言って来た道を走り出した。
抱えられながら後ろを振り返ると、木々を薙ぎ倒しながら巨大な猪型の魔獣が現れ、騎士のうち3人を吹っ飛ばした。まるで人形のように飛ばされていく3人から思わず目を逸らしてしまった。
残ったデニスさんともうひとりが応戦しようとするけど、魔獣はそれを無視してこっちへ向かってくる。
逃げきれないと判断したヒースさんは「シルフよ!」と叫んで風の精霊の力を借りると……
私を放り出した。
そのまま木の上へ駆け上がり、枝づたいに逃げていく。
興奮状態の魔獣は、目の前に転がっている獲物である私の方へ突進してくる。
「ひぃっ!」
震える足に鞭を打って逃げようとしたものの避けきれず、ほんの少し掠っただけなのに激しく吹っ飛ばされて木に激突した。
「ぐはっ」
何が何だかわからないぐらいの激痛に全身が襲われ、体が動かない。
そんな私に向かって魔獣が改めて狙いを定めるのがスローモーションのように見えた。
そしてその向こう。
薙ぎ倒された木々の隙間に、半狂乱で私の方に飛び出そうとするヴォルフィと、それを押さえる何人もの人影が見えた。
その人影の中に赤毛の女が見えた瞬間。
私の視界に深紅の桜吹雪が舞った。
ああ、そうなんだ。
櫻月は、こういうことなんだ。
ずっとずっと、特にこのシュナイツァー伯爵領に入ってから私の心の中に沈み込み、私を迷わせていたことがある。
現代日本で生まれ育った私には受け入れがたく、でも本当にこの世界で生きていくためには避けて通れないこと。
この世界でたったひとりを選んで愛するということは。
それは、他の人を切り捨てても愛した人だけを選ぶということ。
私の中で、命の重さに差をつけるということ。
現代日本で「恋人を優先する」と言えば、優先して会うといった程度の意味合いになるだろう。
だけど、この世界は日本より命の危険が身近にあって、生きるということがシビアだ。
そんな中で、たったひとりを特別な存在だと心の底から認めることは。
もしもひとりしか助けられない状況に陥った時、私は迷いなく恋人を選んで他を切り捨てるという覚悟をすることだ。
この世界の人は無意識に、自然にそれをやっている。
侯爵や伯爵は領民とそれ以外を明確に区別しているし、ヒースさんも自分の命を優先した。
ヴォルフィも私と誰かだったら、迷わず私を選ぶだろう。
だけど、私にはずっとそれを認めることが怖くて怖くてできなかった。
その一方で、私はヴォルフィの全てがほしかった。
現在と未来だけじゃなく、過去も全て。
そして彼と同じものが見たい。隣に立ってその全てを一緒に見たい。
この世界の本当の住人になって、ふたりで同じものを見て聞いて感じて生きたい。
そんなことは、別の人間である以上あり得ないとしても。
櫻月の花吹雪は、あの深紅の満月が孕んだ狂気は。
決して手に入らないものを、それでも求め続ける狂おしいほどの激情だ。
それはある刀鍛冶が、決して到達できないと分かっていても「至高の一振り」を求め続けずにはいられないような。
時が止まったような世界の中で、私は櫻月の柄に手を伸ばす。
「ねえ、櫻月。私は一貫斎さんとは違うよ。芸術家や職人が技を磨き続ける情熱じゃなくて、ただの男に狂った哀れな女の妄執かもしれないよ。それでもいいの?」
「ーーーーーーーーーーーーーーーー!」
声にならない歓喜の叫びが聞こえた。
「そう。なら力を貸して!」
返事の代わりに櫻月が灼熱する。
「影月、抜刀! ケガを治して!」
漆黒に染まった刀身から白い闇が舞い上がり、私を包む。
一瞬で全身を苛んでいた激痛が消え去った。
時が流れ出し、魔獣が私に向かって走り出す。
「影月! 影縛り!」
影月から伸びた影が魔獣の影を縛り上げようとするが、ここは薄暗い森の中のせいで影が薄く、動きを止められない。
櫻月も起動しようとした時、頭上から「ウィル・オー・ウィスプよ!」という声が降ってくるのと同時に辺りが光に包まれた。
濃くなった魔獣の影を影月ががんじがらめに拘束する。
魔獣は憤怒の叫びを上げながら、それを引きちぎろうともがく。
「櫻月、抜刀!」
初めて呼びかける私の声に応じて、櫻月の刀身が深紅に染まる。
「炎よ、伸びろ! あいつの口の中へ!」
燃え盛る炎が櫻月から伸び、叫び続ける魔獣の口の中へ突っ込む。
「爆ぜろ!」
ドゴーーーーーーーーーーーーン!
魔獣の体内で爆発するくぐもった音が聞こえ、穴という穴から炎が吹き出した。
地響きを立てながら魔獣が倒れ込んだ後も、ぶすぶすと燻っている。
へたりこむ私の頭上から碧い人影が魔獣に走り寄って行き、絶命しているのを確かめる。それとすれ違うように、銀色の風がこっちへ向かってきた。
「サツキ! サツキ!」
私を力任せに抱き締めて堪えきれずに泣いている恋人を、私も抱き締め返す。
「あのね、ヴォルフィ。私は世界で1番ヴォルフィが大好きだよ。だからヴォルフィの過去も現在も未来も、全部全部私にちょうだいね」
場違いな私の告白にヴォルフィは泣きながら困惑しながら、それでも力強く「ああ、もちろんだ」って答えてくれた。
ああ、嬉しい。幸せだ。
周囲が大混乱している中、私たちはずっと抱き合ってキスしていた。




