3部 様子のおかしい二人
居間に戻ると、制服に着替え終えた一姫が朝食を片付けるおばさんの手伝いをしていた。
手伝う、と言ってもテレビに夢中で、自分の食器を持ってぼーっと突っ立ているだけなのだが。
注意するよりも先に、俺はちゃぶ台を拭いているおばさんに声を掛けることにした。
「おじさんが工房で呼んでますよ」
「あら、工房? 何かしらね」
「さあ? 大事な話があるみたいでしたけど」
俺もよくわかってないので、そう言うしかなかった。それでも納得してくれたおばさんは、作業を中断して工房へ行く。
それを見送った俺は、おばさんの仕事を引き継ぐことにした。
「父さん、また自慢話してたのか?」
せっせと台を拭く俺の隣で、一姫がぽつりと呟く。
テレビばかり見ているものだから俺が戻って来たことにも気付いてないと思ったが、そんなことはなかったようだ。
自慢話というか武勇伝に近いかもな、と俺は思う。
「そうだな。語り始めそうになったけど、いつもみたいに上手く逸らしたよ」
「……なら、いいんだけどよ」
一姫は、堪えるような雰囲気を醸し出して食器を台所へ持って行く。
……気になるな。一姫は、いつも遠慮なしにズバズバと言葉にする奴だ。こんな風に濁すようなことは滅多にない。
俺は台所から戻って来た一姫に訊いてみることにした。
「どうしたんだよ、一姫らしくないぞ?」
「はぁ? いいって言っただろ」
「よくないって顔に書いてるぞ」
「マジかよ!?」
一姫は驚いて、自分の頬と額を両手でペタペタと触り始める。残念なことに、こいつはこんなことにも簡単に引っかかってしまう奴なのだ。馬鹿とは思わない。ただ純粋なのである。
「……お前は誤魔化すのが下手だ。思うところがあるなら言ってくれ」
ここで騙されたことにようやく気付いた一姫は顔を真っ赤した。羞恥を隠すように慌てて顔を逸らしている。
「悪気はないんだ。こうでもしないと、お前の本心を引きずり出せないと思ってな」
俺は申し訳なさそうに言うが、半分は嘘だ。残りはただからかいたくなっただけである。
大きく息を吐いて落ち着きを取り戻した一姫は、観念したように話し始める。
「父さんって変わってるっていうか、それにちょっと面倒臭いだろ? 試作品の話にも付き合わされてるみてえだし、迷惑してねえかなって思ってな」
なんだ、そんなことを心配してくれていたのか。
「迷惑と思ったことは一度もない。こんな俺に居場所をくれて、いつも感謝してるよ。もちろんおばさんにも、一姫にもな」
「お、おう、そうか。まあアタシは何もしてねえけど、ここは家を代表して『どういたしまして』と言っておくよ」
こっちをちらちらと見ながら、今度は違う意味で顔を紅潮させる一姫。
意外だ。まさか、照れるとはな。俺も本当のことを伝えただけに恥ずかしくなってきた。
既に拭き終っているちゃぶ台だが、持て余してしまったので続行して誤魔化すことにしよう。
「でも颯馬。このままじゃなあなあでボロい傘屋を継がされる流れになるかもしんねえぞ?」
「おじさんにそこまでの意図はないだろ」
「なんでそう言い切れる? 直接的な店の手伝いをしてないっつっても、試作品の評価とか出し合ってんだろ? ヘタなバイトよりも、颯馬はうちの商品に詳しい。将来ここを出て行くつもりがあるんなら手遅れになる前に、やんわりとでも断るアプローチを掛けておいた方が良いんじゃねえの?」
「……今はまだ、そこまで考えてない」
俺は一姫から目を逸らして答えた。
これまでまったく考えてこなかったわけではない。一応は視野に入れてはいた。ただ、自分が何をしたいのかハッキリと決まってもないのに、一姫の前で堂々と答えられなかった。それだけだ。
「そういう一姫こそ、どうするんだ? 一人娘のお前が継がなきゃ、おじさんの代で終わりになるだろう」
「アタシは絶対嫌だよ。売れねえってわかってる家業をなんで継がなきゃいけないんだ。傘作りが好きでもねえし、覚悟だってアタシにはない」
なるほどな。一姫も一姫なりに考えてはいるようだ。早計で浅はかな答えよりずっと良い。
しかし、おじさんが聞いたらどう思うだろう。悲しむだろうか。
いや、これは雨宮家の問題だ。俺なんかが口を出して良い件ではない。
「そうか。まあ、その話は俺よりもおじさんとおばさんにするべきだな」
俺は立ち上がって話を切り上げようとする。そろそろ家を出なければならない時間だろう。
「ああ。でも、アタシは颯馬となら、その、一緒に……」
「良かったっ。二人共、まだ家を出てなかったみてえだな」
何か言いかけている一姫だったが、そこへおじさんとおばさんが戻って来た。結構話し込んだみたいだ。が、どうしてか表情が暗い。
「どうしたんだよ父さん? 母さんまで……。もしかして経営が破綻したのか?」
それに感づいた一姫が、最後は冗談交じりに尋ねる。
「そうじゃねえが……いや、それよりも大事な話だ」
重々しく、そして真剣な眼差しでおじさんは答えた。
「一姫、これを持って行け」
首を傾げる俺と一姫だったが、おじさんは構わずに傘を差し出してきた。それは……、
「なんだよ? これってアタシが産まれた記念に父さんが作ったって傘じゃねえか。成人式に渡すとか言ってなかったか?」
「そうだ。予定が早まっちまった。今日ここでお前に託す」
「あのなぁ、父さん。嬉しいんだけど、今日は雨降らねえって天気予報で……」
「いいから持って行けっ」
おじさんは一姫の言葉を遮って、語気鋭く迫った。
理由はわからないが、これは有無言わせずに持って行かせるつもりだ。あまりの覇気に、横にいた俺もたじろいでしまう。
「わかったわかったよ! 持って行きゃあ良いんだろ! ったく、意味わかんねえ」
仕方ない、と一姫は奪うようにおじさんから傘を受け取った。
まあ、アレだな。俺が予想するに、おじさんとおばさんは今日一姫にその傘を渡すか渡さないかでちょっと揉めたんだろう。だからちょっと暗いような雰囲気になってる、と。俺も成長した子供にプレゼントを渡した日は、こんな複雑な気持ちになってしまうのだろうか。
「って、ヤベッ! もうこんな時間かよ! 急ぐぞ颯馬! 遅刻する!」
「急げも何も、俺はもう準備できてるんだが?」
時間が差し迫っていることにようやく気が付いた一姫に、俺は冷静に答える。
寝坊してくるから慌しく動かなきゃいけなくなるんだ。
「そんじゃ行ってきまーす!」
「あ、待ちなさい一姫! 一姫っ!」
荷物を持って、一姫はさっさと家を飛び出して行く。その姿を、おばさんは追いかけるように悲痛な表情で手を伸ばし、引き留めるよう叫んだ。その声が届かないとわかったのか、おばさんはその場に泣き崩れる。
おばさんが取り乱すなんて珍しいと、俺は心底驚いていた。
「ど、どうしたんですかおばさん? 大丈夫ですかっ?」
「いや、なんでもねえんだ。心配しなくていい」
おじさんはおばさんを宥めてから、俺に苦笑する。まるで、何か隠しているかのような……。
「勝手なお願いを今から言う。一姫のこと、頼んだぞ。俺は颯馬を信じている」
「え? はあ、わかりました。任せてください」
俺の両肩に手を乗せて、深く頭を下げるおじさんに何度も頷いた。
学校は毎日通ってるところなんだが。戦場に行くわけでも今生の別れでもないのだが。
「それじゃあ、俺もそろそろ行かないと間に合わないので。行ってきます」
玄関まで見送ってくれるおじさんとおばさんに挨拶を告げて、俺は全速力で一姫を追いかけた。
気になることが色々あったが帰ってから訊こう。
しばらく先で、ようやく一姫を見付ける。大股でしかも早いのだ。追い付いた頃には、俺は息を切らせかけていた。
「遅えよ、マジで遅刻すんぞ」
「お前が歩くの早いんだ。あとこれ以上文句言うなら明日から置いて行くからな」
へいへーい、と適当に返事する一姫。
こいつ絶対に真に受けてないな。明日本当に置いて行ってやろう。
それよりもさっきのことだ。一姫に少し相談してみよう。俺の杞憂かも知れないし。
「なあ、今日のおじさんとおばさんの様子、ちょっとおかしかったと思わないか?」
「そうだなぁ。でも、それはいつものことじゃねえか?」
信号待ちになって俺達は立ち止まる。車は走ってないし、誰も見てないので一姫が無視しようとするが、俺は引き留めた。ルールはルールだ。守らなければならない。
そして俺は話を戻す。
「今日は特にというか、おかしさがいつもと違うんじゃないかって俺は思うんだ。深刻で、まるで世界の終わりみたいな……なんだこれ?」
「ん? どしたー?」
俺は、一姫の足元を指差した。紋様のようなものが浮かび上がっている。
「近所のガキ供の落書きか? へぇ、結構複雑で凝ってんなぁ……」
一姫は驚きよりも好奇心の方が勝ったようで、傘の先で突いていた。
本当に落書きだろうか? チョークで描いたにしてはうっすらと光ってるように見えるが……。
屈んでそれに触ろうとした時、眩い光が俺達を包み込んだ!