2部 佐月颯馬の朝は早い
時間を今朝まで遡ろう。
俺こと、佐月颯馬はいつも六時に起床する。部活をしているわけでもないし、学校が遠いわけでもない。早起きの理由は、隣の雨宮家の朝食の準備を手伝うためである。
何故なら、そう。俺は孤児で、両親がいないからだ。
十七年前、道に捨てられていた俺を一姫の父親が拾ってくれたのだが、今はこうして隣の空き家を借りて、一人で住んでいる。空き家、と言っても築六十年程の古い小屋のようなものだ。六畳半の居間があって、小さな台所と簡易式のトイレと風呂が付いているだけ。昔、一姫のおじいさんが趣味の隠れ家として使っていたそうだ。
まあ、そんなわけでいつものように歯を磨き、顔を洗って制服に着替える。支度を整えたら、雨宮家の戸を叩くのだ。
「おはよう、颯馬君」
間もなくして一姫の母である雨宮和代、もといおばさんが優しい笑顔で俺を迎えてくれる。
「今日も早起きなのね。気を遣わなくても、一姫と同じ時間に起きても良いのよ?」
「そうはいきません。御馳走になってるんですから、せめて手伝いたいんです」
「あら、そう? じゃあ、今日もその言葉に甘えちゃおうかしらね」
淑やかに笑って、おばさんは温かく俺を家に入れてくれる。性格も見た目も、まるで大和撫子のような人だった。ああ、和む。心が癒される。俺もこんな母親が欲しいと思った。
一姫も少しは見習ってはどうだろう、と心の中で一人愚痴る。あいつは……まあ、見た目は良い。可愛いというより綺麗といった部類だろう。しかし性格はガサツで横暴で、乙女の欠片も持ってないような奴だった。本当に、昔から変わらない。勿体ないな、と俺は思う。
「冷蔵庫に入ってるカレイを焼いてくれる? 私はお味噌汁を作るから」
台所に入った俺は、おばさんの指示通り動く。難しいことは何もない。四人分の朝食を作るだけだ。テキパキと要領良く行動すればすぐに終わる。と、そこに、
「和代、朝御飯は……おう、颯馬。おはよう!」
おじさんが台所に顔を出す。いつも通りの豪快な挨拶だった。いや、声量だけではない。身長は見上げるほどに高く体格も筋肉質、俺の二回りほど大きいのだ。
何故ならおじさんは外国人。一姫の金髪も染めたものではなく、おじさん譲りのものなのである。
昔聞いたのだが、おじさんは住んでいた国で色々あったらしく、日本で暮らさなければならない状況になってしまったそうだ。で、どうしようかと困って路頭を迷っているところを、おばさんと偶然出会い一目惚れ。すぐに婿入りした、とのことらしい。
「おはようございます、おじさん」
「いつもすまねえな。……っと、今日は魚と味噌汁か。日本食は最高だよなぁ!」
おじさんは、がははっと笑って俺の背中を力強く叩いた。少し痛いが、嫌ではない。父親というものはこんな感じのものだろうと思うから。
「あなた、颯馬君をからかってないで席に着いてくださいね。もう出来ますから」
「おう、そうかそうか! いつもありがとう、ハニー」
そう言っておじさんはおばさんに近付き、額にキスをして抱きしめる。
んん。愛し合っているのは良いことだが、はっきり言って少々気まずい。魚が焼けたので邪魔しないよう、俺はさっさと居間に退散するとしよう。
ちゃぶ台に四人分のおかずとコップを並べる。そばに置いてある炊飯器を開けてご飯が炊けているのを確認し、お茶碗にそれぞれ盛り付ける。すると、二人がお味噌汁を持ってやって来た。
俺達は定位置に座り、「いただきます」と言って朝食を食べ始める。
「颯馬、学校はどうだ?」
食事が半ば進んだところで、おじさんがそれとなく尋ねてくる。真面目な話と察した俺は箸を置き、姿勢を正しておじさんと向き合った。
「はい。来月のテストも良い点が取れそうです」
「そうじゃねえよ。楽しいかって訊いてるんだ。上手くやれてるか?」
「あぁ、すみません」
しまった。いつもの悪い癖で勉強のことについて答えてしまう。
「もちろん楽しいです。友達もいますし、充実しています」
「そうか……。それなら良いんだ。学校ってのは、勉強だけをするところじゃねえからな。だろ、和代?」
「ええそうね。でも、颯馬君にその心配はいらないんじゃないかしら。礼儀正しいし、人付き合いも
良いもの」
微笑むおばさんがおじさんの白御飯のおかわりを装いながら答える。
しかし、急にどうしたんだろう。いつもはそんなこと訊いてこないのに、不安にさせるような何かをしてしまったのか?
俺は最近の出来事について思い出してみるが、特に引っ掛かるようなことはない。……参ったな。
「心配かけてすみません。あの、もしかして俺、何かしましたか?」
俺は軽く頭を下げて謝った。すると、おじさんは慌てて頭と両腕を振って否定する。
「いや、そういうわけじゃねえんだ。なんつうか……」
「家族だから訊くのは当然、って言いたいんでしょ、あなた?」
「おう、それだ!」
おばさんのフォローに、おじさんが親指を立てる。
「颯馬は、俺達に遠慮しているようなところがあるからなぁ。それが少し気掛かりだったんだ」
「そうだったんですか。そんなつもりはないですけど……」
遠慮はしていない。ただ……。ただ、どういう風に、どこまで甘えて良いのかわからないような感覚はずっとあった。距離感と言っても良いだろう。俺はまだ、自分の中でうまく整理出来ていないのだ。
おじさんとおばさんが、気まずそうに顔を見合わせている。
上手く答えることが出来れば、二人にこんな顔をさせずに済んだというのに、何をしているんだ俺は。
「あー、すまんな颯馬。柄にもないことを訊いちまったみたいだな」
「いや、そんなことは……」
「いいんだ、今のは忘れてくれ。……ごちそうさん。和代、温かい茶を頼む」
おじさんは苦笑して首を横に振る。それ以上、俺は何も言えなかった。おばさんは頷き、おじさんの分の食器を片付けて台所へ向かう。居た堪れなくなった俺は、朝食をまた食べ始めることにした。
「……一姫はどうした?」
しばらく経って、新聞を広げるおじさんが呟く。
俺は今を見渡すが、確かに姿が見えない。時計を見ると、七時半を既に過ぎていた。そろそろ支度しないと遅刻してしまうのだが、このパターンは恐らく……。
「あら、そうね。一階に降りて来てないってことは、まだ寝てるんじゃないかしら?」
温かいお茶を持ってきたおばさんが俺の代わりに答える。すると、おじさんが新聞紙をちゃぶ台に叩き付けて立ち上がった。
「なにぃ? 平日だというのに、だらしのねえ奴だ。叩き起こしてやる!」
平日だろうと休日だろうと一姫が寝坊するのはいつものことです、ということは敢えて言わないでおこう。おじさんの怒りが増すだけだ。と、そこへ、
「ふぁーあ。起きてるよ、父さん。皆おはよう」
欠伸をしながら、まだ眠そうに眼を擦る一姫がようやく降りてきた。
俺はすぐにでも家を出れる状態で、しかもこんな時間だというのに、一姫からは焦りの一つも見えない。暢気というかマイペースな奴だ。
「起きてるよ、じゃねえ! 遅いぞ一姫! こうして颯馬が毎日朝食を作りに来てくれているというのに、お前はギリギリまでぐーだら寝て……恥ずかしくないのか!」
娘の態度に我慢できなかったおじさんが怒鳴り、声を上げるが、一姫からは反省の色は全く見えなかった。むしろ、はいはいと手を振って聞き流すようにあしらい始める。
「朝からうるせえなぁ父さん。寝る子は育つんだよ。そんなことも知らねえのか?」
「ああ言えばこう言う! 育つってのはなぁ! こう、和代のようにボインボインになってから言いやがれ!」
おじさんは、一姫の分のご飯を装い始めているおばさんの胸を指差して叫んだ。「あらやだ」と、おばさんは顔を赤らめて初々しい反応をしている。
俺は二人の胸について言及せずに、黙っていることにしよう。最後の味噌汁を飲んで成り行きを見守る、が……。
「はっ、朝から娘にセクハラか。良いぜ、表に出ろよ」
「上等だ。衰えたとはいえ、俺はまだ現役だ。ガキが勝てると思ってんのか? その根性叩き直してやる!」
マズい。このまま放っておけば収集が付かなくなるだろう。そうなると確実に遅刻することになる。俺は慌てて、取っ組み合いを始めそうな二人の間に割って入った。
「まあまあ、二人とも落ち着いて。一姫、あまりゆっくりしていたら遅刻するぞ」
「んなもん、急いで朝飯かき込めば間に合うだろ?」
「朝飯じゃなくて朝ご飯よ、一姫。女の子なんだから言葉遣いはちゃんとしなさい」
「わかってるって母さん。いただきまーす」
こいつ、本当に分かっているのか?
俺のジト目にも気付かずに、一姫はちゃぶ台の前に座ってガツガツと朝食を食べ始める。まあ、いいか。俺がああだこうだ言うべきじゃない。食器を片付けてこよう。
「あぁ、颯馬。ちょっとこっち来い」
台所で皿洗いをしている俺に、おじさんが控えめな声で話しかけてきた。なんだろう。洗剤を洗い流して手を拭いて、俺は振り返る。
「どうかしました?」
「見てもらいたいもんがあるんだよ」
「……あー。いいですよ」
頷いて、俺はおじさんの後ろをついて行く。居間を通り過ぎ、廊下を抜けて別室へ。そこは、傘の骨組みやら柄、生地が保管されている場所。おじさんの工房だ。
「どうだこれ。新作なんだが、売れると思うかっ?」
おじさんは作業台に置かれている一本の傘を開いて、自慢げに俺に見せた。
どういうことかまとめると、雨宮家は傘屋を営んでいる。この町で最も古い、職人が一本一本手作りする老舗の人気傘屋だ。
というのは一昔前の話で、最近はあまり売れていない。おじさんの作る傘は丁寧で頑丈、嵐の中で傘を差してもなかなか壊れない逸品なのだが、手作り故にどうしても量産品より値が張ってしまうからだ。比べて、今はコンビニで五百円で買える傘でも十分な強度がある時代。ここ十年、ずっと経営が右肩下がりで低迷しているらしい。
だから試行錯誤を重ねて、量産品に負けない新作を開発しては俺に見せてくれるのだが、正直どれも今一つなものばかりだった。迷走してると言っても良い。
「一つ訊きたいんですけど、このぶら下がってるのは何ですか?」
俺は露先の一つ一つにぶら下がる、胡散臭い顔が描かれた人形を指差して言った。
「てるてる坊主に決まってんだろ?」
おじさんは胸を張って答えた。
なるほど、てるてる坊主か。ハッキリ言って、これは要らないな。視界の邪魔になるし、妖怪に囲まれているみたいで気味が悪い。これでは誰も買わないだろう。
おじさんは最近、見た目のインパクト重視というかネタに走っているような気がした。真面目に考えてはいるんだろうが、こんな作品を生み出すようになってしまってはもう駄目だ。
「店のマスコットキャラクターとか作ってみたらどうかと思ってなぁ。名案だろ?」
「名案、ですか……。売れるか売れないかと問われたら、売れないかと思いますが」
「え、今なんて?」
「これは売れません」
俺は力強く言った。
「おじさん、前から言おうと思ってたんですけど、こんな変化球の作品じゃなくて、今まで通りシンプルなもので良いんじゃないですか? 売れ行きをどうにかしたい気持ちはわかります。でもこれじゃあまるで自棄になってるみたいで……」
「わかってる、わかってるんだ。それ以上もう言わないでくれ、悠馬」
おじさんは明後日の方向を見ながら言った。これ見よがしに哀愁を漂わせている。色々やってみたけど燃え尽きた、という感じだ。
「自分でもわかってんだ。こんなてるてる坊主くっつけたところでどうにもならねえって。鼻で笑われるだけかも知れねえって。でもな、それでも抗いてえって思うのが人間だろ。違うか? 今はこんな発想しか出て来ねえけど、だからもうおしまいだって俺は諦めたくねえんだよ」
「おじさん……」
「暗い話になっちまったな! はっはっはっ! 笑え、颯馬。辛い時こそ笑うんだ!」
そう言って、おじさんは俺の肩を叩いて哄笑した。
「そうだ、忘れちゃいけねえ。赤字がなんだってんだ! 今は由緒正しき傘屋を引き継いでやってるがなぁ、これでも俺は昔、英雄と呼ばれてた男だぞ! おう、また聖剣使いマルティーグ・リンカルヴァーの冒険譚を聞きてえか?」
「ははは、その話はもう十分聞きました。ですが、今でも十分すごいですよ、おじさんは」
「え? そ、そうかぁ?」
「はい。俺は知ってます。おじさんが作る傘は素晴らしいってこと。その証拠に固定客だっているじゃないですか。良い傘だってわかっている人は、ちゃんとわかってるんですよ。おじさんも言うように、諦めなければいつかまた軌道に乗れます」
「おう! そうだよな、颯馬。わかる男になったじゃねえか! 俺は嬉しいぞ!」
満更でもないように笑って、おじさんは頭を掻いた。試作品を作業台に戻して、上機嫌に鼻歌を歌っている。
しかしまあ……、話を逸らせてよかった。おじさんの昔話はよくわからないというか、まず話し始めると長いのだ。こうやって適当に褒めて話を変えてしまえば聞かなくて済むわけだが、無下にしているようで少々心痛い。
「おっと、そろそろ学校行く時間だろ? 試作品、見てくれてありがとうな」
「いえ、俺で良かったらいつでも」
俺は頷いて答えるのだった。おじさんの手伝いになることなら、何だってお安い御用だ。
では、一姫が朝食を食べ終えても良い頃合いだし居間へ戻ろう。
「……ん?」
俺達が立ち去ろうとした時だ。カタリ、と背後で物が落ちる音がした。振り返ると、黒地に赤い彼岸花模様の傘が一本、床に落ちている。
倒れたのだろうか。
おじさんは首を傾げて、それを拾い上げた。
「確かそれって、一姫が生まれた時におじさんが記念にって作ったものでしたっけ?」
その傘は一姫が大人になったときに使って欲しいと、女性用に作られていた。柄の部分は漆塗りで彫りも細かい。雨の時はもちろんのこと日傘としても使えるようにしたそうだ。恐らくおじさんの作品の中で、一番手間とお金がかけられていると思う。
しかし、売り物ではないので普段は棚にしまっているはずなのだが、どうしてこんなところにあるのだろうか。
おじさんは首を傾げてその傘を拾った。
「…………っ!?」
「どうかしました?」
おじさんの顔色が急に変わったのを見て、俺は恐る恐る訊ねる。
「和代を呼んできてくれ。すぐに」
重く、低い声でおじさんが言った。これまで見たことのない、張り詰めたその表情に俺は思わず言葉を失ってしまう。少なくとも、なぜですか、なんて訊ける空気ではなかった。
「わ、わかりました」
重大なことなのだろうと察した俺は、とにかく居間へと向かうことにした。