第8話
受難
魔王起因の停戦協定が破られ、月日が経ちました。
聖王国を亡き国とした帝国領の者たちは、今も変わらず我が物顔で侵攻を続けているようです。東の大陸の次は西へ。そして最後は南に向かって侵略を進めるつもりでしょう。世界一の軍事国家に諸国は蹂躙されてしまい、多くの命が無惨に散って……奪われようとしています。
わたしが捕らえられた理由? それはとても簡単です。王族の血を継ぐ子孫がいれば、やがて東に国が興れば権威を主張できますから。
思えば、わたしは十五の時から軟禁部屋に閉じ込められています。わたしはここで七人の子をこの身に宿してきましたが、受胎に気付けば全て自力で我が子を堕ろして、殺しました。誇り高き聖王の血を弄ばれるわけにはいかず、政治利用などされるくらいなら自分の手でと思ったのです。
貴女様もあの窓外の、黒い空をご存知でしょう。そう。あれはわたしの実兄、聖王が残したものなのです。
兄は自国の断頭台で首を落とされ、処されました。その時、目先のわたしに向かって、確かに……大きく叫んだのです。自害はするな。諦めるな。必ずお前を助けに行く。わたしは兄の言葉を聞き止め、帝国の捕虜となりました。思えば、兄は死ぬより前から亡者になる気でいたのでしょう。自ら望んで怨霊となり世界の秩序に背いた兄は、怒りと恨みの化身となって帝国に進行しているのです。
兄が発する遺恨と怨嗟は日に日に色濃くなっており、黒い空は兄の居場所とその足跡を示しています。
ある日、見張りの兵士二人の噂話を盗み聞くと、帝国王家は兄に対する討伐令を出したようで、あろうことか北の勇者に命令を下したらしいのです。
わたしは兄の許へ行こうと幾度も脱走を計りました。結果、両の脚を落とされ、今ではご覧の有り様です。梃子でも子供を産まないわたしに虜囚としての価値はなく、杜撰な手当てが災いしてか、わたしも……そろそろ限界です。
死者は死地から離れた場所に身を移すことはできません。世界の理に大きく反する冒涜行為だからです。きっと兄は今もなおも地獄の責め苦に耐え続け、それでもわたしを救い出そうと帝国を目指しているのでしょう。わたしもここで死んでしまえば魂の身動きが取れなくなり、兄が勇者に討たれてしまえば、二度と……会えなくなるのです。
両の脚の包帯はもはや赤黒色に変色し、失血によりわたしの身体は、命は風前の灯火です。
けれども、わたしは自分の脚の痛みなどはどうでもよく、ここで永眠すること自体に不平はありませんでした。
わたしは、ただただこの人生を、無念に、遺憾に思います。
聖王国のために、わたしは何を為したというのでしょう。
聖都の民は何事もなく転生の輪廻に乗れたでしょうか。わたしが自らこの手にかけた子供たちはどうでしょうか。
兄は、北の勇者によって滅せられる運命ですか……?
兄は、我が兄、聖王メネスは、救われることはないのですか……っ!
「悔しい……っ!」
王族の立場を忘れ、大きな声で……わたしは泣く。
哀しかった。口惜しかった。このまま何もできないのか。
必死に嗚咽を堪えながら、涙を拭い、顔を上げる。
女神様のお手に縋り、わたしは偏に懇願した。
「お願い! 兄様を救ってあげて! わたしは何でもするから!」
「……」
「貴女様のそのお力を、どうか、どうか! わたしに!」
「……」
昔、兄が教えてくれた。戦女神の存在を。あの時、兄は妹に対して「淑女たれ」と説いていて、彼方に選定されるような賢女となるよう言いつけた。
にも拘わらず、当のわたしの凋落ぶりはどうだろう。今、正に女神様がお傍に降臨なさったのに、わたしが示したものといえば愚かな自分の姿だけだ。
勢い余り、わたしはそのまま床に転げ落ちてしまう。無様だ。もはや今のわたしに王族としての誇りはない。
脚を失くしたわたしは一人で立ち上がることもできはせず、寝台に戻ることもできず、力を失い倒れ込んだ。
「……っ!」
兄様、ごめんなさい――。
視界が、徐々に霞んでいく。
「祖国を憂える聖なる姫君、聖王国のトケイ姫。貴女の心は無垢で気高く、汚れてなどはいません」
「……」
「わたしは魂の選定者です。わたしと歩めば、世界の鎖に縛られることはないでしょう」
ふわりと、身体が宙に浮いた。誰かがわたしを抱えている。
大きな体躯と大きな手掌。何だか、とても安心して……急に眠くなってしまい、わたしはそのまま目を閉じた。
「貴女が過ごした受難の日々を、わたしは決して無駄にはしない。今は心を休めてください。貴女は傷つきすぎました」
胸に揃えたわたしの両手に、小さな掌が重なった。きっと女神様のものだ。わたしは胸を打たれていた。
わたしのことを「ケイト」と呼ぶ、誰かの声が聞こえてくる。
わたしは、今際の際に報われ、そうして息を引き取った。
トケイソウ