第7話
約束
旅を終えて西の大陸に帰還を果たした、そんな折。俺の知っている生まれ故郷は昔の姿を失くしていた。
勇者の力に目覚め、そして故郷を旅立ち幾星霜。俺は遥か西に位置する山の、里に帰ってきた。
旅の途中に何度も目にしたどんな悲景より惨い悲景。父も母も、幼馴染みも、全員殺されたようだった。焦土と化したその山地には無数の人骨が落ちていて、魔物たちに襲われたのだと、一目で、すぐに理解できた。
「その様相は人ではないな。現れ出たか。戦女神」
幼い頃に幼馴染みと二人で遊んだ、小高い丘。俺は当時の面影すらないそんな場所を寝床とした。
戦女神ヴァルキューレ。勇者の魂は選定の女神をこの地に誘き寄せたらしい。
「お前たちが人の魂を刈り取ることは知っている。大方、この身の勇者の力を嗅ぎつけ、やってきたのだろう」
「……」
「しかし見ての通りだ。西の勇者は帰郷した後、この地で自害を果たしている。旅の吟遊詩人を捉まえ目にした事実を語るがいい。語り部としては世界で初の戦女神になれるだろう」
皮肉を吐き捨て、睨みつけても女神に動揺の様子はない。
憐れむような澄んだ瞳に、俺は視線を他に移す。
「……悪いが、俺はお前たちの駒になる気は毛頭ない。戦力ならば他を当たれ。東の勇者の出身地にでも足を運べばいいさ」
「……」
「なあ、お前は何がしたい? 戦女神はどいつもこいつもお前のように寡黙なのか?」
すると、女神は辺りを見渡し、その場にぺたりと座り込んだ。何も語らず、何も訊かずにただただ黙り込んでいる。神や精霊たちとの出会いは旅路の中でも多々あったが、しかし……思考の読めない女神だ。
俺は思わず笑っていた。
「はは。訳の分からんやつだ。お前、変なやつだな」
「……」
「まあ、別に構わないさ。時間であれば無限にある」
女神の隣りで胡坐を掻き、先の彼女に倣うように辺り一帯を一望する。
嘗て周囲の小高い丘には綺麗な白花が咲いていた。しかし今ではそんな景色は見る影さえもなくなって、荒れて枯れた丘陵だけが広がっているだけだった。
「悲惨なものだな。留まっている俺が言うのも何だが」
「……」
「以前は綺麗な丘だったんだ。今ではこんな有り様だが、里は平和で草木の豊かなとても穏やかな村だった。大人たちも子供たちもいつも笑顔を浮かべていて、それが続いてほしかったのに……俺のせいでこうなった」
「見たか。俺の故郷の村を」と、目も合わせずに一人でぼやく。火を放たれた跡から見て、知恵を持った魔物たちに襲われたのは間違いない。しかし普通はこんな辺境に魔王は軍など派遣しない。
差し向けられた魔王軍は、西の勇者の命を狙ってここまでやってきたのである。
「勇者なんかになったことがそもそも間違いだったんだ。こんな思いをするくらいなら、ただの一人の村人としてみんなと死ぬべきだった」
「……」
「幼馴染みと約束したんだ。必ず戻ってくるからと。その約束を果たすまでは、俺はこの場を一足先に離れるわけにはいかないんだ」
南の勇者に「生真面目すぎる」と小言を頂戴したことも、今となっては間違いないと、その通りだと切に思う。俺がすべきはこの世のための魔王討伐の旅ではなく、身近で大事な同郷たちと共にあることだったのだ。
世界の理などといった常識概念に囚われず、里に残って村の仲間をこの手で守るべきだった。しかしもはやそれも遅い。里一帯は焼き尽くされ、同郷たちは皆殺しにされ俺は単身残された。帰還を迎えてくれる者などただの一人も存在せず、生きる意味や目的さえも……俺は失くしてしまったのだ。
「今後は静かに時を過ごす。あいつを、ソニアをここで待つよ。だから悪いが戦女神の選定ならば受けられない。お前のことは嫌いじゃないが、お引き取りを願おう」
「……」
「……お前、何か一言くらい口を開いてみたらどうだ?」
「貴方はただただ現に背を向け、一人で怯えているだけです。前さえ見ずにその目を閉じて、一人で恐れているだけ」
「何……?」
「お前は何を言っているんだ」と不服を口にしようとする。しかしその時、不意の突風に俺の言葉は掻き消された。
とてもとても長くて長くて、力強い一陣の風。思わず目蓋を閉じるような突風が通り抜けた時、俺のこの目に映った景色は、嘗ての、在りし日のものだった。
「えへへ。クローバー、お久し振り!」
「ソニア……お前、ソニアなのか!」
父と母が名付けてくれた名前を呼ばれて、はっとする。たった一人の幼馴染みと、白花一面の花畑。
俺の胸に飛びついてきたソニアの身体を受け止めて、にこにこ笑う彼女の笑顔と丘の眺めとを見比べた。
「これは一体、どういうことだ……? お前、本物だよな……?」
「ええ……」
「今までどこで何をしていた? 村にいたんじゃないのか?」
「うーん」
「それは斯く斯く然々で」というソニアの弁明を傾聴する。
どうやら彼女は戦女神に随い、ここまで来たらしい。
「それより、見て! お花畑! とってもとっても綺麗でしょう?」
「花……」
「あの方、女神様が力を貸してくださったの!」
見やれば、女神は座したままで蝶々と戯れ、遊んでいた。彼女は戦士たり得る強者を導く魂の選定者だ。死んだ小娘一人の願いを聞き届けるとは思えないが、先のソニアの童話のような一人語りを鑑みるに……俺たち二人は彼女の手により救われたということなのだろう。
「長い間、絶望して……俺は心を閉ざしていた」
「……」
「変わった丘の景色に、気付いてさえもいなかったか」
停まった時間が動き出した。ソニアの身体を抱き締める。もはやお互い死んでしまって死後の再会となったものの、やっとのことで俺たち二人が交わした約束は果たされた。
手先が震え、胸が苦しい。喉の奥がとても痛い。俺の背中を優しく叩く、彼女のその手が嬉しかった。
「こんなの吟遊詩人に知れたら、勇者の名前を汚しちゃうね」
「勝手に詠わせておけばいい。今の俺の思いの丈など、やつらに紡ぎきれはしない」
戦女神がくすりと笑う。笑った……そんな感じがした。
最初の、俺の皮肉に対する仕返しなのかもしれなかった。
「それは色めく野花のように、遠く咲き誇る英雄譚――」
小さな声で詩人のような独り言を零した後、俺たち二人を気遣ったのか、戦女神は退場した。
風のように姿を消して、後には俺たちだけが残る。きょとんと小首を傾げたソニアが不思議そうにしているが、俺は首を横に振って再び彼女を抱き締めた。
一際大きな優しい風が、一陣、丘陵を通り抜け、雪のような白い花に囲まれ――俺たちは目を閉じた。
クローバー