第33話
消失
空と海との間を翔ける優しい風が――心地いい。
西の大陸、最北端の大灯台に、あたしはいた。
大灯台の天辺なんかであたしが見張りをしているのは、帝国軍の軍船全てを海に沈めるためである。
あたし自身にやる気がないので正直乗り気でないのだが、ご先祖様の面子のためにも、止むなく気合いを入れ直した。
あたしの遠いご先祖様は妖精族と恋をして、世界広しといえども珍奇な混血族を生み出した。
本来ならば異類婚などご法度。禁忌のはずなのだが、二つの種族の橋渡しとして混血族は存続した。
以降、代々ご先祖様は平和のために尽力し、人間族と妖精族の仲介役になっている。
妖精族の隠れ里は西の大陸の果てにあり、立場上、帝国軍との戦は見過ごせなかったのだ。
「しかし、こうも焦らされると……何だか苛々してきたわ……」
あたしたちは不意打ち、奇襲の類を掟で禁じている。
人と妖精を調停している一族としての弊害で、詰まるところ、あたしたちは先制攻撃できないのだ。
混血族は妖精たちと共生契約を結んでいて、末裔であるあたしも当然、契約印を刻んでいる。
妖精たちの加護を受けたあたしは、正直めちゃめちゃ強い。北の勇者とやり合ったなら、まあ……悪くて相打ちかな。
視力、聴力、そして魔力も人間の域を超えていて、勇者指定を差し置けたのはあたしが混血故である。
大海原の遥か向こうで敵船が停船しているのは、遠望魔法であたしの所在に気付き、忌避しているのだろう。
斯くして、あたしと帝国軍の睨み合いは続いていた。
防護柵の上に座り、足を組んで、息をつく。このまま時間が過ぎたところで結局埒が明かないので、そのうち、いずれは痺れを切らして敵から突撃してくるだろう。
小さな小さな一羽の小鳥が、あたしの肩に飛んできた。
人差し指を一本伸ばすと小鳥はその手に留まったが、すぐに何かを察したように、空へと逃げていった。
「……」
柵から降りて、あたしの背後の「何か」をこの目で確認する。
西の大陸、最北端の大灯台の、その天辺。
そこには、大きな熊の人形を持った、少女が立っていた。
「あの、わたし、チドリ……」
「……?」
「わたしの名前、チドリ……」
「……」
少女は俯き、その人形で顔を半分隠していた。
彼女はチドリというらしい。とても幼い少女である。
しかし、そんな状況故に、あたしは周囲を警戒した。こんな場所にこんな子供がいるのは普通のことではない。
辺りに敵手の気配は皆無。鉄鋼臭もしてこない。
あたしは片手でチドリを制し、彼女に向かって話しかけた。
「チドリ、そこから動かないで。あたしの言うこと、聞いて」
「……」
「貴女、一人? どこから来たの? どうしてこんなところに?」
「……っ」
チドリは今にも泣き出しそうな、そんな目顔を浮かべていた。
あたし、そんなに怖かった……? 子供の相手は苦手である。
正真正銘、チドリは女児で、あたしに対する敵意もない。
慌てて彼女の傍へと歩み、小さな頭を撫で回した。
「ああ、泣いたりしないでよ! あたしが悪かったから!」
「……」
「いい? 分かった? 泣いては駄目。強い女は泣かない!」
「……」
チドリは両目の涙を拭い、あたしにこくりと頷いた。
安堵の溜め息一つ、あたしははっとし、背後を振り返る。
停船していた帝国軍が抜錨、帆布を広げていて、斥候部隊のものと見られる飛竜が、こちらに飛び立った。
「ちっ。あいつら、選りにも選って……全く、こんな時に……」
「……」
「チドリ、ここは危険だから、すぐに遠くへ逃げて――」
「……?」
その時、あたしは眩暈がして、ふらりと……その場に頽れた。
風の音が、波の音が……あたしの耳まで届かない。
霞む視界、酷い頭痛……あたしは絶句し、戦慄した。
右手の甲の、契約印が――剥がれ落ちていたのである。
「動くな! 小娘、こっちに来い!」
「嫌、嫌……っ! お姉ちゃん!」
チドリの悲鳴で我に返り、あたしは周囲を見渡した。
気絶していた……? いつの間に……? 飛竜が上空を飛んでいる。
斥候部隊の帝国兵に、あたしは取り囲まれていた。
「混血族も契約印がなければ、ただの雑種だな」
「……?」
「小娘は帝国の道具で、破棄の才華の持ち主だ」
……合点がいった。破棄の才華。契約者への対応策。
まさか、北がそんなものまで用意し、手札を切ろうとは……。
妖精族との共生契約、それさえ消失せしめる女児。
帝国兵に捕らえられたチドリに、あたしは微笑んだ。
「チドリ、さっきも言ったでしょ。女は泣いては駄目よ」
「……っ!」
「あたしの名前、ビオサっての。できれば、忘れないで」
「……っ!」
チドリは刺客だった。けれども、この子は決して悪ではない。帝都の非道な大人たちに利用されただけである。
最後の力を使い、チドリに催眠魔法を使用する。
彼女はすやりと眠りに就いた。
帝国兵を睥睨する。
「小娘ごときを慮って無惨な死に目をひた隠すか」
「帝都の男は女の扱い一つさえも知らないのね……」
身体が、まるで自分のものではないかのように動かない。
西は落ちた。もはや誰にも帝国は止められないだろう。
絶対後攻の掟のもと、斬首を、あたしは甘受する。
……やれやれ。今日は幼い子供と、何かと所縁のある日である。
小さな小さな戦女神が、あたしの最期を看取っていた。
スカビオサ




