第2話
虚像
幼い頃に読んだ絵本が、僕の人生の支えでした。
東の大陸のそのまた東の街に僕は生まれました。実家は貧しく、豊かな生活を夢見る庶民の家庭であり、僕は友達作りもせずに親の手伝いをしていました。
そんな乏しい暮らしの中、僕には父から譲り受けた大切なものがありました。それは一冊の絵本であり、僕の宝物といえる唯一無二の品でした。
絵本は勇者の旅路を描いた陽気で愉快な冒険譚。僕は絵本を何度も何度も読み、心を躍らせて、いつか自分も勇者になると夢見たこともありました。しかし現実は非情であり、僕には剣や魔法の才は欠片もありませんでした。
勇者指定の四項目のどれ一つにも該当せず、一方、現世の四大陸には勇者が出現していました。勇者なんて一つの時代に一人もいればいいほどです。しかし、今のこの世界には四人の勇者が生まれていて、各大陸から魔王を討つべく旅立ったとのことでした。
「ようやく世界が平和になる」とみんなが期待し喜ぶ中、僕は一人でいじけてしまって素直になれませんでした。僕も勇者になりたかった。僕も世界を救いたい。不相応な願望ばかりが過分に胸へと集ってしまい、遂に僕は絵本の主役に自分の姿を映しました。
勇者ルピナス、この地に誕生! いざ! 魔王を討つ旅へ!
拙く惨めな妄想劇はこうして幕を開いてしまい、それから長い月日に亘って空想の冒険は続きました。
「……あはは。病死の間際のせいか、昔の夢を見てしまった」
あれから数年。僕は病で床に臥せってしまいました。
しかし、それでも妄想劇は未だに継続していました。夜、寝る前、頭の中で仲間たちと合流し、魔王討伐を目指す旅を毎日続けていたのです。最初の一日は王様に謁見、旅の資金を頂戴して、次の一日は酒場に出向いて同志たちを募りました。
頭はいいが気性が激しく、男嫌いの魔法使い。軽率ながらも剣技は一流、仲間思いな重戦士。そしてそんな彼に恋する内気で人見知りな僧侶……。
文化や風習、言語や文字まで僕は一人で考案して、僕の頭の中だけにある世界を広げていきました。
時には空に浮かぶ城で巨竜と死闘を繰り広げ、時には大海原を割って海底神殿を探索し……僕たち四人は辛い試練や苦難を何度も乗り越えて、みんなで手を取り協力しながら旅を続けていきました。
そして遂に、魔王城で魔王を討伐したのです。
僕の頭の中に広がる架空の冒険活劇は、思えば、至って滑稽であり……空しく、愚かなものでした。
北の帝国の襲撃により聖王国は落ちてしまい、やがて彼方の魔の手が伸びてこの街にまで届くでしょう。父も母も、住人たちは街から逃げていきました。足手纏いの僕は一人で生まれ故郷に残りました。
意識が遠のき、眩暈がして、僕は両目を閉じました。
毎日毎日、胸に描いた勇者ルピナスの物語は、これにてお終い。大団円を迎えようと思います。
月空の下。勇者一行の凱旋の宴が催されて、僕は喧噪の隙間を縫って仲間たちを集めました。故郷の城の最上階の、夜空の星の下の露台。せめて最後に一言くらい言葉を交わしたかったのです。
戦士と僧侶は何かを察して、その場を離れていきました。もはや彼らは作者の作意に関せず生きていたのです。そこには僕と魔法使いの二人だけが残されて、彼女は「何よ」と照れくさそうに、優しく尋ねてきました。
「……」
僕は、本当の僕のことを魔法使いに話しました。ここは僕が創った世界であると、彼女に教えました。
そして遂には「もう会えない」と、一言、僕は伝えました。気丈な彼女は涙を隠し、最後の最後まで強がって、霞む視界の中、彼女は僕に――。
何かを渡しました。
「……」
少し、本の少しだけ、僕は眠っていたようです。目覚めた時に僕の頬には涙の雫が伝っていて、そして僕は一枚の皮紙をその手に握っていました。
「……?」
そこには、僕が考案した、僕しか知らないはずの文字で、
『ありがとう。さようなら』
と、確かに、綴ってありました。
「貴方が心に描いていたのは愚かな虚像などではなく、勇者たらんと強く願った気高い偶像でした」
「……」
「さあ、共に歩みましょう。大丈夫。貴方の新たな仲間がヴァルハラで待っていますから」
目蓋を閉じると、すぐ耳元から女性の優しい声がした。誰かが僕の涙を拭う。最期の最期で「幸せだった」と僕は人生に結論した。
戦士と僧侶、魔法使いに、心の中で別れを告げる。
どうやら、僕の冒険譚はここから始まるようだった。
ルピナス