第98話
信託
腎臓病は遺伝し、発する病例として有名らしい。
斯く言うわたしも母方からの遺伝によって発病し、幼い頃から今の今までこの身を侵され続けている。
母は全く同じ病で五年前に他界した。恐らくだが、娘のわたしはもっと短い命だろう。
しかし大好きだった母に恨みを覚えることなどなく、わたしは床に臥せたままで静かに余生を過ごしていた。
「ラータ、ラータ。もう寝たかい?」
「……?」
「起きてる。こんばんは」
とある夜、父がわたしの寝室にまでやってきた。
一人でなく、わたしの知らない女性と並んで――。
二人でだ。
「起こしてしまったみたいだね。ラータ、すまない。悪かったよ」
「……」
「話がしたいんだが、今は……気分はどうだい?」
「……」
「話」というのが連れの女性のことであるのは、察していた。
特に具合いは悪くもないが、わたしは黙ってしまっていた。
「実は、お前にお父さんから、彼女を紹介したいんだ。彼女は昔、お父さんと――」
「ねえ、今は止しましょ」
「……?」
「ラータちゃんとは初対面だし、やっぱり突然すぎたのよ。あたしもゆっくり打ち解けたいし、今日のところは帰るわ」
「……」
女性を見送る父の背中を、わたしはこっそり覗いていた。
彼女が我が家を後にしてから、おずおず、父へと語りかける。
「お父さん、ごめんなさい。わたし、ぶっきら棒だった……」
「大丈夫だよ。驚いたよな。お父さんが悪かったよ」
「今の人、お父さんの……昔からのお知り合い?」
「ラータ、身体の調子のほうは……?」
「平気。話を聞かせてほしい」
聞けば、父と先の女性は幼馴染みの仲らしい。
父、母、そして彼女は同じく昔馴染みであり、子供の頃から三人集まり、一緒に遊んでいたそうだ。
父と母が結婚してから疎遠になってはいたものの、母が亡くなり五年が経って、再び会う日が増えたという。
「お父さん、再婚するの……?」
「娘よ。それは早計だ……」
「……」
「ただ、お父さんにも今後の運びは分からない。好きか嫌いでいえば、俺は彼女のことが好きだ」
「……」
「だが、俺は、お父さんはラータが一番大切だ。だから、お前が傷付くようなことなら、したくはないんだよ」
その日はそこらで話が終わり、わたしは自室に戻された。
父は終始、わたしの心身を気遣い、慮っていた。
それから、父の幼馴染みの女性は、度々やってきた。
父と二人の時もあれば、一人の時もあったりした。
つんけんしているこちらに対し、彼女は文句の一つもなく、世間話や自分語りをしては、わたしの相手をした。
「それにしても、ラータちゃんは母親譲りで、美人だなあ」
「お家、ちょっぴり埃っぽいね。あたし、今から掃除する!」
「お父さんは今日も仕事? 可愛い娘がいるのにねえ……」
「ラータちゃん、林檎食べる? 美味しそうなの見つけたの!」
どんなに邪険に扱われても彼女は嫌な顔をせず、懲りずにわたしに会いに来ては、にこにこ笑顔を浮かべていた。
ある日、わたしは彼女に噛みつき、喧嘩を仕掛けたことがある。
それでさえもいつも通りで彼女の様子に変化はなく、わたしは調子を狂わされている自分自身に気付いていた。
「不愉快です。貴女、一体、何が狙いですか……」
「んー?」
「わたし、これでも病人ですけど。重病患者なんですけど」
「あー、ごめん! 邪魔だったよね! 今すぐお暇するから!」と、彼女は荷物を纏め出す。
わたしは息をついていた。
帰り支度をしている彼女に「待って」と一言、声をかけ、隣りの椅子をぽんぽん叩き、その掌を裏返す。
「座ってください」
「でも、あたし……」
「いいから、座ってください」
「……」
気持ちを察してくれたか否か、彼女は神妙そうにして、わたしの寝台横の椅子へと腰掛け、小さく俯いた。
「訊きたいことが一つあります。質問してもいいですか?」
「……うん」
「できれば、嘘をつかずに答えてくれると、嬉しいです」
「貴女にとって、父とは何?」と、わたしは真っ直ぐ、問いかけた。
何かを思い出すかのように、彼女は両目を細めていた。
「ラータちゃん、話に応じてくれて、どうもありがとう。あたし、とっても嬉しいわ。ほんとにほんとにありがとう」
「……」
「貴女のその質問にきちんと返事をするためには、お父さんとお母さんの話をしなくちゃならないわ」
「昔話、聞いてくれる?」と、今度は彼女が問いかける。
わたしは片手を胸に当て、こくりと、小さく頷いた。
「……」
彼女は幼い頃から父へと思いを寄せており、わたしの母とは恋敵として反目し合っていたらしい。
しかし二人は互いに対して憎みきれないところがあり、両者の気持ちを尊重しながら日々を過ごしていたそうだ。
紆余曲折はあったものの三人は揃って大人になり、父が自分で選んだ相手は彼女ではなく、母だった。
遂に彼女は父への思いを打ち明けないまま身を退いて、母の死後もそれは変わらず、父とは会わずにいたのである。
「お父さんと再会したのは、街の共同墓地だった。お花をね、供えに行ったの。お母さんのところへ」
「……」
「そこで偶然、ばったり会って、あたしの胸は高鳴ったわ。長い間、隠し続けた気持ちが……溢れてしまった」
「……」
「そうして今に至るのよね」と、彼女は戯けてみせていた。
「だけど、お願い。安心して」と、わたしに向かって付言する。
「飽くまで! 飽くまであたしたちは一線、越えてないからね。貴女の大事なお父さんには指一本も触れてない」
「……」
「ただ、お父さんのことが、あたしは好きだから……実娘に知ってほしかったの」
「それで、わたしのところへ?」
「……うん」
貴女は今でも、昔と変わらず父のことが好きなのか。
愚問だった。そんなことなど、訊かなくたって分かるだろう。
一転、彼女は憂いが晴れた様子で、うんと伸びをする。
「すっきりした!」と言いたげだった。
わたしは天井を見つめていた。
「そういうわけで、釈明終わり! これが話の顛末よ。貴女に認められないのなら、あたしは彼を諦めるわ」
「……そんなの、わたしが死んだ後なら好きにできるじゃないですか。わたしの許可とか、そんなものは必要ないんじゃないですか?」
「いいえ。貴女がうんと言うまで、あたしは彼には手を出さない。これは貴女のお父さんと二人で決めたことなの」
「……」
「お母さんへの義理もあるわ」と、彼女は胸を張っていた。
黙っていれば、ばれないだろうに。
全く、律儀な人である。
「貴女は、父母の結婚前から……父を愛していたんでしょう?」
「ええ、子供の頃からね。ずっとずっと好きだった」
……。
「だけど、あの二人はさ。とってもお似合いだったのよ。あたしではなく、あの子のほうが……そういう風に見えてたの。現に彼は彼女と一緒に素敵な家庭を築いたわ。ラータちゃんが産まれて、二人はとっても幸せそうだった」
……。
「だから、あたしは負け犬。身を退くことには慣れてるの。貴女があたしを認めないままこの世を去るというのなら、あたしはそれを受け入れるわ。以降、彼には会わないから」
「あ! でも、ラータちゃんの病気の良化が最善よ!」――慌てた様子で取り繕った彼女に、思わず笑ってしまう。
恋敵という関係性に疑問を抱いていたのだが、今なら母の気持ちが分かる。こんな人、嫌いになれないと。
彼女の覚悟は理解できた。
次はわたしの番である。
いつまで経っても子供のように駄々を捏ねたりなんかせず、わたしも最期に、ちょっとくらいは大人になってもいいだろう。
「お姉さん、どうぞこれを」
「え……?」
「読んでください」
「……」
母は生前、娘に対して一枚、手紙を遺していた。
手紙には、お姉さんのことも書き綴られていた。
彼女のことを認めてほしいと、母はわたしに願っていた。
自分の死後にこうなることを、母は予期していたのである。
「ごめんなさい。わたしは元々、貴女のことを知っていて……だけど素直になれもせずに、貴女と接していました」
「……」
「手紙は新たな三人に対する祝福で締め括られています。全く、母には敵いません。全部思う壺です」
「……」
手紙を持った彼女のその手は微かに震えてしまっていた。
そんな彼女のか細い五指を、わたしの両手で包み込む。
「察しのよくない男ですが、のんびり屋さんな男ですが」
――。
「どうか、父のことを、どうぞ……よろしくお願いします」
死んだ母がわたしの立場であれば、きっとこう言うだろう。
少しは、大人になれただろうか。
わたしは、くすりと笑っていた。
パニキュラータ