第96話
泡沫
『ユーフォ、ほらほら! こっちこっち!』
『何だよ……』
『いいから、早く来て!』
わたしは東国の姫君としてこの世に生を享けました。
王室育ちのわたしの暮らしは鹿爪らしさに溢れていて、僅かな時間の隙間を縫っては彼らと集合していました。
『じゃーん! 早速、紹介するね! この子、リナリア! リーナだよ!』
『……』
『あれあれ……? 反応薄い……?』
『紹介するも何もだな……』
ユーフォとリーナは王家直下の近衛隊の一族で、わたしは王族、そして彼らは二家の貴族の子々でした。
貴族同士の競争意識で二人は油と水でしたが、実のところは仲良しなのだとわたしは推察していました。
『それにしても……』
『姫様、何か? 忠言でしたらご遠慮なく』
『リナリアなんて、可愛い名前! 女の子っぽい名前よね!』
『あはは! アーネ、言ってやるなよ。そいつ、気にしてるんだから』
『誰が何を気にしてるだと!』
『やるかあ!』
『こらこら、喧嘩は駄目!』
「これは護衛!」と託け、わたしは二人を無理矢理呼び出して、できる限りの三人一緒の時間を、楽しく過ごしました。
幼馴染みのわたしたちの仲はその後も良好で、わたしにとってユーフォとリーナはとても大事な人でした。
しかし、ある日。わたしたちの絆は、途絶えてしまいました。
帝国領への対応如何で王族同士の意見が割れ、祖国の内部で大きな大きな戦が勃発したのです。
リーナの一家は保守党である国王に仕えていましたが、ユーフォの一家は革新党の派閥に専属していました。
彼らはそれぞれ保革二党の将官として衝突し、多くの兵士を率いながら……戦い、剣を交えました。
『ユーフォ! リーナ! 争わないで! お願い! わたしの話を――』
……。
騎士の二人のその信念は揺るぎがたいものでした。
もはや些々たるわたしの声など戦場には届きませんでした。
わたしは心を痛めてしまい、祖国から……遠く離れました。
国が傾き、民が嘆き、それでも二人は止まらず、わたしはそんな彼らの姿を見てなどいられなかったのです。
東を去って、身分を隠し、とある街へと流れ着き、そこには尊きフレイヤ様の教会堂がありました。
憔悴しきってしまったわたしは責から逃れた自分を恥じ、フレイヤ様の像のもとで、自ら……命を絶ちました。
今で尚も天に召されずこの身が残留しているのは、罪悪感が齎すことか、それはわたしも分かりません。
何十年と月日が経っても東の空を見上げつつ、祖国を思い、わたしはこうして……。
一人で憂えていたのです。
「……アーネ」
濡れ羽の鎧の騎士が、わたしの前に現れた。
ユーフォルビア。兜を外した面貌は、昔のままだった。
「ああ、ユーフォ……どうして、そんな……」
「……」
「そんな状態に……」
「……」
ユーフォは既に命を落とし、その身を霊体に変えていた。
しかし同じく霊体であるわたしと大きく違うのは、彼が世界の理、秩序に背反していることだった。
再会できた嬉しさよりも、悲哀のほうが勝っている。
だって、貴方は心も身体も、こんなに……傷めていたのだもの。
「アーネ、すまない……随分、遅れて……」
「ユーフォは何にも悪くないわ……」
「お前も……命を落としてたのか……」
「うん……本当にごめんなさい……」
返り血により鎧が黒ずむ。貴方はそれを嫌っていた。
だから、元より黒い鎧を。貴方は慈愛に満ちていた。
ふらりとその身を揺らしたユーフォが、片膝をつき、頽れる。
彼は呼吸も絶え絶えだった。
駆け寄ろうと――した瞬間、
「!」
その場に立ち止まり、わたしは……我が目を疑った。
フレイヤ様の眷属である、小さな……? 戦女神様。
そして彼女に付き随って隣りに控えるその人は、年を取って容貌を変えた――。
リーナに他ならなかったのだ。
「リーナ、貴方……」
「アネモネ姫、お久しゅうございます」
「どうして……? どうして女神様と……」
「積もる話は、後ほどにて」
刹那。さながら獣のような雄叫び声を上げながら、
「リナリア、貴様っ!」
剣を抜いて、ユーフォが、リーナを……襲撃した。
同じく抜剣しているリーナはユーフォの剣戟を受け止めて、互いに何度も打ち合いながら鍔迫り合いを繰り広げた。
「ユーフォ! リーナ! 争わないで! お願い! わたしの話を――」
……?
わたしは思わず声を上げた自分の言葉に、はっとした。
それは嘗てわたしが発した言葉と、同一だったのだ。
気付けば、わたしのすぐ隣りには女神様が立っていた。
両膝をついて、両手を握り、わたしは彼女に懇願した。
「女神様、お願いします! 二人をお止めください!」
「……」
「彼らは、こんな……これ以上は争い合ってはいけないのです!」
「見ていて。二人を信じなさい」と、女神様は返答した。
そして、わたしは……その双眸に、信じられないものを見た。
「え……?」
リーナの、その外見が……若返っていたのである。
それはわたしの記憶に残るリーナの最後の姿であり、当然、ユーフォも彼の変化に両目を大きく開いていた。
「ユーフォルビア!」
リーナの剣がユーフォの剣を巻き上げた。剣は小高く宙へと飛んで――。
そのまま落下し、転がった。
「……」
ばたりと倒れてしまい、ユーフォの動きは停止した。
彼は満身創痍だった。もはや限界だったのだ。
リーナが彼へと歩み寄る。わたしは咄嗟に駆け寄った。両者の間に割って入る。
わたしは、二人に訴えた。
「ユーフォ! リーナ! もうやめて!」
「姫様……」
「お願い! お願いよ……っ!」
悲鳴にも似たわたしの声に、リーナは剣を下ろしていた。
大事な二人の幼馴染みが死して尚も争い合い、互いに傷付け合っているのが、わたしは……悲しかったのだ。
「……」
聞けば、リーナは死没後、エインヘリャルになったらしい。
祖国はその名を聖王国と改め、栄華を極めたが、帝国領との戦によって亡失したとのことである。
内乱により戦死を果たしたユーフォはわたしを捜索し、世界の鎖を克服してまで各地を彷徨い歩いていた。しかしここは聖女と呼ばれる女性が生まれた街であり、ユーフォは長らく街の内部に進入できなかったのだ。
聖女が命を落としたことで、ユーフォは廃教会へとやってきた。
そして、今、わたしたちはこうして再会したのである。
「彼がその身に宿しているのは自縛の才華というものです。皮肉なことに彼の才華は死没と同時に開花を成し、世界の理、秩序に対する背馳を可能にしました」
「……」
「もはやわたしが世界の鎖をこの場で裁断しようとも、貴方の穢れてしまった魂の浄化は、恐らく不可能でしょう」
「貴方は傷付きすぎたのです」と、女神様は付言した。
ユーフォに救いの道はなかった。
わたしのせいで、ユーフォは……。
「……」
若返ったリーナの容貌は元の外見へと戻っていた。
細くなった老兵の両目がユーフォを哀しく見つめている。
女神様は、わたしの声を聞き遂げ、この地に降臨した。
この期に及んで、わたしだけが……。
ユーフォの手甲に、手を重ねた。
「……ユーフォ、わたしも貴方と一緒に、同じ場所へとついていく。王女としての責があるわ。選定なんて受けられない」
「……馬鹿言うな。何のためにここまで来たと思ってる。お前の安否が気懸かりだった。本当に、それだけだったんだぞ」
ユーフォがわたしの頬を撫でる。
何だか、とっても懐かしい。
言葉遣いは乱暴だけど、貴方は……優しかったわね。
「だが、お前がエインヘリャルになるなら、俺は満足だ。本望のまま冥府に行ける。そろそろ……安心させてくれ」
憔悴しているユーフォの声に、わたしは頷く他にはない。
彼は一拍置いた後に、女神様を一瞥した。
「そこの女神は弟さえも傘下に加えてしまってる。ハーデン、お前も知ってるだろう。兄の最期を伝えてくれ」
「……うん」
「リーナ、アーネを頼む。襲いかかって悪かった。剣を弾かれ、頭が冷えた。お前を恨んでなどはいない」
小さく微笑むユーフォに対し、リーナも目尻を下げていた。
「お前は騎士で、わたしの友だ」――嗚咽混じりの声だった。
「よもや二度も敗れるとはな。ふふふ、全く……腹立たしい」
廃教会の穴の開いた天井、空を見上げつつ、ユーフォの霊体は消滅した。
――静かに、雨が降り始めた。
アネモネ