第90話
愛息
自分が知的障害者という自覚は胸に抱いていた。
母は僕に健やか足るよう「メランポジウム」と名をつけた。
一人で生活できない僕は父母に世話され、生きてきた。
母が先立ち、その後は父に面倒を見てもらっていた。
しかし父も寿命が近付き、床に臥せるようになり、一人の介護士さんを雇って我が家で扶助してもらっていた。
『メラン、父さんはここまでらしい。母さんのところに行ってくる。だけど、何にも心配要らない。お前は元気でいてくれ……』
『あー』
『介護士さんにお前を生涯看病するよう依頼した。もちろんその分、報酬も払った。不便なことなどないから……』
『あー』
それから間もなく、眠るように父は息を引き取った。
涙を零すことさえできず、僕は胸中で泣いていた。
そして、ある日。
清拭時間、身体を洗ってもらう時……。
仰向けである僕の顔に、濡れた布巾が被さった。
「!」
溺水しているような、そんな錯覚に襲われる。
しかし身体が不自由であり、僕に逃れる術はない。
一体、誰がこんなことを……それは考するまでもない。
我が家に、この場に存在するのは、僕を除けば、即ち――。
「あーっ!」
あっという間に呼吸ができなくなって、僕は藻掻いていた。
それでも布巾はぴったり貼りつき、僕の命を奪っていく。
もはや抵抗することさえもできなくなった、そんな頃、そっと肩に片手を置かれ、耳の近くで……。
囁かれた。
「メランさん、短い付き合いでしたが、今日でお別れです。とてもぼろい商売でした。本当に、本当にありがとう」
「貴方が死ぬまでお世話をするよう仰せつかっていましたので、貴方が死ねば、晴れてわたしはお役ご免というわけです」
「表向きは知障患者の事故死と供述しておきます。まあ、長生きしようとしまいと、貴方に大差はないでしょう?」
「報酬でしたら前払いにて、確かに領収済みですので。ご利用、ありがとうございました。ご両親によろしく」
……。
皮肉なことに、霊体となり僕は自由を手にしていた。
小さな小さな訪問客に、絵画の父母を紹介した。
「父母は僕の世話のために二子を作らなかったんだ。そして僕は言語不全で、言葉が喋れなかった」
「……」
「僕にできることであれば文句はつけない。何でもする。だから、父母にたった一言、ありがとうと言わせてくれ」
障害児である我が子を抱いて、彼らは笑顔を浮かべていた。
「約束します」――小さな少女は、絵画を見ながら、頷いた。
メランポジウム