第86話
諧調
『よお! 兄弟! 新入りさんとは、この時期、珍しいな』
――。
『ここは戦の脱走兵を纏めてぶち込む収監所。お互い、土地を踏んだもんだ。まあ、仲良くしようや!』
――。
『少し前までここにもたくさん収監者たちがいたんだが、みーんな縛り首を受けて、俺っち一人だったのさ。帝国領では戦線離脱は殺人以上の重罪だ。気の毒だがな、兄弟、あんたも死刑は決定的だぜ?』
――。
『しっかし、あんたも物好きだなあ。世界中で楽器を鳴らして一人で旅をしてたんだろ? 北に戻ってきたりせずにとんずら放けばよかったのに、どうしてわざわざ帝国領に帰国しようとしたんだ?』
――。
『へえ! 惚れた女のために! そいつは泣かせる話だねえ。あんたみたいな真人間こそ救いを賜るべきなんだが、ここから生きて帰った野郎は一人も存在しないんだよ。新王さんは信心深くて優しいお子様らしいんだが、贔屓や差別はご法度だろ? 特別扱いできないのさ』
それから間もなく、相部屋男の絞首刑が決定した。
絞首台に連れていかれる男は、最後に笑っていた。
「短い間だったけどよ、兄弟、今までありがとな! 一人きりのままじゃなくて、俺っち、楽しかったぜ」
「……」
「俺のほうこそ感謝するよ」と手を上げ、男を見送った。
遂に次は俺の番だ。心は穏やかだった。
「……」
最後に身の上話ができて、随分楽になったと思う。そういう意味では幸運だった。
相部屋男に感謝である。
聖王国であの子と出会い、それから世界を渡ってきて……あっという間の歳月だった。俺は頗る満足した。
追われる身ではあったものの、毎日毎日楽しくて、音楽屋とはこういうものだと強く感じる日々だった。
あの子の親父さんの遺曲は世界中に残してきた。
俺は使命を全うしたのだ。
悔いは一切なかった。
「……」
灯りが消えた。就寝時間。俺は牢屋で横になる。
明日か、はたまた明後日だろうか。俺は死刑を受けるだろう。
あの子の横顔を思い浮かべ、ふっと笑って、閉眼する。
次に、両目を見開いた時――。
俺は、白い部屋にいた。
「……え?」
そこには、二人の少女が肩を並べて立っていた。
一人は銀髪碧眼である、そう、いつぞの女神である。
そして両手を前に揃えて何やらもじもじしているのは、聖王国で出会った娘――。
あの子が、こちらを見つめていた。
「ええっと、その、お久し振り……?」
「……」
「ぼけっとしないでよ……」
何が起きたか分からなくて「これは夢か」と困惑する。
「いいえ。夢ではありませんよ」――戦女神が否定した。
「ここは死前と死後の狭間、行方を決する中間地……ですが、今は臨時的にこの場を開放しています」
「……?」
「この子はエインヘリャル。わたしの大事な家族です。そんな彼女が、貴方に対して……伝えたいこと、あるそうです」
言うや否や、姿を消し去り、戦女神は退場した。
見やれば、豪華な鍵盤楽器――。
袖を摘ままれ、引っ張られる。
「……ん」
「えっ」
「……ん、ん!」
「ここに、一緒に座れって……?」
大きな大きな洋琴椅子に、二人並んで着席する。
譜面台には、これまた初見の楽譜が立てかけられていた。
走り書きで乱筆された、落書きだらけの楽譜である。
これ、まさか、こいつが起譜を……?
俺は隣りの彼女を見た。
「時間、全然間に合わなくて……練習できなかったの」
「……?」
「目覚めた途端、こんな場所で……びっくりしているだろうけど、まあ、一曲聴きなさいな。助っ人、任せたからね」
「……」
「お願いだから笑わないで」と照れくさそうに付け足して、彼女は、胸に片手を添えて――。
大きく、深呼吸をした。
「夜空舞う、粉雪のような――」
……?
「降り頻る、桜吹雪でも――」
……。
「言いたげな、お空の月でも――」
……。
「この思いを、叶えてよ――」
歌いながら、彼女は鍵盤を叩き、演奏を開始した。
弾き語り。
とても柔和な、そんな声音を響かせて、彼女は見知らぬ異国の曲を……。
楚々と、静かに、弾き始めた。
「……」
不意に、聖王国での二人の連弾を思い出す。
あの日も彼女は食い入るように楽譜のことを睨んでいた。
今の彼女は、あの時以上に真剣、余裕がなさそうだ。同時に歌っているのだから、それは当然、無理もない。
俺の視線が気にかかるのか、肩に力が入っていて、耳の端まで真っ赤にしていて、彼女は恥ずかしそうだった。
「……?」
彼女の小さな肘が、俺の腕を小突いている。華麗に十指を躍らせながら、合間に、合図を送っていた。
俺の顔と楽譜の譜面を交互に見返し、焦っている。彼女が助けを求めているのだ。稽古不足の一節らしい。
俺は咄嗟に袖を捲くり、彼女の補助を担当する。
自分自身でも驚くほどに、十指が乗りに乗っていた。
異国の曲は未来を夢見る、恋する乙女の歌だった。
至福のような時間が流れて――。
曲は、間奏に入っていく。
「……腹立たしいわ。初見初聴で、こんなに楽々対応して」
「別に、言うほど楽ではないぞ」
「嘘だ。余裕綽々じゃない……」
「あんただって、綺麗な音色を奏でているじゃないか」
「……」
「聴かせてくれ。あんたの歌を。できれば、ずっとこれからも」
「いいわ。だって、こんな気持ち……生まれて初めてなんだもの!」
やがて、彼女の異国の曲は、終わりの節へと差しかかる。
彼女はとても楽しそうに、笑顔を浮かべて歌っていた。
「水辺に浮かぶ、鏡のように――」
……。
「映し出す、記憶の中でも――」
……。
「俯いて、瞳を閉じると――」
……。
「いつの日かの、約束を――」
鍵盤楽器の残響音が白い部屋から消えた後、恐る恐るとこちらを見上げ、彼女は「えへへ」とはにかんだ。
聞けば、今の異国の曲はヴァルハラの地で知ったらしい。
俺に聴かせる一心により歌の採譜を思い立ち、仲間たちに協力されて楽譜を作り上げたという。
しかし、採譜の条件として「弾き語ること」を提示され、断ることもできなくなって、そうして本番に至ったらしい。
「あんたも随分、無茶をするな……」
「あはは……それはね、そうかもね」
「まあ、いい曲だったけどな」
「素敵な旋律だったでしょ」
歌い終えた後、彼女は肩を落としてしまっていた。
こちらを見ずに、俯いたまま……。
静かに、彼女は口を開く。
「……女神様からお聞きしたわ。貴方、死罪を受けるんでしょう?」
「そんなことか」
「そんなことかじゃないわ。大事なことじゃない……」
俺の肩に頭を乗せて、彼女がこちらに身を寄せる。
彼女の髪が頬に触れて、何だか、ちょっぴり……こそばゆい。
「ごめんなさい。わたしのせいで……」
「どうしてあんたのせいなんだ?」
「だってだって、もっともっと……貴方は長生きできたでしょう? わたしと交わした約束なんか、反故にしたってよかったのに」
「俺が勝手に決めたことだ。あんたは何にも悪くはない。それに、これでよかったんだよ。それが俺の結論だ」
「……?」
こちらの目顔を覗き込んで、彼女は小首を傾げていた。
白い部屋を見上げながら、俺は旅路を思い出す。
「世界中を旅する中で、いろんな出会いがあったんだ。豊かな人とているにはいたが、貧しい人こそ山ほどいた。だけど、みんな、親父さんの遺曲に心を打たれていた。戦争直後の世の中なのに、たくさん拍手を貰った」
「……」
「だから、俺はあんたと出会えたことを、何より誇りに思う。あの日、あんたが聖王国で鍵盤を鳴らしていなければ、俺はこんな充実した日々、決して送れなかったんだよ」
彼女の頭を一撫でしながら「ありがとう」と付け足すと、彼女は瞳に涙を滲ませ、
「こちらこそ」と頷いた。
見計らっていたかのように、戦女神が現れる。
隣りの彼女を見倣うように、俺も椅子から起立した。
「ありがとうございます。お優しいラーズ様」
「戦女神、感謝するぞ」
「いいえ。わたしは何も……」
「……?」
戦女神は俺たち二人を交互に見比べ、黙していた。
何やら考え込んだ後で、従者を手招き、耳打ちする。
(コスモス、わたしは気分がいいです。今日は大変に気分がいい)
(……え?)
(なので、ここから先のことは原則秘密とします。わたしも両目を瞑っておくので、二人でゆっくりしなさい)
(……え!)
「そういうわけで、延長どうぞ」――再び女神が姿を消す。
出たり消えたり、忙しないな……。
彼女と顔を見合わせた。
「どういうことだ……?」
「分からないけど、まあ……」
「……?」
「……何でもない」
「女神様の思し召しよ」と彼女は取り繕っていた。
「そ、そうか」と納得しておく。
改め、二人で着席した。
「ねえ! 時間もあることだし、久し振りにお父様の遺曲、連弾しましょうか」
「あんた、ちゃんと憶えているのか……?」
「忘れるわけがないじゃない!」
「ついてきなさい!」――意気揚々と彼女が鍵盤を叩き出す。
これから先も、彼女の隣りで……。
俺も演奏を開始した。
「そういえば、今の今までお互い名乗ってなかったな。俺はカーパス。あんたの名前は?」
「コスモス! 聖都のコスモスよ」
「コスモス、あんた、次に会ったらどうのこうのと言ってたよな?」
「えっ」
「いや、言ってたぞ。いいこと教えてくれるってな」
ぼろん! ぼろん!
音を外し、あわあわ、おたおたするコスモス。
何を動揺しているのか、彼女は斜めを向いていた。
「そ、それは……今度にしましょ!」
「はあ……?」
「別にいいじゃない!」
「これから、毎日会えるんだから」――そんな言葉に、はっとする。
俺は選定されるのだった。
いつでも、彼女と楽器を――。
「……」
二人の奏でるその演奏は、果てなく、彼方に響いていた。
いつまで経っても、いつまで経っても、決して――。
途切れはしなかった。
「起きろ! 受刑者、ストレプトカーパス! 刑の執行を宣告する!」
「……」
「本日、正午の鐘を以って、貴公を絞首とする!」
目覚めた時、いつも通り、俺は牢屋の中にいた。
刑務官が訝しそうな視線で、こちらを睨んでいた。
「……お前、何を笑ってるんだ? これから処刑されるんだぞ?」
「俺、今、笑ってるのか」
「……」
「あはは。そうなのか」
斯くして、俺は絞首台に運ばれ、そのまま刑死した。
終始、心は穏やかだった。恐れも憂いもなかったから。
両目に蓋こそされたものの、幸い、開口可能であり――。
俺は、あの子が歌ってくれた曲を、口遊んでいた。
ストレプトカーパス