ヴァルハラ作法
「コスモス、少しよろしいですか」
「え……? あ、女神様」
晩餐後、前掛け姿のコスモス嬢の名前を呼ぶ。
女性陣は協力し合い、大食卓を片していた。
「女神様、わたしに何か……?」
「……」
「あの、女神様……?」
「ここでは、ちょっと」――場所を変えて、厨房奥へと移動する。
今なら、ここなら二人きりだ。
わたしは彼女のその目を見た。
「コスモス、心を落ち着かせて……話を聞いてください」
「……?」
「今し方、わたしのもとへと彼方の声が届きました。貴女と懇意であった青年、カーパスが、間もなく死亡します」
カーパスとは、帝国生まれの音楽家である若人だ。
コスモス嬢は、一度大きく両目を見開き、俯いた。
「進軍先の聖王国で貴女たちが別れた後、彼は交わした約束通りに各地を旅していたようです。貴女のお父君の遺曲を世界中で演奏し、脱走者として捕らえられて、軍法により、死罪を――」
「……」
彼方の声にはコスモス嬢への強い思いが籠もっていた。
だから、せめて彼女にだけはと、伝えておこうと思ったが……。
わたしの拙い心遣いは余計な節介だったらしい。
悲しそうな彼女の顔に、わたしの心は痛んでいた。
「ごめんなさい。貴女にだけは……知っておいてほしくて」
「……」
「彼の死期がやってきた時、わたしは下界に降り立ちます」
踵を返し、わたしは一人で静かにその場を後にする。
「待ってください!」――大きな声が、大食卓へと広がった。
「女神様、彼の死期まで……まだ! 時間、ありますよね!」
「え……」
「わたし、お礼が言いたい! できれば……死刑のその前に!」
わたしのことを追いかけてきて、彼女は息を切らしていた。
大食卓のわたしの家族が、一挙にこちらに注目する。
「ユカリ、いる? まだいる? ねえ!」
「んあー」
「よかった! まだ起きてた!」
ユカリは椅子から転げ落ちて、その場で横になっていた。
ヘリアンサスやガーベラもいる。
……全員、泥酔しきっていた。
「ユカリ、聞いて! 頼みがあるの!」
「えー?」
「曲をね、教えてほしい!」
両目をぱちくり、正気に戻ってユカリが周囲を確認する。
「どういうことだ?」と訊きたいらしい。わたしは小首を折っていた。
聞けば、ユカリの故郷の歌から楽譜を制作したいらしい。コスモス嬢は酒会の席での彼の唱歌に聞き惚れて、鍵盤楽器で弾いてみたいと常々思っていたそうだ。
とある曲のとある歌詞が彼女の胸中そのもので、思い人へと聴かせてみたいと、密かに夢見ていたらしい。
「いやー、それは難しいぞ。現実的じゃないだろ……」
「……」
「以前、俺の故郷の歌をどっかの馬鹿に教えたけど……楽器で弾くのは無理があるぞ。俺、採譜はできないし」
「それはわたしが請け負うわ。曲を聴いたら書き起こせる。貴方が何度も、何度も何度も歌ってくれればだけど……」
「ええ……」
「お願い! 無理は承知のつもり。何でも言うこと聞くから」「……うん?」――ユカリが下卑た目顔を浮かべ、コスモス嬢がびくりとする。
頬を紅潮させた彼女は自分の身体を抱き締めて、今にも泣き出しそうな様子で俯き、震えてしまっていた。
「おい、ユカリ! ふざけんなよ!」
「ユカリさんってば、最低!」
「ひーっ!」
男性陣はユカリに対して非難轟々、野次を投げ、女性陣はジト目を向けつつ、彼を蔑みまくっていた。
「そんなつもりはなかった!」などと前置き、ユカリが土下座する。
ヘリアンサスが酩酊していてよかった……。
ユカリが謝罪する。
「ごめんごめんごめんごめん! 違う違う違う違う! 許せ許せ許せ許せ! 何でもするから泣かないで!」
「それじゃあ、協力してくれる……?」
「するする! するから泣かないで!」
「ありがとう!」――涙を拭って、コスモス嬢の花が咲く。
ユカリは呼吸も絶え絶えだった。
わたしは、くすりと窃笑した。
「だけど、楽器はどうすんだ……? 鍵盤楽器が要るんだろ」
「それはわたしが何とかします。ブラギに相談してみましょう」
ブラギはわたしの同胞であり、詩と音楽の神である。
人間界の楽器であるなら恐らく何とかできるだろう。
あとはユカリとコスモス嬢の採譜が可能かどうかである。
時間も長くは残っていない。
視線がユカリに集まった。
「よーし。それじゃあ、条件付きだ。早速、楽譜を作るとしよう」
「え、なになに……? 条件は……?」
「そいつは最後に発表する」
「ぐへへ」と微笑むユカリは懲りずに何かを謀っているようだ。
……まあ、信用しておくとして。
わたしはブラギのところに行こう。
「つーか、俺、みんなの前で歌ったりとかしてたっけ……」
「べろんべろんに酔ってたものね。多分、憶えてないんじゃない?」
「……なるほど。ちなみに、どういう曲だ? 歌い出しだけ聴かせてくれ」
「あー、うーんと、ええっとね……」
「……」
「確か、最初はね……」
思い人へと捧げる歌を、コスモス嬢が口遊む。
月夜に寄り添う乙女の旋律――。
長い夜になりそうだ。