第83話
喪失
『あんた、放っておけないのよ。危なっかしいし、見てられない』
『……』
『だから、あたしがあんたの、ええっと……隣りにいてあげるわ』
男勝りな幼馴染みは腕組み、顔を背けていた。
彼女のいつもの照れ隠しだと、僕は内心、笑っていた。
八つの時に告白されて、それから、かれこれ十年経つ。
普通は子供の児戯であろうと一笑に付す話だが、大人になっても僕たち二人のその関係は続いていた。
「幼い時分の言葉なんて」と周りの人には言われるが、僕も彼女も当時の記憶を残して、日々を送っていた。
進学先も子供の頃から同じ進路を辿っていて、齢八つの展望通り、僕らは婚約したのである。
豊かな家庭を築いていこうと胸に誓った、その矢先、僕と彼女は二人揃って、とある事件に巻き込まれた。
家を買って新居の街へと引っ越ししていた、その道中、馬車が野盗に取り囲まれて、襲撃されてしまったのだ。
馭者が大事な馬を譲って僕らを逃がしてくれたのだが、未体験の乗馬とあって、その扱いに難航した。
命辛々、やっとの思いで何とか追っ手を振りきったが、暴れる馬に投げ出され……。
僕と彼女は落馬した。
「……」
僕に大事はなかった。怪我も小さなものだったが、彼女は頭を打ってしまい、気を失ってしまっていた。
それから彼女は数日経っても意識不明のままであり、入院している彼女のもとへと、僕は何度もお見舞いした。
そして、遂に――。
彼女は目覚め、僕は病室へと駆けつけた。
しかし彼女は脳障害で僕のことさえ忘れており、十八年の日々の記憶も、その大半を失くしていた。
「僕の名前、分からない……? 僕はキャンドル! 君の――」
「……」
「ほんとに、何にも憶えてないの……?」
「……はい。記憶にありません」
「ごめんなさい」と俯く彼女は、肩を落としてしまっていた。
丁寧語など初めて聞いた。こんな彼女は初めて見た。
医者は記憶が戻るかどうかは本人次第と言っていた。
僕を含む周囲の人にはできることなどないらしい。
僕はそれでも一縷の望みに託し、彼女に会い続けた。何かの冗談なのではないかと淡い期待を抱いたが、僕だけでなく、故郷のことさえ彼女は忘れてしまっていた。
気丈な性格だった彼女がすっかり内気になっていて、言葉数も少なくなって……人が変わったようだった。
やがて彼女は外傷なしとのことで、そのまま退院した。
新居に彼女の家族を招いて面談したりもしたのだが、やはり彼女が失くしてしまった記憶は戻りはしなかった。
「わたし、お仕事探してみます。わたしにできることを」
「え……?」
「キャンドルさんに、迷惑、心配……かけてばかりはいられません」
さながら他人の行儀のように、彼女は自ら希望した。
婚約していた仲とはいっても彼女は記憶を失くしたのだ。僕のもとから離れていたいと思われたとて、仕方がない。
それから彼女は仕事を見つけ、次第に独立していった。
彼女にとっては新たな街での、新たな暮らしの始まりだ。友人、知人も増えてきている。彼女は楽しそうだった。
僕と顔を合わす機会は少しずつだが減っていき、それで彼女が幸せならばと、僕もそれに応じていた。
時折り笑顔を浮かべるくらいに彼女の精神も回復し、遠い場所から彼女の姿を見かけることが……増えていた。
「それで、どうして貴女がここに……?」
「……」
「何かの間違いかな……」
小さな小さな戦女神が、僕の進路に立っていた。
仕事終わりの月夜の帰路だ。
辺りに庶民の姿はない。
「ああ、そうか。彼女のことか。それなら納得するよ」
「……」
「さては僕が自殺すると思って、ここまで来たんだね?」
傍から見たなら僕の立場は悲劇の主人公である。
何とも思っていないと言えば、きっとそれは嘘になる。
だが、もはや不運であったと断念するしかなかったのだ。
彼女の記憶が戻らぬ以上は僕に打つ手は一つもなく、彼女自身、未来に向かって……。
一人で、歩いているのだから。
「彼女は嘗ての自分の立場を取り戻そうとするのでなく、今の自分の今の時間を大事にしながら生きている。それが彼女の生き方だったら僕には口出しできないし、彼女が求めるそんな暮らしに邪魔立てなんてできない」
「……」
「だけど、僕はだからといって死のうだなんて思わない。正直、少しほっとしていて、蟠ってはいないんだよ。彼女は僕には勿体ないほどいい子で、素敵な人だったし、彼女の未来を憂えるのなら、いっそ、僕らはこのまま……」
「……」
確かに、彼女は僕にとっては全てであったといってもいい。
あんな良女が取り柄も持たないこんな僕を選んだのだ。そりゃあ、彼女の悲報を受けて、僕は……心底絶望した。
しかし、僕らは婚約止まりで、結婚自体はしていない。
僕が彼女のその人生を縛ることなどできないのだ。
「貴女は死人の前にのみしか現れないと聞いたけど、女神様も人間みたいな思い違いをするんだね」
「……」
「僕は健康体だし、自殺願望なんかもない。僕は死んだりなんかしない。誤解をさせて悪かったね」
きっと彼女の将来的には、僕など邪魔者なのだろう。
新居は彼女に明け渡し、僕は街を去ろうと思う。
女神様が口を開き、何かを言おうと――した瞬間、僕の背後で足音が。
反射で、後ろを振り返る。
「こんばんは。キャンドルさん」
「君は……」
「あの子の僚友です」
そこには一人の若い男が暗がりの中、立っていた。
何度か彼女と一緒にいるのを見たことがある顔である。
「あの子」というのは彼女のことだと思って間違いないだろう。
女神様は音も立てず、姿を消してしまっていた。
「……こんな夜更けに、僕に何か? 通りすがりじゃないんだろう?」
「待ち伏せさせてもらいました。貴方と話がしたくて」
「……」
何となくだが、彼の話は大方予想がついていた。
僕と彼には接点がないのだ。
あるなら、彼女の話だろう。
「……確認だけど、僕のことは?」
「婚約者でしょう。知っています。あの子が記憶を失くしているのも、僭越ですけど、知っています」
「そうか。だったら話が早い。僕の返事は好きにしろだ」
「……」
「君たち二人に対して物言う権利は、僕にはない」
雲の隙間の月の光が僕たち二人を照らし出す。
彼はとても冷たい瞳で、僕のことを見つめていた。
「街で何度か君と彼女の姿を見かけたことがある。君の彼女に向ける視線は、男の、獣のそれだった」
「……」
「君は彼女に対して好意を抱いているんだろう? それで恋敵のところに来た。相違があるなら、どうぞ」
「……」
彼はその場で棒立ちしたまま、黙りこくってしまっていた。
僕は身体を前に向けた。片目一つで彼を見る。
「大体、話がしたいだけなら、日の出を待ってもいいのでは」――月が再び顔を伏せた。
彼の目面が見て取れない。
「いいえ。こういう夜間じゃないと、都合が悪かったんですよ」
瞬間、僕の首の周りに、ぐるりと何かが巻きついた。
紐……? 縄……? 感触だけでは、その正体は分からない。
「ぐっ!」
僕は彼の手により、首を絞め上げられていた。
一体、どうしてこんなことを――。
凄い力だ。抗えない。
「キャンドルさん、ご自分の身に起こっていること、分かります?」
「……っ!」
「教えてあげますよ。あの子のことも、一緒に」
「……っ!」
路地の裏へと引き摺り込まれ、彼は僕へと耳打ちする。
声を張り上げようとしたが、今はそれさえ叶わない。
「わたしがあの子に好意を抱いているのは、仰る通りです。しかしわたしは貴方の許しを得たいわけではありません」
「――」
「どうやら貴方は現状、気付いていないようですけど、あの子は失くした記憶の欠片を取り戻しつつあるんです」
思いがけない言葉を聞いて、どういうことだと、はっとする。
しかし、視界が真っ白になり……僕の意識は薄れていた。
「ここのところ、時々ですけど、あの子の様子が変なんです。言葉遣いが違っていたり、一人称が変わったり。恐らくあの子は自覚がなくとも以前の状態に戻っていて、心の底では元の自分を取り返そうとしている……」
「――」
「キャンドルさんとの関係性を明言したのもあの子です。大事な婚約相手であると真摯に話していましたよ。貴方がこのまま生きていれば、貴方と逢瀬を繰り返せば、いずれあの子は昔の記憶を思い起こしてしまうでしょう」
「それじゃあ、わたしが困るんです」と、彼はゆっくり後付けした。
首を絞める力が増し、僕は爪先立ちになる。
「わたしはあの子を愛しています。だから貴方が邪魔なんです。貴方が存在している限り、わたしとあの子は結ばれない……」
「――」
「これが話の顛末。貴方を殺した動機です。貴方の告別式の後に、わたしはあの子に告白します」
僕の両手が力を失い、そのままぶらりと垂れ下がる。
彼女のことを……信じていれば……。
僕は、自分を恥じていた。
ストロベリーキャンドル