第10話
厭世
十一、いや、十二だったか。初めて物語を書いたのは。
わたしは帝都の貴族の出で、生まれた時から何不自由ない優雅な日々を送っていた。唯一、不満を感じていたのは自分の将来についてであり、父の責務を受け継ぐことに大きな反感を抱いていた。
現実逃避の一環として空想小説を創作し、父母に批評を求めたことでわたしの人生は一変した。
わたしが書いた浪漫譚は周囲に大きく評価され、遂には一冊の本となって大陸に波及したのである。
お陰でわたしは貴族でありつつ芸術の道を与えられた。今、わたしが書いているのは同作品の続編で、第一巻を書き終えたのは十二の穂肥の時期だった。以後三十年、わたしは自作の小説の執筆を続けていて、同題名の本の巻数は実に七十を超えていた。
そして次の七十七巻が最終章となるのだが、そんな折にわたしの書室に、戦女神は現れた。
「いやー、本当に申し訳ない。暫らく待っていてくれたまえ」
戦女神のお嬢さんを来客椅子に案内し、我が国自慢の紅茶を淹れて彼女に差し出し、持てなしする。
わたしは現状生きているが、戦女神の叩扉は差し詰め魂の選定を意味している。とはいえ、わたしは広げた手巾を畳み終えねばならないので、彼女に融通を利かせてもらって暫しの滞在を望んだのだ。
元々、侍女には立ち入らないよう指示を出しておいたので、そういう意味では好都合だ。この状況を目撃されては流石に収拾がつかないだろう。
「自分でお茶を用意するなど久方振りのことだったよ。とはいえ、味は確かなはずだ。ゆっくりしていてほしい」
「……」
「わたしはこれに本の少しだけ酒を差すのが好きでねえ。どうだい。君もやってみるかい」
「!」
「わはは。素直な子だ」
幼い容姿の戦女神に流石のわたしも絶句したが、特に仰天することもなくわたしは彼女と接している。
神々が酒を好むというのはどうやら本当のことのようだ。
持ち酒ならば自信がある。書室の大棚に並べられた数多の酒瓶を指差した。
「好きなものを選ぶといい。もちろん遠慮は不要だ」
「……」
しかしわたしの指差す先に視線を送ることはなく、お嬢さんは書斎机の上の小瓶を見つめていた。
「ああ、あそこのあれは駄目だ。あれはわたしが脱稿記念に用意していた良酒でね。自分自身への褒美であり、自作の小説の筆を擱くまで隠しておいたものなんだ」
お嬢さんは悲しそうに俯き、こくりと頷くと、大棚の前まで歩いていって酒瓶を厳選し始めた。
おっと、今は火急の時だ。わたしもこうしてはいられない。
女性をお待たせしたとあっては紳士貴族の名折れである。わたしは書斎机に向かい、原稿の執筆を再開した。
「しかし人の死期を知るとは、不思議な力もあったものだ。仕組みや仕掛けがあるのならば、是非ともご教示願いたいが」
さらさらさらと作文しながらお嬢さんに声をかける。お待たせするのも不本意だが、女性を退屈させることも紳士貴族としては禁忌なのだ。
お嬢さんは来客机に全ての酒瓶を並べていた。見やれば大棚は無一物で、わたしは彼女に悟られないよう一人でくすりと窃笑した。
「ともかく、君には死にゆく者の命運が見えているのだろう。全く過酷な役回りだ。心から同情するよ」
「……」
「どうした? わたしの顔のどこかに塵芥でもついているかね?」
「……いえ。戦女神にたじろがないのですね。戦女神に慄かないのですか」
「たじろぐことなどありはしないさ。況してや慄くことなどない。現実世界の不可思議加減は創作物を凌駕する。こんなことで狼狽しては物書きなんて名乗れないよ」
愉快な気持ちになったわたしの筆は乗って、加速する。
正真正銘の神を前にいくらか高揚しているのか、わたしの心はふわふわとした浮遊感を覚えていた。
「わたしは貴族の家系でね。思えば今までこれといった苦労をしたことはなかったよ。しかし豊かで実りの多い生活を満喫する反面、どこか空虚で取り留めのない毎日に嫌気が差していた」
「……」
「そんな日々の中で始めていたのが執筆でね。わたしの自前の厭世主義の根幹そのものだった」
「……」
三十年の文筆歴でわたしが唯一学んだのは、こんなものは芸術などとは程遠いということである。縦の繋がりばかりを気にした書物でこの世は溢れていて、どんな本を読んでもそこには人の醜さが満ちていた。徹底された我欲主義と事大主義と拝金主義。政治や戦争、文化や宗教の風刺作品が量産され、斯く言うわたしもいつの日からか時代の靴を舐めていた。
仮に生まれが貴族でなければ本など出せてはいなかったよ。人が大成するかなんて所詮は単なる運なのさ。先天的な運の多寡と後天的な運の多寡。これが両方良質ならば幸福たり得る。
それだけで――。
「物書きなんて下賤で無様で、低能な人間の集まりだよ。わたしもそんな中の一人。文才なんてなかったのさ」
終わった。最後に筆者の署名を残して、筆を擱く。
わたしは静かに席を立ち、机上の小瓶に手を伸ばす。自分の分の紅茶を淹れて、自嘲し……。
小さく息をついた。
「仕事終わりの一杯だけは、変わらないまま好きだったな。三十年の茶番を終えた。君も祝ってくれたまえよ」
お嬢さんと向き合うように、来客椅子に腰かける。
机上の酒瓶は全て空だ。しかし彼女は火照りもせず、小瓶の中身を紅茶に差したわたしを、ただただ見つめていた。
心身ともに病みやすいのが文筆家たちの性分でね。
今まで随分と無理をしたから、まあ、妥当な結末だろう。
「実につまらぬ人生だったが、これにて大団円だ」
「……」
「待たせてしまって悪かったね。もはや推敲は必要ない」
わたしは紅茶を口に含んで、吐血し、そのまま沈黙した。
次は、できれば、人間以外に生まれてくることを切願する。
アコニタム




