第1話
幻想
東の地にて栄華を誇る不朽の都、聖王国。王の城と城下を隔てる城門前の関所にて、わたしは老いた一兵士として門番の命を果たしている。
永遠偉大の王の居城は今日も変わらず煌びやかだ。背後に聳える不変の英姿を見返し、安堵の息をつく。その光景も陽が出ていれば殊更見事に映えるのだが、生憎空は灰色雲に覆われ、酷く淀んでいた。
「……?」
見やれば、見慣れぬ少女が城門前に立っていた。
年端もいかない小さな身体に、腰まで届く長い髪。今まで気付きもしなかったが、どこか神々しさすら感じる凛然とした子女だった。
「これは可憐なお嬢さんだ。ご用向きは何かな」
「……」
「確かに我らが王は決して民の差別をしないお方。幼い訪問客であろうと謁見を断ることはない。しかし、今は北の帝国と冷戦状態が続いている。今にも戦が始まるやもと王らは気が気でないのだ」
「……」
「故に、番を預かる身として今はこの門を通せない。今日のところは家に帰り、開門する日を待つといい」
少女は一向にこちらを見ずに、ただただ城を見上げていた。
不思議な子だ。城を見つめるその目に陰りは感じないが、悲しそうな、苦しそうな、そんな表情を浮かべている。恐らく城下の町娘だと高を括っていたのだが、わたしは少女に得も言われない奇妙な印象を抱いていた。
「大きなお城。きっと嘗ては荘厳だったのでしょうね」
「む……?」
「東の聖都の英雄、リナリア。わたしは貴国の王ではなく、貴方に会いに来ました」
「……」
確かに我が名はリナリアだが、見知らぬ少女に名を呼ばれるなど身に憶えのないことだった。
わたしは外套を隠れ蓑に、腰の剣に手を添えた。少女に向かって微笑みかける。
抜き打つ準備はできていた。
「わはは。よもや英雄とは、いつの日以来の呼び名だろう。ご覧の通り、今のわたしはただのしがない老兵だよ」
「いいえ。貴方のその功績は今でも語り継がれています。遥か遠い日の大戦争、貴方の武勲がなかったならば聖都は興らなかったでしょう」
ここで初めて、わたしに対して少女の視線が向けられた。
吸い込まれそうな澄んだ瞳。剣の柄を握った意味など、もはや意識の外だった。
「君は、一体……」
「戦女神。わたしは魂の選定者。わたしは貴方を迎えに来ました。どうか受け入れてください」
「何……?」
再び城を見上げる少女。倣って背後を振り返る。
そこには、無惨に錆びれて朽ちた……城址の悲景が聳えていた。
「……なっ!」
「……」
「何だこれは! 一体、どういうことだ!」
「……」
空が割れて、歪んでいる。聖王国の象徴である王城が崩れ落ちていく。
城だけでなく、見渡す限りの城下町も荒れ果てて、廃墟と化したその街並みは以前の姿を失くしていた。
「聖王国は北の帝国と冷戦関係にありました。ある日、突如聖王国は彼の国による奇襲を受け、もはや人など生きてはいない亡失の国となりました」
「この廃城が、城下町が、今の聖都の姿だと……?」
「貴国は戦争に敗けたのです。王も国の民と共に、同じ運命を辿りました」
「馬鹿な。ならば、わたしは一体……わたしは何だというのだ!」
「……」
半狂乱の最中、わたしは城門横の壁を背にする一人の兵士を発見した。慌てて駆け寄り、声をかける。しかし朽ちたその亡き骸から返事などあろうはずもない。
聖王国の紋章の鎧。剣に刻まれた付与勲章。
わたしだった。わたしは息絶え、城壁に蹲っていた。
「これが、わたしの本当の姿……」
「そう。貴方は死してなおも祖国を守っていたのです」
「……なるほど。現実を受け入れられず、わたしは幻を見ていたのか」
剣を伏せて、小さな小さな訪問客に跪く。
戦女神ヴァルキューレ。死者の魂の選定者。まさか我が死に寄り添われるとは思いも寄らないことだったが、もはや目先の気高き姿に疑いの余地はないだろう。
「わたしは貴女を、北の間者か、魔物の類であると……」
「いいえ。目覚めてくれて本当によかった。この手を取ってもらえますか」
戦女神の手を取ること。それは再び戦場に臨み、戦うことを意味している。
差し伸べられたその手に応えて、わたしはそのまま平伏した。
優しく静かな、そんな雨が、聖都の空から降り始めた。
リナリア