表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

婚約者と一緒に、彼の初恋の人を探しています

作者: 細波

「初恋の人がいる。今もその人を探している」


 ありふれた政略結婚。今日から私の婚約者となるその美しい人は、その彫像のように整った顔を少しも動かさず、そう告げた。


「だから俺に構うな。生活は保証する。常識の範囲内なら何をやってもいい。他の男を想ったっていい。だから……構うな」


 日の光を浴びて美しく輝く黄金の髪。小さな庭園を駆け抜ける風がその髪を撫でるたび、ふわりと黄金の光を辺りに振り撒く。極め付きはその瞳だ。見る角度によって、深い緑にも明るい緑にも見える。一度その目に捉えられたら二度と動くことができないなんていう、馬鹿げた噂が広がるのも頷ける美しさだった。


「わかりました」


 何よりも彼を見つめたくて、早く会話を終わらせようとあっさりと答える。見れば見るほど綺麗な佇まい。彼と目が合った令嬢が、その瞬間に気絶したというのも、あながち嘘ではないのかもしれない。

 それに、何より。


「……は?」

「…………オリナイト!」


 困惑したような彼の声と、私の抑えきれない興奮が混ざった声が、見事に重なった。



 ◇



「それで、そのオリ……というのは?」


 私の発した言葉がうまく聞き取れなかったらしく、語尾を誤魔化すようにして彼が問いかける。

 とりあえず座りましょう、と移動した庭園の片隅の東屋。私のお気に入りであるこの場所からは、庭師が丹精込めて育て上げた季節の花々がよく見える。

 だが、そんな花も目に入らないほど、私は興奮していた。


「オリナイトです、オリナイト! ご存知ないですか!?」

「……知らん」

「宝石です! 世界で一番美しいとも称される、ウェルナイト鉱山でしか得られない貴重な石です! 色は透明、ですが光の当たり方によっては赤にも青にも黄色にも、さらには緑にも見えるという不思議な石で、私もつい最近お父様がどうにか仕入れられたものを初めて見たのですが、本当に息を呑むほどに美しくて、時間を忘れて、本当に、本当に……あぁ……。でも、この石、あまりにも美しすぎて身につける人を霞ませてしまうと言いますか、どんな美形でもこの石の前には普通の人に見えてしまうので、誰にも身につけられないものなのです! 硬度は……」

「わかった、わかったから落ち着いてくれ」


 困惑、としか言いようのない表情を浮かべる彼を見て、私は我に帰る。私の悪い癖だ。熱中するとすぐに周りが見えなくなる。すみません、と小さく謝って俯き、精一杯の美しい所作で紅茶を口に運んだ。

 またやらかした。しかも初対面の婚約者の前だ。帰ったらなんと言われるか。

 恐る恐る顔を上げて上目遣いに彼を見つめれば、呆れたような顔をしているが怒っている様子はない。


「それで? その宝石と俺にどんな関係が?」

「その……ベリル様は本当に美しい方ですので」


 そう言った瞬間、彼の眉が不快げに顰められた。どきりと心臓が跳ねるが、今更後には引けない。


「きっと、いえ間違いなく、オリナイトを身につけられても霞むどころかオリナイトのさらなる美しさを引き出してくださるんだろうと思ったら興奮してしまって……申し訳ありませんでした」


 なんともいえない沈黙が広がった。

 彼は何も言わない。顔を上げるのが怖かった。昔からそうなのだ、私は。好きなものを前にすると何も見えなくなってしまう。


 私が宝石に出会ったのは、お父様の仕事がきっかけだった。

 一応爵位を持ちながらも、領地にある大きな鉱山の経営に全勢力を傾けるフィライト家。そこが私の生まれた家だ。

 もともとフィライト家は貴族ではなかった。各地の宝石の買い付けから加工、アクセサリーのデザイン、販売までを全て商会内で行う巨大宝石商。それがかつてのフィライト家の姿だ。

 「フィライトの宝石」は社交界でも一種のステータスであり、言葉を選ばない言い方をすれば、国内でも1、2を争う豪商だった。

 そんなある年、大きな飢饉が起こった。国家の財政難を前にして援助を申し出た我が家は、爵位を賜ることになった。まあ、どこにでもあるような話だ。成金だ、金で爵位を買っただ、裏でよく言われていないことは知っている。だからこその、この婚約なのだ。ベリル様の家からの申し込みだった。

 彼の家は、名門ではあるが、昨今は財政難に苦しんでいるという噂だ。社交界での影響力を拡大して、「フィライトの宝石」をさらに広げていきたい我が家と、名門ではあるものの金銭を必要としているベリル様の家。利害の一致、これまたよくある話である。

 だが、私は。婚約など、したくなかったのだ。


「……あなたは」


 ベリル様の低い声に、私は弾かれたように顔を上げた。だが今のは明らかに貴族らしくない動きだった。誤魔化すように、ゆったりと指先を揃える。


「はい」

「俺に、全くと言っていいほど興味がないんだな」

「……い、いえ。そんなことは」

「誤魔化さなくてもいい。あなたの興味の対象は、俺に身につけられたオリナイトであって、俺自身じゃない。違うか?」


 まさか、そうです、と言うわけにもいかない。答えられず、私は口籠る。


「だったら都合がいい」


 ふっと、彼の雰囲気が変わった。今までの、こちらを見極めようとするかのような目はあっさりと逸らされ、心底興味のないものを見るかのような光が灯る。

 彼も、私と同じでこの婚約に乗り気でないことが一目で見て取れた。


「……確か、初恋の方がいらっしゃるのでしたよね?」


 正直、あの時はオリナイトで頭が埋め尽くされていて、記憶が曖昧だ。確認するように問い掛ければ、彼は軽く頷いた。


「どんな方なのか、お伺いしても良いでしょうか」

「なぜ」

「ベリル様のような方に愛される女性は、どんな方なのかと気になってしまって。申し訳ありません、不躾な質問でした。忘れてください」

「……そうではなく。なぜ俺に微塵も興味がないあなたが、俺のことを気にする? 俺が好きな女のことなど、どうでもいいのでは?」

「……デザインの、参考になるかもしれないと思いまして」


 一瞬迷ったものの、正直に言えば、彼は軽く首を傾げた。続きを促すように見つめられ、私は渋々口を開く。


「セラフィーラ、というアクセサリーブランドをご存知でしょうか」


 彼はふっと目線を空にやって、考え込むように顎に指先を添えた。そんな姿も、驚くほど絵になっている。


「聞いたことがある。若い女性に人気だとか。繊細で凝ったデザインの割に安価で手に入るとも言っていたな。その程度だ」

「いえ、十分です。ありがとうございます。実は、そのブランドのデザインをしているのが私でして」

「……は?」


 彼が驚くのも当然の話だ。私は一応これでも貴族令嬢。家のために結婚し、子供を設けるのが普通なのだから。


「最初はただの偶然でした。お父様が下さったトーライト……いえ、安価で手に入る宝石です。厳密には宝石ではありませんが、まあ、それを使ったアクセサリーを遊びがてら考えたことがありまして。当時の私はとてもそのデザインが気に入ってしまって、お父様にお願いしてうちの職人にアクセサリーに仕立て上げてもらいました。それを偶然ある夫人がご覧になって、私も欲しいと一つ注文してくださったのです。それ以来すっかりアクセサリーのデザインに夢中になってしまって、気がつけば私がデザイナーを務めるブランドまで立ち上げていました」


 苦笑して、ベリル様を見つめる。

 令嬢が何を、と笑うだろうか。


「もちろん経営や材料の調達はお父様にかなりの部分を手伝っていただいているので、自立したブランドとは言い難いですが……いつか、自分自身で店を立ち上げるのが、私の夢です」


 だから。だから婚約などしたくなかったのだ。

 婚約すれば、自分のブランドなど言っていられなくなる。逃げ続けていた社交からも逃れられなくなり、令嬢が何を……という醜聞も私1人の問題ではなくなる。


 婚約破棄できれば……。


 そんな言葉が心に浮かんだ瞬間、閃いた。


 私は顔を上げて、ベリル様を見つめる。そして、ふわりと微笑んでみせた。できるだけ、無邪気に。夢追う女の顔をして。


「セラフィーラは若い女性に人気のブランドですから、男性が女性に贈るために買われることも多いのです。だから、恋人に人気のデザインも知っておきたくて……どうか、初恋の方のお話を聞かせてもらえませんか?」


 そう言えば、彼は困ったような顔をした。確かに、婚約者に向かって他の女の話をするのは正常な神経を持つ人間なら躊躇うだろう。


「私に、初恋の人がいるとおっしゃいましたよね? 一応私、婚約者なのですが。そのことについては何も言わないつもりですが、お相手の方を知りたいというのも当然の心理かと思います」


 言葉に詰まる彼。仕方ない、とばかりに小さく息を吐き、ベリル様は口を開いた。


「よくある話だ。偶然降りた下町で、護衛とはぐれて、偶然出会った。名前も知らないし、どこの娘なのかも知らない。身分も知らない。知らないことばかりだ」

「それでも、忘れられないのですね」

「……ああ」

「どんな方なのですか?」


 そこから。根掘り葉掘り、というのでは足りないくらい、私は彼から情報を引き出した。宝石の仕入れでよくやっているので、慣れたものだ。

 曰く。


 金髪に、青い瞳の少女。髪の毛は柔らかいウェーブを描いている。

 よく笑い、無邪気に微笑む。

 髪に花を刺してやれば林檎のように真っ赤になった。

 好きな食べ物は焼きたてのパン。嫌いなものは大きな虫。


 たくさんの情報を抱えて、私は彼に提案する。



「そのお方、私も一緒に探しましょうか?」

 


 たっぷりと5秒は沈黙してから、ベリル様は口を開いた。


「結構だ」

「なぜです」

「なぜも何も、おかしいだろう。婚約者に初恋の人探しをさせるなど」

「婚約者がいるのに初恋の人を探している方もおかしいと思いますが」

「……」


 綺麗な令嬢の仮面は終わり。ここからは商人の世界だ。

 私は婚約破棄をしたい。だって私がなりたいのは、美しい令嬢でも高貴な伯爵夫人でもない。

 もし彼が初恋の人を見つけたら。彼はその人と添い遂げたいと願うことだろう。親が決めた婚約ならなおさら。

 向こうから提案された婚約は断りきれなかったが、向こうから破棄を言い出してくれれば無事破棄できる。私に残る傷は最低限の形で。

 婚約中に浮気されたならともかく、初恋の人となれば、私に集まるのは同情ばかりだろう。


「私は宝石の仕入れの関係で、各方面に強力なコネクションがあります。お父様にお願いすれば、もっと広がるでしょう。必ずや、ベリル様のお力になれるかと思いますが」

「……俺に都合が良すぎるだろう。そうすることで、あなたに何の利益がある」

「新たな婚約者の喜ぶことをしたいという乙女心ということで、ご理解いただけませんか?」

「あなたが? ありえない」


 小さなため息と、首を振る動作付きである。そこまで言わなくてもいいと思うが、事実なので否定はしない。


「でしたら、私がそのお方を見つけた暁には、我が家の所有するオリナイトを身につけていただくということでどうでしょう」

「それがあなたにとって利益になるのか? 理解できない」

「オリナイトがその輝きを引き出されるその瞬間を見たいと願わない人間がいますか!? 少しでも宝石に関わったことのある人間で!? それこそありえない話です! 身につけてくださいますか!?」


 私の剣幕に、ベリル様は驚いて身を引いた。あと一押しだ。


「そうですね、あとはセラフィーラの宣伝もお願いしますね! 最近開いたばかりの店なので仕方のないことですが、上流階級にはまだ届いていないので!」


 再び、ベリル様が指先を顎に添えた。どうやらこれが、彼の考えるときの癖らしい。


「では、期限を設けさせてもらう」

「と言いますと?」

「誰かもわからない、この国にいるかもわからない、言ってしまえば生きているかもわからない相手を何十年と探し続けるのは不毛すぎる。俺だけならともかくあなたにそんなことはさせられないし、俺が年をとって醜い姿になってしまえば、交換条件はあなたにとって何の利益も生まなくなる。だから、3年だ。3年以内に見つからなかったらこの約束は反故になる。それでどうだ」

「……ベリル様は、律儀な方なのですね」


 あなたにとって利益がない。あなたにそんなことはさせられない。

 まるで私を思いやるかのような言葉に、笑いそうになる。やはり彼は、貴族だ。

 だがそれでは困るのだ。3年後だろうが10年後だろうが、破棄できるものなら破棄したい。


「いえ、それは……」

「3年だ。それ以外は受け付けない。交渉の余地はない」


 有無を言わせぬ口調。これは無理だ。

 3年以内に私が見つければ良い話だ。3年もある。私ならできる。


「わかりました。3年ですね」


 そう言って、私は微笑んだ。



 ◇



「――それで、先日の件ですが」


 午後の暖かな光が差し込む執務室。その気怠げな空気は妙な眠気を誘う。けれども、その主人であるベリル様は、その切れ長の瞳を細めて書類を見つめていた。

 噂に違わず、彼は仕事人間らしい。普段は騎士団に勤めているらしいが、騎士という生き物は高確率で書類仕事が苦手だ。だが、逃れられない事務仕事というのも当然のことながら発生する。どうやらそれが全てベリル様の元へ回ってきているらしく、けれども彼も拒む様子はないらしい。

 彼のような人なら婚約者には困らないはずなのに、長く婚約が決まらなかったのも彼が仕事をしたいからと拒んだからだという。


 そんな彼の前に侍女に渡された紅茶を置いた。

 会って早々に深刻な表情で話し合いをしたあと、ほとんど会う様子もない私たちのことを侍女は心配しているらしい。久しぶりに彼の家を訪れたら、会話の糸口を作ろうとこうして紅茶を渡された。一言で言えば、余計なお世話である。

 とはいえ、異分子である私のことをそこまで気にかけてくれるのも嬉しいところではあるから、こうしてベリル様の執務室へとやってきた。ついでに、ここ数日の調査結果を伝えようと口を開く。


「マリーファ地区の調査は一通り終えました。前にお会いした場所ということでしたので慎重に調べましたが、それらしい方はいませんでした」


 書類から顔を上げずに聞いていたベリル様が、驚いたように勢いよく私の方を見る。


「まさか、この数日でマリーファ地区の人間全てを調べたと?」

「全員ではないですが。最初に年齢や性別で振り分けたあと、残った人については詳しく調査をしました。ですので、もし彼女が歳や性別を偽っていたら見つけられていません。これについては、現在対応中ですが時間がかかるかと思います」

「……どうやってそんなに迅速に? マリーファ地区だぞ?」

「企業秘密、と答えさせていただきます」

「信頼できる情報なのか?」

「……当然、ベリル様もマリーファ地区は調べられているのでしょう? ベリル様がお持ちの情報と一致したという意味では、信頼のおけるものかと思いますが」


 ずっと真顔で私の話を聞いていたベリル様が、突然立ち上がった。その唇は、わずかに持ち上がっている。初めて見るそんな表情は、やはり惚れ惚れするほど美しかった。ぜひ、オリナイトを身につけて欲しい。


「あなた……いや、セーラ嬢は、俺が既にマリーファ地区を調べていると確信を持った上で調査したと? 二度手間だとは思わなかったのか?」

「探す人を変えると思わぬところから見つかることもありますから。それに、私はベリル様がどこまで厳密に調査されたかわかりませんでしたので」

「全員だ」

「え?」

「文字通り、全員。1人残らず」


 そう言うベリル様の目。その光は何とも言えぬ色合いを宿していて、表情が全くと言っていいほど読み取れない。


「だからこれ以上マリーファ地区を調査する必要はない」


 有無を言わせぬ口調は、あの時と同じ。意識して人を威圧するかのような。

 改めて、この美しい人が騎士なのだと再認識させられる。


「……少々、引っかかりますね」


 片眉を上げて続きを促す彼の瞳を、私は真っ直ぐに見つめる。


「この前の3年の期限の話といい、今回の話といい」

「というと?」

「そもそも3年という期限を設ける意味がわかりません。ベリル様にとって、期限を決めるメリットはないはずです」

「セーラ嬢に、不毛なことをさせたくないという優しさだが」

「私には、ベリル様がそういう方だとは思えません」

「失礼だな」

「今更でしょう」


 目を見合わせて、ふっと笑う。けれど、その瞳には、油断ならない光が灯っている。


「今回の件もです。ベリル様はマリーファ地区を調べなくてもいいと仰いましたが……婚約者がいても探してしまうような初恋の方です、今までにありとあらゆる場所を探されたのでしょう? それでも見つかっていないのが現状です。完全な手詰まり。ですが、そこで、また自分とは違う方法で探してくれる人が現れたら、一度探した場所でももう一度探すのが普通かと思いますが」

「……」

「昔、書きかけのアクセサリーのデザイン案を無くしたことがありまして。私は散々探し回りましたが、見つかりませんでした。結局どこから見つかったと思いますか? 庭師の小屋です。どうやら、捨てるものと勘違いしたようで。誰が見つけたと思いますか? ある使用人の息子です。彼には、『デザイン案は室内にあるはずだ。私の動線上のどこかにあるはずだ』という先入観がありませんでした。がむしゃらに探し回って、誰もが思ってもいなかった場所から見つけ出しました。そんなことは、よくある話だと思いますが」

「……」


 ベリル様の隣に立って、その顔を見上げる。微妙な表情の変化も見逃さないように。


「……私には、ベリル様が、私が初恋の方を探すことをやめさせようとしているように思えます」


 彼の表情は全く動かなかった。完全な無。

 けれど、こんなことを言われて何も表情に出ないというのも、違和感のある話で。


 ベリル様が、息を小さく吸って、何事かを言おうと口を開いた。その瞬間。


「失礼します。……あ」


 勢いよく開かれたドアの元に立つのは、騎士団の制服を纏った男だった。いいところで、と心の中で舌打ちをする。

 まだ若い、新人といった風情の彼の頬が、じわじわと赤みを帯びていく。


 そういえば、私とベリル様はほぼ密着状態だった。それで、私がやや顔を上向けて、ベリル様の瞳をじっくりと見つめて。誰がどう見ても、そういう場面である。


「――マーク。何の用だ」

「す、すみません。お取り込み中でしたら、また後で」

「いや、別に取り込んでない。だろ、セーラ?」

「ええ。どうぞ私のことはお気になさらず」


 完全に逃げられた。悔しい気持ちを覆い隠して、私は微笑んで礼をする。その瞬間、新人の彼の頬が一気に茹で上がった。


「すみません。その、お話し中に」

「いえ。私はこれで失礼します」

「あの、俺はマーク・ウィズリーと申します。もしよければ、お名前を教えていただけますか」

「……っはい。私は、セーラ・フィライトと申します」


 少し、驚いた。

 ウィズリーという名前は聞いたことがないから、どこか地方の貴族なのだろう。騎士団勤めということは、次男か三男か。別に名前を聞くことは構わないが、その顔がいただけない。

 どこからどう見ても、恋する男の顔。別に私は、鈍感でもない。むしろ自分に向けられる好意には敏感な方だ。


「ベリル様の――」


 婚約者です、と続けようと思った。けれど、その前に、ベリル様の低い声が響く。


「俺の婚約者だ。美しいだろう?」


 牽制するように彼に目をむけ、そっと私の髪を掬い上げる。少しだけ自慢の長い銀色の髪は、さらさらとベリル様の指の中を通り抜ける。


「……っはい! 素敵な方で驚きました! 素晴らしい方と婚約されましたね、団長! おめでとうございます!」


 流石の彼も牽制だと気が付いたのか、急に背筋を伸ばす。勢いよく放たれた言葉を聞いて、ベリル様は満足げに微笑んだ。

 仕上げとばかりに私の頭を軽く撫で、退出を促す。それに逆らうことなく、私は部屋を出た。

 足音を立てて自室に向かいながら、私は髪の毛を手櫛で整える。軽く頭を振った。


 彼が髪に触れた感触が、いつまでも残っているような気がした。



 ◇



「失礼します。セーラです」


 室内に向かって声をかければ、少しだけ待って扉が開いた。開けてくれたのは、もう顔馴染みとなった彼の補佐官だ。

 もう、仕事中のベリル様の元に紅茶と簡単な菓子を届けるのは私の仕事となってしまった。それだけなら別に構わないのだが、ことあるごとに2人きりにしようとする侍女には少し困っている。

 2人になっても、会話はないのだ。お互いにまだ腹の探り合いをしているというか。あの時問い詰めたこともまだ聞き出せない。断固としてこの前の続きを拒む態度を、ベリル様は隠しはしなかった。


 けれど、今日は少し勝手が違うようだった。

 部屋に入るや、補佐官の彼がそっと唇に指先を当てて、頭を下げた。促されて彼の視線の方を見れば、大量の書類が積み上がった執務机が目に入る。

 そこで、ベリル様が眠っていた。


 疲労の限界だったのだろう。彼は机に腕を乗せてその上に顔を伏せていて、こちらからは顔が見えない。寝落ちたのが一目で分かる状態だった。

 どうしようか、と補佐官の方を振り返った時には、もう彼はいなかった。2人きりにしようという配慮なのだろうけど、寝ている人と2人きりにされても困る。


 恐る恐る、音を立てないようにベリル様に近寄れば、彼は規則正しい寝息を立てて眠っていた。

 すぅ、すぅと聞こえるその音は思ったよりもあどけなく、さらりとこぼれた髪の毛が机の上に広がっている。起こすのも申し訳ないが、このまま黙って見ているのも妙な話だ。

 ふと、部屋の隅の椅子の背もたれにかかっている一枚の毛布が目に入った。明らかに、おあつらえ向きに、あからさまに。どうやら、これを私がかけろということらしい。小さく苦笑した。


 だが、かけたところで別に困るわけでもない。せっかくの気遣いだ。そっと手を伸ばして触れたそれは、見た目よりも薄く、とても肌触りの良いものだった。きっと良いものだろう。


 全く起きる気配のない彼の横に立つ。少しだけ前屈みになって、ベリル様にその毛布をかけた。

 その時、私の胸元からするりとネックレスがこぼれ落ちる。金色の縁に彩られたその大きめの石は、窓から差し込む光を反射してきらりと光った。

 これは試作品だ。良いデザインを思いついたので、比較的安価な石を使って作ってみた。作ってはみたものの、アクセサリーとしては主張が激しいデザインになってしまって、これは使う人を選ぶものだと思っていたものだ。つけ心地を確かめるためにしばらく私が身につけていた。

 良いデザインだ。つけているのを忘れるくらい、見た目の華やかさの割に重量がない。


 ほんの、出来心だった。


 眠っている彼の後ろからそっと手を伸ばし、彼の首の周りに繊細な細工の鎖を回す。残念ながら顔は見えないが、彼の美しい金髪ならこのデザインに負けることもないだろう。

 小さな金具を操作して、彼の首が金に彩られた瞬間だった。


「……セーラ嬢」


 眠っているはずだった彼が、少しだけ首を傾げて私を見つめていた。


「す、すみません!」


 慌てて飛び退けば、ネックレスが首に刺さったらしいベリル様が、うっと声を漏らす。

 そのまま、寝起きの少し気怠げな、けれど鋭さを持った目で睨まれる。


「動くな。まずこれを外せ」

「……すみません」


 先程付けたばかりのネックレスの金具を弄る。せっかくなら、数秒でいいから身につけたところを見たかったが、気づかれてしまっては仕方がない。潔く謝ろうと決めた。


「どうしてこんなことをした?」


 金具に手間取り、なかなか鎖を外せない私に、ベリル様が焦れたように問いかけた。

 言い訳をさせてもらうと、私は今ベリル様の首筋に触れないように細心の注意を払っているのだ。普段は金具一つにこんなに手間取ったりしない。


「それ、試作品なんです。どなたかが身につけている姿を見たくて……その、ベリル様なら間違いなく似合うと思いまして」

「……それなら言ってくれ。寝込みを襲うな。それくらいなら手伝うから」

「本当ですか!?」


 食い気味に叫んでしまって、慌てて私は自分の口を自分で塞ぐ。手の中からするりと抜け落ちた鎖が、ベリル様の首筋を軽く叩いた。


「ああ」


 事もなげに言うベリル様が、今は輝いて見える。


「ではお願いします! 見せてください!」


 そう叫ぶように言えば、少し苦笑したベリル様が立ち上がって、私の方を向いた。

 その柔らかな雰囲気に、少しだけ戸惑う。けれど、そんなものはすぐに吹き飛んだ。


 セラフィーラのアクセサリーは、基本的に女性向けだ。けれど、ベリル様はどちらかといえば中性的な整った顔立ちをしているから、このネックレスもとても似合っている。少し骨張った男性的な首筋に、細く繊細な鎖が下がる様は、お互いの魅力をより引き立てているように見えた。この路線も素敵だが、おそらくベリル様ほどの美形ではないと無理だろう。

 デザインの方向性はこれで良さそうだ。けれど、修正するべきところもある。やはり、身につけてもらわないと分からないこともあるのだ。


「ここ……もう少し細いほうが綺麗。ここのカットは微妙ね……どうすれば」


 突然咳払いが上から降ってきて、私は我に返った。また悪い癖が出ている。

 目の前にあるのは、ネックレスとベリル様の胸元。気がつかないうちに、ものすごく接近していたようだ。


「セーラ……それくらいに」

「すみませんっ!」


 慌てて飛び退けば、ベリル様が微妙な顔をしてこちらを見ていた。そんなに全力で逃げなくても……という呟きが聞こえてくる。

 満足したか、と問いかけられ、私は壊れた人形のように勢いよく首を振る。収穫はたくさんあった。これですぐにでも制作に取り掛かれそうだ。


「ありがとうございました! おかげで、素敵なものが作れそうです。できたら、一番にベリル様にお見せしますね」


 抑えきれず、口角が上がる。随分とだらしないことになっているであろう顔をベリル様に見せないように、私は少しだけ俯いた。


「……っああ。楽しみにしている」


 かけられた言葉は、思いの外優しくて。嬉しくなって、私は小さく腰を折った。すぐにでも制作に取り掛かりたい。


「それでは、私は失礼します。お仕事の邪魔をしてすみません」

「いや」


 部屋を飛び出そうとする私をとどめるように、ベリル様が小さな声で呟いた。そのまま、後ろから声が聞こえる。


「毛布、ありがとう」


 その声は、今までで一番柔らかかった。

 なぜだか、ベリル様の顔が見られないような気がした。



 ◇



「ちょっと! 何よこれ!」


 耳をつんざくような女性の大声。店内にまばらに散らばっていた客が、一斉にその声の主の方を見た。もちろん私もだ。


「セラフィーラのアクセサリーって言ったじゃない!? 確かに私は、ここ、セラフィーラ本店で買ったのよ!? どうしてこんなふざけたおもちゃが出てくるの!?」


 叫ぶ女性の手の中には、小さなアクセサリーがあるようだった。けれど、私の方からはよく見えない。

 時折こうして、買い物客のようなふりをして、セラフィーラに来ることが好きだった。私のデザインしたアクセサリーに見とれる人。頬を染めて買っていく人。そんな人たちを見つめることが何よりの喜びで。

 最近はベリル様と外出することも多く、あまりここに来れてはいなかった。久しぶりのセラフィーラだと、少し心を浮き立たせながらやってきたのだけれど。

 今日は、そうもいかないようだった。


「申し訳ございません、お客様」


 冷静に対応しているように見える店員も、少し声が震えているのが誤魔化せていない。

 嫌な予感がする。

 私はゆっくりと移動して、そのアクセサリーが見える位置に立った。遠くてやや見辛いが、どんなアクセサリーかくらいは分かる。


 ネックレスのようだった。だが、その鎖はちぎれて小さな金の輪が女性の手のひらに広がっている。やや色も落ちているように見えた。

 トップの宝石も、一眼で劣悪な品とわかる代物だ。透明度が低く、やや傷もある。


「私は何もしてないわ! 使おうと取り出して、金具を外した瞬間にこうなったのよ!」


 こんなふざけたものを売らせるようなことは、していない。

 それに。あれは、私がデザインしたものではない。宝石の配置。装飾。かつて私が作ったものによく似ているけれど、絶対的にセンスがない。


 セラフィーラのデザイナーは私だけだ。もともと一部で話題になっているだけの小さな店だから、それで成り立っていたし、人を雇うようなことはしていない。

 どうして。どうして見覚えのないものが。私の大切な店に。


 すっと血の気が引くのがわかった。一度評判が地に落ちれば、二度と人は来なくなる。

 次に湧いてきたのは、怒りだった。誰が、誰が私の店にこんなことを。


「……すみません」


 私が言葉を発した瞬間、何本もの視線が突き刺さった。


「私は、セーラ・フィライトと申します。このセラフィーラを経営するフィライト家の娘です。今日は個人的にこの店に来ていました」


 私がデザイナーだと言っても、おそらくは信じてはもらえない。私は女性で、貴族令嬢だからだ。


「そちらのアクセサリー、先日デザイナーが試作品として作っていたものかと思います。偶然店に出てしまったのでしょう。ご迷惑をおかけし、大変申し訳ございませんでした」

「……」


 店員に目配せをすれば、彼は小さく頷いて、彼女の前に立った。


「そちらはお預かりさせていただきます。代金ももちろんお返しいたしますし、少々お話を伺えればと思いますので、お手数おかけし申し訳ありませんが、一度裏までお願いできますでしょうか」

「……別のと替えなさいよ!」

「え」

「あのアクセサリー! あっちでもいいわ! 私は被害者よ! あなたの店に粗悪品を摑まされたの! 償ってちょうだいよ!」


 彼女が指さしたのは、セラフィーラの中でも1、2を争う一級品だ。正直、彼女が買っていったものとは桁の数が二つくらいは違う。


「……」


 困ったように、店員の彼が私を見た。私もどうしていいか分からず、一瞬躊躇う。


「何よ! どうして黙ってるの! できないっていうの!」


 激昂した彼女が、片手を振り上げた。その手からネックレスが飛び出す。

 ばらばらと、破片が飛び散った。ちぎれて鋭い金属の矢のようになったそれが、見事に私の前に広がって。

 身の危険を感じても、私には衝撃に備えて強く目を瞑ることくらいしかできなかった。


 けれど。備えたはずの衝撃は、いつまで経ってもやってこない。


 恐る恐る目を開ければ、視界に広がったのは、騎士団の制服だった。

 柔らかい金の髪。私より遥かに高いその背丈。


 目の前にいた彼女が、はっと息を呑むのが、彼の背中越しに少しだけ見えた。


「……ベリル様?」


 そっと問い掛ければ、目の前にいた彼――ベリル様が、無言で小さく頷く。そのまま彼が無造作に手を下ろすと、金属の輪が床に当たって弾ける音がした。


「アザレア・ルセフィーヌで間違いないか?」

「……はい」

「少々騎士団の方で聞きたいことがある。御同行願おうか」

「私を誰だと思っているのです!? 口の利き方には注意されたほうが宜しくてよ!」


 ベリル様の美貌に絶句していた彼女も、すぐに我に返ったらしい。

 先程のような挑発的な笑みを浮かべて、ベリル様に叫ぶ。


「ところで、セーラ。これはこちらの店のものであっているか?」


 彼女の言うことを完全に無視したベリル様は、ゆっくりと振り返る。その手に掲げられているのは、まごうことなく、セラフィーラの、私のアクセサリーだった。もっと言ってしまえば、あの時、ベリル様の首にかけたネックレス。

 ……ああ、そういうことか。


「はい。間違いなくセラフィーラのものです」


 そう言えば、ベリル様は満足げに微笑んだ。


「先程不審な人物がいるとの情報を受けてな。出向いて取り押さえたところ、こんなものが出てきた。どこかで見たようなデザインだと思ってな。記憶を探れば、とある知人に見せてもらったセラフィーラのアクセサリーだということを思い出した。だが、セラフィーラに勤めている知り合いに情報提供させたところ、これを売った記録は残っていないという」


 みるみるうちに彼女の顔色が悪くなっていくのが分かった。


「そいつに問い詰めたところ、あなたの名前が出て来たんだが、心当たりはあるか?」


 ふっと、ベリル様が笑った。威圧的な、決して嘘をつけない笑み。

 彼は間違いなく、自分の顔の威力を熟知している。


「なんの話ですか!? 私はそんな()のことなど知りません!」

「俺が捕まえた奴が、男だと誰が言った?」

「っな」

「語るに落ちたな。あなたはその男、そしておそらくセラフィーラの店員を1人買収し、その粗悪品とこの本物を交換させた。そしてあえて自分で買い取り、後から粗悪品だと騒ぎ立てて、より厳重に守られている一級品を手に入れようとした」


 ベリル様の目がすっと細められた。


「うまくいけば、本物のセラフィーラのアクセサリーが二つ手に入る。それにセラフィーラの評判も地に落ちるだろう。そういえば、あなたの家は宝石を取り扱っていたな?」

「わ、わたしはっ!」

「三度目はない。御同行願おうか」


 何も言わず、彼女が俯いた。その肩が震えている。

 泣いているのか。


「ふふっ、あははっ!」


 違う。笑っているのだ、彼女は。


「そうよ! 私がやったのよ!」


 狂気的な光を宿した目が、私を見つめる。


「私はね、その女に全部全部奪われたの! 財産も! ベリル様も!」

「……は?」

「あんたの家のせいで、私の家はもうだめよ! 全部全部奪っておいて、まだ満足しないの!? セラフィーラなんて店立ち上げて、どれだけ奪えば気が済むのよ!」


 逆恨みもいいところだ。私の家に彼女の家の客が奪われたのかもしれないが、その恨みは決して私個人に向けられるようなものではないはずだ。


「しかもベリル様と婚約なんてして! あんたなんて、婚約にこれっぽっちも興味なんてないじゃない! 本当はベリル様と婚約なんてしたくなかったって言ってるの、私は聞いたわ! それだったら私にちょうだいよ! 私の方がベリル様を幸せにしてあげられるんだから!」


 それは違う。ベリル様を幸せにしてあげられるのは、私でも、ましてや彼女でもなくて。

 ただ1人、彼の初恋の人だ。


 つきん、と胸が痛んだ。ような、気がした。


「でもね、そんなこと出来ないのよ! ねえ、セラフィーラはあんたのお気に入りのブランドなんでしょ!? だから、全部、全部壊してあげようと思ったの!」


 あはは、と体を反らして彼女は笑った。


 そして、動いた。


 咄嗟にベリル様が手を伸ばすが、彼女はその脇をすり抜ける。

 追い詰められた人間は、一時的に信じられないような力を発することがある。今の彼女はまさに、それだった。

 店の隅においてあった休憩用の椅子を掴んで、振り上げて。


 真っ直ぐに、アクセサリーの並ぶガラスケースへと振り下ろした。



 ◇



「セーラ」


 じゃり、と割れたガラスを踏む音がして、ベリル様の声がした。

 答えるのも億劫で、私は俯く角度を深める。


「そんなところに座っていては怪我をする」


 ガラス片が飛び散った床。割れた宝石のかけらも散らばっている。窓の外から忍び込む月明かりを反射してきらきらと輝くそれらは、残酷なまでに美しかった。


 あの後。ベリル様が呼び集めたらしく、多くの騎士がやってきて、彼女は連れて行かれた。彼女がどうなったかは知らないが、ベリル様に任せておけば大丈夫だと思う。

 店は一時的に封鎖。客には丁重にお詫びをして帰ってもらった。彼女は然るべき報いを受け。店の評判が下がるようなこともなければ、店のアクセサリーが奪われるようなこともなく。けれど。


 壊れたガラスケースと、――私のアクセサリーだけは、もう、戻らない。


 彼女はガラスケースが割れた後も、鬼気迫る形相で椅子を何度もアクセサリーに叩きつけた。ベリル様がすぐに止めてくださったけれど、もはやそれも手遅れだった。


 最初は慌ただしく人が出入りしていた店内だが、いつしかガラスケースの前に座り込む私1人になっていた。



 拾い上げた緑の石。これは、ひと月ほど前にラジー鉱山から買い取ったもの。蔦を象った金の鎖に彩られたネックレスだったものだ。このデザインを思いついた時は、嬉しくてたまらなくて、ベリル様の前で口角が上がるのを抑えきれず、奇妙なものを見るような目で見られたのを覚えている。

 そのまま深夜に一気にデザイン案を書き上げて、精査して――。


「セーラ」


 静かに名前を呼ばれ、彼がしゃがみ込む気配がした。そのまま顎に手をかけられ、俯いていた顔を上向けられる。

 揺らぐ視界の中で、ベリル様の顔を見つめた。


「……セラフィーラのアクセサリーは、基本的に一点ものなのです」


 どうして話そうと思ったかはわからない。けれど、セーラ、と私の名前を呼ぶ声が、妙に心地よくて、気がつけば言葉が漏れていた。


「デザインを思いついたら、たくさんいる職人の中でも一番この作品を美しく仕上げてくれそうな方に依頼します。パーツごとに、材質ごとに、全て違う人に。結構すごいことなんですよ? 腕の良い職人を一人ひとり、熟知していないとできないことです」

「ああ」

「だから、同じものなんて、なくてっ。もう、このこたちはっ、に、どと、もどらなっ……」


 嗚咽に呑み込まれた語尾は、言葉にならなかった。


「悪かった」

「……えっ」

「俺が守るべきだった。謝ってもどうにもならないのは分かっているが……本当に、すまない」


 彼が、頭を下げている。さらりとこぼれた金髪が顔の周りで揺れて、彼の表情を隠した。


「ベリル様の、せいだとは思っていません。気にしないでください。私だって、何も、出来なかった」

「だが……」

「抱きしめてください」

「え?」

「悪いと思ってるなら、責任とって、抱きしめてください」


 誰かに、甘えたかった。

 泣いて縋って、みっともなく叫びたかった。


 遠慮がちに、躊躇うように、ベリル様の手がそっと私の腰に触れた。

 その温かさに、少し落ち着いてきた涙がまた溢れ出す。


 縋るように、私はベリル様に身を寄せた。温かい胸元に顔を押し当てる。初めて触れる彼の体温。とく、とくと規則正しく打つ鼓動は、少しだけ、早い、気がする。


 誰かに甘えたかった、と言ったけれど。

 多分私は、ベリル様に甘えたかったのだと思う。


「もっと」


 そう囁けば、私の腰に回された手に少し力が入る。強くはなったけれど、明らかに加減しているとわかるその強さ。


 好きだな、と思った。



 ◇



 何が、抱きしめてください、だ。


 穴があったら入りたい。穴がなくても自分で掘って入りたい。

 あの日から数日が経ち、ようやく冷静な頭を取り戻した私は、1人頭を抱えていた。


 セラフィーラの修復作業はすでに始まっている。店は一時休業という形になった。

 相当額が彼女の家から振り込まれたから、修理費や休業中に稼げたはずのお金を引いても、利益としてはプラスとなる。


 けれど、まだ、夢を見る。

 目の前で私のアクセサリーが砕け散る夢。あの時の宝石たちの断末魔は、まだ忘れられはしない。


 そして、あの時のベリル様の体温も、匂いも。忘れられないし、夢に見る。


「あーーー!!!」


 叫んでも、思いっきり頭を振っても、じわりと熱を持った頬を誤魔化せるはずもない。

 ベリル様が好きだ。好きになって、しまったのだ。


 認めたくなんてなくて。ここ数日、気づかないふりをして、みっともなく足掻いて、忘れようとして、それで無理だった。どうしようもなく、好きだった。


「だって! あんなの惚れるに決まってるじゃない! 完璧なタイミングで登場して、あんな風に私を慰めて! あんなの、あんなの……」


 彼には、初恋の人がいるのに。


 初めから叶わないと知っている恋。

 バッドエンドが確定している恋物語。


 そんなものを自ら選ぶなんて、馬鹿げている。馬鹿げているのに、想わずにはいられない。


 彼は呆れただろうか。軽々しく抱きしめてもらいたがる女だと思われただろうか。

 彼は嫌々私を抱きしめたのだろうか。本当は初恋の彼女以外に触れたくなんてなかっただろうか。


 考えれば考えるほど、気持ちは暗い方に沈んでいく。


 金髪に、青い瞳の少女。髪の毛は柔らかいウェーブを描いている。

 よく笑い、無邪気に微笑む。

 髪に花を刺してやれば林檎のように真っ赤になった。

 好きな食べ物は焼きたてのパン。嫌いなものは大きな虫。


 笑えるくらい、私とは正反対の『彼女』。

 暗い気持ちが沸き起こる。だって、苦しい。


 彼女はベリル様にずっと想われているのだ。あの美しい瞳は、長年彼女だけを映しているのだ。ベリル様は、長い間恋焦がれて、婚約者にまで言って、彼女を探し続けている。

 彼の愛を一心に受ける彼女が、どうしようもなく、羨ましくて、妬ましかった。


 少しだけ、あの時の令嬢の気持ちがわかった気がした。

 悔しくて、叫びたくて、手に入らないならいっそ全て壊してしまいたくなる気持ち。あの令嬢の中にあったのも、きっとこんな気持ちだったのだろう。


「セーラ様」


 扉越しに声をかけられて、びくりと体が跳ねた。聞こえたのは、長年私の右腕として働いてくれているサンの声。その、少しだけピリリとした空気をまとった声に、嫌な予感が胸を焦がす。



「重大なご報告があります。――『彼女』について」



 すっと、心が冷えた。


「入って」

 

 短く促せば、彼は慣れた様子で私の部屋に足を踏み入れる。

 彼はいつだって優秀だった。彼が持ってくる情報はいつだって有益なものばかりで、私は彼の訪れをいつだって楽しみにしていた。けれど、今は、今だけは聞きたくなかった。



「『彼女』と思われる女性が、見つかりました」



「もちろん確定ではありませんが、セーラ様から聞いていた条件とは全て合致します。もちろん同じ条件を満たす人物はこの世界に1人とは限りませんが、大きな候補であるのは確かかと」


 そう言って、サンは書類の束を私の机の上に置いた。彼女の資料だろう。


「……ありがとう。報酬はあとでまた出すから、少し下がって」

「わ、かりました」


 サンは少し驚いた様子だったけれど、何も言わずに退出する。1人になった部屋で、私は残された書類に手を伸ばした。

 情けないくらいに手が震えている。深呼吸を一つして、そっとその紙を捲った。


 彼女がいるのは、マリーファ地区の一つ隣の地区の片隅にある、小さな街。どうやらそこで、彼女は小さなパン屋をやっているらしい。

 焼きたてのパンは街のみんなにも好評で、溌剌として明るい性格で誰からも好かれているのだとか。そして、現在、未婚。恋人もなし。


 これを、ベリル様に渡せばいい。


 これを渡せば、私は無事ベリル様と婚約を破棄できて、セラフィーラの運営に全力を注げる。セラフィーラの宣伝もしてもらえる。

 あ、けれど、私と婚約を破棄して彼女と結ばれれば、彼の評判は地に落ちるだろう。他の方法で宣伝してもらわなければ、頑張って探し出した意味がない。

 もちろん、オリナイトも身につけてもらわなくては。美しい彼に魅力を完全に引き出されたオリナイトは、どれだけ美しいことだろう。きっと一生忘れられない輝きになる。


 手に持っていた書類が、滲んで揺れた。


 力の抜けた手からこぼれ落ちた書類が、ばさりと派手な音を立てて部屋に散らばる。


 私に、これは渡せない。だってこれを渡してしまったら、私は二度とベリル様に会えない。


「……ベリル様」


 政略結婚でもなんでもいいから、彼のそばにいたい。少しでも長く、その瞳を見つめていたい。隣にいるのは、私がいい。例え、彼が私を見ていなくても。

 私のわがままで。傲慢さで。身勝手で。あなたの幸せを奪って。


「ごめんなさい……」


 震えた声は、誰にも聞かれなかった。はず、だった。


「セーラ様!」


 突然部屋の外から叫ばれ、再び私の体が跳ね上がる。今日は、予期せぬ客人が多すぎる。


「ベリル様がいらっしゃいました! 今外にいらっしゃいます! お出迎えをお願いします!」

「え……!? どういうこと!? 私は何も聞いていないけど!?」

「騎士団の業務の帰りだそうです! 急な訪問で申し訳ないとおっしゃっていました! 非常識なのはわかっているけれど、セーラ様が心配だったと! 都合が悪ければ出なくても良いともおっしゃっています!」


 私が、心配。

 そんな言葉に、いちいち舞い上がってしまう自分の心が恨めしい。だって私は、彼を裏切っている。


「……はい! 向かいます!」


 涙の跡を丁寧に拭って、侍女を呼んで、少しだけ崩れてしまった化粧を直す。

 慌てて、けれど精一杯優雅に外へ飛び出せば、夕日を背に、ベリル様が立っていた。


 初めて会った時と変わらない立ち姿。けれど、ずっと、輝いて見える。我ながら単純だ。

 彼を見て喜びに心が躍る。けれど、息ができないほどの罪悪感が強く胸を締め付けて、中途半端なところで笑顔が止まる。


「セーラ」


 真っ直ぐに私の元へ歩み寄ってくる彼は、少しだけ眉を寄せていた。その目に宿る心配そうな光に、少しだけ驚く。


「大丈夫か?」


 やめてほしい。初恋の人がいるのに、そんな、純粋に私を心配するかのような顔をするのは。


「はい。ありがとうございます」

「……大丈夫という顔ではない、気がする」

「……」

「どこか苦しそうだ。違うか?」

「……違います」


 彼が好きだから、好きなのに隠し事をしているから、苦しいだなんて、言えるわけがない。

 彼から目を逸らすために、誤魔化すように後ろを振り返る。その瞬間、さっと血の気が引いた。


 私の少し後ろに立っている、1人の侍女。その手の中に握られているのは、あの書類だ。

 きっと、私が取り落としたのを拾い集めてくれて、けれどすぐにこちらに呼び出されて、慌てて走ってきたのだろう。少し息が切れている。冷静に観察できたのは、そこまでだった。


「――あなた!」


 堪え切れず、叫ぶような声が出た。知られてはいけない、彼には、彼にだけは――。

 彼女の方へ手を伸ばせば、彼女は小さく跳ね上がった。その目に浮かぶのは、恐怖だ。そして、力の抜けた彼女の腕から、まるで水が流れるかのように、書類がこぼれ落ちる。


 書類は風で、空を舞う。その姿は、残酷なまでに美しかった。


 そして舞い上がった一枚を、ベリル様の手が捕らえた。

 手に持った書類に目を落として、その目が驚愕に見開かれ――。


 私が見られたのは、そこまでだった。


 後ろを振り向かずに、屋敷を走って、部屋の中に飛び込む。勢いよく鍵をかけてから、扉に寄りかかるようにしてずるずると崩れ落ちた。

 終わった。これで何もかも、終わりだ。


 ばたばたと扉の外で足音がする。勢いよく部屋の戸が叩かれた。きっと侍女だろう。様子のおかしい私を心配して、追ってきたというところか。


「ベリル様に、どうぞお幸せに、と伝えて」


 そうドア越しに囁く。声が震えなかったのが奇跡だった。


「セーラ」


 聞き慣れた、低い声。まさか。


「……ベリル様」


 扉越しに呟けば、はっと息を呑む音が聞こえた。


「泣いて、いるのか?」

「……」


 溢れる涙は、収まってはくれない。先程直してもらったばかりの化粧が、また崩れてしまう。


「なぜ、と聞いても?」

「なぜだと思いますか?」

「先程の、初恋の人、の書類に関係があるのか?」

「そうですね」

「……」


 そのまま、彼は黙ってしまう。いなくなってほしいと、これ以上傷口を抉らないでほしいと思いながらも、心配してほしい、構ってほしいと思う甘ったれた自分もいる。


「ベリル様」

「なんだ」


 呟けば、返事が返ってきた。まだ彼がいることに、どうしようもなく安堵してしまう。


「申し訳、ありませんでした」

「何が」

「…………初恋の彼女の、情報を渡さなくて」

「……そのこと、だが」


 何かを言いかける彼の言葉を、決定的な言葉を告げようとする彼の言葉を遮ろうと、私は言葉を紡ぐ。


「彼女のことを知ったら、きっとベリル様は彼女の元へ行ってしまう。それが、どうしようもなく嫌でした」

「それは」

「ベリル様の隣には、私がいたかった。今更何を、と思われるでしょうが」

「待て話を」

「彼女を探すと言ったのは、私なのに。わがままで、身勝手で、すみません。ベリル様、私は、あなたが、あなたのことが――」

「話を聞けと、言っている!!」


 それは、怒号というのに相応しいものだった。

 その迫力に気圧され、私は思わず言葉を止める。


 何もかもが打算だった。今更だけれど、あなたが好きだと泣いて縋れば、優しい彼はそばにいてくれるのではないか。そんな身勝手で甘ったれた願望だった。

 けれど、決定的なことは、何一つ言えなかった。


「扉を開けろ」


 有無を言わせぬ口調と、威圧感。

 そろそろと、様子を伺うように開けた扉の隙間にベリル様の手が捩じ込まれ、強引に大きく開かされた。勢いで一歩下がった私の手を、ベリル様が強く掴む。

 そのまま、手首ごと壁に縫い付けられた。壁とベリル様の体の間に閉じ込められる。まるで、逃がさない、というように。


「セーラ。悪かった」


 私の肩口に顔を埋めるようにして、彼が苦しげに吐き出した。


「全部、全部嘘だ」

「え……?」

「初恋の人などいない。全部でまかせだ」

「ど、うして」


 初恋の人などいない。

 その言葉が胸に染み込むにつれて、歓喜とも泣き出しそうな感情ともつかない、不思議な感情の奔流が湧き上がる。


「最初は、執着されたくなかった。俺はこんな見た目だから、女性にまあ、好意を向けられることが多かったから。婚約者とやらに構っている時間もないし、そんな時間があったら仕事をしたほうが有意義だと思っていた」


 私の手首を掴む手に、ぐっと力が入った。


「だから、セーラには嫌われようと思った。婚約者に向かって初恋の人を探しているなどと最低な言葉を吐けば、幻滅して俺には構わなくなるだろうし、もし上手くいけば婚約解消までできるかもしれないと思った」

「それ、なら……」

「まさかセーラが一緒に探すなんて言い出すとは思わなかった。セーラが俺に微塵も興味がないとわかった時点で正直に吐けばよかったと、今はひどく後悔している。すまなかった」

「絶対に見つからないと確信して、私に調査をさせていた、と……?」

「ああ。本当に、申し訳ない」


 ようやく、違和感の正体がわかった。


「……私には、ベリル様が、私が初恋の方を探すことをやめさせようとしているように思えます」

「は?」

「前に私が言った言葉です。覚えていますか?」

「っああ」

「ベリル様は、私に不毛な調査をやめさせようとしてくださっていました。私がどれだけ調べようとも、ベリル様には不利益などないのに。それは、優しさだと思いますが」

「美談にするのはやめてくれ。俺はいつ嘘が見抜かれるかと怯えていただけだ。セーラの聡明さなら、いつか気づかれるのではと思っていた」

「気づかれると、まずいことでしょうか? 理由も納得できるものですし、私は驚きこそすれ、怒ることはなかったと思います」

「……それは」


 流暢だったベリル様の声がいきなり詰まった。気まずそうに、小さく息を吐いてから、彼は言葉を押し出す。


「セーラが、俺の初恋の人を探したがっているように、見えたから」

「……」


 図星をつかれ、私は押し黙る。どちらも、何も言わなかった。窓の外を通りすぎた鳥の羽音だけが、妙に大きく響いた。


「ずっと引っかかっていた。セーラにとって一番大切なものがセラフィーラなのは初めて会ったときに分かったが、俺の初恋の人を探し出してもセラフィーラにとって良いことがあるとは思えない」

「それは……宣伝をお願いしました」

「婚約者がいながら他の女に心奪われ、婚約を破棄までした男の宣伝が欲しかったのか?」

「……オリナイトも」

「俺は、アクセサリーの試着くらいなら協力すると言った。俺はオリナイトの見た目を知らないし、その時にそれとなく持ってくれば良かったのでは? だがセーラは、そうしなかった」

「……」

「セーラの狙いが掴めなかった。だから、あえて嘘だと言わなかった」


 私は、静かに唇を噛んだ。

 その通りだ。私の狙いは、最初からオリナイトでも宣伝でもなかった。この婚約を破棄することだった。できるだけ、私に、セラフィーラに害のない形で。

 双方の親が決めた婚約で、どちらの家にも大きな価値のある婚約だ。よほどのことがないと、婚約破棄などできないと思ったから。


「すみません。その通りです。私の、私の狙いは――」

「言うな」

「え?」

「言わないでくれ。分かっているから」


 ベリル様が、掴んでいた私の手を離した。そのままゆっくりと私から離れ、私に背を向けて壁にもたれかかる。


「セーラが、この婚約を望んでいないことなど分かっていた」

「……」

「本当はベリル様と婚約なんてしたくなかった、それがセーラの本音なのは、分かっている」


 あの時の彼女の金切り声。嗚咽と怨嗟の混じった悲痛な叫び。


「少し考えれば分かる話だ。セーラはセラフィーラに力を注ぎたかった。女性が働くのには向かないのが、この貴族社会だ。ましてや、伯爵夫人となれば。……狙いが掴めなかった、と言ったが、それは違うな。掴もうとしなかった。無意識に目を逸らしていただけだ」

「……」

「婚約破棄などしたくなかった。手放したくなかった。セーラ、」


 好きだ。


 振り絞るように、苦しげに放たれた声が、部屋の空気を震わせた。


「俺の隣にいることがセーラの幸せではないと分かっていても、俺はセーラを手放せなかった。自分勝手な愛に夢中になって、愛する女の幸せひとつ願うことができない俺を、笑ってくれ」

「笑うわけ、ないじゃないですか」


 先程から溢れていた涙は、もうこぼれ落ちて止まらない。後ろから、ベリル様の背中にそっと額をつけた。


「私だって、そうなんですから。ベリル様の初恋の人を見つけておきながら、彼女と添い遂げるのが、ベリル様の幸せだと思いながら、私は彼女の情報を隠そうとした」

「……」

「最初はベリル様の言う通りです。私はセラフィーラのために、ベリル様との婚約を破棄したかった。でも、今は」


 はっと、息を呑む気配がした。


「私だって、ベリル様の隣を他の女に渡したくなんて、なっ」


 その先は、ベリル様の胸元に吸い込まれた。

 ひく、と嗚咽を漏らす私の背を、ベリル様がそっと撫でる。その優しい手つきと、伝わってくる体温に、縋るようにしてしがみついた。


 好きです。


 囁いた声はほとんどが彼の胸に吸い込まれてしまったけれど、私を抱くベリル様の腕に少しだけ力がこもった。

 私はそうして、しばらくベリル様の腕の中で身を震わせていた。



 ◇



 どれだけ時間が経ったのか、もうわからない。溢れる涙もようやく落ち着いて、持ち上げ続けて痺れてしまった手をそっと下ろした。ベリル様の腕の力も弱まり、私たちは少しだけ距離をとった。

 顔を見合わせて、少しだけ笑い合う。

 本音を交わし合ったあとの、妙な気恥ずかしさが、そこにはあった。


「ベリル様」

「セーラ」


 私の名前を呼ぶ声に、前にはなかった甘さが含まれているような気がする。とろりと溶けてしまいそうなそれに、今更ながら頬が熱くなる。けれど、私にはひとつだけ確認したいことがあった。


「都合が良すぎると思ったんです」

「……どういうことだ?」

「ルセフィーヌ家の御令嬢が、私がベリル様と婚約破棄をしたがっていると叫んだ。居もしない初恋の人の特徴と合致する人間が、偶然現れた。そのあと、初めてベリル様が私の家を訪れた。そして、侍女が主人の私的な書類を外に持ってきていた。こんなに、重なることがありますか」

「……」

「しかも、これらは全て、数日の間に起こっています。あまりにも、都合が良すぎませんか」


 ベリル様の顔を覗き込もうとするけれど、彼は窓の外を見ていて、頑なに私と目を合わせようとしない。


「最初のひとつはもちろん偶然でしょうが……ベリル様、仕組みましたね。初恋の人を作り上げて、私に見つけさせたのでしょう。うちの侍女も買収して。違いますか?」


 何も言わない彼の頬に手を伸ばす。初めて私から触れたことに驚いたのか、彼は目を見開いて私を見つめた。


「もし初恋の人が見つかれば、私とベリル様の婚約は破棄される。……ベリル様は、私の幸せを願えない、と言いましたが……本当は、本当に私のことを思って、くれたのではないですか?」


 恥ずかしかった。

 ベリル様は本当に私の幸せを思ってくれていたのに。私には、隠して、騙すことしかできなかった。

 情けなくて、苦しくて、収めたはずの涙がまた溢れそうになる。


「……違う」

「え?」

「いや、セーラのことを思っているのは本当だが、そういうことではなく……。確かに、認める。仕組んだのは俺だ」


 彼の指が優しく私の目尻をなぞって、初めて自分がまた泣いていることに気がついた。


「セーラは、俺という人間を美化しすぎだ」

「……」

「セーラが幸せでなくても、手放したくないというのはもちろん本音だが……俺のせいで苦しい思いをすると分かっているのに、好きな女を手元に置いておくのは、正直、苦しかった」


 思い出す。

 会いに来たと知ったとき、彼の顔を見たときの、焼けつくような罪悪感。ベリル様はあんな気持ちを、ずっと私に対して抱いていたのだろうか。


「本当にセーラと婚約破棄しようと思うのなら、こんなに回りくどいことをしなくても、彼女を見つけたと適当な嘘をついて破棄すればよかった。セーラの意志に委ねる、こんな中途半端なやり方をしたのが証拠だ。セーラが望んで俺の隣にいてくれる未来が狂おしいほど欲しくて、賭けに出た。セーラの意志を確かめたかった。だが」


 もしセーラがあっさりとあの書類を俺に渡したとしても、俺はセーラを手放してやれたとは思えない。


 そう呟いた彼は、私を強く胸元に抱き込んだ。ベリル様の表情が、全く見えなくなる。


「卑怯だろ? こんなやり方」

「いえ」


 抱かれるままだった手に、力を込めた。


「嬉しいです」


 そう言えば、彼の力が少しだけ抜けた。激しい鼓動は、溶け合ってもうどちらのものか分からない。


「セラフィーラはどうする? ……俺はセーラに、社交をしなくていい、店を開いていい、ということはできない。すまない」

「……私の夢、変わったんです」


 ベリル様の顔が見たくて、少し体を反らせて私は彼を見上げた。


「私の新しい夢は、いつか、ベリル様と一緒に店を立ち上げることです」


 そう言えば、ベリル様の目が大きく見開かれたあと、柔らかく細められた。


「協力してくださいますよね?」

「当然だろう」


 今度は楽しげに笑ったベリル様が、そっと身をかがめる。何をされそうになっているかを悟って、私は目を閉じた。


 ふわり、と触れた唇は、驚くほどに柔らかく。顔が燃えそうに熱くて、胸がいっぱいで、頭がうまく回らなくて、私はベリル様の胸元の服を握りしめた。縋るように握りしめる。だって、立っていられない。


 ベリル様の指先が、私の首筋をするりとなぞった。その感触にぞわりとしたものが身体中を駆け抜け、ぎゅっと身を縮めれば、彼の口が耳元に添えられる。

 熱い息が耳朶を擽り、ぴちゃ、と微かな水音がする。体の芯を震わせるような、溶けて消えてしまいそうになるような、低い声。


 可愛い。


「ひゃ」


 漏れた声。体中の力が抜けて、崩れ落ちそうになった体を、軽々と抱きとめたベリル様が笑う。

 その表情は、私には、どんな宝石よりも美しく見えた。



 ◇



「オーダーメイドをお願いしたいのですが」


 セラフィーラの本店。一部のお得意様だけが入れる小さな応接室のソファに、綺麗な姿勢で腰掛けた()()()は、そう言っておかしそうに、けれど幸せそうに笑った。


「はい」


 答える私も、今にも笑い出しそうになるのを堪えるのに必死だ。


「結婚指輪を。デザインは、あなたに一番似合うもので」


 目の前に座る彼の美しい黄金の髪が、日の光を反射してきらりと光った。

 

お読みいただき、ありがとうございました。


面白いと思っていただけましたら、ブクマ、評価いただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 短編と言う限られた中で、主人公自身の事 主人公とその周りの事、 分かりやすく、内容も胸に来ました。 [一言] リア充オツ(笑)
[良い点] 面白かったです。 情景が浮かんでくるような描写が好きなので、ラストシーンがすごくよかったです。二人の笑顔が思い浮かんで、読み終わってすごく幸せになりました。 他にも壊れたガラスケースの前の…
[良い点] 両片想いのジレジレって苦手なのですが、短編なのであっさりしていて、楽しく読めました。 初恋の人が実はヒロインだったというおとぎ話みたいな話ではなく、初恋の人は見つかったけどヒロインを選ぶと…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ