第1話 未知関数
翌朝、朝食後。
「今日は先輩、ずっと醤油や味噌を作る予定ですよね。なら美愛ちゃんと結愛ちゃんを借りていっていいですか?」
少しだけ考える。
確かに今日はずっと麹作業部屋での作業だ。
美愛に頼むような仕事も急ぎはない。
ならたまには違う場所に行ってみるのも悪くないだろう。
結愛もその方が楽しいだろうし。
「本人に了解をとったらな。でもどういう経路で行くんだ? 出来れば地図で教えてくれると助かる」
ちひがいる場所は昨日聞いた。
西南方向に直線距離で5km程度の場所だ。
「今回は船ですね。ここから見て左にある岬をぐるっと回れば30分もかかりません。
陸路で行くなら尾根を登って黄色い境界標に出て、あとはそのまま西に下っていくだけです。尾根が南向きになって一度川沿いになるところまで完全に下りて、その先を南の谷沿いに一気に登って、登り切ったところがもううちの土地の一部。そっちの尾根も指定境界標の尾根ですけれどね」
なら疑問に思うこともある。
「なら村へ行く際はこっちの尾根を使わないで、ひとつ南側の尾根を使った方が楽なんじゃないか?」
「向こうはアップダウンきつめで自転車向きじゃないんですよ。最後の尾根だけなら高低差80mも無いですし、こっちの尾根経由で行った方が楽ですね。
それに自転車を使うのは帰りだけ。行くときは船を使いますから。日の出直後に船で出れば引き潮と潮流であまり魔力を使わずに村まで行けますし。
あとここから私の土地への行き来は船を使います。潮が満ちる時の流れでうちに行って、引く時の流れでこっちに来ればちょうどいいですから」
「船も持ち歩いているんですか」
確かに普通の常識では考えられないだろう。
しかしちひの奴は6トン近いアイテムボックス容量がある筈だ。
それくらいの負担は気になるまい。
「船室のないタイプだけれどね。その気になれば10人位なら乗れるかな。定員は一応6名となっているけれど」
「乗りたい!」
結愛がまっさきに食いついた。
「勿論。美愛さんも一緒でいいかな。今日はちゃんと夕方までに此処に戻ってくるつもりだから」
確かに海路ならアルパクスとかに出会うなんて考えなくてもいいな。
しかしそれならそれで気になる事もある。
「大型爬虫類に襲われるなんて事はないのか」
「外洋に出ればモササウルスやプレシオサウルスみたいなのとかもいるみたいですれどね。この湾内は深くても10m未満だからそんな大物はまずいないみたいです。
最悪の場合でも近づいてくる時点でわかるし、速度で逃げ切れる自信もありますしね。山越えよりよっぽど安全ですよ」
なるほど。
「なら行ってくればいい。此処と違う場所を見てみるのも参考になるだろ」
「いいんでしょうか。水路の見回りとかお昼御飯とかは」
「大丈夫、それくらいはするからさ」
うんうんと余計な奴が頷く。
「そうそう。先輩の事は気にしなくて大丈夫。こう見えても持久力以外のスペックは高いから。その気になれば料理も上手ですし器用ですし。なかなかその気にならないところが問題ですけれどね」
「一緒に行かないの?」
おっと、結愛にそんな事を聞かれてしまった。
「今日はお仕事があるからさ。大丈夫、夕方また一緒だから」
「本当」
「本当だって」
「わかった」
うんうんと結愛は頷く。
「それじゃ行きましょうか。早いうちの方が潮の流れ的に楽ですから」
全員で拠点を出て海へ。
思い切り潮が引いた状態の砂浜でちひはどんと船を出す。
拠点のコンテナより底面積が大きそうだ。
「思ったより大きいな」
「イギリスの中古通販で安く売ってました。程度はまあ値段なりですけれどね。レジンやFRPシートで徹底的に補修しましたから当分は使えると思いますよ」
確かに補修跡は結構ある。
ただどれもそれなりに丁寧に直してあるようだ。
心配はいらないだろう。
3人が乗り込む。
ふっと魔力の反応を感じた。
船が少しだけ空中に浮き、そして海へ。
完全に入ったところで着水する。
「行ってきますね」
エンジンも何もついていないのに船はいきなり加速。
左へゆっくり弧を描くような航跡で去って行く。
さて、それでは僕も仕事をするとしよう。
まずは水路の見回りからだな。
その後、醤油作業をやるとしよう。
どうせなら種麹作業も醤油麹作業も、何なら味噌や醤油の作業もオリジナル魔法を作った方が楽かな。
手順はほぼ確立しているから問題無いだろう。
そんな事を思いながら、僕は水路の方へ歩き出す。
◇◇◇
ちひから教わったM理論式アイテムボックス魔法のおかげで、持ち運べる量が10トン近くまで増えた。
だから醤油も味噌も甜麺醤まで思い切りよく増産。
どれも買ったばかりの125ℓ入り樽1個分製造済。
なおこの中で一番面倒なのは間違いなく醤油だ。
醤油用の麹を別途作らなければならないし、濾したり沈殿させたりする必要もある。
しかも3樽使って仕込んでも出来上がる醤油は1樽分。
さらに醤油粕が結構出てしまう。
しかしこの中では醤油が断トツで売れ行きがいいらしい。
材料の単価も他とほぼ同じ。
手間はかかるがまあ、仕方ない。
その結果材料として買ったアローカやグネタム。
美愛に毒抜きをして貰ったクァバシン。
作業の合間に作った塩。
そういった材料系統も一気に在庫が無くなった。
醤油麹の粕は樽に入れて保存中で。これは美愛が漬物を作る為に使う。
作った種麹は乾燥させてやはり樽保管。
他はもう空だ。
また村に行って購入してこなければならない。
醤油は品切れだし明日にでも行ってくるべきだろう。
行き帰り往復4時間は面倒だが仕方ない。
とりあえず塩も今後必要なので作っておこう。
ただ加熱して水を蒸発させればいい訳では無い。
溶解度の違いを利用して塩化マグネシウム、硫酸マグネシウム、硫酸カルシウム、その他砂だの微生物だのを取り除く必要がある。
面倒なのでこれもオリジナル魔法化した。
予備の樽に海水を入れればあとは魔法が自動でやってくれる。
なおオリジナル魔法化しても工程に10分くらいかかる。
それに樽1杯の海水を使っても底の方少ししか塩は出来ない。
大量に作るにはそれなりに手間も時間もかかる訳だ。
それにしても一日が長い。
いつもならあっという間に過ぎていくような感覚なのに。
理由は考えなくてもわかる。
美愛と結愛がいないからだ。
いつもは仕事中であっても1時間に1回は結愛が様子を見に来る。
仕事時間であっても結愛が退屈すれば3人で遊んだり出かけたりする。
合間合間におやつの時間があったりも。
なるほど、2人のおかげで楽しいというのも確かなようだ。
いない時間があるとあらためてその事に気づく。
ただどうせ当分の間、2人と離れるという事は無いだろう。
だからそんな心配はしなくていい筈だ。
ふと昨日寝る前に考えていた事を思い出す。
このまま急激な変化をさせず現状維持させようと思った事を。
そして同時にあの時ふと気になった、見逃してしまった要素についても気づいてしまう。
ちひ、そしてちひと僕の関係だ。
ちひは何故、僕にメールで此処に来る事を知らせたのだろう。
僕は何故ちひを追いかけこの世界に来たのだろう。
日本での環境が煮詰まっていたから。
本当にそれだけの理由なのだろうか。
ちひが何故僕あてにそんなメールを出したのか。
それについて僕は理由を聞いていない。
そして僕が此処へ来た本当の理由とも、多分僕は向き合っていない。
僕は自分を偽る事も自分に偽られる事も得意だから。
ただ、僕はまだその答がある方を見ない。
ちひがいる関数と美愛や結愛がいる関数。
どんな数式なのかも不明な未知関数。
その2つを連立させる解があるか無いかを知るのが怖いから。
だからまだ定義域をそっちの方向へは広げない。
その解があるかないか、わかる方向へは。
そんな訳のわからない事をぼんやり考えていると、偵察魔法が高速で移動する物体を捉えた。
ちひの漁船だ。
さて、いつもの生活に戻るとしよう。
僕は既に出来た分の塩が入った樽だけを収納し、立ち上がった。




