【8】せかいの形と古書館の料理本
とある世界は、異質な地形をしていた。
それは決して奇跡的な偶然の積み重ねにより、水源や土地、大気などが構成されたわけではない。簡単に言い表せるとすれば、その世界だけ何処かから切り取られたような、そんな部分的な形を成している。
その世界は地表から下が縦に細長く、下方へ向かうにつれ丸みを帯びている。地上は綺麗な円で縁取られ、そのなかに四つの都市が栄えていた。
真ん中に大きい陣取る円形のなかには、世界の中心《ユナイル都市》が存在している。
そして、その周りを三等分に区切った都市はそれぞれ森の壁を境に、細長い扇状で隣接し合っている。右下にある扇型は《ナクセン都市》。左下が《シュピ都市》で、上部に位置するのは、木々が生い茂る《ラーガル都市》。
このラーガル都市は遠い昔、かの地に人が住んでいたという名残から都市と呼ばれているが、絶滅したのかまたは他の都市に移ったのか人の姿は全くない。その全体も既に自然の下に還っているため、足を踏み入れる者はいなかった。
ナクセン都市とシュピ都市は、人の居住区域だ。これらの中間地点と主要都市を繋ぐ点には、世界の成り立ちや魔力の使い方を学ぶ学園機関が建ち、更に主要であるユナイル都市の中にも街が三つ存在していた。
丸く区切られ密接する上部がラーガル都市と接する、主要街。円の下半分を覆う細い三日月状の、両端がそれぞれ《ナクセン都市》《シュピ都市》と接している第二の街。
その街から下ると同じく三日月状に歪曲した、こちらは街の下部分すべてが同様の二都市と密接する第三の街だ。
各々の街にはその位置に相応しい、明確な役目が存在する。
スヒリス街は主に政治を担う者たちが住み、その上部中心にあるのは政治最高責任者を担う、とある人物の居城。そこで会議などを執り行うので、何かあっても直ぐ駆け付けられるようにと同じ街の中に属していた。
ナリス街は別名「商人の街」とも呼ばれ、主な役割は通り名のままに商いを生活の中心とする人々が住む。食糧や衣服のみならず、生活用品はここで揃えることが出来た。
フィリス街は、職人の街として有名である。
正しく武器製造を行う街。そこに漂う空気は職人の気迫や汗、鉄や油、それらが熱せられる匂いで満たされている。
しかし時代は争いの渦中ではない。近年、彼らの主な収入源は獣狩りや植物刈り、調理に使用する刃物ばかり。それらをナリス街にあるいくつかの商店に卸して生計を立てる者たちが、この街で生活していた。
だが、このフィリス街は少し物騒に思われている。一昔も二昔も前に、世界全体を巻き込んだ争いが起こった際、真っ先に自分達の武器を造り名を挙げ、やがて武器を望む相手に売り始めた過去があるからだ。
その流れを学園の教材の内容でしか知らない子どもたちも、かの街に漂う雰囲気から何かを感じるのだろう。フィリス街だけは常に妙な緊張感が漂い、誰もが倦厭していた。
それが数百年経つ今でも政治を担う上で影響してくるかと言うと、決してそうではない。そういう経緯もあったが、少なくとも表向きには皆仲良く生活を共にしている。それもこれも全ては世界の中心たる城の中で、穏健な皮を被る奸智に長けた大始祖様の采配のおかげと言えた。
「ふむ。そなたはいつ気付くのだろうのう、愚弟よ。世界はとうに、変化の兆しを見せているというのに」
自室の窓から森と化したかつての都市を眺める彼は、目の前の景色ではなく、そのずっと先の未来を見るような眼差しでたった一人の身内に想いを馳せた。
◆◆◆◆
あれから直ぐ城の案内も済んでしまい、時間があまったところに都合良く博士がやってきた。
問答無用でつかまえ先ほど案内された古書館に入り、そびえ立つ本棚の前で書物を嘗め回すように探しながら話していた時だ。
「――ブクシュッ……ところでねー」
『待って。何そのくしゃみ。すっきり感が皆無なんだけど』
「……僕に断りも無く、勝手にすっきりされてもねえ」
散々料理の配合について語る博士だが、急に静かになったと思えば、次の瞬間くぐもった音が聞こえた。
こんなにも控えめなくしゃみは初めて聞く。
何となく物足りなさを感じて指摘すると憎まれ口で返されてしまった。
『もっと思いっきりすれば良いのに』
と、隣でまだ調理本に熱中する博士に言えば、
「悪いけれどねー。僕のくしゃみは小さい頃からこうなんだよー。……しかし、風邪でもないのに、どうして出たんだろうねー」
本当に疑問を感じたのか分からない平坦な調子で、そう口にしている。もしかして、こちらには伝わっていないのだろうか。例のやつ。
『それ、噂話されているからじゃない?』
「噂話? どうして?」
私の言葉に淡々と切り返してくる。疑問だからというよりは、根拠のない理由を口にした私を馬鹿にしたような――――。
『えー……っと。くしゃみすると良く、悪口言われてるとか噂されているとか、あと幸せが逃げるとか変な話が小さい頃から流行ってて』
……あれ? 最後のは溜め息だったかな。
印象の薄い記憶に浸りながら、家族と過ごした日々を思い返していた。
「なに? そんな根拠もない話を君は信じているの?」
『……』
楽しい雑談の種程度にしか思ってませんけどね!
真っ向と見下すような口調で否定されては、何も言えなかった。
「大体ねえ。鼻腔に埃や微粒子単位の細菌が入り込み、それを吐き出すためにくしゃみという行為があってだねえ」
と、今度は体の仕組みについて語り出す。
いつもの気怠そうな口調から一変し、しゃきっと話す時の博士は研究者の顔だ。
「本を動かす際に舞い起こる埃には、目に見えない小さな細菌の死骸などが含まれていて、要するにそれに対してのアレルギー反応として、僕はくしゃみしたわけなんだよ。しかし、この古書館は常に手入れが行き届き、清潔の鑑とも言われているんだ。なのに、くしゃみをした。だから不思議に思っている。分かるかい?」
『ええ。良く分かりました』
だから、饒舌な解説大会を切り上げてもよろしいでしょうか。
心得た私の様子に「フーッ」と息を吐いて納得し、その後また調理本を何冊か手に取り、今度は古書館に設えてある四人がけテーブルに腰を下ろした。
私も目の前にある気になった本を、二、三冊手に取り同じテーブルの反対側に座る。
これらは全て単なる調理本だ。重要な本は厳重に施錠された扉の向こうで管理しているらしいが、それ以外にもこの世界に関する本は多々ある。
その中で唯一私が目にしても問題のない類は、料理本しかなかった。
はじめは、私に付き合わされ仕方なくといった感じでパラパラとページを捲る博士だったが、そのうち彼の方が熱心に中身を読み漁っている。
私をこの世界に連れてきた男は、何か調べ物があるとかで未だ本棚の周りを彷徨いていた。
他にやることが思い浮かばず仕方なく表紙を開くと、一ページ目で手が止まる。
朝ご飯はしっかり食べましょう。
『……』
嫌みか!
思いっきり顔を顰めると、その様子を見ていた博士は声を潜めつつ肩を震わせる。
「クックッ――……正しく君には苦言だろうねえ。僕はお腹が痛いよ、やめてよー」
いやいや。やめて欲しいのはこっちだから!
『そんなに笑わなくても良いじゃん。失礼な人』
「はあ……あははッ――……プッ――はあ……ごめんごめん。怒らないでよー」
これは怒っているわけではありません。拗ねているだけです。
それを知ってか知らずか、私の機嫌を取るように謝罪される。
ここに来る途中、朝食のことを話しアリーシャと仲良くなるにはどうするべきか話したのだが……相談する相手を間違えたことだけは確かだ。
『大体ね。私は寝ることが好きなの。食べるより寝ていたいだけなのよ』
私の三大だか四大だかに含まれる欲求の割合としては睡眠70パーセント、飲食含めその他諸々が0.5パーセント、ほぼ睡眠に費やしているといっても過言じゃあない。
更に言うと、20パーセントは色濃い妄想に費やしている。
「はいはい、分かったよ。とりあえず、アリーシャと仲良くなる為の料理選びをしようか」
そうだった。
朝食昼食ともに気を使わせてしまい、何となく気まずい。
だから、これから仲良くしたいという意味を込めたお返しをしたい。それで選んだのが、料理だった。
そして現在、料理本を手にしている。
ここに来た本来の目的を思い出させられ、私は手に持つ本の中身に注視した。
「そういえば、城内はどうだったー?」
集中する静かな雰囲気に、唐突な質問を投げかけられる。一瞬何の話をしているのか悩み暫く考え、案内を受けた感想を聞かれているのだと思い至る。
『良かったよ。中世ヨーロッパ風で素敵な内装だし』
細部まで趣向を凝らした装飾が隅々にあり、どこを見ても私好みのデザインだった。
しかし博士のほうは単純に沈黙から脱したかっただけのようで、私の感想など興味ないという顔をしている。
「ふーん。そっかー。僕が生まれる前から、この城はあるんだよねー。誰かが住んでいた名残もないけれど。不思議だよねえ」
話す当人はどこか他人事だが、私にとってはひどく興味の惹かれる内容だ。
……ここを作った人は、一体どんな人なんだろう。
何を思いこのデザインにしたのか、すごく興味がある。
内装もそうなのだが、外観も同じイメージで作られているらしい。
ここへ来て目にした時の印象は、正しく城そのものだ。
私の身に潜む欲求の残り1.5パーセントは、不思議なものに惹かれる知的欲求。
つまり睡眠欲と好奇心と妄想で、この身体は出来ている。
――――。
外から見て正面に据える天辺が丸い円柱の建物は、皆が移動に使う広間らしいが、階層によって少しデザインが異なっていた。
一階は両端にテラスが設けられ、そこから庭園へと直接抜けることが出来る。二階には角張ったバルコニーが設置され、上から庭園を眺められる造りだった。
三階は左右の別館へ繋がる通路と、奥の館へ行く為の筒がそれぞれ架けられている。四階では半円状のデッキが両端にあり、飛行魔法を持つ者がそこから離着陸を行えるようにしてあるという話だ。
最上階にあるドーム型の部屋は、残念ながら入室制限があるようで入れなかった。そこに入れる者は、政治関係の中でも更に重役を担う者のみ。あの大始祖様はもちろん中に入ることができる。
一階から地下へ続く階段を下りれば、ここも両端に部屋があった。地下部分は屋外一面が湖に覆われていて、外へ出る前に先ず備え付けの部屋に入らなければならないらしい。
内側にある扉が確実に閉まってから、数秒ほどで外側の扉が開き入水してくる。そして、外へ出たあとは排水装置が働く仕組みだ。ここから城へ入る時は、逆の順序で装置が動く。
ここは遊泳魔法を持つ者であれば誰でも使えるが、稀に身を隠して移動する理由から様々な政治関係者も利用しているそうだ。
それらを聞き彼もよく利用するのかと聞いてみたら、この質問は特に問題ないようで直ぐに答えてくれた。
彼曰く。
「コソコソするやつしか使わないから、俺は使ったことがない」
――だそうだ。
これまで説明された建物が一応の本館になり、その左右にある建物と、本館の裏に位置する大きな建物が別館に当たる。
天辺の尖った左右の建物は住み込みの使用人や騎士たちの宿と、招集された政治関係者やそれらに付き従う者たちの停泊とに用途が分けられ、私は豪奢な招集客用の一室を借りていた。
本館後ろに立つ長方形の館は、主に大始祖様が使うために後から増築したらしい。
そこは上の階から古書館、彼の友人達の宿泊室や彼の自室まで存在し、その下に先ほど食事にも使っていた大広間がある。
更に下の階には調理場を設置し、別館最下層の食料庫は地下一階に属すため周囲の湖の水圧や冷気によって長期保存が可能となっている。
それら仕様を要所だけ纏めた簡潔な説明で、私は一先ず大まかな見取り図を頭の中で作って記憶した。
機会があればこっそり抜け出してゆっくり見て回りたい。
けれどこちらの思考に勘付かれたらしく、「また今度ね」と彼に苦笑された。
まあ、それも仕方ないのだけれど。
これは、線引きなのだ。私がまだ、別の世界の人間であるために――――。
「――……って……ねえ? 聞いてる?」
古書館へ来る直前の出来事を想起していると、博士の声で現在へ呼び戻される。
「……大丈夫?」
『だいじょうぶ』
正面に座る博士は、私の手に自分の手を重ねてトントン、と軽く叩いた。無表情ながらも心配を窺わせる声で、こちらの目を見てくる。
ロベルトと呼ばれた男にも感じたけれど、こうして目を見られると心の中まで見られている気分になる。
大丈夫に決まっている。私はこれから制限のある動きづらい状態のまま、いつ来るか分からない帰還の時まで生活しなければならないのだから。
来てしまった後で喚いたり嘆いたりしても、帰れないという事実は変わらない。仕方ないと自分に思い込ませて、周りの目があるうちは気丈に振る舞わなければ。
『あ! これ良くない?』
私は美味しそうな焼き色をした果物で出来たパイの写真を指した。すると博士の無感情な瞳が同じものを見つめる。
「そうだねえ。美味しそうだ」
既に互いの仲に遠慮はない。私も博士に対しては、敬う気持ちなんて皆無だ。
ヤル気なしの気怠げで汚らしいおっさん――という理由もあるが、その一方的に話しやすい雰囲気に不思議と心地よさを感じている。……博士自身は秘密が多そうだけど。
「どう? 決まった?」
博士と頷き合ったところで、捜し物をしていたロベルトという男も近くに寄ってきた。
「あとは材料の調達だねえ。そっちはもういいの?」
彼は手に何も持っておらず、笑みを浮かべて机の端に寄り掛かる。
こうして見ると綺麗な顔をしているだけあって、モデルのように様になるんだよなあ……なんて思いながら、数年前を最後に鏡を捨てたあの時の自分の顔を思い出した。
ぼやけた記憶でも、充分に気持ち悪くなる。
微笑み続ける彼は、視線を博士から私へと移す。
私は咄嗟に彼から目を逸らした。
『とりあえず、街に買いに出かけよう』
提案すると、彼は少し複雑そうな表情をする。
『もしかして、……それも超えちゃいけない一線になるの?』
彼が悩む理由は今のところ、私に課せられた境界線しか思い付かない。
「うーん。一応、大始祖様に確認を取ろう」
その是非を大始祖様に問いに行く。
博士より詳しそうにしていた彼でも、大始祖様のように即決とはいかないみたいだ。それほどに大始祖様という存在は、やはり強大な威厳を持っているらしい。
その辺に関しては、博士は完全に黙り込んでいる。いくら血が繋がっていても、教養の深さには個人差があるようだ。
古書館を出て直ぐ、階段の途中である人物と擦れ違った。正確には二人。
一人は軍服らしい正装で、もう一人は変な柄のTシャツにハーフパンツという軽装をしていた。片方は敬礼、もう片方は手をひらひらと振り階段を登っていく。
誰にそうしたのかは分かりきっている。博士だ。
彼らとの顔合わせは一応初めてになるが、私は二人を知っていた。
そして縦に細長い筒の中に張り巡らされた螺旋階段を登る二人の後ろ姿に、何故か既視感を覚える。
「あれ、良いの?」
少し先でロベルトという男に問いかけられた博士は、深々と溜め息を吐いて言う。
「……まあ大丈夫でしょー、たぶん。何たって相棒が一緒だしねえ……たぶん」
わずかに不安が残る口調だったが、博士は彼らを追いかけたりしない。
彼らと博士が親しげなことは、どうやら彼も知っている様子。なら、私から何を言うこともないだろうと、今朝の三人での会話は忘れることにした。
考え事をしていると、博士が下る速度を落とし近寄ってくる。
『どうしたの?』
「深入りは良くない」
『何のことよ』
「今朝、君は途中からだけれど会話を聞いていたね」
『忘れようとしていたところよ』
「へえ? ……そう」
博士が私に何を言わせたいのかは知らないけど、どうも周知を避けたい内容を聞いてしまったみたいだ。しかし忘れようとしたのは事実なので、取り繕うこともせず正直に伝える。
納得したのか、まだ疑っているのか分からない声音で、博士は階段を下る速度を上げた。