【7】不穏はすぐそばに
最初に博士と遭遇した場所まで送ってもらい、明日の予定を聞かれる。
彼曰く、ここでの私の生活は基本的に自由らしい。
いつ何をしても良いそうだ。
但し、絶対に一人にならないことだけは強く念を押された。
「俺とアリーシャのどちらかなら、尚良し!」と更に付け加えられる。
「あれ? 僕ではダメなのかい?」
博士は論外。
「兄は良いのに?」
あんた範疇外だよ。
更に食い下がってくる博士だが、もう一人の男に大始祖様は特別だからと返されて何故か眉尻を下げている。
それでは、と小さいおっさんに背を向けて歩き出した私は、ひょいひょいと博士に呼び止められた。
「君はもっと気を付けた方が良い。彼に邪魔されない今のうちに言うけれど、ここでは自分の名前を簡単に人に明かしてはいけないんだ。どんな形で利用されるか分からないからね」
ここでの生活に細心の注意を払うように言われる。私は少しだけ首を傾げ、同時に思い出したことを口にした。
『そういえば、さっきは何を話していたの?』
ここに着く少し前、歩きながら彼らが視線を長く交わしていた様子だった。
ただの好奇心で彼らを見ていたのだが、横に並ぶ私の視線に気付いた二人はさらりと笑い返してくるだけで、すぐ視線を逸らして不自然なまでに無言で前を見つめるだけだったのだ。
そんな二人のことを、明らかに怪しいと思うのは普通だろう。
「それは君に聞かせて良い話じゃあないからなー」
彼は私から視線を逸らした。こちらの質問に、はっきりと答える気はないようだ。
『私の話じゃないの?』
「そうだけれど、違うとでも言いたいなあ」
願望かよ。
『私にも必要な情報じゃないの? 何の為に隠すの?』
「君に選択肢を残すためだよー。君がさっき話を逸らして我慢していた通り、小さいことが大きく影響する世界なんだよねー。そして話していた内容は、この世界でも兄か僕、ロベルトしか知らない秘術だからねー。この世界の一般人でも知らないことを知った瞬間、君は是非も問われずこちら側の人間になってしまう。そう世界の意思に認識されてしまう。そうなったら、君は二度とあちら側の人間にはなれないよー。それでも良いの?」
最後に問われ、自分が何を尋ねようとしていたのかに気付き、ゾクッと背筋が震えた。
こちら側というのは、勿論この世界のことだろう。
そして、あちら側とは、私が住んでいた世界のことだ。
私が別世界から来た人間という特性を保てるのは、私があそこを故郷だと、自分の世界だと言えるのは、彼ら周りの者たちが配慮してくれているからだと暗に博士は言った。
それにしても、世界の意思に認識されるという表現は謎だ。まるで世界に自意識が存在し、その意思によってこの世界の住人達は無事に過ごせている、と言っているようにも聞こえる。
『何だか良い人なのか、隠し事の多い人なのか怪しいところだけれど。そういうことなら、今は聞かないでおくわ』
博士の話に少しだけ冷静さを取り戻すと、「賢明だね」と初めて優しい笑みを向けられた。
「ま、ロベルトが秘術を知っているから、君も覚悟はした方がいいよ。アレは今は大人しいけれど、実は陰湿で粘着性も高く執着心が強いから、君を知らない間にこちらの人間にしてしまうことも容易いだろうからねえ」
別れ際に恐いことを言われた。真意を探るように博士の顔をまじまじと見たが、相変わらず底の知れない表情を浮かべている。
彼にも何かしらの秘密がある、ということだろうか。そのことに何故か……私はすんなりと納得してしまった。
『何ソレ、やだ。ただの犯罪者じゃん守ってよ』
博士の冗談めいた口調と品のない風貌も、本当は優しいということを知る今は本心を明かさない為の演技にしか見えない。
ロベルトと呼ばれた男の裏表も、そういう優しいものであることを願うばかりであった。
――――ねえ。君って本当に底意地が悪いよね。秘密にしてるなんてさ。
その声はとても、とても小さかった。
博士かと思い振り返ったが、当人は既に背を向け研究室までの廻廊を引き返している。
きっと空耳だったのだ。
それにしても、隠し事……か。みんなそれぞれ抱えるモノがあって、種類は違っても軽いことなんて一つも無くて。
なのに、人は誰かの秘密を軽々しく探りたがる。
私が知りたいのは、この世界の秘密……になるのか。それとも、この世界をつくった人の秘密に迫るのか。
どちらを追い求めるにしても、私には重大な事柄に思えてならなかった。
緩くカーブした廻廊を辿り、大広間へ戻ろうという時のこと。
ああ、そうだ。――と彼は話し出す。
「そういえば、アリーシャが君を探していたんだった。たぶん大広間で待っているはずだから、少し急ごうか」
そういえばアリーシャにまだちゃんとお礼を言ってなかった。と思い返しながら窓の外を見ると、高い位置からの日射しに目が眩んだ。
まだ、陽があんなところに。
私の視線の先に気付いた彼が、同じように窓から空を見上げる。
「まだ昼前だね」
陽の位置だけで時間まで分かってしまうんだ。私は彼を素直に凄いと思った。
それにしても研究室にいる間、結構な時間が経っていると思っていたけれど。やはり部屋に籠もると、体感時間と実際の時間にズレが生じるのは、こちらの世界でも変わらないようだ。
『まだ昼前なのね』
私がこの世界に来たのは、向こう時間でも夕方くらいだった。
その直ぐあとに来たこの世界は、確かまだ明るかったはず。時差はどれくらいだろうか。
この疑問は、隣の男によって直ぐに解消した。
「そうだね。この分だと、君の世界はまだ夜中だ。日付が変わる前くらいだろうね」
その言葉に、自分がいた世界の闇を照らす月と星の煌めきが想像できる。その時差はたぶん半日程度だ。 それなら今頃、両親は夜中になっても帰らない娘を心配しているはず。
更には、こちらに来て一眠りしているから、約一日半は帰らなかったことになる。心配どころの騒ぎでは済まなそうだ。
というか、いつ帰るつもりしているの、私。これは一日二日姿を消すなんて話じゃあなくなっている。
友だちなんて存在は持たないから、どこかへ無断外泊したのではと電話を掛けて回るような心配がないことは、たったひとつの幸運だった。
帰りたいけれど……帰りたくない。矛盾を抱え、それでも両親の身を考えると深い溜め息が出る。俯く私に、隣の男の気遣わしげな視線を知る由もなかった。
今朝と同じ大広間に近付いた辺りで、仄かに鼻腔を擽る香りに気付く。この匂いは間違いなく、これから昼食であることを示していた。
「うわあッ、良い匂いだね!」
隣で騒ぎ出す彼に同意しづらい私は、苦笑いだけ返し静かに中へ入る。
広間の中央を占めるテーブルの上には、既に様々な料理が並んでいた。そして今朝と同じく、やはり椅子はない。どこの席に着こうか視線を彷徨わせていると、既に最奥で席を構える大始祖様がこちらにと手招きした。
今朝とは反対側、左隣に大始祖様がいる位置に用意された席へ座ると、出入り口のほうから「あら?」と声が上がる。
振り向くとアリーシャがカートをテーブルのそばに寄せて置き、こちらに歩いてきた。
『あ、アリーシャ……あの……』
「主様、心配したのですよッ⁉︎ 戻ってきてもお姿が見えないので……はあ。良かったです。――――かのような軽薄な男と一緒だったのは大変遺憾ではありますが」
最後にその軽薄な男を睨んだ彼女は心を痛めたように胸の辺りを抑え、私に激しく抱きついた。アリーシャの華奢な背中に手を回し、さっき続けようとした言葉を紡ぐ。
『ありがとう……』
果たしてそれだけで伝わったのか分からないけれど、ハッとして離れる彼女の笑みに私は見惚れた。
「……うふふ。光栄です」
今の間には戸惑いが滲んでいたけれど、アリーシャは美麗なお辞儀に続き改めて私に微笑みを向けてくる。私はといえば、彼女を見つめたまま茫然としていた。
アリーシャの所作は、あまりにも美しすぎる。
「奇異な娘よ」
大始祖様に呼ばれ、呆けた顔を向ける。視界の端で私に一礼するアリーシャをとらえ、続いて嬉々とした表情で隣にやってくる男を意識的へと外した。
「ふむ。君も座りたまへ。ロベルト」
そう言った大始祖様は、私の隣に椅子を出現させた。用意された椅子に座る彼に、今朝と同じことが起こるのではと危惧したが、暫く経ってもアリーシャは現われず杞憂に終わる。
「ところで奇異な娘よ。帰る術は見つけたかのう?」
色々とすっ飛ばしてくる質問に、危うく口に含んだ味噌汁を吹き出しそうになった。
……危ないワカメが。
「どうかね?」
『それが、分からなかったんだよね』
「俺も探したけれど、彼女と似た事例は今まで無かった。博士も困惑していたよ」
すると、大始祖様はどこか会得したように頷いた。この人には、何もかも分かっていたようだ。
『ところで、博士って弟だったんだね』
問い詰めるつもりはないが、兄本人から一言あっても良かったのではという思いから、つい口調が厳しくなる。
「そうじゃな。まあ、そう怒るでない。隠していたわけではない、言えなかったのじゃ」
『言えなかった?』
「そうじゃ。あやつは……弟は儂が兄であることを、快く思っておらんのじゃよ。まさか、自ら明かすとはのう……」
大始祖様の表情は、少しだけ寂しそうだ。なるほど。兄弟仲はあまり良くない様子。
『そういうことなら、まあ。というか、私の頭の中覗くのやめてよね』
今朝言いそびれたことを、漸く口にする。
こちらは流石に怒っても良いだろう。人の思考を見るなんて真似、悪趣味としか言いようがない。どうせ今考えたことも、見て知っているんだろうけれど。
「ほっほ。その通りじゃよ」
これは肯定と取ろう。
どうしたって今の私にはそれを防ぐ術はないのだし、自衛するしか方法はなさそうだ。新たな気苦労に、深い溜め息を吐いた。
「よせ、というのならやめよう。ただし、そなたは無防備じゃ。他の者を相手にどう対策するつもりじゃ?」
方法を知っていそうだが、安易に教えようとはしてこない。本当に意地が悪い。
「ふほほ。ロベルトにでも聞くがよい。儂でなくとも良かろう?」
確かに彼の言う通りだが、ロベルトという男に聞くのも大始祖様に聞くのも躊躇する。まだ彼らに対して、どう接して良いのか分からないのだ。他の候補と言えば、私の世話係に任命されたアリーシャくらいなのだが。
当人は、先程から姿を見せていない。
『あの……アリーシャは?』
「彼女は調理場じゃあないかな」
「それより、せっかくの昼食じゃわい。どうじゃ、味の方は?」
ああ。
さっきから手元にある献立をチラ見してくると思ったら、気に掛けてくれていたのか。
『気遣ってくれるんだ』
今朝と違う献立も含め、昼食も彼女の手作りのはずだ。
『ねえ』と、隣に座る彼の肩を軽く叩いた。
「どうしたの?」と彼はこちらに顔を向ける。
『このあと調理場に行きたい』
アリーシャに、それから調理場の人たちにも。やはり直接言いたいのだ。
ありがとう、と。
真っ直ぐ彼を見つめ訴えると、彼は快く首を縦に振ってくれた。
「ほう? やはり、そなたは非常に興味深いのう。弟が目を付けるのも頷ける」
『目を付ける?』
どう考えても、目を付けるといった怪しい印象はない気がするが。
寧ろ協力していきましょう、みたいな友好的な雰囲気だったと博士との会話を思い出す。
――あまり、自分を明らかにしてはいけないよ……――。
それは、こちらに来たばかりの私に対する、最大限の優しさに感じられる。それを言うなら隠す方法を教えてくれという考えも過ぎったが、それはさっき答えを出したところだ。
即ち、この手の話をするにも、アリーシャには絶対会っておきたい。
『ごちそうさまでした』
ちゃんと手を合わせる。お腹の満たされ具合もちょうど良い。昼食は咀嚼というより、食事として終えることが出来た。
先に食事を終えていた大始祖様は、黙って退室していく。私の少し後に食べ終えた彼も、私に倣い手を合わせひと息おいてから席を立つ。
『じゃあ、行こうか』
私はコクンと一つ頷いて、彼の背中に続く。
そういえば、さっきの言葉――弟が目を付けるわけだ――とは、一体どういう意味だろうか。
単純に研究対象として?
考えれば考えるほど、それだけではない気がする。
そもそも、何故ここまで思考に引っ掛かっているのだろう。何かを見逃しているから?
これからの事と切り離せない何かを、私は見逃しているのだろうか――――。
彼の案内で調理場へ赴く。
この時間は勤務中に値するから仕事の邪魔をしてはいけないと、仕事が終わったら改めて会えるよう都合を聞くつもりで。
中ではアリーシャが一人で調理人六人に指示を出していて、とても忙しそうだった。遠慮がちに話し掛けて振り向いた彼女の顔は、正しくきょとんとしていて可愛らしい。
事情を話すと、良い返事をもらえた。
今夜、アリーシャが部屋を訪れてくれるそうだ。
それにしても綺麗なお姉さんの百面相は、美形好きには堪らない。
キュンときた。
◆◆◆◆
一方アリーシャと言えば、主様の突然の来訪に驚きを隠せないでいた。
……主様、わたくしとお話⁉︎ 何でしょう……どういう話でしょうか。まさか、わたくしをお気に召されなかったのでしょうか……? ああ。どうしましょう……――。
彼女の思考は、今この場にはなかった。
本来、指示を出される側の調理人たちは、そんな彼女の様子に微笑ましい気持ちになりながらも、夕食の下拵えをする手は止めなかった。
普段の彼女がいる場では有り得ない指示の飛ばない沈黙も、どこか暖かい空気に包まれている。ただし、その空気に気付くのは周りの調理人のみであった。
◆◆◆◆
そして、その主様のほうはロベルトと呼ばれた男と連れ立って、彼の案内で城の敷地内を散策していた。
こちらのお礼に対して丁寧に言葉を返してくれた調理人たちの一人が、「これからお過ごしされる間、気分転換も兼ねて城内を知っておいてはどうでしょうか。城のお庭など素晴らしく綺麗ですよ」と言われ、彼に城内を案内してもらうことになった。
「どう? 気分転換になった?」
『そうね。特にこの庭園は綺麗。虫に食べられた跡も少ないし…………薬剤は何を使っているの?』
私はこう見えても、植物を愛でるのが好きだ。
キッカケは友だちの代わりという、あまり自慢できない動機だけれど、それでもやはり植物は――――特にこれから芽吹こうとしているものは好きだ。
そういった経緯もあり、少しばかり詳しい。
植物を育てるのは本当に大変で、一つでも葉を食べられたらその幹はもう虫の拠り所になってしまう。けれど、ここの植物たちは良い育ち方をしているように見えた。
「うーん。何も使ってないと思うけれど、……この世界は虫自体とても数が少ないんだ」
『へえ、そうなんだ』
無薬なのは驚きだが、虫の種類が少ないなら害虫が限りなくゼロに近いのも頷ける。
それにしても、ここの景色は絶賛せずにはいられない。
活き活きと輝く様々な植物たちの姿は、まるで自然界のカーペットのようだ。風に揺れて微かに波打つさまは究極の自然を感じられ、ここ以外に空気が澄んだ場所は存在しないと豪語してもいいほど綺麗な場所だった。
このまま夕食の時間まで庭園で過ごしたかったけれど、どうやら時間はたっぷりと与えられているようなので他の場所も見ておこう。
そよ風を浴びて目を瞑る彼に案内を促す。
「うーん。そうだねえ。まだ全てを話すことは出来ないけれど、そこまで言うなら……少し詳しく城内を見て回ろうか」
そう言って先を歩き出す彼と一緒に、自分も中へ戻った。
――――。
そんな二人を遠くから見る、ある二つの視線。
彼女達の目は、屋内へ戻る二人の姿を真っ直ぐに射貫いている。
「へえ。あれがそうですのね。ロベルト様に連れられて……ふん」
「そのようです」
「なんて図々しいのかしら。ロベルト様の隣を歩くなんて」
豪奢で烈火の髪と同じ色彩のドレスをまとう女は、ロベルトの隣を歩く相手を憎々しげに見つめる。彼女のそばで静かに控えているのは、護衛用の動きやすい鎧をまとった騎士姿の女。
「あの者、如何致しましょう」
「そうですわね……もう少し様子を見ましょう。貶める手筈を整えてからでも、遅くはありませんわ」
女は口の両端を妖しく吊り上げる。
「御意に」と応え付き従う女の目は、獲物を前にした獣のように剣呑な鋭さを孕んでいた。