【6】模擬人間キリス&レニー
博士の部屋へ向かうため、さっきまで恐い雰囲気を纏っていた背の高い男の後ろを、息を潜め付いて歩いていた時だ。
ふと、何とはなしに異変が感覚をおそう。
『あの……博士?』
「んー? 何だーい?」
なに、と明確に言い表せるものではない。
殆ど直感に近いものではあるけれど、何かが変だ。
『え……っと。……なんだろう。……気持ち悪いって言うのかな。何だか変なんだよね』
もしかするとこちらの空気に慣れず拒絶反応を起こしているのかと思ったが、それにしてはただの吐き気のような気もする。
とにかく、気分が良くないことに変わりはなかったのだが……。
「あー。それは、ここに張った結界の影響だねー。部屋に入ればそれも無くなるだろうから、少し急ごうかー」
仮定ではなく断定した言い方をする相手に、その結界とやらもきっと博士の仕業なのだろうと考えた。
『いや。まだ吐き気がするくらいで……』
「――吐き気? ……おかしいなあー。そんな作用は含ませていないけれど……。ああ。でも、君はかなり特殊だったねー」
博士は少しではなく、《かなり》という表現を使った。
本当に特殊ってだけで片付く程度なのか怪しいけれど、シャッフル済みのきんぴら牛蒡や味噌汁その他諸々が逆流することになれば、真っ先に博士の白衣を朝食色に染めてやるんだ。
ふふふ、と笑みを浮かべるが、前を歩く人物は気付いていない。
いたずらを思い付いても、脳の中枢を強引に掻き乱されているような気持ち悪さは続く。黙っていても不快感は増すばかりで、私は気を紛らわせるために前を歩く人物に話し掛けることにした。
『博士はさ。どうして大始祖様と一緒にいないの?』
今朝だって、博士の姿は見ていない。
大始祖様がどう考えているのかは謎だが、博士の方は見るからに意識して別行動を取っているようだし、何か事情があるのかと考えた。
「兄と僕では、役割が違うんだよー。兄は統制があるし、僕は年中無休で薬や毒、この世界の未開地調査で忙しいからねえ」
『ふうん。あ、部屋には何があるの?』
私は一人っ子だから兄弟間の事情には疎いけれど、笑みを深めて話す姿を見てしまっては二人の事情を妙に知りたくなってくる。
しかし余所の世界の、それも彼らの事情にこれ以上触れるのは気が引けてしまい、やむなく話題を逸らした。
こっちに来て初日の段階で入っても問題ない場所なのだろうか。
どうして彼――ロベルトと呼ばれた男――も同伴でないといけないのか。
これらがどう関係してくるのかも、判断材料が少ないおかげで何一つとして分からない。
「そこは僕の研究室でねー。僕が今まで調べてきた研究書があるんだー」
これはロベルトという男の話だが、博士の部屋は研究資料や材料が部屋の中で乱雑に置かれているらしい。
洗っている様子のない白衣に無造作に纏められた頭髪を見れば、片付けが苦手な質というのは一目瞭然だ。が、そんな何でも明けっぴろげにされた空間に私が行って大丈夫なのだろうか。
私をここへ連れてきた男は最初に言った。
知りすぎに気を付けて、と。
先を歩く博士の背中を見つめながら、入ってからの事に考えを巡らす。
さっき彼が言っていた「小さなことでも大きな影響を及ぼす」という言葉が、ずっと引っかかっている。
全てを知るのは良くないとも捉えることが出来る言葉で、何も考えていなさそうな博士の後ろ姿に不安が募った。
────。
城の、まさしく行き止まりと思わせる暗い陰鬱な空気のなかに、その扉はあった。
「はい、ここだよー。さあ入ってー」
暢気な口調の博士の案内で、私の不調以外に何の異変もなく研究室へ辿り着く。
中は整理整頓が行き届いていて綺麗だ。大雑把そうな博士からは想像できない程に。
成る程。確かに中に入った途端、スッと気分が晴れ調子も良くなった。
おかげで博士の白衣を汚すという決意は無駄になったけれど。
「んー。やられたー」
真っ先に入室し、暫く辺りを歩き回っていた博士は、開口一番にそう言う。
「レニーくん。また勝手に片付けたね。出ておいでー、怒らないからー」
そう呟きながら、名前を呼び誰かを探し始めた。
どういう展開になっているのかは謎だけれど、博士の怒らないという言葉は絶対に嘘だ。
「レニー。博士。困る」
……⁉︎
一瞬ギョッとする。
博士を見つけた時からずっと後ろに控えていた男は、無口な上に気配がなさ過ぎて存在を忘れていた。
驚く私には目もくれず、黒い男もその名前を持つ誰かを探し始める。
部屋中を歩き回って対象を探す博士。と、その後ろを付いて回る無口の黒い男。
と。
『ん? ……ん⁉︎』
いつの間に出現したのか、博士と無口男のちょうど死角に入る位置と距離を保ちつつ、器用に二人の後ろを付いて歩く少女がいた。
「君らの最後尾にいるよ!」
一通りの流れを汲んだ彼は、クスクスと笑いながら言う。
その声に反応した博士が振り返ると、同じく振り返る無口の男。そして同じように振り返り誰もいない空間を見る少女。
一瞬の沈黙のあと、その少女は「しまった!」という顔をした。
「あー、レニーくん。また僕の部屋を勝手に片付けたねー。あれほど触らないでって言っているのになー」
まるで思春期の子どもみたいなことを言う博士に、呆れの視線を向ける。
少女だって良かれと思って片付けただろうに、注意されて落ち込んだのか顔を伏せた。けれど本人は直ぐにひょいと顔を上げ、細く愛らしい口を開く。
「わたしだって触りたくありません。ただ、いつもの汚い部屋にいては、師匠が病気になってしまいます。でなければ、こんな菌にまみれた部屋、誰が触りたいと思うものですか」
あら?
何を言うかと思えば、なかなかに辛辣な内容だ。
勝手なイメージで可愛らしい話し方と可愛らしい理由を述べるのかと思っていたけれど、絵画から出てきたような美少女の口から出たのは、博士への毒だった。
「レニー。気持ち。分かる。でも。我慢。お願い」
「むー。……師匠が言うなら、仕方ありませんねー」
「うん。そうだね。でもこの遣り取りもう何千回としてきているんだよねぇ。――――あはは、これもう思いっきり怒っていい?」
自身が師匠と呼ぶ無口な男のお願いに、少女は不満そうな顔で納得している。
何だか立場が逆転しているわ、と密かにニンマリしていたのだけれど、当の博士は全く逆の感情を抱いたらしい。
見た目が不潔そうな博士は、心は繊細なのだろう。
「はあ……。とにかく後ほど話し合いをしようじゃあないかー。先に本筋といこう。キリス、用意できるかい?」
博士の指示で無口の男――キリスは軽く肯き部屋の奥へ姿を消す。
キリスが何かを取りに行っている間、「そうだ!」と博士が声を上げた。
「まだ自己紹介していなかったねー。僕は、シーモス博士だよー。みんな、そう呼んでいるから特に愛着のない呼び名だけれど。そして、この世界の理から病気に関することまで、総ての物事について研究している、この世界唯一の常識人だよー」
……自分で常識人とか言っちゃうんだ。
自身に対する自己評価が高いことだけは良く分かった。
出会った時から妙に明るい調子の変な人だとは思っていたから、彼のイメージが崩れることはないけれど、微妙に気に障って仕方ないのだ。
「自画自賛は余所でやってくれる⁉︎」
「そして今、とある資料を取りに行っているのが、僕の助手であるキリスだ。それから彼の弟子で身の回りの世話を任せているレニーくん。二人は僕が作った摸擬人間なんだよー」
『模擬……人間?』
「ふん。人間を模しただけの機械だよ。博士の悪趣味」
ピンとこなくて首を傾げる私に、彼は更にかみ砕いて説明してくれる。
キリスという男は口調を除けば完全な人に見えるし、レニーという少女はどこからどう見ても、仕草や反応が完璧に人のそれだ。
あと無視したこと忘れないからね。
「そんなに珍しいかい?」
『うん。だって私の世界でもまだ、ここまで精巧な機械人間をつくる技術はないから』
都合のいい会話には参加する相手に内心呆れつつ、馬鹿正直に答えてしまう。
自分が知らないだけで、実はどこかの国では既に完成間近なのかも知れないけれど。
少なくとも私でも知っているような有名な国々ではまだ、完成の発表はされていない。
「これだけで驚いていたら、ここでは過ごせないよ?」
この世界へ連れてきてくれたその男は、小さく笑って言った。
「君が住んでいる世界のこともロベルト君は知っているからねー。だから一緒に行動してくれないと困るんだけれどー。僕が余計な話をしないよう、彼に立ち会ってもらわないと咎められるんだー」
気を遣うのって凄く疲れるよね。と――――博士は大きく欠伸した。
成る程。だから、さっき一人で居たことに困っていたのか。
サラッと面倒臭がったことに関しては、この際触れないでおこう。
『今は綺麗だけれど、もしこのまま入ってしまって、知っちゃいけないことまで知ることになってたら、どうしてたの?』
今は可愛い少女が綺麗に整えてくれたので、何も問題はないらしい。が、そこら中に例の資料なんかが散らばっていたら嫌でも目に入ってしまう。
「そうだなー。その場合は……」
一体この大雑把な博士は、不測の事態にどう対処するつもりなのか。
「そうだなー……」
言い淀む白衣の相手に、嫌な予想が脳裏を過ぎる。
「うん。ごめん」
いや。そんな、まさか――――。
「何も考えていなかったー」
ああ、そうですか。凄く殴りたい。
いや、どんな理由があろうとも暴力行使は健全じゃあないな。しかし、この憤りをどうやって鎮めようかしら。
白衣のおっさんにどんな制裁を加えようか脳内模索していると、対象に見定めていた頭がカクッ、と手前に倒れた。
「博士。真名。秘匿。ずるい。彼女。怒る。当然」
どうやらキリスという男が後ろから手を加えたらしい。博士は顔を顰めて背中をさする。
さっきも思ったけれど、彼らと博士の関係は見ていて面白い。
だらしない博士を注意する助手とその弟子。
彼らが自分をつくった博士を小突き注意する行為からは、三人の関係性に畏怖や格差が存在していないことが分かる。
叩かれた本人もその行為を咎めるつもりがないのか、苦言するでもなく私に向き直った。
「んー。怒らせたなら謝るよー。君のお願いはどんなことでも聞いてあげるから、それで許してくれないかい? しばらくは、こちらに滞在することだしー」
博士の謝罪に、思わず即答しそうだった自分がいる。
……いや決して甘い言葉に釣られたわけではない。
ただ、余所者である私がこの世界に甘んじていいのだろうか。
そう考えると、言葉は喉元に引っ掛かり鳩尾へ落ちていく。
私を連れてきた彼を横目に見る。
どうして彼は、私を案内してくれたのだろうか?
どうして、私を選んだのだろうか?
「どうするの?」
『博士の言葉はともかく……』
こちらに問いかける彼は、目が合っても微笑みを崩さない。
『もう少し、見てみたいわ。この世界を』
反対に私は、視線から逃れるように目を逸らした。
――――。
キリスが持ってきてくれた資料は、結果として何の役にも立たなかった。
というより、今までの博士の研究結果自体、私の帰る術を示してはくれなかったのだ。
「んー。これは困ったねー」
この状況で一番困っているのは間違いなく当事者の私なのだが、その当人は既に考えることを諦め模擬人間の美少女レニーと遊んでいた。
彼女はどうやら、相手の特性によって口調を変えるらしい。博士やキリスには堅く、私には可愛らしくして破棄されないよう取り繕う仕様なのだと、博士は感情のこもらない声で説明した。
「ねえ、お姉ちゃん! ずっとここに居てよお! ずっと遊ぼう!」
『うーん。ずっとは無理かな。ちゃんと体をお休みさせないと、長く遊べなくなっちゃうよ?』
「大丈夫! レニーは眠たくならないよ! お休みするのは調整する時だけなの!」
そうだった……。
この子の体を動かしているのは、博士のつくったプログラム。
夜には必ず眠たくなる私とは、根本から異なる構造をしているのだ。
「レニー。彼女。人間。体。有機物。疲労。睡眠。必要」
微かに顔を顰める少女を諭すように単語を紡ぐキリスに、少しだけ切なくなる。
彼らは自分達の体が機械で成していることを知っている。
コンプレックスである自身の鈍臭さを意識せずに済むことへの、憧れ。それは彼らに向けたものではなく、自分に対しての物悲しさだった。
一層のこと機械の性能だからで片付けてしまえるのなら、この鈍臭さも赦せたかも知れない。
「でも、レニーはお姉ちゃんが有機物でも関係ないよお! 遊べなくても良いからあ! 一緒に居たい!」
帰れないという不安から純真無垢な少女と戯れていたわけだけれど、そのおかげで物凄く懐かれてしまった。
私、見知らぬ土地で初めての妹が出来たよ。父。母。
自分をお姉ちゃんと呼ぶ彼女の笑顔を見て、故郷にいる両親を思い浮かべた。
「ふう……。仕方ない。このまま居ても、何も分からないことに変わりはないからねえ。解散しようかー」
本当にお手上げ状態らしい博士は、もう用は無いとばかりに退室を促してくる。
「ほら、君たちも。いつまでも纏わり付いてないで、自分達の役割に戻ってー。特にレニーくん」
「えーっ! やだーっ! 一緒に寝たいよお!」
私から離れまいと腕にしがみつく少女を名指しするも、彼女は一向に離れようとしない。
「君は寝ないだろう?」
まったく……と、博士も微かに呆れている。
確かに彼女の体は疲労を知らないだろうけれど、懐いた年上の女性と一緒にいたい気持ちは良く分かる。
小さい頃。
両親と距離を置いていた時期、私にも親しくしていた近所のお姉さんがいた。もう顔もよく覚えていないけれど。
お姉さん、元気かな……。
レニーの真っ直ぐな好意は嬉しいが、それでも年上として彼女を宥めなければならない。
私も、このぷにぷにでフワフワの可愛らしい彼女と一緒に寝るのは吝かではないが…………というか、大歓迎だ。ベッドで待っているわ。
でも……。
『レニー、今日はもうお終いだよ。また明日あそぼう? ね?』
次も遊んで欲しいお姉さんから言われてしまえば、不満があっても頷かなければならない、と思っている様子の彼女につい口元が緩む。
ああ。可愛い。美少女。可愛い。
『正義』
しまった。つい汚らわしい心の声が漏れた。
こちらの失言にも少女は首を傾げてくるだけ。その仕草がまた一段と可愛い。
ぜひ連れて帰りたいけれど、さすがに自分から「また明日」と言ったばかりなので口に出すのは控えた。
「レニー。明日。彼女。会える」
「本当ですか? 師匠」
「本当」
「わかった! お姉ちゃんに会いたいから、レニー良い子にしてる!」
博士の威厳は丸潰れだが、さすが師匠というべきか彼女も今度は素直に頷いた。まあ博士の威厳なんて始めから無かった気がするけれど。
眉を八の字にする少女は、私との再会を約束して名残惜しそうに見送ってくれた。
私の横を歩くふたりの男には一瞥もくれずに。