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さよなら、世界。  作者: 不知火 初子
2章 サヨナラ、世界
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【15】惜しむ思いも残していく




 お姉ちゃんの家を出て傘を差し、いつかロベルトと出会ったあの薄暗い通りへ行くと、退屈そうに空を眺めていた彼は荷物に埋もれてよたよたと歩く私をみて苦笑した。



「準備はいい?」



 家から持ち出したものの量については触れず、いつかみたいに手を差し出してくる。

 彼の確認癖はどこかで見たことがあると思ったら、私が大好きなファンタジー小説に出てくる男前の吸血鬼が、よく人間の女の子にそうしていたっけ。


 彼もそういう存在だったら良いのに。

 まだ願望の先を諦めきれない自分を内心で嘲笑し、魔法が機能している世界へ行けることを純粋に喜ぶべきだと気を引き締める。



「あんたが私を不安にさせたことあった?」


「そういえば、ないね」


「白々しい」


「厳しいこと言うね」



 こんな軽口の応酬なんて今はどうでもいい。



「ほら、はやくしてよ。私はもう、この世界に用はないんだから」


「ふうん? そんな風には見えないけれど」



 茶化すというよりは、こちらを心から心配している顔だ。


 自分がどんな顔をしているか。そんなもの見なければ気付くことはないのに、不覚にも鉛色の空を湛える水溜まりが、差している傘ごと私の顔を反転させて映した。


 雨天で暗いおかげで比較的鮮明なその顔には、見るからに悲痛な感情が乗っている。

 いざ、彼の手を取ろうとした間際の出来事だった。



「どうしたの?」



 そう問われて初めて、自分がどんな行動を取ったのか知る。

 掴もうとした流れのまま彼の手を払った。自ら、その手を拒んだ。



「やっぱり……やっぱり、両親を置いてなんて行けないよ。それは、きっと正しくない……」



 知らず知らずのうちに目頭や目尻に溜まる涙がこぼれる頃には、両親と離れたくないという気持ちで充ち満ちていた。



「わかった。君の意思を尊重するよ、もちろん。でも覚えておいて。君が望むなら、あの世界は待っているから」


「ありがと。もう一日だけ時間をちょうだい」


「もちろんだよ。俺はいつでも君を待っているさ」



 甘言も良いところだ。甘々だ。だからこそ甘えてはいけない。甘やかしてはいけない。

 でも今だけは、その言葉を盾にしよう。ここに残ることを考えた抑制と諦めの言葉ではなく、他の選択があるからこその強みとして利用させてもらおう。




 ◆◆◆◆




 再び家へ着いたとき、いつもより早くに訪れた日の入りは雨雲に隠れて誰に知られることもなかったはずなのに、辺りをより一層暗くした。


 周辺の家はとっくに夕食時間を迎えているのか、温かい料理の香りが漂ってくる。私の家では、薄味嗜好の娘に合わせた薄味料理が各種並べられる。


 会いたかった両親は、関係が上手くいかない時でも変わらず私を思い遣ってくれた。頭ではもちろん分かっている。彼らの想いを頭では理解している。

 でも心がこの世界ではないと、ここには何もないと訴えている。


 私がなりたいものは確実に存在している。それはこの世界ではないけど、自分がなりたいもので生きている人がちゃんといる。


 そのことを知った今、見つけたことを教えたい。例え望んだ超生物にはなれなくても、魔法が使える世界があることを教えたい。そして、これからそちらで生きていきたいのだと言いたい。

 小さい頃の夢が叶うと言ったら、両親はまたおかしなことを言っていると思うだろうか。


 もしワガママを言ってもいいのなら、良かったね、って言葉を二人の口から聞きたい。



「ただいま」



 荷物を階段下に置いて、廊下を進む。

 キッチンカウンター越しにこちらを見た母が、昼間のことを申し訳なく思っている様子で微笑んだ。



「さっきはごめんなさいね」



 出た。

 母はいつも私より先に謝罪を口にする。


 あの時だって、母は自分が悪いのだと言った。その同じ口で、あとになって私のいないところで泣きながら吐き出すくらいなら、どうして始めから私に言わないんだろうと思っていた。


 でも違うのだ。私が聞きたくないという雰囲気を出していたから、母は私には何も言えなかった。


 けれど昼のときは違った。はっきり言わないといけないと思ったのか、それとも衝動的に口を滑らせたのか。たぶん後者だ。

 だから今、母は視線すら合わせてくれないのだろう。



 一度二階の自室へ戻り荷物を扉のそばにおろすと、下で玄関の開く音がした。

 帰ってきた父に応える母の声も、上階からでは不明瞭だ。


 階下へ向かうと、ちょうど父がリビングに繋がる扉を開けたところだった。少し時間を空けて父の後を追う。テーブルに並べられた料理を前に、二人は一瞬だけ顔を強ばらせた。



 三人で過ごす夜はこれが最期になる。そのことを悟っているのは自分だけ。


 いつもと変わらず、禁忌に触れようとしない息の詰まる空間で、いつもと変わらず繰り返される強引な日常会話を交える両親。私だけそこにいない日々が、明日からこの家に訪れる。


 これで気を遣わなくて良くなったと胸を撫で下ろしてくれる二人なら、たぶん自分でもこんなに彼らとの時間を名残惜しいと思うことはなかった。


 悲しむのか、寂しさを覚えるのかは分からない。私が二人に何かを想うように、二人も私に何かを想う。形にしても名前をつけても表しきれない感情がきっとある。

 そういうものを私は今抱えていて、二人もいつか抱えることになる。


 哀しい想いは私だけでいい。両親には私が生まれ育ってきた時以上の幸福を手にして欲しい。


 そのために忘れることが必須なのだ。記憶がある限り、思い出してしまうのだから。


 いつも通りの虚しい会話。いつも通りの詰まらない空間。これでいい。そうしてこのまま、何の違和感もなく私がいたことだけ忘れてくれたなら……。




 食事を終え、両親に就寝の挨拶をして部屋へ戻る。


 階下から物音がしなくなり、すっかり夜も更け月が天辺で淡い光を放つ時間帯。

 少し仮眠を済ませた私は手紙を書いた。


 実際記憶の改竄なんて出来はしない。一部を思い出しにくくするよう薄めることは出来ても、記憶した物事と似た体験をして想起されれば状況やその時に抱いた思いが戻る可能性は大いにある。


 ならせめて、手紙には忘れてくれと書く以外に、二人のことで願うものはなかった。

 産んでくれたこと、育ててくれたことの感謝と、傷付けてしまったことの謝罪を改めて書き記し、自分はもう大丈夫だから安心して忘れてくれという旨を書いて封筒にしまった。



 それから足音を忍ばせて階下のリビングへ行き、テレビ台の引き出しから家族のアルバムを取り出して、その場で自分が映っている写真だけ抜き取る。


 幸い両親と一緒に被写体になったものは入園式や卒園式、小中学校の入学式や卒業式くらいなもので、自分しか映っていない写真を合わせても数枚程度でこの作業は速く終わらせることが出来た。


 自身の被写体嫌いがここで活きてくるとは想像もしていなかったな。


 抜き取った写真をどうしようか部屋に戻ってから悩んだが、外で燃やすことも家の中で燃やしてしまうことも出来ず、向こうの世界へ持っていく鞄のなかへ無造作に突っ込んだ。


 このまま何事もなく朝を迎え、どこかに出掛けるかのように自然に家を出ることが出来たら、あとはもう彼の手を掴むだけ。


 もしかすると、娘の失踪で大騒ぎになるだろうか。

 でも、こちらへ戻ってきたときに時間が進んでいなかったことを考えると、私が今日向こうへ行ってここに帰ってきたとしても去ったばかりの同じ時間からこの世界の時間が動き出すかも知れない。


 その間、こちらの世界に住む人たちがどんな状態にさらされるのかは考え始めると栓のないことである。 何せ私はそこにいない。


 存在していたものを存在していなかったことにするのは可能かどうか不確かだけれど、念の為に大始祖様あたりにでも相談してみよう。



 私の思考は、既にあちらの世界を基準に動いている。そのことが今だけは奇妙で、ひどくおかしかった。



 もう一眠りしようかと十数年お世話になったベッドで横になったが、意識が冴えてしまったのか一向に眠れる気がしない。

 感傷に浸るのは今はやめよう。

 ベッドに染み付いた洗剤の匂いに包まれながら、これから起こる環境の変化を想像し胸を膨らませ、最期の朝を迎えた。



「おはよう」



 誰かに対してする挨拶がこんなに大切だと、私は今の今まで気付くことができなかった。両親も学校も社会も、こんなことを教えてくれる人はいなかった。


 リリスやお姉ちゃんでさえ。


 泣きたい気持ちに駆られるのは、離れがたいと思っているせいだろう。

 ほら。やっぱり後ろ向きな方へ考えてしまう。


 彼は待つと言ってくれたし、もう一日だけこの世界にいてもいい。

 そんなことを思ってしまう。



 おはよう、二人の声が交互に返ってくる。

 朝ご飯を置いて自身の椅子を引く母と、既に食べ終え朝刊を読む父。


 いつもの朝の風景がそこにある。



「いただきます」



 合掌してお箸を伸ばす先は、食べ慣れた大好きなひじきの煮物。私好みの薄味で、母の手作り料理のなかでも格別に好きなもの。


 濃い味が苦手な私のためにと、味噌の専門店まで買いに行ってくれた白だしを薄めたお味噌汁は、仮眠しか取っていない身体に良く沁みる。


 ここにも大切なものはあった。両親とお姉ちゃんとリリス。

 それ以上にどうしようもなく求めてしまうものがあった。


 それだけのことだと言うのに、何も言わず出て行こうとしていることが罪を犯している気にさせる。やはり残ろうか。あと一週間、それとも何年?


 言い出したら切りがない。

 どこに世界にいたって、私はウジウジと正否のない考えを巡らせてしまう。


 やめよう。こんなことを考えるのは。


 私はあの世界へ戻ると決めた。

 ロベルトにも、一日だけ待ってと告げた。



 父が仕事に出掛ける。


 私も朝食を終えたらすぐ家を出よう。



 一度出るのを渋ってしまえば、きっと出づらくなるだけだ。


 夜中のうちに書いた手紙は、自室の勉強机に置いてきた。

 もう後戻りはしない。

 私は18年間を共にした家の扉をゆっくり開け、閉まりきる直前までドアノブから手を離さなかった。





 ――――。


 朝から郵便局に寄ってきた。お姉ちゃんの家に行くことも、もうなくなる。

 預かっていた鍵は、お姉ちゃんの本棚の奥に隠れていたメモに記してある宛先へ送った。


 どこへ届くかは不明だが、彼女が残していった唯一の知人の所在宛だろうから何も心配していない。


 昨日と同じ薄暗い通りへ着くと、あの男は雨足が収りつつある空を見上げていた。

 ロベルトは私を見つけると、何も言わず私が両脇に抱えていた荷物を片手で持ち、空いたもう片方の手を伸ばしてくる。


 迷いは見ないふりして手を重ねると、自分の手が少し汗ばんでいることに気付いた。

 知らないだけで、自分は緊張してばかりの小心者だったらしい。



「ねえ、ロベルト」


「なんだい?」



 彼に話し掛けると、こちらに向き直り首を傾げている。



「私がもし、このままあの世界で暮らして、世界から住人として認めてもらえたら、教えてくれる?」



 あの世界は意思を持っている。それはアリーシャもこのロベルトも言っていたこと。


 世界の意思に認められたものは住人になることができ、住人は世界の主流である魔法という力を使うことが出来ると言える。

 なら、私も世界の意思に認められたら、多少程度に差異が生まれるとはいえ魔法が使える可能性がある。


 私の質問の意図が掴めないのか、彼は眉を顰めて暫く沈黙した。



「……その……他の世界への行き方を少し。少しよ? ほら、他にもどんな世界があるのか気になるでしょう?」


「そうだね。それなら最初にこの世界への行き方を教えてあげるよ。特別にね」



 何故か合点がいった顔をしてそんなことを言うから、そうではないと手を強く引っ張り慌てて訂正を試みる。



「べ、別にここじゃあなくたって……」


「素直じゃあないなあ。そのとき俺が帰り方を教えなかったら、どうやって戻ってくるつもりなの?」


「……それってずるい。はあ。分かった、素直になる」


「それ本当?」


「ええ。……でも、それは今じゃないからね!」



 言葉ではこれ以上勝てないと諦め、手を繋いだままロベルトを睨み上げる。


 眉を八の字にして声もなく「ごめん」と表す彼が、さっきとは異なる慎重な小声で口を動かし始めたとき、またあの日のように瞼が重く閉じていく感覚があった。






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