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さよなら、世界。  作者: 不知火 初子
2章 サヨナラ、世界
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【14】なみだの夕立




 今の時間、家には母しかいない。

 仕事でいない父を待つべきか迷ったけど、そうしている間にまた自分の考えが沈下してしまうのではと不安になり、気持ちが落ち着かなかなった。


 ほら。こうしてまた徐々に気持ちが下降気味になる。自分が間違っている気になる。

 これからしようとしていることはただ誰かを傷付けるだけで、自分の衝動をぶつけるだけの自己満足でしかないのだと思えてくる。


 精神(きもち)に締め付けられる鳩尾に触れると、いつもはそこにないものの存在を感じた。服のお腹辺りに忍ばせたアリーシャの手紙が少しだけ冷たくて、私はどうにか平静を取り戻すことができた。


 大丈夫。話すだけ。傷付けるためじゃない。ただ訴えるだけじゃない。

 打ち明けるだけ。受け入れてもらえなくても良いんだから。


 自分に暗示をかけて母親の前に立つと、知らず力んでいたのか足の爪先に痺れを感じた。



「お母さん」



 呼び掛けただけで、相手の顔がわずかに強ばる。お互いに躊躇してしまう。

 声をかける側も、応じる側もこわいのだ。

 恐れているのは、自分だけじゃない。


 母は警戒している。その緊張が直に伝わってくるようで、後ろ手に組んだ手先が微かに震えた。



「あのね。私、――――」



 小さい頃から妙な生き物に興味を示していたこと。

 それが度を超した結果、言ってはいけない言葉をぶつけてしまったことの謝罪。


 あの時自分が欲しかった言葉。

 聞いてほしかった言葉。


 これまで堪えてきたこと。自分を抑え付けてきたこと。

 今年の春に経験したこと。向こうの世界で起こったことや感じたこと。


 戻ってきてから今日まで、何を考えていたか。

 これから自分がどうしたいのか。



 何もかもを話した。

 冷静な私とは違って、母親は明らかに動揺している。


 そりゃそうだ。異世界に行ったなんて、そこでは魔法が存在しているなんて聞けば、誰だって飛躍した想像上の出来事だと思うだろう。


 戸惑うのは分かる。私もはじめは驚いていた。

 ただ好奇心によって平常心に戻り、困惑は二の次だっただけ。




 話し終えて数秒後、取り乱し始めたのもやはり母の方だった。



 どうして今更またそんなことを言うのか。

 何故そんなことを言うのか。


 現実を見て。夢に溺れないで。

 戻ってきなさい。

 あなたは――――ただの人でしかないでしょ。



 母の言葉を耳にしているあいだ、不思議と悲壮感はなかった。

 はじめから期待していなかったのもあるけど、今になって、何故あれほど脱力感に見舞われていたのか謎だ。


 わからない。私と母では、分かり合えない。



「お母さん。私は人だよ。でも自分の目で見たものを、話した人を、時間を共有した人を忘れたくない。存在していないことにはしたくないの」


「だめよ、忘れなさい。どうせ、やけに鮮明な夢を見ただけなのよ」



 笑えてくる。


 再び姿を見せたロベルトという男に私が言ったのと、まったく同じ言葉だ。

 やっぱり自分はこの母の子だと納得し、けれど彼女とは決定的に違う個人なのだと痛感する。



「お母さん。理解してくれなくていいから。お願い。私、あの世界へ行きたいの」


「おかしなことを言わないで!」



 叫んだ後、リビングテーブルに腕をついて頭を抱える母の姿を見て、「ああ、またか」なんて俯き足下を見つめる自分がひどく滑稽だった。


 そうか。これ以上は、もう届かない。


 私は少し早足で玄関へ向かい、そのまま外へ出た。


 ダメだと分かっていた。やっぱりだ。納得などしてくれない。でも。親だから。だって。

 分かっている。おかしいのは私で、母も父も正しい。私が駄目な子だから、彼らは叱るし否定するのだ。


 異世界なんていう不可解で、自分の知らないここではない何処かへ行くと話しているのだから、親の反応にも頷ける。

 けれど、それでも私は行きたい。


 あの場所へ。あそこでの生活へ戻りたい。


 あの環境で、私は自分の心が躍るのを感じた。


 生きているという感覚に触れた気がした。


 私はあそこに居たいんだと、こっちに帰ってきてから実感した。

 だが、もう戻れない。

 あんな風に言われたら、これ以上傷付けたくない相手をどうやって見放せばいい?


 また、傷付けた。彼らのことを蔑ろにしようとした。

 否定されて、自分のなかに留まっていた柔らかい何かが千切れていく。

 簡単に散っていく。



 泣いた。声もあげず、ただ静かに泣いた。

 空が同調するように変化する。


 今日の予報は雨。お天気お姉さんの言った通り、間違いなく降ってきた。

 それも分かっていて、外に飛び出した。

 傘立てにある自分の傘を、懐かしさと共に引っ張り出して。


 ポツポツとあたる水滴が冷たくて気持ちいい。

 熱していた頭も、じき冷めることだろう。


 私は持ってきた傘をさした。雨に濡れるのは好きじゃない。

 だけど雨の音は好きだ。

 コンクリートで跳ね返る音。傘に当たって散る音。家の屋根から落ちてくる音。何の障害もなく宙に浮いているとき、無音で落ちてくるだけの存在感のなさ。


 この一定の感覚を保つ音は、私の気持ちを落ち着かせてくれた。


 雨は好きじゃない。降っていると何故か虚しくなるから。


 でもこうして雨のなかにいると、傘が遮蔽物の代わりとなって私と外を切り離す。

 跳ね返ってくる雨粒が足の素肌に当たって冷えていく。


 雨のなか、ひとり佇む。

 周りだけが動いている。


 私は一人、傘をさしながら茫然と立ち尽くしている。

 傘の小間越しに見える空は鉛色をしていた。


 静寂が私をひとりにする。

 周囲とは別の時間軸にいるような錯覚に、私は漸く自身への不満の根底を見た。


 そこにあるのは自分の願いだけだ。

 自分の恋い焦がれた想い以外のものなど、はじめから存在していなかった。




「ロベルト」



 本当に不思議だ。

 向こうの世界では口に出来なかった言葉が、今は滑らかに出てくる。



「俺の名前、呼んだ? 呼んでくれたの?」



 二歩先で傘も差さずに立つ名前の持ち主は、声にわずかな興奮を滲ませた。



「そうよ。知っているんだもの。知っているのに、知らない振りはできない」


「そうだ。知らなかった自分には戻れないからね。君のことだって、同じことが言えると思わない?」


「……まさか、私の望みを誰かに聞いたの?」


「いいや、聞いていないさ」



 彼の言葉を信じてもいい。

 だってきっと、私の本当の願望を知っているのは大始祖様だけで、あの人は不用意に他言することはしないから。


 アリーシャが認知していることと言えば、あちらに居たとき自分の世界へ帰りたがったことと、自分の世界で何かあったんだなという憶測くらいだろう。



「でも、君が頑なに口を閉ざしていることは知っている」


「なら、何も言わないで。何も訊かないで……」


「そんな顔しなくていい。俺は君を傷付けたいわけじゃあないんだ」


「……別に傷付いてはいないわ」



 首を振って正直に話すと、ロベルトはホッとした笑みをこぼした。



「正直、もうこの世界にはいたくない。逃げたと思われてもいい。みんな頑張っているのに自分だけ良い思いをしようとしているのかって、卑怯者だって言われてもいい。私はあの世界へ戻りたい」


「よし、じゃあ決まりだね。ほら!」


「え、ちょ、ちょっと待ってよ! もしかして今から行くの? でもどうやって……⁉︎」


「前回と同じに決まっているさ」



 こちらの返事を待たず、目を閉じるよう促してくる男の目の前に手を突き出した。



「わ、わかった。その前に一つ確認してもいい? 荷物を持って行くことは出来ないの?」



 もし可能なら、リリスの書籍だけでも持っていきたい。

 大事な思い出が詰まっているから。



「ん? ああいいよ」



 却下されることも考え心構えをしていたが、相手の返事は思いの外あっさりしていた。


 重量制限は特にないらしいが、生き物や家具などの大きな物質は遠慮してほしいとのことなので早速家に帰り、衣服や靴、それからリリスの本など外せない、或いは手放せないものだけを幾つか鞄を用意して準備する。


 140と120サイズのバックを抱え、大容量のリュックにリリスの本と下着を数着入れて背負った。こうして荷物を分けておけば、例えボストンバッグは無理と言われても手放せないものを入れているリュックだけは持っていける。


 背中と両脇の荷物にふらつきながら外へ出ると、季節のせいか少し汗ばむ。どうやら残暑は降り続ける雨さえも温めてしまうらしい。



 もうこの世界へ戻ってくるつもりはなかった。これで最期になるからと、せめて幼少期によく遊んでいた、思い出深い近所のお姉ちゃんの家に向かうことにした。


 数年ぶりに訪れたお姉ちゃんの家は経年劣化から逃れたらしく、彼女が過ごしていた頃のまま残っている。

 庭からは、汗ばむ身体を冷やすような心地良い風が吹いた。



「久しぶりだね。お姉ちゃん」



 門に錠前はなく、どこにでもある一軒家の横にスライドさせる戸が重厚な音をガラガラと立てる。

 彼女が持っていた鍵をいなくなる前に預かったまま放置していたのに、庭と同じく家のなかは埃や煤のない綺麗な状態だった。


 変な話だが、掃除している誰かを想像することが出来ない。

 鍵は私が持っている一つだけのはずだからだ。


 けれど彼女は、私が擦り傷を負って帰ると「みんなには内緒よ」なんて変な歌を歌って痛みを和らげてくれていたから、他に不思議なことが起こっていたっておかしくない。


 むしろ、まだお姉ちゃんの不思議が残っているのだと思うと、郷愁に似た気持ちを覚える。――――自分が生まれ育ったこの世界で、唯一留まりたいと思える場所だから。



 色褪せて黄色くなった畳の窪みに触れ、壁際に置かれた背の低い本棚に並ぶ書籍を眺める。

 よく、一緒にリリスの本について書かれた記事を読んだりして、たくさん話して、たくさん冗談も言って、彼女が淹れてくれる美味しいお茶を何度もおかわりした。


 当時のことを思い出していくうちに、湧き出るように連想されていく記憶が私に幻覚を見せる。薄ぼんやりだったお姉ちゃんの顔が目の前で鮮明さを帯びていく。


 たった一人、本心を曝け出せる対象だった彼女が、はじめてリリスの本を薦めてくれた日のこと。そして彼女のことが大好きだった私はもちろん、彼女が好きな本も大好きになった。

 近所に住んでいて、家に帰りたくないと渋る私の頭を、困ったような顔をして柔らかく撫でる手も大好きだった。



「お姉ちゃん……」



 リリスの本をめくり、ふと口からこぼれ出る。

 私は、お姉ちゃんの名前を知らない。訊いても教えてはくれなかった。




 名前? ふふ。それは内緒。……でも、そうね。

 ――――お姉ちゃん、って呼んで欲しいかな。




 お姉ちゃんは、私をひとりの人間として扱ってくれた。

 無知な子どもではなく、物事をよく理解出来る相手として話してくれた。


 だから、彼女が語り口調でもらす言葉はいつも難しくて、話のあとで首を傾げる私に彼女はいつも決まって「今は分からなくても、いずれ思い出して理解してくれたらいい」と、頭をソッと撫でてくるのだ。




 ――――いい? 未景ちゃん。……本当に賢い人っていうのは、両極端を持ち合わせることが出来る人のことよ。

 それは分かり易く例えるなら、自分から見た自分の価値観と、社会から見た自分の価値観とを共立させることが出来る人のこと。

 正しさや間違いに関してどちらに重きを置くか、それは自分で決めたらいい。そういう思想や価値観に限っては、他人の言葉ほど当てにならないもの。

 自分がどうしたいのか? それだけよ。


 ――――ただ勘違いしないでほしいのは、自分の思いや価値観や思想に従って行動したことが、必ずしも他者や自分を幸福にするとは限らないってこと。

 自分の思う正しさと社会的な正しさが一致すれば、たぶんそれは正しい。けれど、そう思わない人にとっては、自分と社会は間違っていることになる。反対に、自分の思う間違いと社会的な間違いが一致したときも、たぶんそれは間違いなのよ。でも、そう思わない人にとってはその逆になるの。

 つまりね。価値観なんてものは、いつだって不確かで不明瞭で形をいくらでも変えることが出来る代物なのよ。だからこそ、どんな時に自分が行動を起こすのか、そのタイミングは自分次第。


 お姉ちゃんはね、自分を正しいと思ったことはないし、反対に間違いだと思ったこともない。例え社会が間違いだと言っても、自分が正しいと思ったら動くし、自分が間違っていても、社会が正しいなら動く。両方を理解する精神(こころ)の問題なの。


 ――――穿った目で物事を見てはダメよ。

 一度そういう目で見てしまうと、社会ばかりが正しいだとか間違っているとか、自分だけが正しいとか間違っているとか、ややこしい思いを抱えて苦しく生きることになるわ。

 何も基準がないからこそ、世の中は美しいの。その矛盾を抱えて生きるからこそ、人は人らしくいられるのだと思うの。


 ――――まあでも、そうね……。

 一番良いのは、双方の意見が対立していないことかしら。

 妥協できる余裕が互いにある状態が好ましいわ。

 けれど、人はそう多くの時間を、同じ価値観で共有しえない。だから対立する。そういう生き物でもある。社会ばかり気にして自分を抑えることも違う。自分のことばかりで社会を蔑ろにすることも違う。

 わたしを含め、人ってそういう生き物なのよ。どんな環境にいたってね。





 彼女の話はいつも難しい。

 最期と自覚して思い出すのは、とりわけ難しいけれど、特別衝撃を受けた言葉だった。





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