【13】私が戻りたい場所
「こんなものを見せて、ずるいよっ……。まるで、――――まるで本当に私があの世界にいたみたいじゃないの」
「いたよ、君は。あの世界にいた。俺と一緒に行ったし、アリーシャと過ごしたし、あの城のなかで君は存在していた」
「こんなに残酷なことはないわっ! せめてっ、せめて夢だと思わせてよっ! 夢だったんだって残念がらせてよ――っ! 本当に起こったことだったら、こんな奇跡みたいなことが事実になってしまったらっ……私は…………」
あの世界はぜんぶ私の夢想でしかないのだと思わなければ、現実のものではないと思い込まなければ、もう一度行きたいなどと思ってしまう要素を無くさなければ……。
なのに現実だったら、夢じゃなかったのなら、私はどうすれば良いの?
「君がどう受け止めるかは自由だよ。けれど、アリーシャがいたことは、彼女が君を慕っていた気持ちだけは認めるんだ。そうでなければ本当に、あの世界もアリーシャのことも、君のなかで偽物になってしまうよ?」
「だって、もうあっちには行けないんだよ⁉︎ もう駄目なんだよ! 認めてしまったら、もう私は駄目になっちゃうんだよ……! 行き場のない希望を抱いたって! すぐ諦めなくちゃいけない希望を抱いたって、ただ生きづらくなるだけでしょう……?」
「それが、君がこの世界で望んだことなんだね?」
望んだ?
違う。これは望みとは言わない。これは自分を縛り付けているだけ。
自分はこの世界の人間以外にはなれないのだと、必死に言い聞かせている最中なのだ。
それでも馴染めずどうしようもなくて、いつかは消えるだろうなんて夜空を眺めて願う。
小さい頃に抱いた夢を忘れられるように。
消えてなくなりますように。
はやく、すべて無くなってしまいますように。
ぜんぶ、感じなくなってしまいますように。
「君は恐いだけだろう? また傷付けてしまうのが嫌なんだ」
「そんなんじゃないわ」
それにもう手遅れだ。私は傷付けている。それも二度だ。
「ねえ、気付いて。君は以前アリーシャと話した時、彼女の口に出して望むべきという考えを受け入れなかっただろう。けれど同時に、君は彼女を否定しなかったんだ。受け入れることより、否定しないことのほうがずっと大事なんだ。心には、すごく必要なことなんだよ」
言うと、彼は私に手を伸ばそうとして、寸前で腕を下げた。
「でも、私は両親を否定した。普通の人以外にはなれないと困った顔をする二人の言葉を、私はずっと否定してきたんだよ。それを悟られないようにしてきたけど、口にしなければそれで良いわけじゃない。密かに否定する度に、私のなかの両親を何度も傷付けている。思い出のなかでずっと過去の二人を否定しているの。私は……私には出来ないよ。誰かが傷付くくらいならって思ってる。あんたの言う通り。だって自分が苦しいだけなら、我慢して気付かれないようにすれば良いだけだもの。大切な誰かが傷付いて苦しむ顔を、泣く顔を見てしまったら、もう私は……」
「そうか。やっぱり……どうしても君は、いつだって自分より他人を選んでしまうんだね。――――俺はただ、君に……」
「何の話?」
「……ねえ、初めて会った日、俺の手を取った時、何を感じた? 何を思った?」
「え?」
「恐かった? 苦しかった?」
「そんなことない。何も……何も嫌なことは起こらなかったよ。だって、あんなに凄い世界に連れて行ってくれて、私には夢のようだった」
「夢じゃあないよ。現に俺がここにいる。俺が君を惑わせたことがあった? ――――まあ、リュネスのことは俺からも謝るよ」
「ううん。あれは何でもないことよ。だって、それを含めたところで、あの世界が私の理想郷であることには変わりないもの」
赤い彼女のことがあったって、それは向こうの世界を疎む理由にはならない。
だけど、もうあそこへ行くことは出来ない。
こちらの絶望に似た感情を垣間見たのか、彼はふかく、ふかく溜め息を繰り返して目を閉じると、深夜の月みたいに静かな視線を寄越した。
「……君だって見たはずだ」
彼は他意なんてないような澄ました顔で言う。
「あの世界を目にしたはずだ」
「やめて」
「アリーシャと話して、大始祖さまと話して、博士やキリス、レニーと話して、あっちの世界でだって、君は生きていただろう? そのことも、君は夢だっていうのか?」
「そうよ。質感が現実に酷似しただけの、私の夢で……あれは……――――どうして、そんな顔するのよ?」
つらいのは私で、堪えているのは私で、我慢しているのも私で……。
なのに、どうして今にも泣き出しそうな顔をされなくちゃいけないのよ。
「夢、なんて……」
戸惑って声を出せずにいると、彼の息が微かに震える。
「夢だなんて、言わないでくれ。――――俺はここにいるし、君に触れたことだってある。こうして話すことだって出来るし、見えているんだ。もし……仮にこれが事実でないというのなら、……今この状況すら夢だというのなら、俺の存在は一体どこに……」
「何? 何のはなし?」
「俺は、ずっと、もうずっと永い間、自分の存在を証明してくれるものを探してるんだ」
彼の声は、混乱しているように辿々しい。
こんな切迫した表情を見るのは初めてで、私はいつの間にか息を殺して見つめていた。
「――……何を言っているの? あんたの居場所はあの世界にあるでしょう?」
「君の夢の中なのにかい? ――――ごめん。意地悪なことを言ったね。……俺の生まれた場所はあの世界ではないんだ。あそこに俺を証明してくれるものは何もないよ。あの世界にはないんだ」
「あんたも……心の底から何かを望んで、探しているのね?」
「そうだよ。君と同じさ」
「あの日、ヒトにしてくれって言ったのも、同じ理由?」
「どうかな……? 同じ想いからきているのかは曖昧なんだ。でも、ヒトになりたい」
目の前の男も、自分以外のなにかになりたがっている。
彼の切実な願いの言葉が、私の願望と合致するような錯覚を感じた。
「どうすれば、あんたはヒトになれるの?」
「ほんと、どうすれば良いんだろうね?」
その男はどこか自分を嘲るように笑う。望むこと事態が不毛なのではないかという想いが、きっと彼のなかにも存在するのだ。
「ずっと考え続けているけれど、まだ漠然としているんだ」
「分からないのに願うんだ? 変なの」
「変わっているかな? …………確かに変だね」
彼は笑う。
その顔を見て、私の心にずっと潜ませて言葉に出来ずにいた疑問が、鎌首を擡げた。
「ねえ。どうして、私だったの?」
彼とあの世界へ行くのが私である理由はあったのだろうか?
もし誰でも良かったと言われたら、それはそれで失望しつつ納得もできてしまえるのだろうけど。
「君にこだわる理由かい? ――――それは……今は言えないんだ。ごめん」
「そう……分かったわ」
彼の口振りからして、誰でも良かったわけではないらしい。今はその曖昧な言葉だけでも十分、胸の辺りに引っ掛かっていた靄を小さくすることができた。
◆◆◆◆
唐突に訪れた彼の存在と、アリーシャの手紙という証を手にしたことで、胸のなかに痞えていた意思が明確なものとなった。
私はやっぱり、あの世界へ戻りたい。
少し考え事に耽りたいと、ロベルトには一先ず家から去ってもらったのだが、昼を過ぎても考え事を続けているうちにどうしても思考に集中できなくて外出を選んだ。
夕暮れを過ぎ玄関先で靴を履く私の背中を見て、後からやってきた母の顔には不安が浮かんでいることだろう。
「夜には帰ってくるから」
いってきます、と声をかけるよりかは、きっとこの言葉の方が今の私を縛ることが出来る。背後に気配だけは感じていて、けれど返事はまたず家を出た。
いつも出歩く際に使っている道がある。昼間でも人気の少ない、暗くて木々の鬱蒼とした道は、この時期になると特別涼しい。
深呼吸をしてみると、案外空気なんて美味しくないものだ。
これからのことを考え悩んでいると、頭のなかを覗かれているような心地悪さを覚える。
「あの男の次は、あんたってわけ? 何よ、みんなして」
「安心せい。儂はそなたをからかいに来ただけじゃ」
振り向いた先には、少し服装の乱れた大始祖様がいた。
「質が悪いわよ」
「話すという行為を躊躇うなど、そなたからは考えられんがのう」
言いたいことを言うだけなら簡単で、問題はその都度傷付く誰かがいることが頭から離れないことなのだ。そんなことにも頭を悩ませる私はどうしたってただの人なのだが、大始祖様はどうも何かを勘違いしている。
「……ねえ、私はどうすれば良いと思う?」
「悪いが、儂では、そなたに見合う言葉はかけてやれぬ」
誰よりも秀でているこの人なら、きっと相応しい答えをくれる気がした。
なのに返ってきたのは、以前信じるということについて話した時と同じで、頼りない言葉と表情だ。
「どうして……。どうして願っては駄目なの? 口にするだけなのに、どうして駄目だったの? そんなに耳障りだったのかな? あの人たちにとっては…………」
知らず知らずのうちに声が掠れていく。
目から流れ出しているものが涙だと、暫くの間は気付けなかった。
「私はただ、なりたいだけなの。今の自分が嫌いで変わりたいだけなの! どうしても好きになれないから! どうしても万能に、千でも百でもいい! 自分の不完全な部分を減らして、出来ることが増えた自分を好きになりたいだけなのにい!!」
何故。どうして。何がダメだった? どうすれば良かったの?
その場で泣き崩れる私に、大始祖様は何も言ってこない。
呆れてどこかへ去ってしまったのかと思ったけど、少し時間を空けてから私のジーンズのポケットに軽く触れてくる。
そこには今朝受け取ったアリーシャの手紙が、折りたたまれた状態で入っている。
「誰かの言葉なら信じられるのじゃろう?」
そうだった。この人は、思考を覗き見てくる。
「今回は、訂正は控えよう」
こんな時によくそんな意地の悪い冗談が言えたものだ。
こちらの卑屈な思考をまた見たのか、今度は大袈裟に溜め息をつかれた。
「それ以上感傷に浸るのはやめることじゃ。どうしてと繰り返したところで儂は何も出来ん。そなたが自身を否定している限りはな。そなたを阻んでおるのは、そなた自身ではないかのう?」
「私だって、好きでこんな性格になったわけじゃないわよ」
なりたいものにはなれないと言われ、それでも抑えられない願望を隠し続けているうちに、いつの間にか自分の考えを明かす言葉だけ口に出来なくなっていた。
それを今でも取り払えないだけだ。
鎖のように巻き付いて――――。
《その鎖、巻き付いているというよりは、あなたがしがみついているのではなくて? まるで、それが無いと自分ではないとでも言いたいのかしら。陰気なものですわね》
勝手に想起された言葉が、あの嫌な声ですらすらと脳内再生される。
《とにかく、そんなものでわたくしに対抗できるとお考えだなんて、浅はかですわ》
赤い白金のお嬢様と二人きりになったあの日。
話の流れで今のような鎖の話をした私に、彼女はそう言って厭な笑みを浮かべた。
だったら、他の方法を教えてよ。
自分を押し殺す以外に、あの頃の自分に何ができる?
何もできない。何もないから、無力だったから、何を望んでも無意味に思われる。
彼女にも言った。
誰かが思うとおりの望みでないと、口にすることすら嫌悪されてしまうのだと。
確かに私は超常的な存在になることはできないし、魔法だって使えない。それでもいつかは人より秀でた部分ができるのだと言ってくれても良かったのではないか。
リリスのように、負傷した痛みだけでも不思議な歌の音色と一緒に飛ばせるような、そんな他愛ない魔法で良かった。
実際になれなくても、力を使えなくても良かったはずなのに。成れない、出来ない、無理だと言われた声を思い出すたびに、望むことに歯止めが効かなくなってしまっただけなのだ。
自分でもここまで大きな願いになるとは思わなかったし、これほど重たくなると分かっていたら多分望まなかった。
私はただ知って欲しかっただけなのだ。
自分が何を好きなのか。何を欲しがったのか。
どんな自分になりたがっているのか。誰かに聞いてほしかった。
《なら、何故いつもそんな不満顔を晒していますの? 見ている周囲に気遣ってもらいたいからではなくて?》
違う。そんなことではない。
私が欲しいのは、そういうものじゃない。
理解されなくてもいい。理解されないこともちゃんと知っている。理解し合えないことも判っている。そんな取って付けたような安っぽい同情なんて求めていない。
なのに話せないのは何故。
言葉にするだけなのに、口を開く前から諦めているのは何故。
妥協でも、諦念でもない。
それは私がよく知っている。自分のことだから。
ただ傷付けたくないのだ。
傷付きたくないのだ。
そう言葉をもらしたあと吐き出された相手の溜め息は、わずかに怒気を含んでいた。
《わたくしが嫌悪しているのは、あなたのそういう点ですわ。理想は理想でしかないと現実を見ているふりに甘んじ、現在の自分と向き合うことを恐れているだけ。そうして今の自分を否定し続けているのでしょう。理想を語るばかりで、そのために現在の自分に何が必要か、何を為せば理想に近付けるのかと考え続けることを諦めているだけですわよ。理想を抱くなんて馬鹿らしいと、現実はこうだと自分に思い込ませ片付けてしまえるのでしょう? なのに自身が諦める理由を他人に当てはめ、強いられていると他者を見下す。だから、あなたのことが嫌いなのですわ》
あちらの世界の言葉を聞き取れなくなったのは、このすぐあとのことだ。
あの時は聞きたくない言葉を聞かずに済むと考え、少しホッとしている狡い自分がいたが、やはり彼女の言うことは正しかった。
私は自分で鎖にしがみついている。
外せる見込みはない。離す手段もない。
その鎖が錆びて千切れてしまったら、私はもう、私を繋ぎ止めておけるものを持っていない。そうして自分がこんな状況なのは他人にそう望まれたから、そう思うよう期待されているからと他者の所為にしている。
空っぽで、無価値で、無情なただの人だ。
「それでも、そなたは欲してしまったのじゃろう? あの世界を」
「……そんな大きなものは要らない」
「環境や人の輪を世界と言わずして、何と呼ぶ?」
大始祖様によって過去の記憶から引き戻され応えると、こちらの言うことを茶化すように悪戯な目を向けてくる。
「自分以外が存在する環境や輪を、私の世界とは呼べない。誰かの世界であると同時に、私の世界でもあるってだけよ」
「そなたの世界はどこにある?」
「私の世界は……たぶん、ここではないわ」
「なら、そなたはどう行動する?」
「決まってるじゃないの。だって、もう無かったことには出来ないんだもの。見えないふりはもう疲れたの」
いつ千切れてもおかしくない鎖は、きっと回想夢や徘徊癖でどうにか保っていたのだ。そしてあの世界へ行き夢見た望みが実際に存在すると知って、新たにしがみつけるものとして認識してしまった。
古いものは棄てて、新しいものに飛びつく。
あのお嬢様は嫌いだと言いながらも見抜いていた。私は常に目先の物事に囚われ、自己意識を他者に委ねているだけだということを。
はじめから諦め、策を講じることさえしていなかったことを。
「話せば理解してもらえるわけじゃないけど、知ってもらうことはできる」
自分を横切り帰路を辿る私に、賢者風情のおじさんは深く肯いて見せた。