【12】夢幻に混ざる
「――ん……、またか……」
ベッド上部の窓から差し込む朝陽が、私の瞼の裏を朱色に染める。
目元のベタつく跡を拭ってから、もう一度布団を深く被り直した。
この世界へ戻ってきてから三ヶ月が経つ。
例の回想夢を見る季節は終わった。
あっちの世界で過ごしたことを時々思い出すけど、やはりそこに現実味はなくて、まだ夢物語だと言われたほうが納得しやすい。
ただ、おかしなことは続くもので。こちらへ戻ってきてから夢は見なくなったというのに、徘徊癖が収まる気配はなかった。
陽射しがアスファルトを焼く匂いに、思わず噎せ返りそうになる。撒き水の上に遊び半分といった感じの陽炎ができる時期でも、早朝と深夜だけはまだ過ごしやすい。
これから夕方にかけて空気に熱を溜め込むためか、立っているだけで汗が吹き出てくる心地悪い時間がやってくる。けれどそれも、あと一週間で涼しくなると思い込めば我慢できることだ。
誰のためでもなく自分のためだけに時間を割いていた夏休みを終えると、社会や学校の時間に合わせて行動し、顔も知らない教師や同級生に倣って敷地内に拘束される。
まあ後半は知らないというか、私が人の特徴を覚えていられないだけなのだけど。
あちらの世界でも抑制は受けていたというのに、実際こうして比べてみると自分の世界のほうが窮屈だ。
ひとり悠々と過ごせる時間は、ここではあまりない。
向こうの世界のように、一人の時間が欲しい。誰かと話すより、熟考していたいのだ。
家にいる間は親と顔を合わせ、昼間に外へ出掛けたら近所の人と顔を合わせ、学校へ行けば教師が気を回して話し掛けてきたりする。
ぜんぶ、私には要らないものなのに。
話し掛けられたら気が散るし、無視をすれば攻撃されたり反応を過剰に求められたりと、事態が悪化するだけ。
思考に耽る時間が好きで、こっちが黙っていると「何か怒っているの?」なんて問いかけられたら纏まりかけた思想がまたあちこちに散らばってしまう。
それが嫌で、あまり人と関わらないようにしている部分もある。
こうした対人への苦手意識が払拭されたのは、アリーシャたちに出会ったからだ。彼女達は多少強引さが目立っていたけど、無理強いだけはされなかったからだと思う。
自身に宛がわれた部屋では一人きりでいられた。
でもそれは、あちらの世界での話だ。ここでは、変わらず人を避けることでしか自分の時間を保てない。
なのに拒絶すればするほど相手の気持ちを壊し、跳ね返ってきたモノで自分のことも壊してしまう。
誰のことも傷付けず、誰からも傷付けられたくない。
私が我慢すれば、それらの面倒事や負傷は予め避けられるだろう。
だったらこの世界で私がするべきことは、やはり自分を押し殺すことなのだ。
例え、このまま毎年夢を見続け、毎日夜遅くまで徘徊することになっても。
この世界を、満たされないまま生き続けるのだ。
そう……決めたはずだったのに……――――。
「みかげ、もう夜遅くまで出掛けるのは、やめにしないか?」
夏休み中は朝からずっと宛もなく外を彷徨いている。いつも通り日付が変わる前に帰ると、両親がリビングで待っていた。
父の声がわずかに憐憫を含んでいると思ってしまうのは、私がその言葉を聞きたくなかったからだろうか。
もう二度と、こういう会話を交わしたくないと思っていたせいだろうか。
あれ以来、触れてこなかったことに、今さら触れないで欲しいと思った私がおかしいのだろうか。
「お前も、もう年頃の娘だ。心配なんだよ。人の目が少ない時間帯に出歩いて、何かあったらどうするんだ?」
お父さん。
私、この春に人気のない薄暗い道を歩いて、「ヒトにしてくれ」なんて言う異世界人に遭ったよ。しかもその相手に、異世界へ連れて行ってもらったよ。
今にも「ごめん」と口を窄めてしまいそうな父に、そんなことを言ったら顔を顰めるだろうか。
「みかげ、その……」
「うん、やめる」
言葉尻を小さくする母の声をそれ以上聞きたくなくて、遮るように告げる。
鳩尾の辺りに鈍い痛みを感じて、頭が空っぽになったような喪失感に吐き気を覚える。
「もう、やめるね。だから――――」
だから、そんな顔しないで。あの頃みたいに泣きそうな目で見ないで。
もう、わかったから。
「おやすみ。お父さん、お母さん」
戸惑いながらも、胸を撫で下ろしたように微笑む二人を視界から外した。
部屋へ戻るとゆっくり静かに、色んな場所の引き出しや中に入れてある箱の蓋をすべて開けてみる。
本と一緒に並べた小物入れや、勉強机の引き出しや、それからベッド下のアクリルケースにクローゼットの前に置いてあるスツールまで、ぜんぶ中が見える状態にした。
どこを探してもない。残っていない。何も無い。
私があの世界へ行った証は、どこにも無い。
ぐちゃぐちゃになった部屋の隅にうずくまって、夜明けのあかい光が私の小さな世界を照らすさまを無心で見続けていた。
我慢。ひたすら我慢。
いつもやっていることだ。習慣化していたと言ってもいい。
我慢することが当たり前でちゃんと出来ていたはずなのに、自分を圧制しているという自覚を持ってからのほうが生きづらい。
私はなんて駄目な人間なのだろう。
普通になれないのは何故か?
みんなと同じように生きられないのは何故なのか?
どうして、私は私だったのか?
嫌いだ。自分のどんくさい身体も、この心も。
自分のすべてが嫌いだ。
こんなに自分を否定して、私の望むものは無いと社会を否定して。それでも、この気持ちの拠り所は既にあちらの世界にある。
もう、駄目なのだ。
私は駄目なのだ。駄目な人間なのだ。生まれたことが間違いだったのだ。生きてはいけないのだ。
自分を好きになりたくて誰かを傷付けてしまうくらいなら、私は一生自分を嫌い否定し続けていかなければならないのだ。
「どうしたの?」
「……」
「どうして、城にいた時以上につらそうなの?」
「……」
「ああ、もしかして、また言語が違ったのかな。は、ハロー?」
「ハロー……じゃなくて……。――――どうしているの?」
「どうしてって……心配だから見に来ちゃった。てへ」
突然、部屋の窓辺から顔を覗かせた人物は、少しくぐもった声で最後に笑みを添えた。
外から見たら十分に不審者扱いされると考え、とりあえず彼を部屋のなかへ入れてあげると、散らかった中の様子をみて肩を竦めた。
「で、もしかして普段からこうなの?」
前触れもなく去った私に向ける眼差しは、出会ってからずっと変わらない。
理知的で優しい彼の琥珀の瞳に絡め取られそうになって、それは何故か、しちゃいけないことのように感じて目を逸らす。
「そんな訳ないでしょ。いつもはもっと綺麗よ」
「いつも綺麗にしているのは知っているよ。――――まあいいや」
そもそも、どうして普段の部屋の様子を知っているのよ。
……まあ、いいけど。
「それで? わざわざ何をしに来たの?」
まさかヒトにしてくれなんて言う、妙なお願いの延長じゃないわよね。なりたいなら勝手になればいい。私を巻き込むのはやめてください。
この男が来たところで、何の期待も抱いていない自分に気付く。
またあの世界へ連れていってもらおうだなんて、そこまでご都合主義な考えは持っていない。行っても帰ってきたくなるだけだ。
郷愁ではなく、罪悪感で。
「ああ、実はアリーシャから手紙を預かってきたんだ」
「アリーシャが?」
受け取った便箋は薄い茶色を帯びていて、彼女の綺麗な髪色を想起させる。
秀麗で丁寧な字体から、手紙を書いているアリーシャの姿を想像した。
【拝啓 親愛なる主様。
そちらの世界では朝夕にかすかな秋の気配を感じておられることでしょう。
こと主様におかれましてはますますご健勝のことと存じます。
此度こうしてお手紙を差し上げたのには理由があります。
シーモス殿から言付かった主様の御名を口にする機会は訪れないことでしょう。
けれど、それで良かったのかも知れません。
なぜなら、こちらの世界の意思が名を縛ってしまう虞があるからです。そしてわたくし自身、その名を口にして心から主様のご帰郷を慶ぶことができなくなると、そんな自分を恐れ、ずっと躊躇っておりました。
ですが、此度こうしてお手紙を書いておりますと、やはり、主様の御名をつい、声には起こさず唇だけで描いてしまいます。
ですのでせめて、この便りの中だけでもその名でお呼びすることをお許しください。
みかげ様。
みかげ様なら、きっと大丈夫です。
優しく、賢く、思慮深く、そしてご自分のみ責めてしまう貴女様ならば、きっと大丈夫です。
けれどそんな貴女様だからこそ、とても傷付きやすく、時には誰かを傷付けてしまうことでしょう。
そうして誠実な貴女様は、ご自身をお嫌いになることでしょう。
みかげ様。わたくしは貴女様を心からお慕いしております。
みかげ様がご自身をお嫌いになり否定なさったとしても、わたくしは貴女様を慕い肯定していきます。
わたくしは一度記憶したことは忘れない性分なのです。ですから貴女様と過ごした日々を一生忘れることはないでしょう。
貴女様がご自身をお忘れになり、わたくしのこともこちらの世界のこともお忘れになられたとしても、わたくしは貴女様をけして忘れません。
みかげ様。わたくしにとって、こんなにも舌に馴染むお名前とは今まで出会ったことがありません。
きっとこれからも、貴女様以上のお人と出会うことはないでしょう。
文面を締めくくるには不相応なお言葉を送らせていただくことをお許しください。
みかげ様。
貴女様のお気持ちは、貴女様だけのものです。
みかげ様ご自身でしか、そのお心をお話しすることはできません。
他のものではただイタズラに持て余すだけで、役不足なのです。
聡明なみかげ様なら、大丈夫ですよ。
敬具、貴女様の侍女より。
追伸。
貴女様の心からの望みが叶うことを、真に願っております。 】
ああ。紛れもなくアリーシャの言葉だ。
絶対に偽らない彼女の気持ちが綴られているのだ。
黙って去った、敬うには値しない主へ向けるには、彼女の言葉はあまりにも真摯すぎる。
だからこそ、今の私にはもう一度読み直すことなんて出来ないほどつらかった。