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さよなら、世界。  作者: 不知火 初子
2章 サヨナラ、世界
27/31

【11】辛苦痛みだけが現実の証明か




 ――――ふつ、と目を開ける。


 視界の明るさに驚いて膝を崩した。


 私を凍結しはずの博士の姿も、そばで見ていた大始祖様の姿もここにはない。



「ここ……」



 正面に見える西陽、真新しい住宅街。鬱蒼とした暗い道で、頭上には電線が行き交う。

 知っている街で、通い慣れた道の上だった。


 振り返って自身の影を追えば、曲がり角の先は最寄り駅が見える。私が通学に利用する、少し閑静な駅だ。戻ってくる前に想像していたよりも、懐かしさと胸の痛みがともに押し寄せてきて目頭が一際熱くなった。


 私の世界の、私の帰路。

 ここから傾く太陽に向かってまっすぐ進むと、少し斜めに逸れるまがり道がある。

 住宅街の道なりに進むと、薄い黄色の外壁に身を包む自宅の小さな門が見えるのだ。


 私は、帰ってきたのだ。


 すっくと立ち上がり、脚についた地面の汚れを落とす。戻る前に着替えておいた全身を覆う制服を見下ろし、身体のどこにも異常がないことを確かめホッと安堵の息を漏らす。




 学生鞄を抱えて家へ着くと、扉の前で長く深呼吸した。


 私があの世界へ行ってから、こっちではどれくらいの時間が経ったのだろう。

 自宅の扉を開ける寸前に、そんなことを思った。


 浦島太郎の生きづらさを想像すると、足を進めにくい。


 ――カチャ。

 ゆっくり戸を開けると、傍らの台所から出てきた母と目が合う。



「お、かあさん……」


「……あ、あら……驚いたわ。今日は早いのね、お帰り。みかげ」


「う、うん……。ただいま」



 数日、或いは数ヶ月経っていてもおかしくないはずだが、動揺も見せない母の様子に拍子抜けしてしまう。



「おかあさん、今日って何日だっけ?」



 目の前で廊下を横切る姿に問うと、相手は一瞬訝しむような目をした。



「何言ってんの、今日は五月二十日よ。それより、学校はどうだったの?」



 私が異世界へ行ったのは、ちょうどその日だ。


 高校三年生の春。

 二年生からの友だちと同じクラスである喜びも終わり、受験の控えた授業にも慣れてきた頃のこと。

 私が毎年、回想夢を見る季節。現実逃避と帰宅拒否により、夜でも外を出歩く暖かい時期。

 あの日と同じ月と曜日を示すカレンダー。



「うん。普通だよ。いつも通り」



 今日の私は、お母さんにとって普通に帰ってきた娘に見えるのだろう。


 そりゃそうだ。まるで時間の影響を受けていないのだから。

 私が向こうの世界にいた期間が、こっちに戻った途端まるまる無かったことになっている。 


 母が妙な心地を抱くのも無理はない。

 夜通し出掛けていた昨日までとは違い、今日は早く帰ってきた上に日付まで確認してくる娘が玄関で立ち呆けているのだ。


 気まずい視線から逃れるように、靴をゆっくりと脱いで廊下に足をかける。


 家に帰ってきたという感覚とともに、私はまたこの世界に沿う生活を送らなければならないと思うと、言い知れぬ哀愁をあの世界に感じてしまう。



「そう。――――あ、そうだ。今日の晩ご飯は何がいい?」

 サッと振り向く顔は、私がずっと見てきた少し憂いのある綺麗なもの。

「何でも。お母さんのご飯なら、何でもいいよ」

「あらまあ、嬉しいこと言ってくれるのねぇ。よ~し、任せておいてっ」

 懐かしい感覚が勝って、母の姿を見つめる目に熱がこもる。

「お母さん」

「あら~、どうしたの~?」

「ごめんね……」

「あら~ごめんなさいね、良く聞こえ無かったわ。もう一度言ってくれる?」

 母との久しぶりの会話に、思わず消え入りそうな声が出た。案の定、パタパタと奥の居間へ駆けていく母の耳には届かず、代わりに振り返って首を傾げている。

「ううん。何でもないよ」

 迫り上がってきた衝動に負けて、手で顔を覆いながら懐かしい自室へ向かった。



 久しぶりに目にした部屋は、私が異世界へ行く日の朝に見たまま、部屋着や夜用の靴下が奥のベッド脇に散らかっている。

 勉強机や椅子、それから何の飾り気もないクローゼット。

 ベッドに横並びの東側の壁を占める大きな本棚には、私の大好きな小説や漫画が並んでいる。

 その一番手に取りやすい高さの段には、表紙を見せるように並べたある人の作品だけを置いている。

 リリス・R・ロイナ。

 本名は、リリス・リナシー・ロイナ。

 私が初めて手にした彼女の本は、《他の世界から来た私》。

 リリスの処女作で、私の聖書(バイブル)

 自分が支えにしてきた本を抱え、ベッドに倒れる。

 彼女を思い出すと、今でも本から命の熱を感じられた。

 リリス本人はもうこの世にはいないけれど、私の身近に寄り添ってくれる彼女の本を手放すことは考えられない。

 私の大切な恩人だ。

「リリス……」

 名前を声に出しても、応えてくれる相手はもちろんいない。

 亡くなっていたと知って直ぐは哀しくて何度も呼んでいたことがあったし、夢に出てきたこともあったけれど、もう今じゃあこうして本を手にした時くらいでしか呼ばなくなっってしまった。

 ここ数年ほどは眺めるばかりで碌に触れたことはないから、彼女の名前がちゃんと自分の口から出てきたことに少しホッとしている。

 そして私には、もうひとり恩人がいた。

 リリスの本を薦めてくれた近所のお姉ちゃんだ。

 はじめて会った時から何の抵抗もなく、私は彼女を受け入れていた。

まだ小学生だった私は、今より当時の方が罪悪感は大きくて、けれど夜の深さに慣れるにはちょっと恐さが勝る。だから、いつも夕方には帰っていた。そんな時期だ。

 それでも出来るだけ遅く、遅く、両親と顔を合わせる時間を少なく……。

そう考え五分、十分、十五分と帰る時間をずらしていっていたら、偶然散歩していた彼女に出会った。

 西陽の明るさも徐々に紫色を帯びて、「こんな時間に出歩くなんて悩み事があるみたいね」と微笑んで、それからわずかに声音を強くして「ダメよ」と、「あなたを心配してくれる人がいるなら、ちゃんと家へ帰りなさい」と私の頭を撫でた。

 親しい者同士でしかしないような事を初めて会った彼女にされても、私は一抹の不快感も覚えなかった。

 その時から、私は彼女に惹かれていたのだと思う。

 だから、私はつい聞いてしまったのだ。

――――お姉さんのお家、行ってもいい?

 知らない人についていくどころか、自分から行こうとするなんてどうかしている。思えばこの頃から、私の危機管理能力は人より劣っていたのかも知れない。

 当時の私も、流石に家へ行くのはまずいかと笑って誤魔化そうとしたら、意外にも彼女は快く応えてくれた。

「いいわ。その代わり、お姉さん家の電話から、自分の家に連絡すること。いい?」

「……うん。いいよ」

 その日から、彼女と私の交流は始まった。

 毎日家へ行き、帰る時にはお姉ちゃんが送ってくれるか、両親が迎えに来てくれる。

 帰り道、お姉ちゃんとの話で声を弾ませる私を見て、父も母もどこか安心していたのだろう。彼女がいなくなるまで、この関係は続いた。


「みかげ~、ご飯よ~」

 母が階下から呼ぶ声が聞こえ、抱えていた本をベッドにそうっと置く。

 階段の上から顔を覗かせ応えると、そのまま一階へ下りた。

 キッチンカウンターに併設したテーブルに着くと、ちょうど玄関の開く音がする。膝に手をおいて身体を硬くし待っていると、廊下へ繋がる扉があいてその人が入ってきた。

「遅くなったな、わる、い……――――」

 父は私の顔を見てわずかに目を逸らし、母に目配せをして、刹那目を瞑る。私が顔を俯かせ自身の強く握りしめた手の甲を見つめた時、父は声を漏らすように笑った。

「みかげ、ただいま」

 その声が、吐息から漏れ出る感情が、手に取るように分かる。

 彼は今、戸惑い、いつも通り日常会話に努めようと言葉を選んで話している。

 責めて叱って。

いっそ、お前は間違っているともう一度言ってくれた方が……。

 でもそれは私の甘えだ。責められて終わりじゃあないのに、その言葉さえ引き出して受け入れさえすれば、あとは自由に願いを抱えて生きることが出来るなんて。

 私はなんて浅はかで、救いようのない愚か者なのだろう。

「おかえり、お父さん」

 けれど、お互いに口にすることは二度とない。もう傷付けたくない私と、私が何を望んでいるのかという話題に触れたくない彼らとでは大差はない。言葉にするのを躊躇い避けるだけでいいのだから。その空気が、三人の間には流れているのだ。もう何年も、何年も。

ずっと――――。

席についた父も母も、それから私も、日頃テレビで流れるニュースや近所間、仕事先の同僚との間で噂されるような、そんなつまらない話ばかりする。



 息が、詰まりそうだった。



 部屋へ戻った私は、またリリスの本を抱えベッドで横になる。

 いつもなら外を出歩いている時間に家にいるというのは、とても違和感がある。

三人でご飯を食べるのだって、他の世界へ行っていたこととは別に、本当に久しぶりのことなのだ。

 きっと、これからも私と両親の関係は変わらない。互いに遠慮してでしか、一緒にいることはできない。

あの世界で感じた穏やかな日々は、もう手に入れることができないのだ。

 まあ、あっちでもややこしいことに巻き込まれはしたんだけれど……。

 といっても黙って出てきたわけではないので、胸中にしこりが残ることはなかった。

 はは、出てきただって……。

まるで戻るつもりのような言葉だな……。

 私は自分を笑うことしか出来ず、耳を伝って流れた雫が温暖な気候とは裏腹にひどく冷たく感じた。




 ――――。

 「みかげちゃん」

 「なあに? お姉さん?」

 「君はいつも、どこか心が上の空ね」

 「その言葉知ってる。でも自分がそうなのかは分からないよ」

 「そうね。でも、お姉さんには、君が幸せを感じているようには見えないのよね。どうしてかな?」

 「……」

 問われて、自分の悪行を隠しているような気持ちになる。彼女は首を傾げるだけで、それ以上を無理に聞こうとはしてこないけれど。

 お姉ちゃんはいつも優しかった。

家に帰りたくない理由を聞かない。どうして親と顔を合わせる時、一瞬ぎこちない表情を三人揃ってするのかさえ。

 当時、私は答えなかった。応えられなかった。

自分でも理由が分からなくて、ただ顔を、目を背けることしか上手くできる自信がなかった。

 お姉ちゃん。

違うよ、お姉ちゃん。

 これまで、そのことを考えなかった日はない。

 どうして自分は、いつも不完全さを感じているのか。

 私はずっと、満たされないことが当たり前で、一生叶うことはなくて、絶対に辿り着くことのできないものを望んでしまったのだと思ってきた。

 でも一度は行ったのだ。

ここではない、私が望む生を歩んでいる人が住む場所へ。

 たぶん、私は幸せな環境にいる。家庭環境に恵まれ、お姉ちゃんと出会い、リリスの本と出会い、珍しい体験をした。それでも、私のなかでまだ燻る想いがある。

 恵まれていることは分かっている。けれど、それは周囲が、親が、お姉ちゃんが、リリスが与えてくれたものだ。他人の力で得た恩恵で、そこに私が努力し、自ら望んで得た幸せは何一つとしてない。

 私は、自分が心の底から渇望した幸せが欲しい。

 それを人は高望みとよぶのだろうか。きっと呼ぶのだろう。

 所詮は儚い幻想。どうせ頭のおかしな妄想。

 それでもいい。

高望みでも何でもいいよ。

 それでも私は幸せになりたい。満たされたいの。

 恵まれているのになんて言われたくない。それは誰のためのもの、って言い返したら、意地悪な人だと思われるだろうか。

 でも、だって、それは私のために用意されたものじゃあない。私に消費されるためだけに存在する幸せではないでしょう?

 ねえ、お姉ちゃん。そう思わない?

 あなたは幸せだった? あなたの大好きで大切にしてきたものを否定された時でも、あなたは幸せだったの?

 私は苦しかった。

 満たされなくて、傷付けて、罪悪感だけが残って、あなたを失った。

 リリスの本を嬉しそうに見せてくるあなたを見て、心から笑えている自分が好きだった。好みが合わない人もいるのよ。と微かに瞳を潤ませて笑うあなたを見て、小さな身体の奥で脈打つ心臓は痛いほど締め付けられた。

 それだって幸せの一部だったけれど、もうあなたはいない。

 記憶を遡るだけで胸中に暖かさが戻るなんて、私はなんて酷い人間なのだろう。

その上、置いていった両親が何も知らないからって、同じ日々を繰り返そうとしている。

 あの世界を離れた時、私は言語や数値を理解できなくなっていた。そのタイミングで自分の世界へ帰ると言い出すなんて、自身の都合しか考えていない結果ではないか。

 そばにいてくれたアリーシャは、どう思ったのだろう。涙をこぼしながらも笑って納得してくれたけれど、本当はどう感じていたのだろう。

 もしかすると、至らない所為だと自分を責めているんじゃあないか。あのリュネス様とのことに尽力できなかった自分に憤りを感じているのではないか。

 それは違うよ、アリーシャ。

 誰も悪くない。私だけが悪い。ぜんぶ私のせいだ。

 こんな性格だから私はたぶん、幸せをちゃんと感じることはない。どこかで、これは自分のために用意された幸せではないと思ってしまうから。

 でも、社会や世間、一般的な人たちが言う幸せだって、私の幸せにはならないってことだよ。

 だからね、お父さん、お母さん。

私の幸せに、誰かの幸せをあてはめないでよ。お願いだから……――――。




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