【10】さよならのシグナル
引きこもり生活二週間目といったところか。
相変わらず自室に運ばれる食事も、ずいぶん前から慣れたように待ち構えている自分がいる。
昼食も済み、午後はキリスから受け取った資料にもう一度目を通し過ごしていた。
ここ最近の日課というより、何もすることがないから考察に明け暮れているという感じだ。
例の赤髪の女性と彼女に付き従う女騎士のこともあり、城内を出歩くことすら控えているので時間は腐るほど余っている。
何か変わったことがあるとすれば、アリーシャが小一時間ごとに部屋へ訪れるようになったことくらいだった。
彼女が部屋に滞在する数分の間に交わす会話と言えば、もっぱら異世界人の資料のこと。
けれど今日だけは、この部屋にいつもと違うことが起きた。
扉から顔を覗かせた侍女は礼を取り、その足でこちらへ近付いてくる。アリーシャの耳元に口を寄せて報告を終えると、彼女たちは私に礼をとり二人して部屋から去ってしまう。
それから数分は資料と睨めっこしていたけれど、ふと部屋の扉向こうで物音がした気がして、様子を見るため廊下に出た。しかし人の気配はなく、気の所為かと思い直して部屋へ戻ろうとした時だ。
「あなた、こんなところにいらしたのね。これほど忌々しいと感じたことはなくてよ? 吐き気が止まりませんわね。あなたが、ロベルト様のお部屋にいらっしゃると思うと」
まるで晴天の下にして晴れですねと口から溢すみたいに、ごく自然に相手は背後から話し掛けてくる。例えこの世界の記憶を消されることになったとしても、彼女の陰湿な声だけは忘れない自信があった。
『何のこと? この部屋は城に貸してもらっているだけで、元々が誰の部屋かは知らないんだけど?』
引いても逃げても圧し負ける。
部屋へ飛び込んで鍵を閉めるより速く、彼女かあの女騎士に捕まる気がした。それに、突飛な登場を果たす彼女たちなら、鍵を閉めたところで部屋へ容易く侵入できてしまいそうだ。
扉のへりに手をかけたままゆっくり振り向き、赤髪の女性と対峙する。彼女の白金色の瞳は、前に会った時よりわずか濁っているように見える。
「城から与えられたことは真実にしても、この部屋の結界をそのままにしておくなんて、よほど周囲の贔屓に甘んじてらっしゃるのねぇ?」
『意味が分からないわ。結界って何のことよ?』
「そんなことも知らないで、この世界にいるなんて驚きですわ。……良いでしょう。親切なわたくしが教えて差し上げますわ。――――この部屋には、外からの侵入を防ぐ仕掛けが張られていますの。受け入れる相手を選別し、受容する対象以外には扉を視認することが出来ない」
『私はそんなこと知らなかったわ』
「ふう……無知にも限度がありますわよ。あなたみたいな人が、どうして重宝されているのか些か疑問ですわ。――――けれど、容赦はしませんわよ」
この期に及んで何を仕掛けてくるつもりだろうか。
また壁に縫い付けられるのは遠慮したいので、周囲に目を配りながら後退する。
そこへ、アリーシャの声が響いた。
「リュネス様! どうしてこちらに⁉︎」
「あら、アリーシャ」
リュネスと呼ばれた相手はくるくるの巻き髪を翻して乱入者を見据え、腰に手をあて呆れた声を返す。
「わたくしが婚約者の元の部屋を訪れただけで、そのような青い顔をして。大袈裟ですわよ」
「リュネス様には、きちんと部屋を貸し与えているはずです。ロベルト殿も、今はご自身の部屋で退屈を凌がれていますよ」
「婚約者を餌にこの場から退かせる算段でしょうけれど、それは浅慮というものです。わたくしは、この方にお話しがありますの」
「リュネス様!」
更に言い募ろうとするアリーシャをおいて、リュネス様とやらは私を真っ直ぐに捉える。
「安心なさって結構よ。彼の結界のおかげで、扉付近のこの場では、部屋主に傷一つ付けることは適いませんもの」
ふんと息をつく彼女の言葉に、アリーシャはホッとしたような息を漏らした。
「――――だからと言って、そこの娘を結界の外へ連れ出そうと言葉をかけても、おとなしく付いて来させることは出来ませんでしょう? この城内ではどのみち、大始祖様に筒抜けですものね」
そうだ。
例え何が起こっても、あの人には隠し通せない。
彼女の言っている通りなのに、私は彼女からうまく逃げることが出来ないでいた。
「まったく……信用されていませんわね。本当に何もしませんわ。ただ、言葉を交わすだけよ」
赤い女性の言葉でグッと黙り込むわりに、アリーシャは不安げな表情を浮かべる。
リュネス様の言葉は、きっと研ぎ澄まされているのだろう。
慎重に、私の内部まで貫けるほど鋭く尖らせた言葉の刃を向けてくるはずだ。
それでも、向き合わなければならない。
時期が今だっただけだ。
ずっと、ちゃんと話してもらわなければと考えてもいたから。
『分かりました。リュネス様』
敬いたくもない相手に敬称を付けて、少し吐き気を覚えた。
私の盾になるつもりなのか、アリーシャは歩み寄ってくる。
だけど、私は彼女に首を振って退くよう促した。
きっと、優しい色を纏う彼女はずっと、私を護ってくれていたのだ。
部屋へ入る前にみた山吹の瞳は、主を気遣うように潤み揺れている。
朗らかな温もりを湛える目を険しくして、この赤い女性と私が触れ合わず済むように。
今の遣り取りでそう悟れるくらい、彼女の表情は切迫して見えた。
けれど、私は護られてばかりではいられない。
この世界から去る身であろうとも、せめてアリーシャの、引いては目の前の赤く美しい彼女の憂いが晴れるのなら、私は大きな声で訴えなければならない。
自分とロベルトは無関係なのだと。
招くように扉を大きく開くと結界とやらの効果が変化したのか、赤い髪のお嬢様はすんなりと部屋へ入ることができた。
心配そうに眉を顰めるアリーシャの視線を背中に感じつつ、私はリュネス様と二人だけで部屋の奥へ引っ込んだ。
「まずは、はっきりさせておくことがありますわね」
『何のことでしょう?』
「あなた、自分の世界へ帰るつもりがありまして?」
部屋に設えたソファを自身が陣取り、私には立っているよう鋭い目で促したあとで彼女は発した。その表情はひどく可憐で、状況や関係が違えば美しいと思えたかもしれない。
でも今の彼女から感じるのは、薄汚れた主観的な思考に付随する強い感情だけだった。
私と同じく激しく望むものがあり、手が届かないことに葛藤を抱えている。
たぶん似たもの同士で、私が欲しい《この世界の住人》という立場を彼女は持っていて、彼女が求めている《ロベルトの隣に立つ》証を私が無意識のうちに手にしてしまっているのだ。
だから、お互いのことがこれほどまでに気に入らない。
「あなたは、ロベルト様とのことだって周囲が、彼が勝手にしていることで、自分にとっては不本意なことなのだと思っているのでしょうけれど、それは大きな間違いですわ。あなたはその状況に甘えているだけですの。放任して、関係を築くのを面倒に思っているのでしょう?」
『そうだよ。面倒に思っているのは認める。だって相手を傷付けたくない。程よく仲良くして、程よく離れていたい。浅い関係も嫌だけれど、深入りしても良いことは何もないわ』
「それは自分に甘いだけですわ。程よく親しくなる方法なんてありませんもの。そんな都合のいい関係性なんか築けるはずがないですわ。それは傲慢ですわよ」
虚ろに燃える白金の瞳が私を射貫く。
自分の中にある箍が、不自然に外れた音がした。
◆◆◆◆
「――――っ!」
「~~~~っ!」
「――――……」
「~~~~! ……っ!」
朝から二人が言い合う姿を見ているが、何を言っているかは分からない。
城を行き来する侍女たちに関しても、話す声は聞き取れるが内容までは分からなかった。現に、目の前の男女が浮かべる表情からでしか、二人の状態を察することができない。
「――――っ」
アリーシャの声は、突っ張るような音に。
「~~~~っ」
ロベルトの声は、畝って聞こえる。
試しに博士の元へも行ったが、結果は二人と同じで会話らしい会話はできない。
思考で会話ができ、唯一言葉を交わせる大始祖様に目配せをしても、彼は微笑むばかりで通訳をしてくれる気配はない。
言葉をただしく解釈できない日は、もう二日も続いていた。
あの赤い髪の女性と対峙した、まさにその日だ。
彼女とほとんど言い争うようにして時間が経ち、途中から彼女の言葉を聞き取れなくなり戸惑っているところへ、アリーシャが仲裁に入ってきた。
その時から、私は大始祖様以外の言葉を認識出来なくなっている。
「――――?」
「~~~~?」
アリーシャも、ロベルトも、ただ見つめるだけの私を見て表情を歪めた。こちらが曖昧な微笑みを浮かべて応えると、更に弱々しく眉を顰める。
『ごめんなさい……』
昼食も済んだ午後。
私は、二人きりで話したいと大始祖様に声をかけた。
「そなたが聞きたいことは分かっておる。じゃが、不思議に思ったことはないかのう? 街へ出た時、感じた違和があったはずじゃが」
相手の第一声に、私は自分の記憶を探る。
おかしな点といえば、この世界へくる過程からおかしなところだらけだ。
変な男に声をかけられ、異なる世界へ連れて来られ、そこの住人と生活している。
「大きな出来事ばかりに目を奪われては、物事の本質は捉えられないのじゃよ」
そう言われても、本質がどうとかは分からない。
この世界を知るにも基準が設けられているし、誰もこの世界の詳しい状況について話してくれる人はいなかった。
「もう一度問うぞ。街へ出たとき、何か感じなかったかのう?」
『街……?』
何かあっただろうか。
商人の街であるナリス街へ行った時にはロベルトという男と博士が一緒にいて、私は店先に並ぶ商品を見ていて倒れた。
買い物に関してだって、どこもおかしな点はなくて……。
『違う……おかしかったんだ……』
漏れ出た言葉に、大始祖様は得意げな顔を見せる。
あの時、後ろから付いてくるロベルトが支払いを済ませていたけれど、私はきちんと値段を見て買い物をしていた。
その際には店の人とも少しばかり会話している。
通貨認識や対話がおかしな点なのだ。これまで人と普通に話せていたことが異常なのだ。
私が知っている異世界の話では、余所の世界観や世界情勢を認識することは出来ない仕組みになっていた。そこには勿論、言語や五感も含まれている。
そして博士が作成した資料にも、異世界の人と言葉を交わせない事例がいくつも載っていた。
彼自身が直接話した三人目の女性だって、途中から言語が理解できるようになったと書いてある。その変化がただ世界に馴染んだという理由かは分からないが、私には彼女と反対の順序で事が起こっている。
言語が解り、世界観が分かり、通貨も判る。
事情が変化すると同時に、女性は体調を崩し初めて――――。
――――私は、言語が認識できなくなっていった。
『私、帰らないと……』
「そうじゃのう。早速、シーモスを呼ぶ」
呟くようにもらしたその声は、どこか愉快そうだった。
研究室に来た私たちを見て…………というか目を合わせる大始祖様の肯きに、博士は両目を細める。
「僕を呼ぶってことは、――そういうことだよね。兄さん?」
大始祖様の通訳のおかげで、博士の言葉が分かって安堵している自分がいる。
「資料にも記したようにロベルトくんの知識だけしか頼れる技術がない」
そう通訳越しに言う博士は、自分は実際に凍結したことがないから失敗するかも知れない、と付け加えた。
「この娘は、自分の世界へ帰らなければならぬ。そうじゃな?」
現われて直ぐ何か知っている口振りの博士に応え、大始祖様は再度こちらに確認する。
『ええ。そうよ』
「本当に良いんだね?」
読唇術は持っていないけど、見つめてくる眼差しに頷いてみせる。
この世界に居ても、私はきっと出来ない事が増えるだけのような気がするのだ。
そのうちに体調を崩し、誰のことも視認出来なくなるかもしれない。この美しい城も、外の街も視覚で捉えることが出来なくなり、塞がった感覚の窮屈さに今度は吐いてしまうかも。
そうなる前に、帰れる方法があるなら帰ろう。そう考えている。
『ねえ、シーモス』
「あれ? 初めて僕の名を呼んだねえ」
耳に届くのは代役の声だから、いつもの間延びした口調も不自然に聞こえる。
『お願いがあるの』
「何かな?」
『私の名を覚えていて欲しいの。出来ればアリーシャに伝えて。あの男には内緒よ』
「何を考えているのか知らないけれど、名を残してどうなっても知らないよ?」
『いいよ。私は深月未景。お願い。名前だけでいいの。この世界にいた未景を覚えていて』
相手は訝しむようにこちらを窺うけど、しばらくして諦めたのか、ちいさな白衣のおじさんは嘆息する。
「はあ……やれやれ。君って子はまったく」
ずっと、博士に聞いてみたいことがあった。
どうして3人目の女性のように、私を扱わなかったのか。
ただ傍に居るだけの時間が多かったことや、世話をさせるためだけにアリーシャを私のもとへ来させたことも。
だけど呆れているような言葉を吐く2人の面差しが、何故か寂しそうに見えて。
自分のなかにあったすべての問いを、この場では封印した。
それに2人のうちどちらかが答えてくれたって、私はたぶん帰る意思を変えない。
薄々感じていた違和は、自分の存在意義だ。
この世界へ来ても、腐敗した社会の改善や悪魔のような支配者を倒す旅に出ることはなかった。誰かを救うことも、例の男を人間に変える布石すら発生していない。
ただ、異世界に来てみたい。見てみたいと、自分の欲望を満たしただけ。
自分が夢見た世界があって、そこの住人が自分の理想の姿を成していると確認しただけ。
その中で、常に特別扱いを受けて、ただ息をしていただけだ。
私が帰ると知ったら、あの男はどう思うのだろう。
結局、彼が私をこの世界へ連れてきた理由は分からないままだ。
研究室の奥の部屋には、はじめて入る。博士の私物が乱雑に山を築いていて、隣で言葉を我慢する大始祖様の惑うような息遣いが聞こえた。
紙の山のどこから取り出したのか、白衣の男は既に資料の1ページ目を開いている。
前に見せてもらった日記のような資料よりは枚数が少なく、その薄い見た目に頼りない印象を受けた。
内容のほうはしっかり凍結と移動、溶凍について書かれているようで、方法を頭に叩き込むように紙を見つめる表情は険しい。
本当はロベルトという男に――私をこの世界へ連れてきた相手に、元の世界へ戻してもらったほうが確実なのだ。そんなことは分かっている。
でも、私はあの男を頼りたくはなかった。
ほんの少しでも、烈火のごとく迫ってくる赤い女性から離れた場所にいるのだと、安心したかったのだ。
『ねえ、博士?』
「……やるかい?」
大始祖様は、博士の渋る声をも再現する。
それに対し、無言で頷いた。答えは決まっている。
私は帰る。自分の世界に。
憎くて恐ろしくもある、生まれ育った世界に――――。
『よろしくお願いするわ』
仰々しく頭を下げると、相手はちいさく笑った。
「何だか変な感じだね。しかし、何度も言うようだが僕はあくまで知識として方法を知っているだけだ。君が五体満足で辿り着く保証はできないよ」
『ええ。分かっているわ』
正面から見つめ応えると、博士は頭の後ろをボリボリと掻く。けれど、その目はどこか遠くを見ていた。
彼の逸らした視線に潜む感情は、私では見つけられない。
「じゃあ、始めるね」
『……』
私はまた、無言で強く頷く。
無意識のうちに閉じようとする瞼の隙間から、こちらを見守る二人の兄弟を見ていた。