【8】シーモス博士の3人目
――――。
先日。二人きりの夕食時。
僕は彼女に、自分の素性や体質のことを全て包み隠さず話した。
そうしてから、彼女のことを研究したいと告げた。
これまでも言葉の遣り取りだけで、ある程度の成果は得られた。が、やはり行動心理や精神の働きに関しては、本人の協力無しに成果は得られないと考えたからだ。
すると可笑しなことに、彼女は困惑しつつも軽快な笑い声を上げた。
(わたしで役立つなら、どうぞ)
その笑顔は晴天で輝く陽のように眩しく、僕は咄嗟に目を逸らした。
予想とは違い快諾を得られたことが、僕を動揺させた。その日から、彼女の様子や会話した内容、そして彼女の気持ちや考え方、彼女が感じ得たこと全てを紙に書いて残した――――。
そこからの文章は、まるで日記のように綴ってあった。
一日単位で区切られた始まりには必ず、何があった日なのか瞬時に判別できる表題が大きく記載されている。
その中でも特に目を引いた内容には、《肌割れと仮定》と表題が打ってある。
流し読みしていた途中で気になって最後まで目を通し、読み終えると改めて始めから読み返すほどに見過ごせない内容だった。
――――。
数ヶ月経ち、ふと思い出したように彼女の就寝中の様子が気になった。彼女は最近、夢に魘される日が続くと話していたのだ。
偏に観察目的で部屋を訪れると、想像していなかった状態にある彼女が目に入る。
微かに汗をかき、苦しそうにしている彼女の寝顔を見ていた時だ。そのまま彼女が寝返りをうった拍子に、布団からはみ出し見えた肌に驚愕する自分を抑えられなかった。
相手は女性だ。さすがに申し訳ないと察し咄嗟に顔を逸らしたものの、逸らす刹那に視認した露出する肌の異常にも気付いた。
そこに見えたのは、ガラスが細かくひび割れたような、荒れた蜘蛛の巣の模様だ。
そして今、自分が見たものを直ぐに信じることが出来ず、形振り構わず自室に引き返してきたところである。
僕は、どうしてこんなにも狼狽しているのだろう?
――――。一晩経った。
といっても昨夜から一睡もしていない為、日を跨いだ感覚は微妙に無い。
時間に身を任せてはみたが、彼女の肌に見た衝撃を現実のものと認識したくない。
そんな自分は、きっと既に研究者として失格なのだろう。
さておき、朝日が昇りきる前に彼女を起こしに行った。
彼女の姿を直接確認する為である。
夜が明けて間もない時刻なので、彼女は当然まだ就寝中だ。そして、昨夜と同様に服がはだけている。
しかし、覗く肌に自分が見たはずのひび割れは見当たらなかった。
あれは自分が見た幻だろうか。わずかな睡眠時以外ひたすら研究と観察、筆記に時間と目を費やしてきた代償だろうか。
きっと、自分がただ疲れていただけなのだろう。
今日片付けなければならない作業を終えたら、少し眠ることにしよう。
そう思考の片隅に留め、改めて彼女を起こす。
僕は「おはよう」と伝え、相手が「おはよ」と返してきた。
初めての遣り取りではないのに、何故か今日だけは、微かにくすぐったくて暖かい心地を覚えた。
それから二週間後のことだ。
眼精疲労の与えた幻という僕の考えとは裏腹に、彼女は自身への違和感に薄々気付いていたようだ。
自分の存在が、この世界にどう扱われているのか。
きっと、僕がひび割れを見つけるずっと前から気付いていたのだろう。
僕が気付いた当日、こちらから魘された内容をしつこく問い質してしまった。それから彼女は僕を決して部屋に呼ばず、食事も共に摂らなくなった。
彼女とは、扉越しに会話することが増えていった。
僕も部屋へ押し入る勇気などなく、あのひび割れに気付かずにいられる日々に甘んじた。
それから更に、一週間後。
彼女が暮らしていた世界へと繋がる糸口を見つけ、僕は心の底から喜びが溢れた。
そして、真っ先に彼女へ報告に向かったのだ。
合図もなく入った僕をみて彼女は驚き、少し恥ずかしそうな表情を浮かべる。
久方ぶりに見た彼女の姿に、皺などの経年劣化という自然な現象は当てはまらない。
上質で割れにくいガラス細工を固い地面に向け力任せに叩き落とした、そんなヒビが下着姿の全身を覆っていた。
(恥ずかしいな、こんな姿)
彼女は、また笑った。あの日と変わらない、暖かい笑みだ。
僕は考えることを再開した。
それまで思考の外へ追いやっていた自分を、心の底から憎んだ。
いつからだろう? 僕は文字通り項垂れる。
いつから、彼女の状態は悪化していた?
どうして、見つけた日から目を逸らしていた?
知らないことを知ることに快楽を覚える僕が、どうしてあの瞬間だけ見ない振りを出来たのだろう。
その一瞬で色んな仮説が浮かんでは消えていく。
思考の波にのまれそうになる最中、ふと思った。
この世界に来てからだ、と。 彼女はこの世界にいてはいけない。
知識欲に溺れて、見失っていた。
この世界は、自分のものでないと判断した人間を消してしまうのだ。
体だけでなく、当人の思考や関わった者の記憶から全て削除する。
存在そのものを無かったことにしてしまう世界。
そこに、余所からきた彼女を留めさせてしまった。
これは、僕の失態だ。しかし嘆いてばかりもいられない。
僕は素早く、次の行動を取った。
現在、ある人間が世界を渡り歩いているという情報を得ていた。
その人物の名は、ロベルト。
彼には、独学で得た知識で独自の経路を使って数多の世界を往来している、という噂が立っていた。
自身で試した方法は悉く失敗に終わり、頼れる人物は彼しかいないと考えた。
本当に接触したことがあるのか怪しい人物を仲介にして、無心になり何度も救いの文章を送った。
毎日、寝る間も惜しんで彼からの返事を待った。
とにかく焦っていた。
日に日に、彼女の表情は憔悴していく。
当人は大丈夫だと笑うが、自分の体がヒビで覆われることの恐怖や不安を感じないわけがないのだ。ましてや、その現象に苦痛が伴わないはずがない。
当人は決して、痛みや苦しみを訴えないようにしているが。
彼女が動いた衝撃で体や顔から破片がパラパラと落ち、床に辿り着く間際でサラッと淡く消滅していく。
儚いと思った。もう、残された猶予はない。
焦燥と諦念の鬩ぎ合いで、叫び狂いそうだった。
しかし、世界は彼女の消滅を急がなかった。これは救いであると同時に、最後の機会を与えられたのだ。
かのロベルトという男が、僕の目の前に現われた。
返信がなかった為に一瞬では彼をそうとは認識できなかったが、白に近い灰色の髪をした琥珀の瞳を持つ男は、その口から「彼女はどこにいる?」と言葉をもらした。
僕はそのまま、勢いに任せて頼んだ。
「彼女を、凍結して欲しい」と――――。
博士の文面は、初期に比べて分かり易く乱れている。特に彼女の異変に気付いて以降、どこか直情的で消極的な言葉が目立つ。
自分が知っている博士は常に飄々としているため、改めて同じ人物を目の前にしていると思うと少し戸惑う。彼は今、布に包まれ静かな寝息を立てている。
その横で黙して佇むキリスに、私は小声で話し掛けた。
『ねえ、キリス』
「なに」
『……彼女、どうなったの?』
「不明」
『あ、そう、だよね……。――……あれ?』
話している最中、今までと違うものを感じて私はキリスの顔をまじまじと見た。
『キリス?』
「なに」
『キリス』
「はい」
二度目の呼びかけで、彼はその西洋人形みたく美しい顔を傾げる。声は単調なままだが、その仕草はまさしく対人へ問いかける動作だ。
『返事するようになったの?』
わずかに驚きつつ問うと、彼は一度だけ小さく頷いた。
「でも。未完」
『どうして? 呼び掛けに言葉で応えるようになったなら、凄く対話しやすいでしょ?』
「次。語尾。調整」
その調整が何に繋がるのか咄嗟には分からず、数秒頭をひねった。けれど思考虚しく、あとに続いた声で私はその答えを知る。
「んー……語尾の上げ下げで、疑問や驚愕といった感情の起伏を図るためだよー」
『あ、起こしてごめん』
寝不足で辛そうな声に反応して、相手を気遣ってみる。博士は自身にかけられた布を一瞥すると、疲れた目をほぐすように瞼を閉じ、首を左右にゆっくりと振ってみせた。
「博士。起きた。客人。疑問」
「なに? 特異の姫は、僕に聞きたいことがある?」
「ある。はなし。する」
正面に座る白衣の男は布の両端を掴み胸の前で抱え込むと、キリスの後押しと共に私へ視線を合わせる。
『いや、凍結……ここの凍結って、体を凍らせたりしたのかなって』
もし私が口にした通りのことをやってのけたのなら、その後、彼女が無事に自分の世界へ帰ることが出来たのか聞きたい。
そして、アリーシャが世話をしたという人たちの、その後も。
「それは外部から身体への影響を、一時的に無効化することだよ。あとは、そこに書いてある通りのことしか話せないね。僕だって、何でもかんでも知っていて隠しているわけじゃあないんだからねえ」
相手はそう言って机の上に両肘を乗せると、両手の甲に顎を置き退屈そうに見返してくる。その視線の先に借りている資料の束があり、彼の意図を汲んだ私はまた手元の紙に視線を落とした。
――――けれど、ロベルトくんは言った。
それは保つ期間に限りがあるし、力の消耗速度も尋常じゃあない。力加減を間違えると対象を破壊しかねないし、その副作用で使う本人も命がけっていう厄介な代物だ、と。
事情がどうあれ、簡単に引き受ける訳にはいかない。そう彼は話した。
僕はそれを聞いて益々、成し遂げられるのは君しかいないと諭した。手を合わせ、望むことしか知らない子どものように懇願した。
熱心に説得し、ロベルトくんは僕の頼みを聞いてくれることになった。
凍結して、その間に空間を移動させて彼女の元いた世界で溶凍すれば、ひびに覆われた身体も体調の悪化も進行が遅れると考えていた。
だが、簡単な話ではなかったんだ。
凍結をしている最中は、その移動時間が限定される。
ロベルトくんは真剣な表情で説明した。
(俺でも最短の世界へ行くのに、全力を出して一日半。それを凍結させながらだと、さすがに二日は長くかかる)
計算は単純だ。
彼女が元いたアマゾネスという世界は、物理的に遠すぎた。
ロベルトくんが全力を出しても、五日はかかる。凍結を使いながらだと、更に倍だ。
そして肉体の時間を止める術には、定められた期間が存在した。
(俺が頑張っても、一週間。それ以上は、俺自身の存在が消滅するかも知れない。ギリギリまで試したことはないから、あくまで推測の話になるけれど)
灰色の彼はそう語る。そして琥珀の瞳と同じ優しい声で「この世界の力なら、辛苦なく死なせられるだろう」と告げた。
その方法を僕は頑なに反対した。
この世界の方法で死なせるのだけは、どうしても嫌だった。
僕はこの世界が割と好きだ。この世界の力を、万能ではなくとも気に入っている。
だから、自分の好きな世界の力で、彼女を死に追いやるのだけは心の底から嫌だった。
きっと、これは僕のわがままだ。
それでも他の世界へ行ってしまえば、彼女はまだ生きているという希望的観測だけを頼りに生きていられる。
僕は奇しくも、希望を持ちたかったのだ――――。
『希望……』
「おかしいかい?」
博士はこちらを見て、消え入りそうに微笑む。彼の淡い笑みは見たことがなくて、沈黙する以外の反応を瞬間的に忘れてしまう。
『彼女はどうなったの?』
「彼女は無事にこの世界を出て、他の世界で天寿を全うしたらしいよ。……彼女の死は、人伝に聞いたんだ」
彼は資料に手を伸ばし、紙の端をトントンと叩く。
ページをめくれということだろうか?
そう勝手に解釈をして、私は紙を一枚めくった。殆ど空白が占めるページの上部に書かれた文字を見て、落胆を隠せなかった。
――――彼女は、行ってしまった。
そうして、彼女の口から直接聞くことは叶わなかった。
なぜ研究を受け入れてくれたのか。その理由を――――。