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さよなら、世界。  作者: 不知火 初子
2章 サヨナラ、世界
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【6】こぼれる願望に隠された本音




 アリーシャが話し終えて、沈黙がこの場の空気を決める。

 静かで、自身の息遣いさえ煩わしくて、でも彼女の穏やかな呼吸はずっと聞いていたくなる。



「お話しというのは、わたくしの親戚のことにございましょうか?」


『ん? ああ、うん。そうなの。……それだけだったんだけど……』



 他にも目的があったはずなのに、すんなりと思い出せない自分の脳機能が怨めしい。

 こういう時、自分の脳内を引っかき回して記憶を探すことが出来れば、どれだけ《ワスレモノ》を減らせるだろうかと一人考えていた。


 紅茶を啜る音だけが響く静寂のなか、彼女は少し翳った表情で私の顔を覗き込んでくる。



「主様。わたくしはもう一つ、お詫びしなければならないことがあります」


『お詫び……?』



 心当たりのない私の頭に、クエスチョンマークがたくさん浮上する。



「はい。――――以前、わたくしは主様にたった一度の事を気に留めるのではなく、未来への希望を抱くよう申し上げました。なので、主様のお望みを伺いたいと。……ですが、わたくしに主様を諭す資格はありません。この無礼を、どうかお許しいただけますか?」


『……』


「わたくしもまだ、恐れているのです。幼い頃に受け続けた日常と、好色家のもとにいた日々を忘れられずにおります。既視感のある出来事に出会したなら、きっと主様の前で情けなくも体の芯から震え乱れてしまうことでしょう」



 彼女はまだ、囚われている。そう言っているのだ。自分もまだ、過去の傷と周囲からの威圧をこれまで感じ続け、これからも……。


 アリーシャは心の底から自身を情けなく思っているのか、その綺麗に整った顔を歪めた。



「わたくしは、まだ男性が恐いのです。大始祖様はお優しい方ですので、無理のない範囲でいいと仰ってくださいます。ですが、その……ロベルトという男にはつい、きつく……」



 恐れの裏返しが攻撃だと考えると、彼女にギャップと呼べる程度の表現を当てることが果たして相応しいのか疑問を覚える。

 彼女としては、自己防衛のうちなのだろう。攻撃は最大の防御という言葉があるくらいだし。つまり、やられる前にやれ、という考えがあってのことだと思うことにした。



「ですが、抑えこむことが正しいとは考えておりません。抑制というものは、とても厄介です。役に立つ時もあれば、全く逆に働くこともあります。――――主様、わたくしは主様ご自身の考えや望みを、抑制する必要があるとは思えないのです。せめて、口にするくらいでしたら、誰の意思や価値観に阻まれることなく、状況や周囲の空気に憚れることなく、満足に行ってよいのではないかと思っております」


『誰にも……』



 彼女の言っていることは分かる。


 分かるけど……それで良いのだろうか?

 自分の考えを明かしても良いのだろうか?

 願いを、望みを言葉にする資格が自分にあるのか……?


 目を伏せ、自問自答する。


 瞼の裏に染み付いて離れない、大切な人が涙する姿。

 小さい頃、そのことで傷付けた二人が、私から見えないようにと隠れて胸を痛めていた。陰で涙を流していたことを、私は気付いている。二人が気になって毎晩夢に見るほど、傷付けたことを自覚している。


 私が、傷付けた。

 涙を、見たかったわけじゃないのに……。


 今なら分かる。あの頃の私は、自分を好きになりたかった。自分を嫌悪することは、他の誰かを嫌うことよりも苦しくてつらかった。

 その結果、私は自分以外に自分を大切にしてくれる存在を、願いという刃物で刺した。


 だから、次はない。

 一度失敗したから、同じ結果を生まないように気を付けなくてはいけない。

 だから、話せない。話してはいけない。


 だって、また傷付けてしまう。もう、自分以外の涙なんて見たくない。


 彼女は話せと言う。私は話したくない。

 言葉にするのがこわい。

 こわい……、こわい――――。



『こわいっ、こわい――――っ、こわいっ……!』



 すんなり出てきた言葉がそのまま思考を埋め、目の前にあるものから順に色を奪っていく。すべて灰となり崩れて跡形もなくなる幻なのに、此処に有りもしない情景を鮮明に蘇らせる。


 涙し震える母の声と、そばで佇む父の哀しい顔。



『ごめんなさい……』


「主様?」


『ごめんなさい……っ』


「あ、主様……?」


『ごめんなさい――っ』



 ごめんなさい。私が悪いの。


 ごめんなさい。私のせいなの。


 ごめんなさい。願っては駄目だった。


 ごめんなさい。来てはいけなかった。



 床に迫る勢いで椅子から転げ落ち頭を抱える私のそばで、忙しなく動くアリーシャの足元だけが見える。下から滑らせるように額へ当てられた布は痛いほど冷たく湿り、私の脳は文字通り冷却されていった。


 だって、仕方ないじゃない。

 私は人の痛みを理解出来るほど、できた人間ではないもの。


 私に、彼女の痛みは分からない。

 彼女の痛みは彼女のもので、私の苦しみは私のもの。


 だから……彼女の過去を聞いても、何らかの変化をもたらす程の効果はない。どれだけ他人のつらい過去を聞いても、苦しい胸の内を明かされても、私の中身を変えられるだけの力は持たないのだ。


 両親でさえ、私の願いを変えることは出来なかったのだから。


 ――――なのに……変えられないはずなのに……。変わらないのに……。


 アリーシャの冷たい手のひらが自分の手に触れ、私の意識は彼女へ向かう。



「たった一度でも、受けた傷みは二度と消えません。傷を見るたびに、塞いだはずの痕が痛みます。けれど、その一つだけに感情を、自我を支配されて生きていては、充ち満ちた命を紡ぐには難しいものがあります」



 私が言葉を聞き逃すことがないよう、こちらの視覚に植え付けるように真っ直ぐ、彼女は向き合ってくる。


 アリーシャはずっと、こうして人と、それから自分とも向き合ってきたのだと感じられる。そんな一切の翳りや曇りのない澄んだ瞳に囚われる。



『それでも、大事な人を傷付けたことは忘れちゃいけないでしょ?』


「主様が赦しを請いたいのであれば、その方にきちんと謝罪しましょう」



 自分の頭を抱えていた手は、今度は目の前の綺麗な人物のきめ細やかな肌をした手に包まれ、仄かな温もりを取り戻していく。



「しかし、自分の感情を押し殺して伝えても、相手には本当の意味で伝わりません。心を込めて伝えるには、まず自分の心と向き合わなくてはならないのです」



 静かに語る彼女の瞳に吸い込まれる。



「自分の心を受け入れてくれる誰かを見つけ、それが可能でなかった相手には《自分には味方が増えたから、もう大丈夫》だと分かってもらうしか、互いの非力さを引き摺らずに済む方法はないのだと、そうお考えになってはどうでしょう?」



 そうだ。彼女の言う通りだ。


 きっと心を殺しても、相手にはそれが伝わってしまい不満が残る。一層の反発を生んでしまい、関係や状況が更に悪化することだってある。

 こちらが納得して話しても、《受け入れた方が正しかったのか》という悲痛を抱え苦しんでしまう優しい人もいるだろう。


 ならばいっそ、互いを曝け出し向き合った方が、互いに納得し合える可能性がある。



「何はともあれ、主様はご自分の思いを言葉にしてください。恐れてはなりません。少なくとも、わたくしは主様がどのような方であろうとも、主様のお力になりたいのです」



 私に触れる手は少し汗ばんでいて、微かに震えていた。

 優しくて、けれど力がこもっていて、真剣な様子であるのが伝わってくる。



『帰り、たいよっ……。帰りたいっ!』



 感情が(あふ)れてしまう。

 止められなかった。抑えられなかった。



「大丈夫ですよ、主様。帰れますよ」


『ううっ……。――そんな保証なんてどこにもっ――――』


「問題ありませんよ。……ロベルト殿を頼りましょう」



 涙で詰まる言葉のあと、彼女の口から告げられたその名前に、私は妙な感覚を抱く。



『……どうして、彼なんですか?』


「それは……。――――主様をこの世界へ連れてくることが出来たからです。ロベルト殿であれば、主様の願いを叶えてくれるでしょう。……わたくしや大始祖様でないことが、本当に悔やまれますが」


『……彼なら、出来るの?』


「ええ」



 少し悔しそうだった顔も、最後には笑顔を浮かべた。




 ごめんなさい。アリーシャさん。

 私は、嘘を吐いた。

 あなたに嫌われたくなくて、これ以上その涙しそうな表情に耐えられなくて。


 私の本当の願いは、やっぱり誰にも明かせない。

 口にしてはいけない。


 両親を傷付けたあの日から、そう誓って生きてきたから。

 例え、そのロベルトという男だって、大始祖様にだって。

 私の願いを叶えることは出来ないよ。


 だって、私がなりたいのは……。

 本当に願ってきたことは、今の自分を捨てて…………――――超生物として生きることだから。



「では、お試しに……苦手なことなど口にしてみませんか?」


『苦手なこと?』


「ええ。人物でもよいのですが……」


『えっと、それなら……あの男が苦手です。その…………』



 私が口にした彼と、アリーシャにとって良くない関係性にある人物の特定が済んだところで、目の前の彼女は綺麗な顔に満面の笑みを浮かべた。



「ええ! 分かります! 口にするのも穢らわしいほど嫌いなんですよね。お気持ち、お察しいたします!」



 彼女は根っこから取れるのではと心配になるくらい、首を大袈裟に縦振りした。

 解釈の方向性がアリーシャの主観的すぎるけど、苦手な人であることに変わりは無いので否定はしないでおこう。



「そのお言葉が聞けて安心いたしました」



 アリーシャはホッと胸を撫で下ろす。

 こちらの思いの丈か、ここへ連れてきた例の男に対してか。彼女の安心の種を察せられず、曖昧な作り笑顔を向けることしかできない。

 場の雰囲気を変えるように「コホン」と一つ咳払いした彼女は、改まって姿勢を正し真剣な表情で私を見る。



「では、これから話すこともぜひ、参考のうちになさってくださいませ」



 アリーシャは深く思案する様子で、遠い目をして語り出した。





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