【5】アリーシャ・アリュシデントの過去
「主様からお声がけいただいた時は、ひどく驚きました」
クスッと笑みを溢して、私の髪を丁寧に掬い取りタオルをあてがっていく。
「しかし濡れた髪を夜風にさらされては、主様がお風邪を引きにならないかと気が気ではなくなり少し動揺してしまいました。――――本来ならば、わたくしが……」
アリーシャの言葉が途切れる。そこから先に続く言葉は、私が取り上げたようなものだ。
入浴や着る服など、自分のことだから自分ですると言い張り、アリーシャや他の侍女たちからの介助は遠慮している。
『アリーシャさん、あの……』
相手の暗い表情にお世話を受けようかと考えたが、寸前で思い直して二の句を継げなくなる。
今更、やっぱり身の周りの手助けをしてほしいだなんて言えるわけがない。どれだけ自分の都合で周りを振り回すのだと、自分を叱責したくなった。
「どうされました?」
口を窄めた私に彼女は気を遣ってくれるけど、なんでもないと首を振って応える。
『いえ……。――……あの、実はお話しがあって……』
「お待ちください、主様。まずは、こちらを終えてからです」
せっかくアリーシャを呼んだ目的を思い出したのに、相手はまだ用事が済んでないと髪を遠慮がちに持ち上げて制してくる。
彼女の手元から毛先が落ちないよう、慎重に首を左右に振る。
『いいんです。今、話したい。いけませんか?』
「……。主様のお望みであるのなら、もちろん構いません」
一瞬の沈黙に微かな葛藤が見られたが、返ってくる声はこれまでと同様にひどく優しい。
『アリーシャさんは……どうして、こんなにも私の面倒を見てくれるのですか?』
自分が本当に聞きたかったことは喉の奥に引っ掛かってしまい、代わりに出た言葉はあっという間に最後まで声を紡ぐ。
私が、実際に聞きたかった事とは違う質問だ。このまま、この遣り取りの終了と同時に今日を終えられるような。
そんな取り留めも無い質問だ。
「面倒とは思っておりませんが……」
動揺が混じる声に、慌てて言葉の修正を試みる。
『いえ、えっと……そうではなくて……。――――ちゃんとした主ですらないのに、どうして親切に仕えてくれるのかなって思ったんです』
私の問いに、アリーシャはその綺麗な瞳を曇らせた。
「そのようなことは……っ。それに、ちゃんとした主という基準は、どこにもないのですよ。あるのは主と、主に仕える者の双方に共通する個人の矜持と意思だけにございます」
『でも、私がいるせいで、みんな困っていますよね……』
「それは、主様がお気に病むことでは……。わたくし達はみな、好きで仕えているのです。わたくしにとって、主様は貴女様と大始祖様でございますよ」
『……』
「主様がいるその場所が、わたくしの在るべき場所なのです。仕えたいお方が目の前にいる。それだけの理由では、納得していただけないかも知れませんが……」
『でも私は……』
私は、誰かの好意をそう簡単に受けるわけにはいかない。
俯き加減で言葉を途切れさせると、こちらの様子を窺うようにアリーシャは首を傾げた。
「主様?」
『あ。すみません。何でもないです』
「――――お話しというのは?」
私の髪に触れる手を止め、彼女の細められた山吹の瞳が躊躇いがちに聞いてくる。
『実は、……その、馬車の人が気になって……』
自分の口から出た声は、漸く絞り出されたと言えるほど小さい。
アリーシャは苦汁を飲む表情で笑みを作った。
「左様にございますか。彼のことを……」
『ごめんなさい。深く詮索するつもりはないんです』
「いえ。話す機会を逃しておりましたが、今がその時なのでしょう。そうお気を落とさないでくださいませ」
それはまるで、私が馬車の男性とアリーシャとの関係を知っていることを、知っている口振りだ。
けれど私としては彼女の親族についてどこまで触れて良いのか分からず、優しく告げられる声に黙り込んでしまう。こちらの沈黙をどう受け取ったのか、相手は自ら用意した紅茶を啜って口を開けた。
「――――……あの方は、わたくしが先日お話しした内容に出てくる男性。わたくしの義理の叔父でございます」
そう語り始める口元はわずかに緩み、過去の情景を思い浮かべるように彼女は瞼を伏せる。
もし、あの馬車の人が彼女のトラウマの大元なら、馬車に同乗するという提案を受けた私はアリーシャに対してとても酷いことをしたのだろう。
「申し訳ございません」
何も言わず俯いて肩を落とすと、視線の端に映る相手はやんわりと告げた。
「話に少々偽りを加えておりました。どうか、お許しください。――――あの方……叔父様は、わたくしを救おうとしてくださっただけなのです。わたくしの両親と母方の親族は、わたくしを毛嫌いしておりましたので」
『なら、あなたに暴力を振るったのは……』
私の推測を見透かしたかのように、彼女は目を逸らして否定した。
「いいえ、あの方の手が当たったのは事実。ですが……」
身体的に与えられた痛みより強く深い傷を、彼女の両親と親族は与えたのだろう。
誰がいちばん彼女を傷付けたか。正体を直接言葉に落とすには、あまりにも配慮が足りない。
「父や母、その親族の行いを見かねた叔父様は、父の妹であり、わたくしの叔母である自分の妻からの助言を受けて、わたくしを引き取ると申し上げてくださいました。――――母はわたくしを余所へやれるなら何でも良いと父を諭し、叔父様の養子になる話は順調に進んでおりました。しかし……」
一度、話を切ると、彼女は感情を抑えるように口の端を噛む。
「――――しかし、……とある貴族の方が、わたくしの容姿を褒めてくださり、養女にしたいと両親のもとへ話しに来られたのです。その方は両親より高位の御仁で、当時幼かったわたくしに選択権はありませんでした。かの御仁の懐を潤し取り入ることが出来ると考えた両親は、叔父様との話を白紙に戻しました。わたくしは両親の政略のため、御仁のもとへ奉公に出たのち家系に加えると話が纏まり始めたのです」
アリーシャの顔は次第に下がっていくが、言葉を選ぶ丁寧な口調で話を続ける。
「けれど、その御仁は好色家で有名な方でした。叔父様と一緒に、昔から父と不仲であった叔母様も話に反対してくださったのです。そうして両親と口論になり、双方を止めようとしたわたくしの顔に叔父様の手が当たってしまい……」
彼女は、自身の頬骨にあたる箇所を撫でた。
「それを気に病んだ叔父様と叔母様は、以降お姿をお見せにはなりませんでした。両親からも、叔母夫婦と犬猿の仲になった原因はわたくしにあると言われ……。わたくしは抵抗することも諦め、そのまま奉公に出る件は両家共に判を押し、わたくしは好色家の主が待つ家に行きました」
『……』
自分に用意してもらった紅茶を啜り、静かに彼女の話の続きを待つ。
「わたくしが大始祖様に出会ったのは、それからまだ先のことでございます。奉公に出されてから半年ほど経った頃でしょうか。――――夜、屋敷の者たちが寝静まる時間、叔父様は来訪されました。もちろん、家主の許可など得ていないことは一目瞭然です。これは後から伺った話ですが、当時には既に、叔父様はご実家から勘当を受け、叔母様とは離縁されていたようです」
淡い桃色の唇から溢れ出てくる声に、私は言葉をなくした。今なにを言っても、言葉に力がない気がして……。
「もとより、わたくしの家とは義理の関係であるため、そして叔父様自身、ご実家におられるキョウダイとは半分しか血が繋がっていないのだと――――彼の父方の両親が再婚してお生まれになったのだと教えていただきました。しかし、父母共に亡くなられてからは、兄弟二人のうち兄の方を親戚中は可愛がったそうです。――――だからなのか、勘当を受けても平気だと仰ってました」
アリーシャは哀しそうな、或いは寂しそうな目をしているが、微笑みだけは崩さない。
『凄く、強い方ですね』
「はい。そして素敵な方です」
そう話す彼女の表情を、私は前にも見たことがある。母が父のことを情熱的に語る時と似ていた。
きっと、アリーシャは――――。
『好きなんですね』
つい口をついて出た言葉にすぐ気付き、踏み込みすぎたかと顔を顰める。けれど相手は頬を少し赤く染めただけで、否定する素振りはない。
「尊敬、ですよ。――――わたくしを好色家のもとから連れて出たあの方はもちろんお咎めにあい、城から来たという方々に連れて行かれました。その尋問の際に、大始祖様をお見受けしたのです」
アリーシャは小さく笑う。
私は三人で対峙する場面と、その場で悠々と鎮座する大始祖様の姿を想像した。
「幸い、あの方は非常に慈悲深く聡明で、彼がそれまで水面下にて活動し収穫した情報をもとに、好色家の主を言及なされました。――――好色家の主は拘束され、のちに叔父様へは新しい爵位を与えてくださいました。わたくしの籍が移動することはありませんでしたが、家庭での境遇を密かに察しておられたようで、それ以降今日に至るまで、あの方のお側においていただいているのです。おかげで、実家へ帰らずに済んでおります」
ふう、と息をついた彼女は、わずかに冷え湯気の消えた私のカップを取ると、紅茶を新しく淹れなおしてくれる。
「両親や親戚の目があるので、表立って挨拶することはかないませんが、ああして時偶に外へ出られる姿を見ると、やはり安心を覚えるものですね」
そこまで熱心だとは知らず、馬車のなかで沈黙に甘んじていたことを悔いた。
『なら、お話ししても良かったのに……』
「お話ししたいことはありますが、この現状を満足している自分もいるのです。それに、お互いがご健勝であれば、それだけで……」
ふふ、とアリーシャは微笑む。その表情に、今の私が言えることなんて何も無い。
『そうですか……』
納得しか示せず、沈黙に徹しようと考えた直後。
「ええ。……――しかし、それとこれとは別物ですっ!」
唐突な声の豹変に驚いて、私は体を震わせた。何かに取り憑かれたように恐い顔をして、それまでの穏健な表情は完全に消え去っている。
「大始祖様はあのように高貴なお方ですから、無闇に女性を誘ったりなどしませんが……――――けれども、あのロベルトという男だけは! アレだけはダメです! 不潔です! 許せません!」
『あ、あの……なら博士は?』
彼女の言う男とは、今後関わるつもりがないから安堵するところもあるけど、博士――――というより彼の研究室を懇意にするくらいは許してほしい。
キリスやレニーと会えなくなるのは、とてもつらい。
「あの人は人間の外観に無関心な方ですし、そもそも人間に関心があるかも怪しいところです。彼の作る人形なんて、製作者より賢く健全なものです。主様に害がなければ、わたくしはそれでよいのです」
そ、そっか……。
アリーシャの勢いに圧倒され、腰が引ける。
スッと真顔で語られる批評が、彼女の可愛らしい唇からスラスラとこぼれた。