【1】ひとときの叶い(ひとときのねがい)
なんだろう。
ふわふわする。
まわりがわからない。
じぶんが、どうなっているか、わからない。
でも。
こわく、ない。
あ。
ひだりてが。
すごく、あたたかい。
だれかが、ぎゅっとしてくる。
そうか。
わたし……――――。
直前まで感じなかった眩しさに目を開ける。
いつの間に瞼を閉じていたのだろう。そんな疑問すら、視界いっぱいにひろがる壮大な景色を前にして瞬時に形を潜めた。
「ここは、……なに?」
「不思議?」
彼は嬉しそうな顔をして隣に立っていた。
『うん……すごい。……すごいよ……っ!』
そこはまるで楽園だった。
青々と茂る緑の海に、色鮮やかで形も様々な無数の虫や動物の姿が映える。
ここでは、生き物の繋ぐ命が輝いていた。
なかでも際立っていたのは、空を飛び交う人の群れ。
『空を飛んでいるのは…………ひと?』
「彼らは、君の世界でいう魔法使いみたいなものさ。まあ、君の世界で知られているほど良いものではないけれどね」
『……?』
その存在自体に憧れを抱いている私には、彼の深意は分からない。
どういう意味か思案していると、彼は何か思い立ったように笑みを浮かべてこちらを見る。
「俺の家にきてよ! 紹介したい人がいるんだ!」
出会って間もないのに彼の自宅へ突撃訪問とは、ハードルの高いことを要求なさる。
『えっと……唐突すぎない? それに紹介したい人って……』
「えーっと。少しだけ待ってね」
そう言うと、彼は自身の顎先に触れそのまま黙り込んでしまう。
こちらもつられて口を閉じたが、暫く経つと彼が無言で再び歩き出したため、私は仕方なく景色を眺めながらその後ろをついていった。
ここは自然豊かな景色に囲まれている。
崖に迫る頂から後方にかけて一面に広がる草原の坂を下りて行くと、踏みしめる草の柔らかい感触が靴の裏からでも伝わる。
通る風も冷たすぎず清々しくて、所々で小さく集う花々がそよ風に優しく揺れるさまはこの世界が綺麗な場所だと示していた。
素足で歩きたいな……。
景色を楽しみながら、転ぶこともなく順調に坂を下る。が、止まることを忘れた脚は、目と鼻の先で突然動きを止めた彼の腕にぶつかり進行を阻まれた。
「……うん。大丈夫。――――ねえ、もう一度だけ手を掴んでくれないかな?」
何らかの確認作業を終えたのか、ひと息空けて彼がまた手を差し出してくる。
さっきと変わらず理由は話してくれない。だけど、今度は迷うことなく自分の手を重ねた。
◆◆◆◆
びゅッ――。
妙な浮遊感を経て地に足をつけた瞬間、足元で巻き上がる風がスクールソックスからむき出しの膝小僧を撫でる。
「ごめんね、大丈夫だった?」
景色の変わりように呆けていると、そう声を掛けてくる。
私はただ手を掴んでいただけなのに、何のための確認なのだろう?
訳が分からず『なにが?』と応えると、彼はきょとんとした顔に、続けて微笑を浮かべた。
どうやって此処に来たのか、知らぬ間に目を瞑っていた私には知り得ないことだ。
眠っていたのかも知れない。或いは気を失っていたか。
一つ確かなのは、彼との行動に一抹の不安すら感じなくなっていること。
そうと分かったところで、私の中の何かが変わるわけではないのだけど。
『あの……』
「あ、そうだった! さっきの説明があったね。でも……」
暫く私の頭上あたりに視線を巡らせていた彼は、未だ思案の表情を続けながらも言葉を紡ぐ。
「えーっと。あまり詳しくは言えないから、簡潔になるんだけれど良いかな?」
一言ずつ考えながら話す彼に、かくかくと首肯を返す。
「先ずは……えっと、最初に――――この世界は君たちの世界と繋がっているんだ。その繋がっている道は普段は不可視なんだけれど、それを可視化する《ちから》を持つ者だけ空間を行き来できる」
『なら、あんたには視えているって言うの?』
「もちろんだよ」
『私も視えるようになれる?』
「努力すればね。でも、君には必要ないと思うよ」
期待させられる内容にわずかな高揚感を覚えるが、返ってきた言葉に落胆する。
「そう落ち込まないで? この世界では、努力に応じてどんなモノにでも成れる。けれど、この世界の《ちから》を使うには、ここの住人として世界そのものから認められなければならないんだ。――――だから、これだけは忘れないで」
わざとらしく一呼吸の間を置いた彼の表情が、険しいものに変わった。
「あまり深入りしないこと。この世界のある一定の規定以上を知ると、君は自分の世界に帰ることが出来なくなる。物理的にね。質問は大丈夫だよ。君が知っても問題ない範囲でしか答えないからね。だから心配はしなくて良いけれど、規定があることを知っているのは極一部だから、それ以外の人から知りすぎる事に気を付けて」
そこだけね。と最後に付け終えると、彼の表情は優しいものに戻りまた歩き始める。
自分も遅れないようにと後を追うが、頭の整理が追い付かない。
本音を言えば、今すぐにでもこの世界に認められて、こちらの住人になりたい。だけど、それでは自分の家に帰ることは二度とできないらしい。
行き来する《ちから》があれば、いつでも戻れるのではとも思ったが、よく考えるとその《ちから》を習得するためにどれほどの時間が必要なのか推測すらできない。
まだ来たばかりで何も知らないうちは、彼の言うことに従ったほうが良さそうだ。
『そうだ。あの、さっき魔法使いにも違いはあるって言っていたけれど……』
さっきの話で「良いものではない」と告げた彼の言葉が、ずっと引っかかっていた。
「うん、そうだね。君の世界の言葉で言うと、この世界の人間には《魔人》、《魔法使い》、《身売り》の三種類ある。まあ、どれも正確な定義はないんだけれどね」
『じゃあ、あそこを飛んでいる動物たちは?』
気になる単語はあったが、知りすぎは良くない。
知識を深めることより、広めることを意識しよう。そう考えつき、新しい疑問ならと今度は周囲の状況について質問した。
「あれは使役する人によって呼称が異なるんだけれど。魔人だと魔獣、魔法使いだと使い魔、身売りだと――」
『さっきからその身売りって言葉が好きじゃあないんだけれど、どういう人たちなの?』
《身売り》という名称を生き物につけるなんて、名付けた人の悪趣味加減に腹が煮えくり返る思いだ。それに関しては彼も同感なのか、気まずそうな顔をした。
「うん。良い言葉じゃないよね」
彼は少し躊躇いながら考える仕草をしていたが、暫くして言葉の経緯、魔人や魔法使いの所以を説明し始めた。
「人は生まれた瞬間に、魔力有無の問診を受けて分けられる。けれど、その基準は単に《ちから》が目に見えて判別できるかどうかで、魔力そのものは元々誰の身にも備わっているんだ。生まれながらに魔力の強い子は魔の人で《魔人》と呼ばれ、そういう子は扱う《ちから》が強すぎる為、力をコントロールする方法について真っ先に学ばなければならない。魔力が弱い子は、魔力の出し方や魔法について学ぶから《魔法使い》と呼ばれているね」
なるほど。《魔人》はチートで、《魔法使い》は努力家という訳か。
話に耳を傾けつつ、内心で自己解釈を加えてみる。
「それから《身売り》と呼ばれる人たちは……」
私も気になっていた単語が出てくると、彼の声音に複雑な色が目立つ。
「……《身売り》っていうのは、生まれた時点で魔力がゼロに近い人たちのことを言うんだ」
慎重に紡がれた内容は、縦横斜め三六〇度、どこからどう見ても差別的だった。
そういう類に私は一瞬で気分が悪くなり、そして沸々と湧く苛立ちに体が震え始める。
こちらの様子に気付いた彼は苦笑しながら、「そう呼ばれるにも、一応の理由はあるんだ」と優しく制した。
理由の有る無しに関わらず、差別はダメだと思うのだ。
まだ不機嫌な表情を崩さない私に、彼は薄い笑みを浮かべる。
「《身売り》っていうのはね、悪魔と契約した人たちのことなんだ」
『悪魔と……契約?』
最後まで教えてくれるらしく、一旦気持ちを落ち着かせて聞く姿勢を取る。
私のイメージでは、悪魔は魔人とセットになっている。だけど世界によって違いがあるのだろうか。
「うん。基本的には悪魔と契約した人は皆、《身売り》と呼ばれるようになる。契約の条件としては一般的に、自分の大切なものと引き換えに魔力を増幅させるだけなんだ。その大切なものは人によって様々だけれど、よくあるのが自分の命と引き換えに子の魔力を増幅させるとか、その家庭で最大の財産を代償にしているらしい。魔力増幅の術自体に高位も低位もないから、交換条件として持ち寄る価値も一定だしね」
そうなんだ。魔法能力の強弱が関係ないなんて、私の知っている物語とはだいぶ異なる。
こちらの納得する素振りを見て、彼も合わせるように一度頷いた。
「そういう人たちには二つの傾向があって、まず一つは生まれた瞬間、自分の子の魔力が少ないと分かった親によって魔力を増幅させられた人のことだね。世の中には自分たちが《魔人》や《魔法使い》だから、子にも同じ位を求める親とか、逆に自分たちが《魔法使い》や《身売り》だから子には上位を求める身勝手な親がいたんだ。そして、もう一つ。魔力が少なかったり、或いは《魔法使い》より上を求めるようになったら、親がそのままで良いと教えても、努力することを諦めて悪魔と契約してしまう人たちもいる」
それを聞いて、まるで私みたいだと思った。
どこの世界でも自己嫌悪を抱く人はいるようで。ただ方法が間違っているという点を省けば、親近感が湧かなくもない。
「それでも、そういう人たちは減ってきてるんだけれどね。何せこの制度が出来てから7000年ほどしか経ってないから、今でも辺境とか行くと差別的な根が残ってたりするんだ。それに、一度でも《身売り》なんて称号がついたら、二度と他の地位にはなれない。悪魔との契約は、その契約者が死ぬまで解消はできないんだ」
それは、批難の的になるわけだと合点がいってしまった。
形ばかりが大きい群衆とは、そういうものだ。