【3】危険と優しさは身近に
『私を知っているんですか?』
案内されるまま借りた馬車の中、目的地が同じだと言う男性と同乗する。
しかし男性もアリーシャも終始微笑んでいるだけで、私は仕方なく沈黙を破った。
「ええ、それは勿論。わたくしめは、貴族の間でも情報通だと謳われておりますから。大始祖様もさぞや、あなたに興味津々でございましょう」
『はは。それはどうでしょう……』
「いえ、あなたは特殊ですから。あの方が放っておくはずありませんよ」
『はあ。そうなんですか……?』
私が苦笑いを向けると、男性は優しげな笑みを更に深めた。
一貫して私の特殊性を推してくる彼は、しきりに大始祖様のことを口にする。
『おじさまは、大始祖様のことを知っているんですか?』
「ええ、勿論。この世界の創設者でもありますから」
『なら、あの人は神様とかの類ですか?』
「まさか。神は人の目には見えません。ですが、あの方は神の代わりに、この世界を創造されました。尊いお方ですよ」
世界の創造なんて真似、神の所業と表さず何と表せばいい。彼らの価値観は良く知らないけれど、この世界での創造神とは正しく大始祖様ということになる。
『なら、この世界では一番偉い人なんですね?』
「その通りでございます。この世界で、あの方に進言できるものはおりません」
――ただ一人を除いては。
彼は最後にポソリと呟く。
低く絞り出された言葉は、少しだけその男性を恐ろしく見せた。そして、これまでの話を聞き、自分がとんでもない人物に啖呵を切っていたことを思い出す。
あとで大始祖様に謝っておこう……。
『あの、その一人というのは……』
「あそこには、ロベルトという男がおりますでしょう? 力が強く野心的で、好奇心が旺盛な奇人。あの方もどうしてか彼を気に入っておられる様子で」
『はあ』
「失礼。不要な話でございました。ところで、お嬢さん。こちらの麗しい方は?」
あの男のことになると、わずかに声が剣呑さを帯びる。そのことに戸惑い曖昧な返事をすると、男性は一方的に話を変えてアリーシャを視線で指した。
『ああ、こちらは私の……』
言いかけて途中で言葉を切る。
彼女に対してきつく当たったことは忘れていない。ただ何となく謝罪しづらい雰囲気の中、それでも不満を見せず尽くしてくれる彼女から援助を受けているという追い目に、私は言葉を濁した。
そんな私を見かねてか、アリーシャは自ら名乗り出る。
「先ずは、挨拶が遅れたこと、心よりお詫び申し上げます。この方の侍女と護衛を兼ねております、アリーシャ・アリュシデントと申します」
「こちらこそ、あなたのような素敵な方を蔑ろにしてすまなかったね。なにせ、こちらのお嬢さんに強く惹かれたものだから」
『あはは……』
どう反応すれば良いのよ……⁉︎
淡々と熟された挨拶の果てに、その甘ったるい言葉が自分に向けられたことで動揺する。
ただ笑顔を引き攣らせて沈黙することしかできなかったが、この人の興味の矛先を今すぐにでも別のものへ移してやりたい気分だ。
アリーシャはまた声なく微笑みを浮かべ、隣で静かにしている。
こんな時に会話を長引かせる能力があれば――――なんて思うことは、しかし私に限ってはなかった。
まあ、良いか。このままで。
話したければ、向こうから話を振ってくればいい。反対に、こちらから男性に対してする話題など持ち合わせていない。
私にとって沈黙は、どんな状況下であろうと心地良いのだ。
『……』
「……」
「……」
城では例の男のおかげで騒がしく思っていたので、外出して漸く訪れた静寂を今は楽しむことにした。
────。
スヒリス街の大通りを抜け、城門前で停止した馬車は中に紳士だけを残して扉を閉じた。
『ありがとうございました』
「いいえ。こちらこそ、楽しい時間を与えていただきました」
小窓から顔を覗かせる男性に別れを告げると、相手は被っていた帽子を浮かせて会釈する。
私からすれば、ただ馬車の揺れを共有しただけですけどね。
城から手配される馬車に迎えられ、御者の案内で先に乗り込む。昇降具に足をかけつつ後ろを振り返ると、アリーシャは男性が乗る馬車に寄りかかっている。
何やら話し込んでいるようだ。
「ああ、あの方に送っていただいたのですか。後日、改めてお礼に伺わないといけませんね」
中へ入ろうとしない私を見て、下で構える御者が言う。
『……有名な人なんですか?』
「有名ですよ。あの方はこの街でも五本の指に入る貴族の方。アリーシャ殿の叔父上でもありますから」
『……おじさん?』
お貴族という身分はすぐに合点がいったけれど、彼女の親戚筋だと聞いて密かに驚く。
アリーシャとあの男性の間で、一度もそれらしい反応はなかったからだ。
少し位置の高い小窓に背伸びする彼女の姿からは、叔父と話す姪という印象など感じない。
『教えてくれて、ありがとうございます。アリーシャとは親しい者の話とかしないので』
「さようでございましたか。これはお気を使わせてしまい、ご無礼を」
『いえ。私は大丈夫です。でも、私が知ったということは秘密にしていただけますか?』
「畏まりました」
御者は不思議に思う顔をしたものの、私からの要求を受け入れてくれた。
彼らが私の前で表立って話さなかったということは、二人とも何か話しづらい心境にあったのだろう。そこに無関係の私が介入しても、良い方向に事が運ぶことはない。
「主様、お待たせして申し訳ございません。さあ、戻りましょう」
彼女が馬車へ乗り込み、御者席の真後ろに当たる壁をコンコンと叩くと、馬車は来る時と同じく静かに動き出した。
外を見るためには左右の窓しかないが、小窓は黒い布で覆われていて外光すら入ってこない。この馬車の造りは頑丈らしく、ありもしない隙間風で窓の覆いが揺れることはなかった。
二人の間に、また静寂が訪れる。
アリーシャは、私に自分の過去を話してくれた。
彼女は小さい頃、男性から暴力を受けたことがある――と。当人は程度が軽い上に、大きな怪我もしていないから良かったと笑みを浮かべていた。
けれど、それでも、その日から男性を恐いと思うようになってしまったこと。それにより、全く関係のない男性に対してまで苦手意識を持つようになってしまったこと。
しかし彼女はその後、それでも異性に臆さず平等に人間として接するよう努力していると語った。
その上で、身内に起こった不幸を親戚筋が知らないなどとは考えられない。それならば、馬車の男性を彼女が他人として見る理由はなんだろう?
特に仲が悪いようには見えなかったし、親戚というなら互いに声をかけ世間話をするくらいしても良かったのだ。
もしかすると私への配慮かもしれない、という線は考えなかった。
何かある。直感的にそう思った。
でも、それを本人に聞くのは憚れる。私とアリーシャの間にはまだ溝と壁があって、それらを作ったのは私自身なのだ。
◆◆◆◆
『はあ……』
目の前に置かれたカップから、紅茶の良い匂いが漂っている。同じものをフラスコ瓶から自身のカップに注いだ博士は、溜め息を吐く私の顔をジッと見てきた。
「どうしたの?」
『……』
「どうしたの?」
『……実は、アリーシャのことで……』
どう答えようか迷ったけれど、この人に下手な誤魔化しは無意味に思える。せめて揚げ足を取られることは言わないでおこうと、慎重に言葉を絞り出した。
「あー、慎重なのもそこまで行くと厄介だねえ~」
けれど、相手は優しさとは無縁の人物。口を濁した私の言葉に、博士は訳知り顔で頷く。
現在、私は博士の研究室に訪れ、昨日の赤い女の人について相談しようと居座っている。ただ、どう説明すれば状況を理解してもらえるのか分からず、代わりに身近な人の名を出した。
昨日からずっと身構えっぱなしの心身も、ここに来れば少しだけ楽になる。レニーやキリスがそばにいると、気を張らずに済むのだ。これは一家に一組欲しいレベル。
ここへ来る時や自室で一人過ごしている時でも終始警戒していたけど、結局誰も来なかったし、予想していた悪いことは何も起こらなかった。
それを素直に喜べたら良いのだが、まだこれから起こる可能性を考えると警戒心は緩めない方が良い。彼女たちは、今は大人しくしているだけと思うほうがよほど健全と言える。
この世界に来てから一度もしてこなかった本当の緊張感を覚え、思わず失笑しそうだ。
ほんと、阿呆らしくなってくるわね……。
実際口にした人物とは無関係なことで悩む私を見て、博士が苦笑する。
「アリーシャくんに提案だけでもしてあげたら? きっと凄く喜ぶよ~」
『喜ぶかどうかはともかく、このままじゃ気まずいわ……』
「でも先日のことがあって、自分からそういう話をすることも気まずい、と。――――気を遣いすぎだと思うけれどね」
『だって、あんなこと言っちゃったし』
「ちょっと度が過ぎた意見交換くらいで?」
『それは……どうだろう……』
自分の言葉が意見として成立するのなら、博士の助言も役に立つのだろう。けれど思い返す限りでは、アリーシャだけがまともな事を言っているように思う。
私から出る言葉は、所詮わがままが過ぎる八つ当たりみたいなものだ。
内心で自分を嘲笑していると、博士が大袈裟な咳払いを私に向けた。
「彼女は一般的な人間より寛容すぎるくらいだ。君のことになると特にね。だから大丈夫だよ」
『そうかな……』
それでも勝手に生まれる気まずさは、私自身では止められない。
事実それだけのことをした。もし逆の立場だったなら私は相手を許さないし、拒絶し続けて最終的に縁を切る。
「君は、恐れているんだね」
『……』
確信の言葉を吐かれては何も言い返せない。指摘されたことが図星だからではなく、単純に負かされた。 どうして見抜かれたのかと。
話している間に、ほんとうはアリーシャとの関係でも悩んでいたのだと気付く。
「あの子は、今更そんなことで主を見放したりしないよ」
『……それとか本当に不思議なんだけど。――――私は余所者だよ? 異物なのよ? なのに、どうしてアリーシャは私に親切にしてくれるの?』
「彼女と親族の話は?」
彼の問いに、首を横に振る。
「そうか。なら、彼女に直接聞いてみるといい」
『アリーシャに……?』
「そうだよ。キッカケには十分だと思うけれどね~」
『キッカケ……』
私から話しても良いのだろうか。
相手の言葉を聞くことを拒み、相手に話すことを拒み、相手に訊くことを拒んだ。
そんな私が、彼女の個人的な部分に踏み込んでも良いのだろうか。
アリーシャは私を主だと丁重に扱ってくれるが、私自身は尊ばれる義務なんか果たしていない。義務と権利は同じ場所にあって、何らかの役目を果たした場合にのみ、敬われる立場を得られるものだ。
この世界での私は、無条件にもたらされる優遇に甘んじているだけ。誰かに傅かれる権利や理由など持っていない。
「まあ、そのままにしておいても更に話しづらくなるだけだよ~」
『……それもそうね』
あれやこれやと悩んでいても、私は自分を護る術しか知らない。相手の気持ちではなく、自分のことを嫌い見捨てられることに怯えているだけの、卑怯者だ。
「決まったみたいだね」
『とりあえず、ね』
迷いは消えない。でも今ここで行動しなければ、これから何をするにしてもこの瞬間に躊躇ってしまった負債に絡め取られる。
この身に絡むのは、幼少期の願望だけで十分だ。
「――この間、君には馴染まなくていいと言ったけれど……」
研究室を出ようとする間際、博士は話を変えた。
扉の前で足を止めて振り返ると、彼は敢えて視線を外しているのかこっちを見ていない。
「……いや、それはいい。――人との接し方に異例はないんだからね。君がどこかの世界からきた異物でも、アリーシャくんにどんな過去があっても、二人は今、相手と顔を合わせて話すことができるんだよ」
『分かったわ。アドバイスありがとう』
「健闘を祈っているよ~」
さっき言いかけていた馴染む云々とは関係なくなってしまったが、話す博士の顔に悲しみが見えた気がしてそれ以上触れることができなかった。
博士は変わらず背中越しにひらひらと手を振るだけで。けれど闘いに出るわけでもないのに、どうしてかその言葉に背中を押された気がした。