【1】ひとときの平穏
この世界にきてから、元いた世界ではどれくらいの時間が経ったのだろう……。
ベッドサイドのテーブルには、自分の世界の月日と年号を書いた紙を置いている。こちらで新しい朝を迎えるごとに、或いは夜寝る前に印をつけては日数を確かめているのだ。
そろそろ新しい紙を貰って、二枚目を作らなければならない。
しかし、私の世界での感覚が役に立つとは思わない。別の世界として存在している場所で、自分の感覚を見失わない為の応急措置みたいなものだ。
あれから毎日のようにロベルトの激しい突撃は起こっている。相対してアリーシャと彼の攻防劇にも見慣れてきた。
私の薄味嗜好も定着しつつあり、優秀以上の言葉が見つからないほど充足した生活に、ほんの少しだけ《向こうの世界》を忘れる日まであった。
満たされようとしていたのかも知れない。満ちていると浮かれていたのだろう。
予兆などというものは無かった。
日常の中に一つの非日常が紛れ込み、それが連鎖して拡散しただけ。
一度目の非日常が、偶然にも今日だった。
ただ、それだけのことだ。
――――。
「あなたが、異世界から来たという奇妙なものですの?」
『へ?』
背後から唐突に掛けられた声に、私は肩をビクつかせて恐る恐る振り返る。
視線の先には堅苦しい軍服のような紅い衣装を身に纏った、赤くて綺麗な女の人がいた。
軍服のようなと表現したのは、上部だけ見れば将校クラスでもおかしくない正装服だったからで、下部に身に付けている衣服はやんわりと膨らむスカートだったからだ。
更に目の前の女性を赤いと思ったのは、きつく巻きぐせのついた頭頂部から緩く垂れる、くるくるツインテールの髪色と、燃えるような熱を宿した白金色の瞳を見たからである。
そして、私は彼女を幽霊の類だと勘違いしたため、驚きで声を出せずにいた。
どこからとか、どうして等と稚拙な疑問をぶつけるより速く、彼女は話し出す。
「あなたが異世界から来た者かと聞いていますの。それとも言葉が通じないのかしら? もしくは答える脳がありませんの?」
『異世界という概念が良く分からないけど、この世界の人間でないことは確かよ』
隔日のように通い続けている博士の研究室から、与えられた自室へ戻っている最中の出来事だった。もちろん背後から登場いただいたわけで、私は彼女の前を一度は通り過ぎたということになる。しかし、ここは曲がり角のない一本筋であり、私は誰のことも見ていない。
急に出てきておいて一方的に話す相手に、こちらから丁寧に対応してあげる必要はないだろう。というか、初対面で不躾に話し掛けてくる彼女に、敬語を使う気が起きなかった。
それが、やはり相手の癪に障ったようだ。
「ふん。口だけは達者ですのね。……まあ、よいですわ。それよりも、あなた、ロベルト様から手を引いてくださいませんこと?」
『……』
ん? 何のことだろう?
手を出した覚えもないのに引けと言われても、実行に移しようがない。私だって、あの男を結構迷惑に思っている。
朝から乱闘騒ぎを起こしたり、昼間から乱闘騒ぎを起こしたり、夜更けに乱闘したり。
むしろ、そんな男ですがよろしいのですか?――と問いたくなる。
『いや、あの……何か勘違いしているようだけど……』
「どういう意味ですの? わたくしに間違いがあるとでも?」
『いいえ。ただ、私は彼と親しいわけではないし……』
何の根拠を持って、あの男と私の関係性に確信を持っているのか分からないが、私にとって彼はただこの世界を案内してくれた人ってだけのこと。
城へ来てからの案内役はアリーシャが担ってくれるので、近頃その彼との接触は殆ど無に等しい。
私が肩を竦ませると、相手の片眉が苛立たしげにピクリと動いた。
「それでは何故、先日、あなたはロベルト様に抱きかかえられていたのでしょう? 《あのような行い》は、親しい者同士でなければ許されないことですわ。わたくしなんて、触れさせてもくれないというのに……。とても、吐き気がしますわ」
それはお気の毒に。
余程いまの状況に嫌気がさしてきていると見える。それは早くやりとりを切り上げてあげないとなんて、あからさまに高飛車で自尊心の塊のような高貴な方に気を遣った。
『そう、じゃあ。――……今後、互いに目にすることがないことを願うわ』
言って、サッと素早く一礼する。
これ以上、言葉を交わしたくはない。
初見で思い違いの批難を当ててくる人と関わっても、こちらが不快な思いをするだけだ。
話の通じない人に何を話しても無駄と見切り、私は先にこの場を立ち去ろうとした。けれど、相手はそれだけでは気が収まらなかったらしい。
「とっても小気味良い厭味を効かせてきますのね。てっきり阿呆で愚直な者かと……。うふふ」
『褒めてもらったところ悪いけど、相手があんただと嬉しさなんてマイナスよ』
咄嗟の応えとしては、中々に頓智が効いたと自分で思う。まあ、相手にとってはスパイスが効いた小言だろうけど。
「――へえ、……そう」
こちらの反応が更に気にくわないのか、今にも顔の造形が大掛かりな変化を遂げて怒り面に切り替わりそうだ。実際は眉と目尻を一瞬吊り上げただけで、すぐ深く轟く溜め息を吐くだけに留まっていた。
先程からずっと胸の前で組んでいる腕が、もしかすると激情のリミッターの役目を果たしているのかも知れない。
「……ふふ。そう。ならば仕方ありませんわね。あなたがそのつもりなら、わたくしにも考えがありますの。楽しみにしていらして?」
彼女は私に炎の印象だけ与えて、登場時と同じで音も無く姿を消した。
前触れなく話し掛けてきておいて、こちらの気分を害しただけで会話を終わらせるとは大した肝の持ち主だ。
それより、私は何を楽しみにすれば良いのだろう?
或る意味では様式美とも呼べる定例文の去り方をされては、彼女を覚えていられる自信がない。
「やあ、勝手に迎えにきたロベルトだよ! ――……って、どうしたの?」
良いように言い逃げされてモヤッとした苛立ちを抱えているところに、件の男がにこやかな笑みを浮かべて現われた。
『何でもない』
正直に話すなんて真似はしない。言ったところで、火に油を注ぐことになるのは目に見えている。
間違いなく、あの女の人はこの男のことが好きだ。そして、この男は間違いなく彼女のことは眼中にない。
そんな状況にあるなか訳も分からず傍にいる私を、彼女が恨みに思うのは当然の流れだ。
うん。とてもラブコメ仕様。
というよりもコメディの要素がないから、これはシリアスラブ路線という新しいジャンルだろうか。
彼女のロベルトという男に対するLOVEには、seriousを感じる。
まあ自身の絶望的なネーミングセンスはともかく、今こうして接触があったのだ。
これからはどうやって避けるか、方法を模索するほうが先かな……。
「どうしたの?」
『何でもない』
再度聞かれた問いに同じ言葉を返す。この男と一緒にいると、ロクなことがないのは気のせいだろうか?
そもそも抱きかかえられていたって……私には身に覚えがない。
彼女はいつどこで、その光景を見たのだろう?
気配を消すのが上手いのか、或いは薄いのか。どっちにしても面倒なことに変わりはないので、今後の接触は遠慮したい。
「ねえ、どうし――『うるさい』
とりあえず、この男との接点も減らそう。
そのためにはアリーシャ達の協力が必須なので、今晩にでも話してみようと自身の脳内メモに予定を組み込んだ。
◆◆◆◆
情熱を宿す瞳と赤い髪の女性の再来を危惧して部屋に引き籠もってから、一ヶ月が経つ。私の世界での感覚がこっちでも通じるなら、だけど。
きっかけは突然やってくるが、連鎖の一節でもある。――と語ったのは、私が唯一親しいと呼べる、ちいさい頃によく遊んでもらった近所のお姉さんだ。
この日、私はアリーシャを伴って外出した。
久しぶりに城の敷地外へ出るというだけで、私の心は簡単に浮き足立つ。城から城門までの間を行き来する馬車のなか、隣に座る騎士兼侍女の彼女も微笑みを浮かべていて楽しそうな様子だ。
「主様、街に着いたらどのお店から行かれますか? お召し物なら間違いなくスヒリスの貴族街ですよ。大きな家具類をご入り用ならばナリスまで移動する必要がありますが、どういたしましょう?」
『あ……時間があるなら、ナリス街の中を案内して欲しい、です。ゆっくりと色んなお店を回りたいので』
「ナリス街ですね。畏まりました。主様のお気に召すままに」
城門を出てすぐの場所で華奢な馬車に乗り換え、昇降具を上る私の応えにアリーシャは優しげな表情で頷く。彼女が中から御者へ合図を送ると、馬車は静かに動き出した。
『アリーシャさんは、どこか行きたいところは無いんですか?』
彼女も、私と同様に部屋へ籠もりきりだった。
他のメイドが部屋の前まで運んだ料理を毒味する時や、早急に進めなければならない書類の受け渡しをする時以外は基本的に、就寝も私の部屋で摂っていた。
私に終始べったりな状況の理由を聞いても、「安心してお寛ぎくださいませ」と言うばかりで、その間もちろん彼女は個人的に出掛けるような暇はなかったはずだ。
「いいえ。主様の行きたいところへ。わたくしはお供させていただくだけで充分にございます」
『でも……』
自分は良いのだと告げる彼女を思い、更に言い募ろうとすると相手から「ふふっ」と声が漏れる。笑われた理由が分からず黙ってアリーシャを見つめた。
「いえ……気遣ってくださるのが分かり、嬉しさを噛み締めておりました。――主様。わたくしは、主様と同じ時を過ごさせていただくだけで心が満たされます。わたくし達にとって主様の個人的な同伴を許していただくことは、非常に幸福なことなのです」
これ以上に何を望みましょう?――と彼女はただ微笑む。
私を見る透き通った山吹の瞳と、顔を動かす度に緩い癖のあるミルクティーベージュの髪が揺れる。反対に自分の矮小さが際立つようで、私は骨が軋むほど拳を握った。
自分はアリーシャの時間や行動を奪うばかりで、こちらから何も与えられていない。
余所者なのに……。
一度そう思い始めると、数日前に博士から言われた言葉が脳内を巡る。
《 君は馴染まなくていい 》
この言葉がどういう意味を持っているのか。
私はずっと、この世界での振る舞いを考えている。けれど、考え方にまだ不備があるらしい。博士の、そして言葉の真意は未だ分からないままだ。
『私はただ……』
ぽつり溢した声に、隣の彼女は顔を窺ってくる。私は何でもないと首を振り、出来る限り表情を明るくすることに努めた。
私は、ただ知りたいだけだ。
知らない事柄・現象・理想を、無駄・無意味・無理と決めつける前に、自らの身をもって試し実体験を重ねたことはあるのかと問いたいだけなのだ。
自分たちが知らない、理解できないものに対して社会が行ったことを、私はいつまでも忘れることなんて出来ない。
両親を傷付けたことと同じくらい、私は社会に傷付けられたことを覚えている。自分の大好きな人を社会の重圧で嬲り潰されたこと。
それは一生ものとして、この心に刻まれていた。私が大好きな人は、それらに抗って生きていた。唐突にその名を馳せ、そして私の前からいなくなるまでの間、彼女は当たり前の理不尽に抗いつづけ模索していた。
自分もそういう人でありたかった。
でも実際は、そう容易く思ったとおりにはならないことを知っている。
……リリス。あなたに会いたいよ。
著書にある文面全てが語りかけてくるリリスの誠実な言葉を思い出すと、強く強く胸が締め付けられる。
両親に会いたいのは当然だが、それは迷惑をかけてきたことへの贖罪でもあった。しかし、リリスに向ける感情は少し違う。
憧れ、愛し、尊敬している。
ロベルトという男から「俺の世界に来てみる?」と問われた時、真っ先に思い浮かべた二つ。幼少期に愛読していた本とその著者である彼女――リリスという女性だ。
『あの、……アリーシャさん?』
「どうかされましたか?」
『リリスっていう作家さん、知ってますか?』
「リリス……――いえ、存じ上げません」
『そう、ですか』
予想通りの答えに、いつの間にか力んでいた肩の力を緩めた。
彼女が知らないのも当然だ。リリスは私の世界で活動していた人なのだから、相手が知っているはずはない。
「もし良ければ、大始祖様にお伺いしてはどうでしょう? あの方であれば、何かご存知かと」
『そうですね。そうしてみます。ありがとう』
文字通り大始祖様と呼ばれ慕われるくらいなのだから、彼はアリーシャでも知らないことを知っているのだろう。
馬車は止まり、扉を開けてくれた御者に手を引かれ地に足をつける。空は眩しいほどに明るく、手で目元に影を作った。
貴金属の煌めきは全くないけれど、人々の活気で溢れている。
今日も賑わうここは、商人の街ナリスだ。
アリーシャとの買い物も一息つき、ナリス街の一角にある露店の脇で休憩していた。
細道に逸れるための小さく整った階段に二人して座り、軽食を摂る。
『これ……』
「美味にございましょう?」
私の言葉に、アリーシャは手に持つものを再び口に含み頬を緩めた。
『はい』
不味くはない。
これを美味しいと言う人もいるだろうし、味が濃くなければ私好みと言えたかもしれない。
『でも、少し味が濃いかも……』
「左様でございますか。では一度城へ持ち帰り、味付けの軽い同じものを作らせましょう。すぐ買ってまいりますので、今暫くここでお待ちください」
私の反応にアリーシャは不満そうな表情など一切せず、今食べ終えたものを再度手にしようと走って行ってしまった。




