【14】シーモス博士の研究室
博士が退室してから、どれくらいの時間が過ぎたのか分からない。
この部屋には時計がなかった。
せめて陽の高さで大体の時間を計れないかと、この部屋のなかで最大のガラス窓から外を見てみる。が、どうもちょうど陽が真っ直ぐ部屋へ差し込む頃合いらしく、直射日光で空を直視できない。
仕方なく他の窓はないかと探し回ると、時間をかけてなんとかアクリル板の裏側に腰高窓を見つけた。
白い壁に取り付けてあるように見えたアクリル板だが、壁と同色の光沢加減で境目が見えづらかっただけのようだ。実際は、壁の大部分を占めていただけだった。
背丈より高い位置にある木枠に指先をかけ、必至に窓へ顔を近付ける。陽は左側上部の端に見えていて、それは時間がまだ昼には届いていないことを示した。
『靄が消えている……』
廊下の窓から見えたものは朝だけの偶然なのか、靄と認識した何かは既に影も形もない。
『あれは、何だったのかな……?』
外の靄を目にした時、微かにだが意思を持って蠢いているような気がしたのだ。
確かな理由も根拠もないし、今改めて考えても単なる思い過ごしに思えてくる。
そう感じていても、なぜかあの靄が頭から離れてくれない。ここに来てから初めて見た外気の揺らぎは、私の心に引っかかりを残してしまった。
がちゃ――――。
『……?』
「……。客人」
「あー! やっぱりお姉ちゃんだー!」
扉の開く音と共に、聞き覚えのある二人の声がアクリル板の向こうから聞こえる。
キリスとレニーが戻ってきたのだ。
『キリス、さっきはありがとう。レニー、こんにちは』
板の裏から出て二人の前にきちんと出てから、私は黒一色に染まる無表情な男に礼を告げる。と同時に、姿を見せて早々に飛びついてきた少女にも挨拶をした。
キリスは淡々と、私からの礼に静かな首肯だけ返す。
「お姉ちゃん! また、あそんでくれる?」
「レニー。彼女。博士。の。客人。だから。ダメ」
自分が求めていない方向からの注意を受けて、一瞬で喜色満面な笑みが一転する。
師匠と慕うものへ振り向く間際の顔には、明らかな苛立ちが垣間見えた。
「嫌だあ! あそぶ! あそぶの!」
「レニー」
そして、彼らの押し問答が幕を開ける。
――模擬人間だってケンカくらいするよね……。
感情豊富な少女と、無表情で単調的な音を吐く男の言い合いを見守りつつ、私はひとり妙な感想を抱いた。
しかし、このまま放ってもおけない。そろそろ止めに入った方が良いだろうと、二人の間に割って入る。
『キリス。私はいいの。私もレニーと会いたかったから』
「やったあ! やったあ!」
素直に喜びを示すレニー。一方のキリスはわずかに不本意そうだけれど、私自身が良いと言っているのだから口出しは無用だ。
――もしかして、博士に何か指示されていたのだろうか……?
例えば、一人にしてあげて、とか。
小さな体でスカートのフリルをヒラヒラさせる少女に手を引かれて、さっき妙なものを目にしたカーテンの向こうへと連れて行かれる。その最中、廊下に繋がる扉の向こうへ消えていくキリスの背を、そっと横目で見送った。
「ねえ、お姉ちゃん! あのね!」
目玉や書き殴った絵が覗いていたカーテンの向こうは、どうやら少女の遊び場として用意された部屋らしい。昨日一緒に遊んだ玩具も、ちらほらと目につく。
手元はしっかりとオモチャを握りながら、慎ましやかなお口も一生懸命動かすレニー。その様子があまりにも可愛くて、堪らず口角が限界まで上がってしまう。
「それでね! 師匠がね! ――あ!」
少女の愛らしさに見とれているうちに、話題の種はキリスに移っている。忙しなく変わる話の内容に、そろそろ頭の中で混乱が起こりそうだった。
「お姉ちゃん?」
それまで終始目を輝かせて頬を上気させていたレニーだが、唐突に眉尻を下げてこちらを見上げてくる。
『ん? どうしたの?』
透明感のある金春色の瞳をまん丸とさせる相手に、私は微笑みかけた。
「あのね、レニーね? お姉ちゃんにはずっと、ずーっといて欲しいんだ。だってね、あのね、」
『うん、うん。大丈夫。ちゃんと最後まで聞かせて?』
息継ぎを忘れて話す少女を宥めるように、強く頷いて見せる。
「お姉ちゃん、博士と同じ匂いがするから。レニー、博士は嫌いだけれど、……同じ匂いでもお姉ちゃんは優しくて大好きだからね!」
同じ匂い、か……。
あの野暮ったくて胡散臭いおっさんと同じと言われても、手放しで喜べそうにない。
『レニー? どうして博士と同じって分かるの?』
どうして博士なのか、直接的な質問を出来ないのは痛いところだけれど、ここは言葉を変えて遠回りに迫ってみよう。
部屋に戻ってきた時も、やっぱり――と言い私だと知っていた様子だ。キリスから前以て知らされていたとは思えない反応でもある。
「んー。博士とお姉ちゃんは同じ葉っぱの匂いがするの!」
『は、葉っぱ……?』
広範囲に受け取れる謎かけに、深く首を傾げた。
けれど暫くして、朝露に濡れた原っぱの青臭さを思い出す。この世界に連れて来られ、初めて地に足をつけた場所がそうだったから。
「うん! 私はよく知らないけれど、博士がよく飲んでいる液体の匂いだよ! 博士、よく煎じて飲んでいるよ?」
内容に具現性が増してきたところで今度は隣の大きな部屋に置かれた試験管の中身を想像したが、いやいや違う、とバレない程度に苦笑して頭を切り換える。
あれはどう見ても、体内に取り込んで良い物質ではない。いくら妙な博士だろうと、自身の体を被検体にはしたくないだろう。
そこまでは彼も、自分の人間性を捨ててはいないはず。ここの人たちをすべて人間と呼ぶのなら、だけれど。
少なくとも、今目の前にいるレニーや可愛らしい一面を見せたキリスといるほうが、居心地は凄く良かった。
『レニーは、煎じるって言葉を知っているんだね。凄いね』
頭を撫でて微笑むと、嬉しそうに目を瞑ってされるがまま頭をたれる幼い彼女。
一人っ子であることに寂しさを感じたことはなかったけれど、こうして親しめる年下の(ような)女の子を目にし、可愛がらずにはいられない。
少女が私を「お姉ちゃん」と呼ぶように、そのイメージを崩さず接していけるだろうか?
『レニー……』
つよく感傷的な気持ちになって呟くと、少女は笑みを消して涙ぐみそうな表情で見つめてくる。
『どうしたの?』
私の顔に、何か付いているのだろうか?
「――――お姉ちゃん、泣きそうな顔しているから……」
泣きそうな、顔……。
レニーはこちらを見て暫く黙っていたが、やっと口にした自分の言葉で更に目尻を潤ませた。
『――大丈夫だよ。心配してくれてありがとう』
私よりもずっと下の年齢に見えて、内に秘めた対人への思いやりは一層深い。
それにしても、と思考を回転させつつ、少女のフワフワと揺れるブロンドの髪をソッと撫でる。
葉っぱで液体。この二つで思い浮かぶのは、茶葉しかない。それが和・洋・中のどれに当たるのは判らないけれど。
乾燥させた香りが強ければ漢方ということもあるだろうが、私はその類を口にした覚えはない。浴槽に浸かり付いた香りだとすれば、飲用も出来る万能性に優れていると仮定できる。
兎にも角にも、その葉っぱがどんな用途で使用されているのかが謎だった。
――――。
「ただいま~」
キリスが出掛けてから長い時間が経った頃。
レニーと脇の部屋で戯れていると、隣の大きな部屋のほうから博士の疲れた声が聞こえる。
「おかえりなさい~」
無言で出迎えた私の隣でそう言葉をかけたレニーの声は、慕う気がないのか明るさが皆無だ。けれど、その後ろに控えていたキリスを見つけると、すぐに彼のそばへ駆け寄った。
「師匠ー‼️」
彼の細い体に抱きつくレニー。飛びかかる勢いだったにも関わらず、キリスは蹌踉めくことなく無表情で抱き止め少女を見下ろしている。
やっぱり仲が良いんだな。
数時間前に言い争っていた二人の姿は、やはり師弟関係というよりは兄妹に見える。
沈黙を貫く黒い男の手は、少女の頭に優しく触れていた。
「あー、疲れたー。やっぱり、キリスがいると捗るね~」
「博士。遊ぶ。オレ。働く。ずるい」
「ずるくないさー。それが上司と部下の関係というものだよー」
自身のサボりを申告するキリスに、博士は半ば開き直って本来の関係性を示唆する。
そんな筈はない。上司だって働き者の立場だ。
私は溜め息を吐いた。
こちらを一瞥して共感を得られないと悟った博士は、肩を竦めて小さく息を吐く。
『そういえば、何を取ってきたの?』
博士の役割で草の採取といえば、十中八九なにかの研究に使うものだろう。若しくは、先程レニーと話していた煎じて飲む類。
後者だった場合、その中に私が口にしている物があるかも知れない。身に覚えがなくても、アリーシャなら私に出す食べ物や飲み物の名前を教えてくれる。
あとで照らし合わせるためにも、博士に訊ねた。
「んー? なあに、ただの草だ。ちょーっと薬になったり、凄く即効性のある毒になったりする、ただの草だ」
明言を避けるように曖昧な返しをいただく。彼の言い方だと、毒になる割合のほうが多い気がする。しかし、ここで引けば彼のはぐらかしに屈することになりそうだ。
『そこから何が出来るの?』
「そりゃあ毒を分布させる訳にはいかないからね。ただの薬だよ」
ただし、問いのお返しに正しい情報を持ってくるかどうかは、応える相手の意思に寄るところが大きい。
「レニーは、口が達者で煩かったでしょー?」
なら他の質問をと口を開こうとしたところで、博士が話を変えてくる。白衣のおっさんは視線を透明のアクリル板へ移す。その行動は、話題をこれ以上続けたくない人のそれだ。
人は、話したくない、或いは話したくても話せないと思う時、それ以上の追及を受けずに済むよう、こういった行動をよく取る生き物だ。しかし単純に罪悪感からくるものか、それとも故意にそうしているのかは見分けがつかない。
『でも楽しかった』
仕方ない。
ここは一歩引いてあげるのも優しさだ。話の流れに乗って、私は小さく笑った。
「それは何よりだ」
レニーのことで博士から返ってきた言葉は、それだけだった。
無言でキリスとレニーを見る博士に、私も倣う。二人はどこから見ても、人だ。けれど、彼らには人に無い機能が備わっている。
特にレニーはそれが顕著だ。口が達者で話の切り替えが速い。それは思考回路や脳から繋がる回線が優れているということ。
『レニーって、本当に賢い子なんだね』
「まあ、僕が作ったんだ。頭がよくない訳がないさ」
『それはともかく、レニー可愛いよね』
「うちのキリスくんもだよ」
彼の自画自賛にうんざりして無視すると、今度はどこの我が子対決だと言いたくなるような切り返しをしてくる。
レニーもあんたの子でしょうが……。
私は呆れて半笑いした。
騒ぐ少女を軽くいなして大人しくさせるキリス。相手の言動を抑制させる能力は、彼のほうが上手らしい。
そんな二人を見る博士の表情は、乱れた前髪に隠れて窺えない。
私はこの空間に漂う薬品の匂いと雰囲気に巻かれ、博士と似た匂いがすると言われていたことがすっかり頭から抜けていた。