【12】こわい夢と騒々しい現
突然、何かに突き動かされて起きる――――。
ああ。私はこの感覚を知っている――――。
誰かが私を呼んでいる――――。
私の名を呼んでいる――――。
誰かは、次第に私から離れていく――――。
『……待って――ッ!』
心臓の早鐘が痛いくらいに鳴り、ハア、ハア、と息が激しく乱れる。
落ち着こうとすればするほど空気を吐き出すばかりで、頭に酸素が回らない。深呼吸をしなければと分かっているのに、大きく吸おうとすると反対に噎せ返ってしまった。
おかしい。低酸素に陥りかけ霞む視界で、ふと過ぎる。
今までだって息が詰まることはあったけれど、どんなに酷くても一瞬呼吸を忘れるくらいだった。なのに、これほど酷くなるなんて……。
それに、いま見た夢は何だったのだろう?
自分の世界でも経験のない事柄だが、こちらの世界での記憶でもない。
意識が逸れたことで呼吸は少し落ち着き、疲れを思い出したこの体を激しい眠気が襲った。
――チュン、チュン、と鳥の囀りが窓の外から聞こえる。
心地良い音にもう一度眠ろうとベッドで体の力を抜いたら、扉の向こうから声が掛かった。
「主様、入ってもよろしいでしょうか?」
遠慮がちな声だけれど、誰が訪れたのか直ぐに思い至る。
『……どうぞ』
「失礼します」
入ってきた彼女は気を遣ってか、そろそろとベッドに近付いてくる。昨夜のことが引っ掛かっていた私は、上掛けを頭上まで引き上げた。
「主様? 御加減が優れませんか? よろしければ、こちらまで朝食を運ばせますが?」
対する彼女は昨日までと変わらず物腰の柔らかい声をしていて、自分ばかり気にしているみたいで顔を合わせづらい。
「主様……、本当にお体の調子が」
『アリーシャさんは……』
無反応を貫いていると、戸惑った彼女がソッと上掛けに触れるのを感じ慌てて応える。
相手の動きは止まり、被り物を捲られる心配がなくなったことでホッと息をついた。
『昨日のことで、私をおかしく思ったりしましたか?』
小さな声で問いかけると、彼女の遠慮がちな息遣いが布越しでも伝わる。
良く周りの大人から向けられていた目を、私はアリーシャに重ねた。
幼い頃の経験で安易に人に話すことはしないけれど、溜め込んだ反動で衝動的に昨夜のような言葉を投げる私に向けられる大人の目には、いつもこちらに対する嫌悪が混じっていた。
きっと彼女もそうなのだろう。
そう思いたかっただけの質問だった。
細々とした私の声に、彼女はかすかな吐息をこぼす。
「大切な主様のお考えを聞いて、主様のお考えをおかしく思うなど、どうして出来ましょうか」
予想とは違い、心地良い言葉をくれたことに驚く。
「といっても説得力はありませんね。昨晩と今朝で反対のことを申しているのですから。妄言等のご無礼、どうかお許しください」
自分自身を責める声音に、こちらからは見えていないが伏せる綺麗な瞳に影がさす姿を思い浮かべた。
帰りたくない。そう思ってしまう。
せめて、どちらか一方が酷い環境なら良かったのに……。
独りよがりで身勝手な願いを抱く自分に、ひどく落胆した。
『いいえ、私が悪いんです』
昨日のことや、ここへ来てしまったこと、この状況の全ては私が悪い。選んだのは自分であり、誰を責めても八つ当たりになってしまう。
自分大事さゆえの甘えた選択が、自分の状況を貶めているのだ。
この甘えがなければこうして此処にいることも、彼らに会うこともなかった。最初に声を掛けてきた彼も、いつかは記憶から消え忘れてしまえるのだろう。
全ては、自分への甘さが原因だ。
『自分のことしか考えていない私が悪いんです』
「いえ、主様の行動に何も間違いはございません」
布越しで聞き取りづらいはずなのに、彼女の声はしっかりと応えてくれる。
「なれど、主様のご心痛を測りきれない周りのもどかしさを、どうかご理解くださいませ」
こんな私でも良いというのだろうか。
上掛けを捲り、ベッドから這い出る。
漸く出てきた私の不調を気遣って顔を覗いてくるアリーシャは、その顔が乾いた塩っ気のある水分でベタついていることに気付いた。
「……すぐに温かいタオルを持って参りますね。朝食はこちらで召されますか?」
手際よく事を運ぶ立ち振る舞いに無言で首肯し、退室していくアリーシャを見送った。
彼女が離れているあいだ部屋に備え付けの浴室でサッと全身を洗い終えると、既に戻ってきていたアリーシャがテーブルに料理を並べているところだった。
『お待たせしてしまいましたか?』
デザートのお皿以外はすべて湯気が立っている。暖かく香ばしい匂いと新鮮な果物の香りに反応して、鼻がひくひくと動く。
「いえ。それより食事が終わり次第、タオルで目元を覆わせていただきますが、このあと少しだけお時間をいただいてよろしいですか?」
泣きはらしたせいで瞼は上手く開かず、浴室でお湯を当てても腫れは引いてくれなかった。
『……お願いします』
予定があるとは聞いてないため、その提案に快く応える。そもそも、こんな顔ではどこにも出掛けられない。
私の態度にホッとした笑みを溢すアリーシャは、料理に口をつける様子を見て更に胸を撫で下ろしたようだ。
変に、鬱ぎ込まないようにしないと……。
人のいるところで黙り込むのも考えものだな、と口を動かしつつ考えた。
まだ水分を含む髪をタオルで優しく包みながら、アリーシャは私の食事を見守る。
「そちらの料理は、苦手でございますか?」
箸を止め、彼女が指す料理に視線を向ける。濃い味付けが乗る皿は、視界に入るだけでも胸焼けしそうで無意識のうちにテーブルの端に追いやっていたらしい。
子どもじみているけれど、本当に濃い味付けが苦手なのだ。
『はい、すみません。……味が濃いと食べられなくて』
正直に言えば、今並んである料理全て濃く感じるのだが、その中でも比較的薄味の皿から手を付けている。しかし、指摘された皿だけはどうしても避けたかった。
「左様にございますか。ベーコンエッグというものはオウベエという場所では主流だと伺いましたが……。主様は、どのようなものがお好きですか?」
オウ兵衛? ――欧米と言いたいのだろうか。
『いえ、好き不好きという訳ではなく、ただ起き抜けに食べるには重たくて……』
食べ物事態の好き嫌いはないが、時間帯――特に朝は睡眠に徹したいだけだ。
少し胃の辺りを抑え主張すると、髪より濃いミルクティーブラウンの綺麗な両眉が下がった。
「それは配慮が足りず、申し訳ありません。よろしければ、こちらのルサリマティーをお召し上がりください。スッキリとした甘みがお口直しになればよいのですが……」
ルサリマ……?
聞いたことのないお茶の品種に戸惑いつつ、恐る恐る一口啜ってみる。すると、口の中に爽やかな香りが広がった。
茶葉の甘みだけでなく、後味がしつこく残らない。口当たりも滑らかで透き通るようだ。
その名前も含めて――、
『不思議な紅茶……』
「そうでしょ!」
ぽろっと溢した感想に横入りする声がそばで聞こえ、驚きに体をブルッと震わせた。
「そうでしょ! 美味しいでしょ! このルサリマティーは古くから伝わる茶葉で、しかも時期は今が旬なんだよ。スッキリとした甘さが堪らなく上品でしょう。これは大始祖様の城でしか栽培できない特別な品種なんだよ。凄く不思議だと思わないかい?」
間髪入れず捲し立てられて、自分の鼓膜事情が心配になる。
部屋中を、目を吊り上げて追いかけるアリーシャから逃げ回りながらでは、何一つとして話が入ってこない。
「また! あなたって人は勝手にッ! いい加減自重してくださいッ! だいたい、部屋主の許可なく入室するなんて無礼千万です!」
怒り心頭で前傾姿勢を取る彼女の手元で、どこから取り出したのかパチパチと音を放つ棒が猛威を振るっている。
「あー、本当に君って人は細かいなあ。煩いなあ。良いよね、別に構わないよね? 君が良いって言ってくれないと、彼女がいつまでも煩いんだよね」
明らかに強力な武器を物ともせず躱し同意を求めてくる姿は、余裕綽々といった感じだ。いつまでも当たらないことが興奮剤になったようで、アリーシャが叫んだ。
「ロベルト・イリノス・ユーリス! 女性の部屋に無断入室の罪でこれより刑罰を執行します!」
「ずるい――ッ!」
それまで飄々としていた彼の声が焦りに変わり、不自然なほど背筋良く胸を張りだし身動き一つ取らないでいる。
こちらに向けられた救いの目は放っておくにしても、彼を拘束している内容に思い当たる節があった。
やはり、この世界では魔法が使えるらしい。
最初に説明を受けていても、何度現象を目にしても実感が湧かない。でも、魔法能力の有無は、事実と認めるしかないようだ。
黙って思考の世界に浸っていたが、二人の騒動はまだ収束する気配がない。
先程より凶暴化したアリーシャと、膠着が解け華麗に避け続ける彼の存在は、朝から非常に迷惑でしかない。
「問答無用です!」
「ひーッ!」
「覚悟ッ!」
煩い――――。
『もういい――ッ!』
自分でも予想してなかった声量が、鼓膜を貫いて頭の中で木霊する。
「……?」
「主様?」
自身の声に内心で驚きつつ、こちらを窺う二人には苛立ちを抑えて言い直す。
『二人とも煩いから、とりあえず退室!』
「あ、主様ッ⁉︎」
「え、俺も⁉︎」
戸惑う二人を無理やり廊下に押し出す。
幸い抵抗されなかったので、すんなり一人の時間を確保できる。ドアをぎゅっと抑え付け鍵を掛けると、その場に屈み込んで気持ちを落ち着かせた。
はあ。これで暫くは一人になれる。
静かに考える時間が欲しかった。……いや、本当は考えている自分を演出したかったのかも知れない。
どれだけ思考に耽る瞬間を先延ばしにしても、理由を後回しにしても、私の中に浮かぶ決断は一つだけ。
望みは、一つだけだった。
「開けて!」
「主様! 中に入れてくださいませ! まだ御髪整えや瞼の腫れが……っ!」
周りの声に意識が反れるのも確かだ。
少し考えてから、二人を無視することにして洗面所に入る。
まだ軽く水気が残る髪と、酷い状態の目元を何とかしないといけない。ドライヤーを探したが、無駄に開放感のある室内のおかげで何処にも見当たらなかった。
『まあ、いいか』
もとより髪の手入れに気を遣っていたわけではないし、今さら気にするのも馬鹿らしい。瞼もこうなったら半日は治らないと見切りをつけ、さっき思い付いたことを行動に移すため周囲の音を探った。
閉め出した後だから当然なのだが、部屋の方からは物音一つ聞こえない。廊下に続く扉まで静かに近付き耳を傾ければ、こちらも静寂そのものだ。
『よし』
ガチャン――――と重厚な施錠を慎重に外し、首を左右に振り廊下を見回す。
誰もいない……。
どこか昨日と同じことを繰り返している気がするけれど、これから行く場所と目的が明確な点では違っている。
周囲を注意深く窺いつつ、目的地を目指して私は一歩踏み出した。