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さよなら、世界。  作者: 不知火 初子
1章 コンニチハ、世界
12/31

【11】奇跡には代えられなくとも、切望よりは手が届く




「あの……主様?」



 小綺麗なおじさんと別れてすぐ、今度はアリーシャが大広間から姿を見せる。



「このあと、少しよろしいでしょうか?」


『あ、はい。……大丈夫です』



 彼女の遠慮する口振りに戸惑ったが、その後階段を昇っている最中で思わず「あっ」と声をもらしそうになった。

 なぜなら、私は私で彼女と話があったことをすっかり忘れていたからだ。


 自分のうっかりに気付いたのは、与えられた自室に着くまで、どうして急に……なんてことを考えていた時だった。

 どうやら低速稼働しているらしい自分の脳みそに、残念な気持ちを隠せない。


 ドアノブを回し押し込みながら軽く項垂れると、斜め後ろに控えるアリーシャが小首を傾げて覗き込んでくる。

 彼女の瞳は大きくて綺麗で、優しい色をしていた。

 加えて不思議そうな顔をする彼女に、もしかして気持ち悪がられただろうか……と見つめたことを反省しつつ室内へ足を進める。


 朝の支度で多少の乱れが残っていたはずだけれど、そこはメイドという仕事が存在するおかげか部屋の中は手入れが完璧に施された後だった。


 窓から差し込む陽に照らされた朝とは違い、備え付けの照明の下に見る室内はどこか夜の雰囲気を纏って、室内の絢爛さに拍車をかけている。


 彼女から差し伸べられた案内で、一番主張の強い大きなベッドのそばにある丸テーブルへ行くと、椅子の背もたれに手をかけるアリーシャに座るよう促された。

 同性からレディファースト扱いをされるのは、非常に心許ないのだが……。

 それは後で相談することにしよう。


 彼女の理由は分からないけれど、こうして時間を作ってくれたのだから忙しい彼女の時間を無駄にはできない。



『さっそくなんですが、んぶッ――』



 言葉が途切れ、彼女の豊かなものに挟まれて、自分に何が起こったのかゆっくり理解していく。アリーシャから香る匂いが私の心を落ち着かせた。



『あの……?』


「良いのですよ。誰も来ません。もう、抑えなくてよいのです、主様」



 彼女に抱かれたまま困惑の音を上げるも、目の奥からは熱くて苦しい思いが湧き鼻の奥がツンと痛くなる。留まることを忘れたそれは、頬を濡らす前にアリーシャの服を湿らせた。


 私、どうしたいのだろう?



「主様?」



 自分の感情に疑問を浮かべていると、頭上から優しい声が届く。



「わたくしでは、ご家族の代わりにはなれません。しかし、一介の使用人が、主様の拠り所になりたいと思うことは不謹慎でしょうか?」



 頼れ、という意味なのだろう。でも、その言葉こそ、私には重たくて非情に聞こえる。私が誰かを頼ることだけは、……それだけは出来ない。


 それでも切なさが止まらなくて、彼女の腕の中で俯いた。座る私を抱き締める彼女は、少し屈むような態勢で大変そうだ。



『アリーシャさん』


「……はい」


『このままでは話しづらいので、座ってもらえませんか?』



 少しだけ押し戻して見上げれば、湿りが残る目元に柔らかく触れてくる。



「申し訳ありません、主様。図々しくも不躾な行いをしたわたくしを、どうかお許しください」



 一歩下がって綺麗な顔を俯かせる彼女は、そう言うと正面の椅子に腰を下ろした。



『いえ、私の方こそ。服、濡らしてしまってごめんなさい』



 自分がやってしまったことを露見させると、アリーシャは首を左右に振りニコリと笑う。



「これくらい、主様のご心痛に比べたら、些末なことにございます」



 まるで私が何を考えているのか知っているように、真っ直ぐ見つめてくる彼女に怯む。何だか土足で踏み込まれたような気がして、あまり気分のいい状況ではなかった。



『……大丈夫です。それより』


「主様、大丈夫という言葉は、万能ではありません。どうか《きいて》欲しいと求めてくださいませんか……?」



 本音を話したところで、何の解決にもならない。この状況に実益をもたらさないなら、何を正直に明かしても徒労だ。

 卑屈な思いで他の話をしようとしたが、彼女はそれを見過ごしてはくれなかった。


 聞く――聴く――訊く――きく――。


 偏に《きく》と言っても、それぞれには異なる意味があり、どれも今の私に必要なことだろう。しかし、彼女がどれを指しているのかは分からない。もしかすると彼女が訊きたいのは、流れを逸らそうとした私の本音だろうか。


 幼少期から他人と話すことが出来ず、けれど、そのことで大きな苦労を強いられることもなかった。なのに、突然自身のことを話せと言われても、「はい。きいてください」と直ぐに言葉が出てくるわけではない。


 一体、何を話せというのだろう?


 本音を曝して、相手を傷つけた光景が鮮明に蘇る。ちょうど今の時期に連日の夢となって呼び起こされる記憶は、小さい頃無条件に愛してくれたであろう両親の、哀しみに暮れる顔だ。


 それなのに、今日知り合ったばかりの彼女に話すこと。

 それは良いことであるはずがない。自分の肉親にすら頼ろうとしないで、まだ見知って間もない彼女に打ち明ける気持ちなんか私には存在しない。


 存在してはいけないのだ。



「主様……?」



 一人思考にのみ込まれていく私を、彼女は眉を顰め不安そうに窺ってくる。



『何でもないです』



 小さく短く答えた私は、この時すでに彼女への用件を忘れていた。



「わたくしは小さい頃、男性から暴力を受けていました」



 言い知れない虚無感だけが残り俯くと、澄んだ麗声の持ち主は静かに語り出す。何が始まるのかと顔を上げると、こちらを見る彼女は先を続けても良いか伺う目をしていた。

 ぎこちなく首肯を返し、彼女から目を逸らす。



「小さい頃と言っても、ほんの四、五歳くらいのことです」



 その歳の頃は、早熟なら既に自我が芽生えていてもおかしくない時期だ。あるいは私たちよりもっと成熟が早いとも言えるだろう。何はどうあれ、思い出すように語る様子を見るに、彼女は当時すでに自我を持っていたと見て間違いない。



「それだけが原因というわけではありませんが、それが起因になったことは確かです。わたくしは男性を恐怖の対象として見るようになりました。一度だけの過ちだと済ませたら、どれだけ楽になれるか分かりません」



 そう話す彼女からは今にも取り乱しそうな不安定さは見られず、むしろ当事者という意識が窺えない淡々とした口調だった。


 何回も、同じ内容の説明をしてきたかのような、完成された物語のようだ。



 そして、私は彼女が何を言おうとしているのか全く分からなかった。

 今朝の行動に対しての話をしているのなら、成る程と辻褄が合う気もするが、彼女の大始祖様への態度には厳しさはあれど嫌悪や畏怖があるようには見えなかった。


 そういう場合、男性が同じ空間にいることに苦痛を覚えると聞いたことがあるけれど、彼女にその様子はない。


 こんな具合に思考が逸れるほどには、彼女の話に付いていけない自分がいる。



「ここで生活している上に、大始祖様と一緒にいられる事に不思議を感じておられるのですね」



 素直に首を縦に振る。


 この城は仮にも、不特定多数の人が集まるのだと説明を受けたばかりだ。

 ふとした瞬間男性に遭遇する機会が必ずある場所で、使用人として勤めている彼女は一体何を考え、過去から引き摺っている傷を明かしたのだろうか。



『何を言おうとしているのか、さっぱりわかりません』




 要領を得なくて思ったことを口にすると、彼女は顔を顰める様子もなく朗らかに微笑む。



「諦めないで欲しいのです。主様は確かに、唯一無二の立場におかれています。ですが、自己完結なされたら、わたくし達から出来ることの範囲は極端に狭まります」



 私が無気力になれば、その時点で何も助けてやれなくなる。彼女はそう言いたいらしい。



「お話し、してくださいませんか?」



 再度聞いてくる彼女の声は、気遣わしげに潜められる。自分でも気付かないうちに俯いていた顔を上げると、彼女とまた視線が重なってしまいヒュッと息をのんだ。



『――ッ! ゲホッ、ゴホッ……』



 口を開こうとした途端に咳き込む。喉に何かが引っ掛かったみたいで気持ち悪く、反射的に両手で喉の周りを覆った。



「主様――っ!」



 私の異変に、そばにきて様子を窺ってくる。


 こわい。

 こわい。こわい。


 私の頭の中は一瞬で文字の黒に塗り潰され、他のどんな言葉の侵入も許さなかった。


 落ち着くまで背を擦ってくれるアリーシャの言葉を聞いても、何も感じない私は一体どれだけ冷血なのだろうと考える。


 彼女の話を聞いても、自分の話をしたいとは思わなかったのだ。

 人の痛みを理解できるほど出来た人間ではないから、彼女の受けた痛みは勿論分からない。彼女の痛みは彼女のもので、私の苦しみは私のものでしかないのだから。



『…………それで、私が諦めなければ何になると言うんですか?』



 落ち着きを取り戻した私は、アリーシャに問う。

 言われて気持ちの良い言葉ではない。言うほうも気持ちよくなんてないのだ。それでも、どうしても彼女の考えに応えることを拒絶している。


 心理に与えられる暴力か身体に与えられる暴力の違いなんて、見た目に痣が残るかどうかくらいなもの。 例え痣が消えたって、付随する痛みは心に一生残る。


 痕が消えたから治った、は見た目の変化でしかない。時間が経てば忘れるなんて言葉は、その場凌ぎの建て前なのだ。受けた傷は一まで薄くなることはあっても、ゼロに戻ることはないのだから。


 確かにそういう部分を含めて、彼女と私は同じところがあるのだろう。しかし、やはり彼女と私では違う。彼女は私と違って、強い人だ。


 幼少期の記憶は案外鮮明で、簡単に思い出せる。

 今でもズルズルと引き摺っている私と違って、同じく幼少期に強い傷を持つ彼女は今でも恐いと言いながら前に進めている。すごく強い人なのだ。


 そう思ったからこそ、ただ話してくれと言う彼女に無責任さを感じた。



「主様……」



 言葉の端々から棘を感じたのか、アリーシャは声を詰まらせる。



『アリーシャさん』


「はい」


『簡単そうに言わないでください。諦めるなとか、希望があるなら言えとか、一人で勝手に盛り上がらないで』


「……申し開きの言葉もございません……」


『だいたい、希望があるからどうにかなるんじゃない。どうにかなりそうな見当が付いて、やっと希望が湧いてくる。可能性を見出せなければ、希望を持つ意味がないでしょ』



 まるで万能の言葉みたいに、みんなして希望や願いを語る。それがあれば強くいられるから持てと、決して諦めるなと語る。


 でも、私は知っているのだ。持つ願いが社会の認識外だった場合、否定され批難され拒否されてしまうことを。持つ者の人格まで否定されてしまうことを知っている。


 そう考えている私の口から出たのは、傷付きたくないための自衛から転じた攻撃だった。けれど相手から目を逸らす気配が感じられなくて、先にこちらが顔を逸らす。



「……ですが、どうにかしようという気持ちが希望になれば、それが少しでも動き出すキッカケに繋がるのなら、やはり希望を先に見出すことも重要ではないでしょうか?」



 彼女は、そう言った。それはつまり《希望は奇跡の代用品ではなく、切望より少し身近な言葉》ということだと。

 彼女が聞こうとしているのは、私の気持ちだった。





 アリーシャが退室したあと、静寂に一人包まれてベッドの中で眠れずにいた。

 何も言おうとしない私に、アリーシャはこの場を切り上げた。扉を閉める寸前、肩を落とし出て行く背中が目に焼き付いている。


 希望も願望も、鎖みたいなものだ。それは私にとって、絶対的に強くて冷たい。無邪気な幼心が生んだ願いに絡め取られ、今ある生に馴染めず抗うことも出来ない。


 十何年も、その鎖は存在し続けている。



『帰りたい?』



 消灯の済んだ部屋の中、これまで感じた衝動の正体を掴もうとするようにぼそりと呟く。


 両親には本当に大切にされていたと思っている。もちろん感謝もしている。……けれど、あの世界では私の願いを叶えることは出来ない。

 親からすれば裏切りになるのだろう。今まで育てた子どもを、おかしな事を言う子どもをこれまで育ててきたのに、と。


 彼らの気持ちを考えれば考えるほど、自分の気持ちが曖昧になっていく感覚がある。何も言い出せなかったのは、矛盾した気持ちをぶつけてしまいそうだったから。


 常に抱いてきた憧れの存在になる機会を目の前にして、可能性が惜しむ気持ちを生む。

 抑えきれない感情に顔を濡らして、知らないうちに私は眠りについた。





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