【10】誰かの言葉は無条件に信ず
一方、後方にいる男二人は、互いに正面を見据えたまま秘密の会話をしていた。
前方で果物を選ぶ女の子からは目を離さず、博士は気になっていたことを口にする。
「他にも何か言われていたんでしょー」
「まあね。彼女の周囲を警戒しろ、ってさ」
「ふうん。ま、そんなところだろうねー」
「どうして付いてきたのさ?」
あっさりと答える相手だが、白衣の男――――シーモスもどんな言葉が返されるか知っていたような口振りをみせるだけで、特に毒を吐くことはしない。
しかし、彼――――ロベルトの方は納得しかねることがあったようで、視線と意識を女の子に貼り付けたまま問う。
「ふうん、ほお。デートの邪魔されたくないんだー」
「……それもあるけれど。はあ……博士って分かり易く誤魔化してくるね」
「そういう君は、本当に分かり易くて助かるよー」
「突然ヒトに関心を示すなんて、気持ち悪い」
動じず淡々としている表情と声音で尚も茶化すシーモスに、本心から言葉を紡ぐロベルトは追及をやめない。厳しい評価を向けてくる相手に、博士は白衣が覆う両肩を微かに揺らして失笑する。
「君ってさあ。僕とは全く違うタイプの探求者だよねー。はっきり言ってくれてどうも」
「そっちは俺と違って、隠し事が多い探求者だなー」
この不特定多数の人が混在している場所で、特殊な職業を明かすことは情報管理上よろしくない。だが、彼らは一般的見解というものに当てはまらないのだ。
要するに思考の範疇外。彼らが興味・関心を示すのは、研究・探求に値すると判別した事柄のみである。極論を言えば命に関わる危害以外、気に留める必要はないと考えているのが彼らの性質だ。
自分の好奇心を満たすもの以外、どうでもいい。
そんな彼らだが、ある事情により一人の異なる人間の女の子から目を離せないでいる。
それは、この世界を治める大始祖様――博士からすれば兄――が、彼女の身辺で過ごすというお達しを出したから。彼がこの世界の全てとして存在する限り、彼らはそれに従わなければならない。
ひとりは、自分を闇が渦巻く底なし沼から掬ってくれた御仁として。
ひとりは、自分を育て守ってくれていた兄として。
抱くのは尊敬や憧れには留まらない。もっと奥深い想いだけだ――――。
彼らは自分たちの主の命に従いながらも、あの方(兄)の関心をそこまで集める彼女に、個人的な興味が沸き始めていた。
「で、どうして付いてきたんだ? 忙しい身だろ。……俺と違って」
「兄が興味津々だからねえ。一体どんな人物なのか、気になってしまっただけさ」
異なることを敢えて強調する言葉にも、シーモスは無反応を貫く。突っ掛かる人物が尊敬する御仁の弟であろうと一歩も引かないロベルトだが、対する彼は終始どこまで本気なのか分からない暢気な声をあげるだけだった。
事実、博士は彼女のことを良く調べたいと考えていた。更にはサンプルに欲しい、とまでも。
「あっそ。まあ、変なことは考えないでくれよ」
明確な表現はしないが、同じ職業病を抱える者同士で考えることが分かってしまうのか、自分とは性格の異なるシーモスをロベルトは軽く注意する。
「はいはい。それより、ほら彼女が呼んでるよー」
その言葉に意識を女の子に向けるも、まだ会計には至ってない様子だった。これから至るのだろうと予測した彼は先に動き代わりに勘定を済ませる為、店頭に佇む女の子の隣に立つ。
城を出る際に預かった、大始祖様の印が刻んである香木に金額を記して店のものに渡す。そして商品の入った袋を受け取り、立ち去ろうとした時だ。
無事に金銭の遣り取りも済み、店の者から商品の入った袋を受け取り立ち去ろうとしたロベルトだが、
「おい! お嬢さん、どうしたんだい⁉︎」
「ちょっと顔真っ青よ? 大丈夫かい⁉︎」
切羽詰まった声が背後から聞こえ、自分より二歩ほど後ろで放心したような表情を浮かべる女の子は、次の瞬間脱力しその場に屈み込んだ。
「……大丈夫――っ⁉︎」
話しかけても反応はない。
自分たちが警戒していたにも関わらず何が起こったのか。遠巻きにこちらの様子を見ていたシーモスを、ロベルトは疑うような気持ちで鋭く睨んだ。
少し時は戻る――――。
後方で休憩する男二人は放っておいて、私はひたすら果物選びに夢中になっていた。
今ここで過去を振り返っても、それはあの世界での出来事であって、この世界には何の関係もない。
そう思考を切り替えようと、必死に考えを逸らす。
けれど、どうしても消えない。あちらの世界でのこと、そのどれもが胸の動悸を速める。
どくん。どくん。鼓動が聴覚を占める。
これ以上はダメだと思った途端、体は平衡感覚を失った。
人の本能のおかげで何とか屈み込むまでに留まったけれど、そこから立ち上がるという動作が出来ない。
いつの間にか隣にいたロベルトの眉は心配そうに寄せられ、彼がこちらの顔を覗き込んでくる。唇の動きで「だいじょうぶ?」と言っているように見えるが、心臓の音がうるさくて周囲の音は聞こえない。
落ち着け、私。ここは――――じゃない。落ち着け。
自己暗示をかけながら何とか意識を保たせると、耳鳴りの音がどんどん遠ざかっていく。
そこで漸く、辺りの状況に目を向けることができた。目前には自分を気遣う男、それから少し遠くの方で無情にも静観する博士の顔。ふと見上げれば店の主人やその奥さんも、大きな店頭販売のケースの向こうから身を乗り出し様子を窺っていた。
大丈夫。私は大丈夫。この世界でなら、私は――――。
――――。
同じ頃。博士は一人、彼女の身体機能について考えていた。
彼女は見るからに虚弱だ。
しかし体の均衡を崩したのは、それだけが理由ではないだろう。思い耽る様子を見せていたから、もしかすると元いた世界で何かあったのではないだろうか。
けれど、そこに踏み込むのは業務外に属する。
個人的な研究対象として見ると彼女の体調管理も仕事のうちだが、そこまで干渉することは世界の意思により赦されていない。
自分は兄のように尊ばれる存在でもない上、安易に他の人間たちと分け隔てなく接することが出来る程の役割にもない。
この世界にとって、僕のような者は実に中途半端だ。そして、実に疎ましい――――。
立場上、常に斜に構えざるをえなかったことで他者との接触に不備があるシーモスは、こういう状況でどんな行動に出るべきか計りかねていた。
――――。
私の体調が優れないと判断され、たくさんの袋を抱えた彼らと早々帰路についた。
夕食までに少しばかり時間の余裕を残して城に到着し、軽く身支度を整えてから大広間へと向かう。
窓から覗く景色は夜色に染まり、日照の時間帯にはない雰囲気の廊下を辿って大広間の扉を開けた。
中では既に様々な料理がテーブルに並び、大始祖様やロベルトの姿も奥の席にある。
大始祖様は春空のように仄かな暖色、ロベルトは冬空のように澄んだ寒色を身に纏っていて、二人の印象が昼間と違っている。
対して、自身で支度した私の装いは朝からずっと同じだった。
相変わらずどこに座していいか分からないテーブルの配置に、適当な勘だけで広間の中間まで進むと、新しい入室者が料理の乗ったカートを押して入ってくる。
テーブルの隣にカートをつけ、アリーシャは私の姿を確認し目を見開いた。
「はッ――主様ッ! お待たせして申し訳ありません! 準備が整い次第、お迎えに上がる手配でしたので……まさか既に来室されているとは……ッ」
『いえ、良いんです。待たせるより、待つ方が性に合っているので』
焦った口調を漏らす彼女に、自分も慌てて応える。
待たせるのは良心の呵責が云々――――。待つ方が私にピッタリ云々――――。と考えていたところで、私との距離を一気に詰めてくるアリーシャ。
「主様! その装いはご自身で?」
その口振りから察するに、怒っていらっしゃる。
面倒臭がって着替えなかったこと。
あとは彼女の仕事の一環である身支度、その機会を奪ってしまったこと。
一瞬のうちに考えを巡らせ彼女の叱咤に身構えたけれど、いつまで経ってもそれらしい反応が来ないので恐る恐る彼女を見る。脱力したままゆらゆらと横に揺れながら近付くアリーシャに怯み、伸ばしかけた手を急いで引っ込めた。
『あ、あの……』
「主様……」
『は、はい……』
「主様……――」
『……は、ひ……』
「とーってもよくお似合いですッ! 素晴らしいです!」
『……ん?』
威圧感に混乱する頭で視線を相手に向けると、アリーシャは夏の陽射しみたいに眩しい笑みを浮かべている。
彼女の言葉を不思議に思い素早く自分の身なりを確認するが、黒い薔薇の刺繍が施された深青のシンプルなドレスは、どこからどう見ても今朝から変化なし。
……びっくりしたわ。
アリーシャの言葉に一瞬、自分は高級ドレスを着ているのかと思った。まあ、今着ているドレスも充分に高そうではある。
このドレスを用意してくれたのはアリーシャ本人なのだが、装いを改めて褒めていただけるとは、主人を持ち上げる手間を惜しまぬ人だ。
「卸したてで余計な皺ひとつないドレスを召したお姿も素敵でしたが、日中お召しになられて体格に馴染んできたお姿も、本当に良くお似合いでございます!」
要約すると、今朝はドレスに着られている感じがあったということだろうか。
そうですか。
「朝は、ドレスの方が着られてやってる感じがあったもんね!」
テーブルを挟んだ正面にいるロベルトに、心の中で「知ってるわよ!」と悪態をつく。
いっそ無心になろうと料理に食らいつきかけて、朝と同じ左側にいる大始祖様と目が合う。その視線は何か言いたそうに見えたのだが、瞬きの間に人の良い笑みに変わっていた。
今のは、私の気のせいだったのだろうか。
私の席にだけ並べられた料理はやはりアリーシャの気遣いが込められた、私のための薄味少量な献立になっている。本来、私が来なければ増えなかった作業だろう。
食事面含め周りの暖かい処遇があまりにも優しくて、思わず涙が出そうになった。同じように気遣ってくれていた、自分の両親を思い出して……。
――――そうか。私、帰りたいんだ……。
溢れる前に目を瞬かせ、奥から沸き上がろうとする水圧に耐える。
ここに来てから――いや、もしかすると、あの日ロベルトに提案された時から、こちらの世界に染まりたくて他のことが見えなくなっていたのだ。願望を叶える可能性に近付くためだと、私は自分の都合ばかり考えていた。
最低だな、私。
これまで十七年間も育ててくれた両親をおいて、気持ちの赴くままにこちらへ来た。何とかなるだろうなんて安易な考えで、二人には何も言わずに……。
自分の世界でも、春風が残る梅雨前の時期には夜中まで出歩いていた。けれど、一日として帰らなかった日は無いのだ。
だから今こうして一日半も帰らないことで、きっと物凄く心配をかけているはず。まだ帰る見込みもないなら、これからも心労をかけてしまう。私は最低な人間だ。
こんな私じゃあ、相応しくないな……。
「主様、どうかされました?」
食事の速度が遅くなる私に、心配したアリーシャが声を掛けてくる。
ここには、まだ人がいる。鬱ぎ込むなら、せめて一人になってからでないと余計な心配をかけてしまうだろう。これ以上、こちらの人に迷惑をかけるのは嫌だ。
『ううん。何でもないです』
不自然に見えないよう首を横に振り、何もないと食事を続ける。
今は、まだ出しちゃあダメなんだ。感情の波に目を向けないよう、喉を鳴らして飲み物を身体に流し込む。
周りが異様に静かだということには、一切気が付けずに……――――。
『ごちそうさま』
食事の終わりの言葉だけはちゃんと唱え、このまま自分に充てられた部屋へ向かおうと扉を開け廊下に出た。その少し先で、開けた扉の陰にいる小汚い白衣の後ろ姿を見つける。
「はははー。見つかっちゃったー」
『ねえ、博士。ひとつ訊いてもいい?』
眉根を下げ、申し訳なさそうな所作でどこかへ行こうとする博士を思わず引き留めた。
「……何かな?」
『信じてもいい、よね……?』
一拍遅れての返事に、ずっと引っ掛かっていたことを吐き出す。
博士のこと。
みんなのこと。
そうではない。他人ではなくて、自分のことを私は信じたい。
私があちら側に帰る手段を探す博士、帰るまで迷惑をかけてしまうみんな、彼らを頼ることしかできない自分。
それらに対して、私は信じることを貫き通せるだろうか?
いつでも簡単に折れてしまいそうな意思に、不安ばかり募らせる自分は酷い人間だと思う。だからこそ誰かの言葉を欲した。
「大丈夫だよ。僕を誰だと思っているんだい?」
博士は振り返らず、下に降りる螺旋階段の向こうへ消えていく。
「私は、信じるよ」
自分の言葉でないのなら、まだ信じられる。
無意識に口にした自分の声と、大広間から出てきた大始祖様の姿にハッとして我に返る。
「悩める奇異な娘よ。そなた、歳は如何に?」
『え? ……ああ、十七だけれど』
事実を言うなら、あと二ヶ月ほどで十八歳なのだが、こちらの世界に歳を重ねる概念が存在するのかは謎だ。
それよりも、今朝ぶりに一対一で話す内容が年齢だなんて、このおっさんの考えが読めない。
「ほっほっ。そうか、そうか。そなたの感覚で言うならば、儂はゆうに六世紀は超えておることになるのだな」
……ろ、六世紀……⁉︎
推定年齢が六〇〇ということに、超おじいちゃんだなという、何処からくるのか良く分からない感動を覚えた。
「驚くことではないぞ。儂とそなたらでは、寿命が異なるだけじゃ。しかし、ここまで生きてきた中で、儂は一度も正解を得たことがない。信じるという、相手側の努力では補い切れん問題ですら、この通りじゃ」
まるで博士の返答を覆すような言葉だが、真剣な声音のせいかスッと頭に入ってくる。
「じゃから、今でもずっと探しておるのじゃよ。正解、というものを」
苦悩に眉を寄せる相手の表情に、自分なんてその比にもならないくらい永く生きる大始祖様でも、分からないことに頭を悩ませる時があるのだと察する。
『もしかして……慰めてくれてる?』
初めて会話――のような交信――をした時、大始祖様は《万能なんてものはない》と言っていた。私はそれを単なる謙遜だと思い込んでいたのだが、いささか物事を主観的に見ていたことに気付き心の中で反省した。
「歳の割に、生意気な娘じゃのう」
『私の世界では、みんな生意気なのよ』
自分の言葉を真っ直ぐ受け取らない私にそう言うと、大始祖様は螺旋階段のある方へ歩みを進める。こちらの思考を見たのか見ていないのか、彼は「ほっほっ」と笑みを深めるだけだった。