【9】商人の街ナリス
博士との不穏な会話のあと、私は暫くのあいだ無言で階段を下りていた。前を行く二人も同じく沈黙に徹しているが、その雰囲気では博士から先程の怪しいものは感じられない。
単なる忠告。
私が過剰に反応してしまっているだけ。
今はそう思うことにした。
慣れない環境から、神経質になるのは或る意味正しい反応と言える。ただの気のせいとして片付けたい気持ちの裏で、けれど先程の遣り取りで博士に対して感じたものを振り返る。
あの瞬間、何かを感じたのは事実だ。それが疑心なのか、恐怖なのか、不安なのかは分からない。もしかすると博士に対してではないかも知れない。
ただ、この世界では体の自由しか保障されていないという窮屈さに、私は迫り上がってくる吐き気を堪えた。
螺旋階段を下り大始祖様の自室へと向かう途中で、博士を待ち構えるキリスを見つける。
「ああ、キリス。間に合って良かったよー」
「博士。急。迷惑」
「まったく……君は変わらないねー」
歩きながら博士といくつか言葉を交わしたキリスは大始祖様の部屋の手前で別れ、小さな白衣のおじさんはというと目的の扉を合図も無しに開けてズカズカと中へ入って行く。
しかし、室内は無人だった。
「あー、ちょっと待ってね」
入って良いのか分からず扉のそばで留まっていると、ロベルトと呼ばれている男にこのままでいるよう促される。
博士はひとり黙々と奥へ進み、壁にピッタリと引っ付く形で置かれた大きな机のところへ行くと、机上にある造り付けの引き出しを一つ手前に出し、中に収まるペンを一つだけ動かした。
すると、カタッ、ゴトッ――という重いものを動かしたような音と共に、机のすぐ隣の壁が微かに長方形で浮き出たあと、引き摺るような音を出してスライドし机の裏へ隠れる。
そこは暗いわりに奥行きはあまりないようで、スタスタと入っていった博士は、後ろに大始祖様を引き連れてすぐに戻ってきた。
「ほっほっほ。今朝ぶりじゃのう。して何用かね?」
「フッフッフー。どうせ分かってるんだから、手短にねー」
大始祖様はカラクリ仕掛けの隠し部屋から出てきて用を訊ねてくるが、この人が何も知らないわけはないと博士は浅く笑う。
「ふむ。その通りじゃな。時間というのは貴重じゃ。では早速。答えは合じゃ」
聞いたそのままに受け取り、私の頭に浮かんだのは英語のGOだ。こちらに私が知っている語学があるんだと感心していたら、大始祖様に頭を覗かれた。
「ふむ……奇異な娘よ。儂は合と言ったのじゃ。そこの二人が予想したとおりの返答で合っているという意じゃよ」
どうやら博士とロベルトという男は、ここへ来る前から了承を得られると考えていたらしい。
はいはい、そうですね。分かってましたよ。
一言多いんですよ、あんたは。
「あとのう。覗いているわけではないのじゃよ。……まあ、よいわ。それより、そなたら出かけなくてよいのか?」
嫌みのように訂正を連発してくるものだから、思わず眉間に皺を寄せた。それを見ていた隣の彼が突っ掛かっていく。
「ちょっと待って……覗いているって何? 何を覗いているんだ!」
「そんなことより、許可が出たことだし早く行くよー」
博士は早々に立ち去り、残されたくない私も直ぐに後を追いかける。
決まってしまえば躊躇うことはない。もう三時間ほどすれば夕食なのだが、それまでには戻れるように早く行って早く済ませよう。
残ったもう一人の付添人は、私と博士が建物の門を出た当たりで追い付いてきた。
「もう。置いて行かないでよ」
あの大始祖様の自室からここまでは、螺旋階段を登り本館を通るだけだから大した距離ではないはずだ。 それなのに追い付くまで時間が掛かったのは、私たちの所為ではないだろう。
むしろ、ゆっくりしたペースで歩いていたと思うけれど。
「いや、ゆーっくり歩いてたよー。兄と何か話したんじゃあないのー?」
「特別なことじゃあないさ。出掛ける上での注意点を少し、ね」
ああ。なるほど。
大始祖様が、単純に許可だけを出すわけがない。そこに生じる特記事項を守ることも含んだ上で、あの人は承認したということ。
博士は彼が大始祖様から聞いたその内容を訊ねているのだ。
「えっと……ひとつだけ。俺と離れないこと」
「それは僕も、ということかい?」
「あんたは好きにしろ。ていうか、何で付いてくるんだ?」
まるで邪魔だという口調で、博士のことを扱う。
だが会話を自分のペースに変えることが得意な博士に、その程度の言葉は通じないだろう。ついには彼のことを、からかい始めた。
「ロベルト。君も隅に置けないねえ。二人きりでデートしようだなんてねえ」
「それは違ッ――……いや違わないけれど、そうじゃあなくて……っ!」
「じゃあ、どういうつもりなの? まさか遊びなの?」
押され始めた彼の言語能力は、もう博士に対抗する術を失っている。
「と、に、か、くっ。はあ……博士と行動するのが一番危険だからね!」
彼は念を押すように、力強く主張してくる。後ろのほうで「さっきと言っていること違うねえ」という、博士の弱々しい言葉が聞こえたけれど、私はその問答に応じる気はない。
こちらと視線が合わないと見るや白衣のおじさんは肩を竦ませ、事前にキリスが用意してくれた馬車へ乗り込んだ。
……本当に一緒に来る気だ。
博士が何を考えているのかなんて、私には分からない。偶に優しくて秘密が多くて、ふとした瞬間油断ならない人になる。
今はただ、それが良い結果へ向かってくれるはずだと自分に言い聞かせた。
街までの道中、キリスが手配してくれた馬車に揺られて、アリーシャに渡すものの候補を絞っていた。
さっき見ていた果物――正確にはシュガーポットリーフルという名称らしい――を使ったデザートも良さそうで、そのシュガーポットリーフル専門の有名な店がナリス街にあるらしい。
しかし見た目の印象では紅茶を好んでそうだ。
彼女のミルクティ色の髪と同じ、優しくて温かい香りのする種類にしようか。
もしくは何か装飾品を選んでもいい。消耗期限が早いものより、長持ちする物品の方が嬉しい人もいるだろう。
自分の両親以外に碌な交友がない私では、思い付くのは精々これくらいだった。
『ねえ。そういえば、ここのお金の仕組みってどうなってるの?』
候補とかの前に気付くべきだった。私はこの世界のお金を持っていない。
そもそも、この世界での金銭感覚は私の世界とは違うと思っていいだろう。それが異なる世界の定石というもの。
規定に触れるかとも思ったが、念のため訊ねると応えたのは言伝を預かった男だ。
「お金の心配はしなくていいよ。大始祖様が立て替えてくれるそうだ」
いや、いくらなんでも――――。
『それは、ちょっと……』
そう声をもらしたが、ふと思い直しその先に続ける言葉を見失う。何もかもの面倒を見てもらうのは気が引けるが、提案通り彼らを頼りにするより他に手立てはない。
「いや、いいんだ。君の持ち物は使わないほうがいいと思うから」
口を濁した私に何を思ったのか、彼は真面目な顔でそう言った。
それは、いつか帰ることが出来る時に向けて、という意味で受け取っていいのだろうか。問い質そうと身を乗り出したのに、そこで博士がぐい、と割り込んでくる。
「ロベルトもさあ、そこは正直に言った方がいいよー」
『……?』
「彼女は、こちらに馴染もうとしなくていいってね。お金の価値も人々の生活感覚も知らなくていいよ。興味を持っても情報を得ることはできないし、君の好奇心を満たす方法はないんだからねー? 深入りは良くない。そうでしょ、ロベルト?」
同意を求められた彼は、ぎこちなく首を縦に振った。
博士は螺旋階段で言った言葉をそのまま、僅かばかり高い声音で告げる。
けれど私は、帰れなくなったことに危機感はない。
両親と再会できないことは悲しいけれど、それ以上に私は自身の現状を疎ましく思っているのだ。この世界への好奇心を満たすことで、この世界の人と同じ生き方を選べる。
それは、自分の最果ての願望そのもの。
「博士の言い方はともかく……知りすぎることが良くないのは確かだ」
明確に表現しがたい笑みを浮かべ、停車していた馬車を彼は先に降りた。私も急ぎその後を追い、初めて目にした街より少し控えめな色の並びを見る。
そこは街全体が一つのマーケットらしく、背後の門には《ようこそ! ナリス街は商人の街!》と刻まれていると彼は説明してくれた。
左右に大きくカーブする道には、様々な系統の商店が所狭しと並ぶ。更に今が繁盛時らしく、各々の店頭で客引きをする老若男女の元気な声が、自店の一押しを叫び倒している。
「今日は買い物するだけだけれど、また今度ゆっくり見て回ろうね」
忙しなく視線を転がす私に、ロベルトは言う。自分に声があることも忘れて無言で頷き、先を歩く彼の後ろを付いていった。
もし次の機会があるなら、出来るだけ静かな時に来たい。そんな私とは違い、飄々とした態度の博士は所構わず「相変わらず煩い場所だねー」と本音で水を差した。
白衣のおっさんと同じ感想を抱いた自分に、思わず苦笑する。街全体の圧に耐えられなくなる前に、早急に目的を達成し帰還しなければと背筋を伸ばした。
唯一この辺りを知っているロベルトの案内で、手早く店を回っていく。
店頭で目立つものを見ては悩み、時折店の奥へ進んでは悩みを繰り返していると、後ろから追ってくる彼の姿に軽く目眩がした。
『まだ迷ってるだけなのに、どうして、そんなにたくさん買うのよ』
「城に帰ってから選び直せば良いよ。余ったものは他の侍女達にあげたら良い」
呆れて溜め息が出そうになるのを必死に堪える。
そういうこっちゃないんですが……。
ロベルトの手元からあふれた荷物が博士にまで及び、白衣をまとった体が三分の二ほど見えなくなったところで歩みを止めた。
『気になる程度で買うのは勿体ないでしょ。こう、ピンと来たものとか必要最低限のものだけとか……それ以外の選択肢は目に入らなくなるものだけを買えばいいの。あなたのは、やりすぎ。博士の顔を見てよ』
私の言葉で彼は妙な顔をしつつ、隣の小さい存在の鬼面を見た。
「いいよ構わないよ続けて。……そして早く帰ろう」
振り向き自分を見る私達に博士は早口で捲し立て、一拍置いて催促してくる。両手に色彩豊かな袋を抱えるロベルトは、興味なさげに小柄な白衣姿を一瞥しただけだった。
小さなおじさんの為にもこれで最後と寄ったのは、新鮮な香りがして心地良い果物屋。
店頭にはシュガーポットリーフルが並んでいる。
さっき寄り道した有名な店では調理本に載っていたようなパイが並べてあったけれど、そちらはどうにも買う気になれなかった。
けれど目の前の店では調理前の、砂糖で覆ったように白くて丸い形の可愛らしい姿が木の枝をつけたまま店頭に並び、こちらは購買意欲をそそられる。
後方のベンチで彼と共に休憩する博士の顔は、疲労でやつれているのか覇気がない。その様子に同情し荷物を半分持つと提案したが断られたため、早く帰ると伝えるつもりで今いる店を最後にすると宣言してきたところだった。
――こちらの世界に馴染まなくていい――。
気付かぬうちに頭の隅へ根付いていたらしい。私はこの世界には要らないと言われた気がして、内心穏やかとはいかない。
自分が持つ願望は、結局は、現実逃避の末なのだと突きつける大人の顔を不本意にも思い出してしまう。
『これもそうなのかな』
店頭に積み重ねられた箱のままに実を外気にさらす果物だが、長時間放置しておくと上に乗る仲間の圧力でその下にある実は傷んでいくことだろう。
果物達の力関係を想像してしまい、自分の普段の様子を思い出す。周囲から距離を取るだけで腫れ物扱いされる自分の姿を、私はそこに見た。
『私、みたいだね……』