【0】その棘が傷付けるもの
物心つく前から、私にはずっと、成りたいモノがあった。
小さい頃から運動神経の鈍い私は、夜眠る前に母が読んでくれる、本の中のヴァンパイアや魔法使いといったファンタジーの世界が大好きだった。
せかいには、こんなにもすばらしい生き物がいるんだ……。そんな凄い生き物になりたい。
そんな想いとは反対に、私は鈍臭い自分が嫌いだった。
だから余計に、人の目につかない速度で動くことが出来るヴァンパイアや、色んなことが出来る魔法使いに憧れていたのかもしれない。
両親の読み聞かせに静かな熱を上げている間は、自分が物語のキャラクターになりきったように心が踊る。
だけど純粋な憧憬は、いつしか純粋な自己嫌悪へと変わってしまった。
こんなカラダは嫌い。
普通のカラダは嫌い。
素早く動くことも、空を飛ぶこともできないなんて。
こんな、ヒトのカラダなんか────。
『要らない』
まだ小さかった私はいつも、物語に出てくるキャラクターのようになりたいと両親に訴えていた。が、当人たちは子どもの言うことだからと軽く受け流していたのだろう。
そして、ある日。
この身に潜んでいた衝動に突き動かされ、ついに泣きじゃくりながら二人に言い放ってしまった。
なぜ、自分はヒトなのか────。
なぜ、こんな不自由なカラダに産んだのか────。
この世の終わりのように泣いて喚く私に、あの日、母は困り果てた様子で諭してきた。
『ごめんね。……あなたがヒトなのは、わたしとお父さんがヒトだからよ。あなたのなりたいヴァンパイアや魔法使いというのは、物語の中で起こっていることなの……』
『だから今あなたや、わたしやお父さんが住んでいるこの世界では、ヒト以外のものにはなれないのよ……』
『ごめんね……。なりたいモノに産んであげられなくて……』
母は静かに泣いていた。
本当に悪い事をしたかのように謝って。
そんな姿をみて、幼心に理解した。
違う。悪いのは私だ、と────。
虚構と判別せず物語のキャラクターになったつもりで、なりたいモノになれる、どんなことでも自由に出来るのだ、と。
そういうものだと思い込んでいた。
そう強く錯覚していた。
『……ごめん、な、さい……』
◆◆◆◆
ふっ、と目が覚める。瞼を開けると同時に目元の湿り気に気付く。
どうやら私は、眠りながら涙を流していたらしい。
「はあ、またか」
ベッド脇に置いた小さなテーブルからティッシュを取り、ごしごしと水分を拭き取る。
あの頃の夢を毎晩見るようになってくると、この季節がきたのだと痛感する。
幼少期に母を問い詰め、あげく涙させてしまった出来事の回想夢。
それが毎年この春陽麗和な時期に、必ず私の睡眠時間を蝕むのだ。
月一で学校にくるスクールカウンセラーの人は言葉を濁していたが、要するに今の私の状態は現実逃避というものだろう。
もし、そういう病気のようなナニかだとしても、夢に冒される理由を明かすつもりのない私に向こうは当然お手上げを示し、保健室から出て行く際にその人の困り顔で見送られることは見慣れた光景だった。
自分の中では既に誰かへ話すことを諦めてはいるけれど、青年期を迎え現実と虚構をきちんと区別できるようになった今でも、願うことをやめられない自分がいる。
超生物になりたい、と────。
そんなことを延々と下校途中に考えてしまうのも、ちょうど今の時期で、従って、彷徨う思考を持てあましたまま夜遅くまで帰宅しない日が増えるのは仕方のないことだと考えている。
親に心配をかけているのは理解しているが、どうしても真っ直ぐ帰ることが出来ない。
この思考回路のまま帰宅しても、内なる罪悪感から両親と顔を合わせるのを躊躇してしまうだけなのだ。
流石にもう問い詰めることはしないけど、母も私も、互いとの接し方に困っている。合わせて父まで、気を遣ってか現実的な話題のみでしか話し掛けてこない。
両親が悪い。
環境が悪い。
人が住み人の作る世界が悪いなどということでは決してなく、正直両親の対応は私にとって物凄く居心地が悪い。
それも含め、思考が現実に戻るまで外を出歩く。
やがて虚構への気持ちの高鳴りが落ち着いてくると、漸く私は自分に、家へ帰る許しを与える。
しかし無理に抑え付ける行為の副作用なのか、相変わらずこの時期は同じ夢を繰り返し辿ってから起床、日が暮れてから静寂の月夜を眺めて帰るという悪循環を、平日休日関係なく続けていた。
そうして高校三年生の春。
二年からの友と同じクラスだったことを喜ぶ生徒の声もとうに止み、受験に向け効率化させた授業と圧縮されつつある空気に慣れてきた頃のこと。
今日もまた、毎年恒例となったその行動を、ただ繰り返すのだと思っていた。
────黄昏時のことだ。
「あの、……すみません」
例の徘徊途中、全身を真っ黒の衣服で包み直立する存在が、私の進行方向を塞いでいる。
相手の顔は西陽の影に覆われて分からないけど、野太くて低い声で男性だということは認識できた。
並木道というには鬱蒼としすぎた沿道の真ん中で声をあげる男性を不審に思い、その横を無反応で通り過ぎようとして────、
「すみません。そこのJKさん!」
と、彼が更に発した言葉に足を止め辺りを見回す。
……何たることか。
今この通りにいるJKは、常日頃と変わらず自分しかいない。
そもそも夕暮れに染まり影と闇の境すら曖昧な薄暗い道を、今どきの麗しいJKが好んで通るとは思えない。
客観的に見ても、十中八九、彼が話し掛けているJKは私なのだろう。
麗しさの有無については何も言うまい。
……って誰が麗しくない方のJKだ。と自己ツッコミして軽く流したところで、ついでとばかりにお兄さんの言葉も流そうともう一歩踏み出した。
「そこの可愛らしくて清楚で瑞々しいJKちゃん!」
「……それは、私のことですか? 何かご用ですか?」
────無理でした。
仕方ないじゃない。
お兄さんが可哀想だから応じただけだ。決して耳に心地良い言葉に抗えなかったわけではない。
それに……そうだ、今のは建て前だ。口先八丁だと分かっていて応じた。
そうよ。
「あの、俺の話聞いてくれる?」
見ると、遠巻きから困り顔でこちらの様子を窺っている。
しまった。すっかり自分の思考世界に入り込んでいたらしい。
相手の浮かべる笑顔に、憐れみの欠片が混じってる気がする。
とりあえず話を聞いてみよう。
戸惑いつつも首を縦に振った。すると相手は安堵したように微笑む。
「俺を、ヒトにしてくれない?」
紡がれた言葉に、私は唖然としてその場で固まった。
思考を停止させて愛想笑いを向けると、相手も同じく愛想笑いを向けてくる。
「あー、もしかして俺の言語に差違があるのかな? えー……っと、ハ、ハロー?」
「変質者には問答無用で攻撃します。よろしいですか?」
「良かった! 言語合ってる! ……あ、でも今振り上げてる鞄は下ろして、お願い!」
どうやら目前の変質者は、こちらの本気と自身への被害を如実に感じ取ってくれたらしい。
「あなた誰ですか? 怪しい人ですよね?」
「ううん。俺は怪しくない人です!」
……ううん。あなたは怪しい人です。
どうしよう。
今すぐ逃げたいのだが、どうしてかこの人から視線を外すことが出来ない。
「あの、あなたは誰ですか?」
不思議なこともあるものだ。私は、この人の雰囲気を知っている気がする。
初めて会ったはずなのに……。
「ヒトになりたいんですか?」
彼のこの言葉にどんな意味を込めているのか計りかねる。
ヒトのようで、ヒトでないものを持っている。
そんな意図を含んでいるように聞こえるというのは、少し都合よく捉えすぎだろうか。
「俺は、別の世界から来たんだ」
「は……?」
真っ先に自分の聴覚を疑った。
ちょっと待って。
それは……有り得ない。そう。有り得ないことだ……。
ヒトの型を取っておきながら別の世界から来たなどと言うなんて、私にとっては程度の悪い冗談でしかない。
私が未だ焦がれている超常的存在は、虚構の産物なのだから。
だから……否定してきた。
からだを震わせて泣く母の顔に、その隣で眉を八の字にして肩を小さくする父の顔に、私は願うことを辞めると誓ったのだから。
────少なくとも表面上は。
両親を困らせないため、周りと馴染むために私は普通であることに努めた。
その反動で夜まで出歩いているのだから、元も子もないのだけど。
「ありえないわ」
「どうして?」
どうしてって……。
望んでも手に入らないことを知っているからとしか言いようがない。
だって、物語の中にしか存在しないのだと悟ったから。
でも好奇心を抑えたい気持ちとは裏腹に、心の底から湧き出てくる感情の昂ぶりが言葉の端々に籠もり、思わず興奮気味に話す。
「だって、そんなはずないでしょ?」
「どうしてそう思うの?」
まだ半信半疑で問う私に、彼は首を傾げた。
また、どうしてって……。
どうしてだろう……? 普通に見れば怪しい発言ばかり。
しかし、彼の言葉に何一つとして疑う余地を感じないこともまた、妙なことだと感じている。
色んな疑問はあるが、不審さは感じられない。
「……信じて……いいの?」
「もちろん!」
恐る恐る聞くと、こちらが何に疑念を抱いているのか知っているように、快活な笑顔で即答した。
いいの? ……望んでも?
────願ってみてもいい?
「そこまで言うなら来てみる? 俺の世界に」
彼の言葉は、私が踏み出すには充分すぎる価値を持つ。
緩く首肯してみせると、彼は人の良さそうな笑みを浮かべ手を伸ばしてきた。
「じゃあ、俺の手を掴んで」
訝しむ気持ちはないが、どんな状況に陥るか分からない不安から少し怯んでしまう。
伸ばしかけた利き手を、胸の前でキュッと握り直した。
「大丈夫だよ」
彼の視線と交わる。
相手は心配ないと、力強い眼差しを向けていた。
「はい」
もう一度、そして更にこちらへ寄せてくる手を、今度は躊躇わず掴んだ。