うっすら
放課後。
呼び出しを喰らって遅れた分を取り返すべく、ペダルをこぐ足に力が入る。
いつも通り駐輪スペースの一番奥に自転車を停めると、すぐ脇の屋外休憩スペースにいる例の看護師さんを見つけた。屋外休憩スペースといっても、石ベンチ二つとそれらに挟まれた木製テーブルがあるだけだが。
いつものナース服の上に紺の上着を羽織った格好で、机に突っ伏していた。他の利用者がいない中、看護師さんは一人くつろいでいる。
目が合うと、こっちへおいでと手招きしてきた。その手は次に自分の横を指した。
横にも座るスペースはあったが、向かいのベンチに足を向ける。
「最近あの子とはどうですか?」
看護師さんは缶コーヒーを両手で握っている。指に隠れて文字が見えないが、黒基調の見た目からしておそらくブラック。
「まぁ仲は良くなったんじゃないですかね」
「それだけですか?」
「他に何か?」
「はぁ、無いなら無いでも…」
看護師さんの態度は少し煮え切らないといった感じ。
「そういえば、あの子の口から病気のこととか、聞いてますか」
「…いいえ、彼女はそのことについて全く言う素振りがないです」
彼女自身は病人であることも話題のダシにすることがあるが、肝心の病状には触れない。彼女が言うべきでないと判断したなら、それを尊重すべきだ。
「ご両親に会ったことは?」
「そっちもないです。一応僕のことは伝えてるみたいですけど」
「なるほど…それじゃあ。いや、これはいいです」
目線はずっと缶コーヒーに注がれたまま。爪をこすりつけ合っている余った親指たちに、焦点を合わせている。
看護師さんの歯切れが悪いのは、ちょっと前からだ。
正確には、僕と彼女が出会った日から徐々に。とりわけ僕と二人で話す時は顕著に。
最初はそうでもなかったと思う。
「彼女に何かありましたか?」
見かねた僕の方から質問してしまう。
それでも看護師さんは動じない。目線も、親指も、歯切れの悪さも、そのまま。
「いえ、あの子に何かあったわけではないんです」
「それじゃあ僕に何か頼みでもあるんですか?」
「頼みがあるわけでも」
「じゃあ僕に何か訊きたいことでも?」
最後の問いは半ばやけくそだった。しかし看護師さんはそこで押し黙る。
まさかのビンゴということだろう。
看護師さんの次の言葉を待つ。ようやく口を開いた看護師さんは僕に質問を返してきた。
「あなたは何かありませんでしたか?」
緊迫感を漂わせていながら、あまりにも淡白な質問だったので、すっかり拍子抜けしてしまう。これは話題を逸らそうとしているのか。
「別に特筆すべきことは何も。いつも通り学校に行ってきた帰りですけど」
もちろん大嘘。先程まで教師陣に平謝りしていた。
「違います。もっと長いスパンでのことです」
その言葉は、僕の警戒心を呼び覚ました。
「長いスパンって言ったって、特に何もないですけど」
もちろん大嘘だ。僕は今、確かに彼女に“恋”をしている。
この感情が疾しかったわけではない。勘違いしてほしくないのは、“激情”であって“劣情”ではない点。だがこの違いを他人から見て判別できるとは思わなかったし、できるとも思わなかった。この感情を、彼女はもちろん、他の全ての人から隠すべきだというのが、現時点での僕の行動指針だ。
それにしても、看護師さんの目を欺くというのは、かなりの難題だ。
僕の返答を聞いた看護師さんは、驚きと疑いの目を以ってこちらを見つめているのだから。
「本当に、何ともないんですか?」
「特には」
“何ともないんですか。”そのセリフが頭の中で反芻される。
明らかにこちらの心境に何かしらの変化が起きることを前提としているように受け取れるが、それにしたって違和感を覚える言い回し。
「無いならいいんです。これからもあの子と一緒にいてあげてください」
かと思ったらあっさり引く。駆け引きすらできない。
「どういうことですか? 質問の意味を教えてください」
追及しようとするも、看護師さんは再び俯いて押し黙ってしまう。
埒が明かない。
「あの」
思い切って切り込む。
「彼女に関することで僕に伝えるべきことがあるなら、教えてください。
彼女と対等であるために知るべきことがあるなら、教えてください。
彼女とトモダチであるために必要なことがあるなら、教えてください」
一文ずつ、重みをもたせて言う。
踏み込み過ぎかとも思ったが、彼女に関する秘密を看護師さんが握っているのではという勘繰りが、僕を多少強引に突き動かしてしまう。
当の看護師さんはどこか苦しそうでさえあった。僕の訴えが看護師さんの顔をしかめさせているのがよくわかる。
僕にはどうにもできない。ただ眺めて返答を待つだけ。人を傷つけることへの罪悪感だって、頭が混乱していて正常に機能していない。
拷問に耐えかねたかのように、声を絞り出す。
「これが最後の質問です。あなたはあの子と対等な友達になれたんですか?」
“対等”という言葉が引っ掛かる。彼女が僕に敬語をやめさせた際に使った言葉だ。彼女の声が脳内で再生され、僕を問い質す。
『あなたは私を対等な存在だと思ってくれる?』
残念ながら答えはノーだ。僕はあくまで会話をスムーズにするために、表面上は対等であることを選んだ。加えて彼女は僕を対等な存在だと見做してくれるかもしれない。
だが、僕にそれは許されない。
看護師さんの質問を飲み込み、よく咀嚼するフリをする。これまでを思い出して、厳正に審査するフリをする。
「僕は彼女をトモダチだと思っていますし、彼女も僕を友達として見ていると信じています。二人の間に上下関係なんてありません」
劣情でもなければ、友情でもない。トモダチという言葉に実感を伴わない以上、半分口から出まかせみたいなものだ。精一杯演じる。
演技は成功した。勝因は、途中から看護師さんがこちらの目も見なくなってしまったからだ。見れなくなった、と言った方が語弊のないだろう。
看護師さんは教えてくれた。彼女のことを。僕に伝えるべき範囲のことを。
「彼女の病気がとても篤いものだというのは、ご承知のことでしょう」
「…えぇ」
わかっている、わかってはいるが、そのことを看護師さんの口から改めて知らされると、今までどこか逃避してきた痛みが、現実という兵器で武装し、あえなく僕をねじ伏せる。
僕の苦悶を他所に、看護師さんは話を続ける。これはまだ前提のことだ。
「それでも、あの子はとても気丈に振る舞います。病気のことなんて悟らせないくらい。
むしろ健常者よりも健常者らしく、振る舞うでしょう」
ええ、そうですとも。そこに僕は惹かれたのだ。光と闇を抱えながら、光の輝きを一層眩きものにしてみせるところに。
「これがいけなかったんです」
この言葉と続く言葉を、図りかねた。
「あの子は孤独では決してありませんでしたが、孤高でした。
あの子に寄り添おうとした人はみな、どこかが壊れてしまうのです」
その時の看護師さんの目が、僕の意識にしがみついてくる。
どこかで見たことがある。そう直感して記憶を物色してみると、デジャブの正体が判明した。
最初に“あの子”の病室を訪れた際。
彼女が別れを予感したときの目だ。
精彩を失い、諦観で目一杯塗りたくられた瞳だ。
今日もまた、彼女は同じ姿勢で本を読んでいた。
「遅かったね」
「色々あったんだよ」
「ふーん」
ものすごく興味のなさそうな返事。本に向けられた目線も微動だにしない。
「その本は親父さんオススメの一冊か?」
「そうだね、かなり推してたよ」
なるほど、それならこの熱中具合も納得。
となると持ってきたこの本が彼女の手に渡るのは、もう少し後の方がよさそうだ。
彼女が読書を切り上げるまで僕もこの本を読んでいようと、一番後ろに回されていた栞紐をつまんで、一番前にセットする。しかしそこで彼女が本を閉じる音が聞こえる。
「読んでてもかまわないぞ。寂しくなったら声掛けるから」
「そんなこと言って、昨日なんて2時間も止めなかったじゃない」
「寂しくなかったんだろうな、昨日の僕は」
昨日の僕に限ったことではない。彼女と一緒に読書をする時間に、寂しさを感じたことなんてない。
本を読んでいる時、言葉を交わす時とはまた違った彼女がそこにいる。仮初めの世界に没我する彼女の顔には一切の邪念がなく、清廉な瞳が本を愛でる。そんな彼女を見られる時間が寂しいわけがない。
「寂しくないってどういうことよ」
不満げな目で僕を睨む。
「本が面白かったってことじゃないか?」
「なら仕方ないわね」
「物分りがよろしくて助かる」
この転換力は僕も是非とも会得したいものだ。
「ねぇ、今日は天気もいいし、広場にでも行ってみない?」
「いいけど、体調の方は大丈夫なのか?」
僕の些細な気遣いは、両手のピースサインに迎えられた。
日の入り時刻が折り返し地点を過ぎ、遅くなり始めてからというもの、夕暮れが遠のいていくのを痛感する。今もまだ、日光は青色を引き留めているのだろう。
時間的に遅いこともあり、広場は空いていた。
先を行く彼女はわざわざ遠くにある椅子まで歩いて行って、そこに座る。僕もそれに続いてお向かいの椅子に座る。自販機のすぐ横の特等席。人が多いと利用者が増えるので、人が少ないとき限定。
“読書場所を変えて気分転換”が最初の目的だったが、二回目以降からもっぱらお話しタイムと化した広場のひと時。連れて来られた両者の本たちは、さぞ手持無沙汰だろう。
「学校の方はどんな感じ?」
席についての第一声。これは毎日のように彼女が僕に訊く質問。
「いつも通りだよ」
こちらも同じく定型文で対処。嘘は言っていない。
「そればっかりね。代り映えのない日常の積み重ねが、果たして人間を成長させるのかしら」
「学校が非日常を望んでないんだから、いいんだよ」
彼女は腑に落ちなさそうに唸っている。
「僕みたいな奴が人間的に成長することにおいて、学校なんて頼れたもんじゃない」
一応念押ししておく。
彼女が外の学校というものに希望を持っていて、僕の一言がそれを否定する可能性は捨て切れない。僕の一言が、彼女を否定し傷つける可能性。
だが、最近はこういう心配も不要だとわかってきた。
「君は甘いねー」
彼女の境界線は普通の人よりも曖昧で、遠慮を他者に求めない。か弱さなど彼女の対極にあるように思わせる。
「人間的に成長したいなら、いろんな人と積極的にかかわることが大事だよ。察するに、君、いわゆるぼっちでしょ」
「友達がいないわけじゃない」
彼女のたった一言で、事実上の敗北宣言まで追いやられる始末。思えば彼女との論争で勝てたことなんてない。彼女の主張は否定を許さないほど無垢だ。
「他人は自分を映す鏡、てね。同い年の友人なんて最高の姿見だよ」
彼女は間違いなくクラスの中心人物足り得る人格の持ち主だ。僕よりも彼女の方が学校と
いう空間には向いている。どう贔屓目に見ても。
僕にとって、僕自身も忌むべき対象だ。彼女が経験すべきだった日常を、彼女が実りあるものにできたはずの日常を、むやみに冒涜する者。
「聞いてる?聞こえてる?」
「聞いてるから寄るな、顔近い」
「顔近づけるまで反応しないのが悪い」
「すんません…」
早々に謝っておくに越したことはない。僕の数少ない処世術の一つ。
「謝罪の言葉っていうのは、口にするたびに価値を落とすよ」
数少ない処世術の一つがその生涯を終えた。最早、口にすべき言葉も見当たらない。
「ところでさ」
前回貸した本の感想をひとしきり語り合った後。
「さっきの話、成長について」
どうやら彼女はその議題にまだ心残りがあるらしい。こういう話題の切り替え方は、彼女には珍しい。普段は前の話に戻ったりはしないから。
「学校のことか?」
「環境の話は置いといて、成長自体について」
彼女は脚を机と胴の間を通して持ち上げる。両手で抱えて椅子の上で体育座り。あまりお行儀がよくないが、別に僕は親でもなければ看護師でもないので黙っておく。
「成長って、どこをどうしたら成長なのかな。あ、精神的なやつね」
「自分はどう思うんだ? そういうのは僕の管轄外な気がするけど」
「んー、そうだねぇ」
そこで彼女は少し伏し目になりながら、遠慮がちに言う。
「歯車を回せられるようになったら、成長かな」
「歯車…?」
歯車。響きが無機質すぎて、発音するのが躊躇われる。彼女の声その単語を聞くのは、もっと厭われる。
「“成長”って言葉がまずかったね。どっちかといえば、“なるべき姿”かな。成長の先に据えられるべき目標…ちょっと違うかな、これも」
彼女は自分の伝えたいことをうまくまとめられないみたいだ。表現が苦手なのは、吸収量の多さに反して、アウトプットの機会が少ないからか。
僕だってそういう機会に恵まれているとは、お世辞にも言えない。他人の意志をくみ取る
ことに関しては、門外漢とまで自己評価している。
「“なりたい”のか? 回せられるように」
それでもこれだけは彼女に問うてみるべきだと思えた。白黒はっきりしておくべきだと考えた。
「“なりたい”……“なりたい姿”か。ぴったりだね」
見透かされた、とでも思っていそうな口ぶり。表情に何か自虐のようなものが混じり始めた。精彩を欠く顔。彼女のこういう顔を見るのは、何度目だろうか。
見たくない。こんな顔をさせたくない。
宝石に素手で触った時のような罪悪感が喉を塞ぐ。緊急出動した本能は話題を変えろと警告する。
ただ、彼女の方が行動的だった。
「部屋、戻ろうか」
情けない僕は、頷くだけだった。
結局部屋に戻ってからもその手の話題は出なかった。彼女自身が避けているのは明らかだった。僕も強引に訊こうとは思えない。
彼女と別れた僕は、駐輪場横の屋外休憩スペースに戻ってきた。今は看護師さんも仕事に戻ったらしく、誰もいない。
僕の自転車はまだ一人ぼっちだった。わざわざ一番奥に停められたのに、駐輪スペースが混雑する気配は皆無。入り口から見て一番手前に停められたほんの数台の自転車とはかなりの距離がある。
ここの休憩スペースは落ち着くのに最適、と看護師さんが言っていた。自転車で病院に来る人の多くは、こことは反対側にある別の駐輪場を利用する。否が応でも他人との繋がりを求められる病院という空間において、数少ない孤独に浸れる場所だ。
看護師さんがしていたのと同じ様に、机に突っ伏す。体の感覚を意識から切り離し軽量化を果たした僕の思考は、一直線に彼女をめがけて走る。
“孤高”、“壊れてしまう”。看護師さんの言葉がよみがえる。
確かにその通りだ。よくわかる。
人は生まれながらに、あるいは成長過程で必然的に、寄生虫を頭に住まわせるようになる。悪の寄生虫だ。こいつらは負の感情を養分にするため宿主の感情を一時的に安定させ、宿主を生きやすくさせてくれる。しかし奇形的にその身を巨大化させた寄生虫は、宿主の頭を埋め尽くし、最終的に宿主を負の感情に溺れさせる。
嫌悪、妬み、侮蔑、破壊衝動。
愚かな人間は、自分が手を伸ばしているものが負の感情だということにさえ、気付けない。
別におかしなことじゃない。人間に与えられた逃げ道だ。正当に生きていくにはあまりにもはかない、僕たち人間に。
だが、彼女はそれを許さない。彼女は周囲の人の頭に巣食う寄生虫を焼き殺してしまう。意図してやっているのではないだろう。あくまで無自覚。
死の淵に立ってなお生を尊ぶ彼女の姿は、惨めに生に縋る健常者を断罪する。
有罪判決を受け、寄生虫という薄汚い命綱をも断たれた彼女の周りの人たちは、自らを責め、破滅の一途を歩むのだろう。
翌日の寝起きは最悪と言ってよかった。木漏れ日の差し込む屋外休憩スペースで不覚にもうたた寝したのがまずかった。おかげで家での睡眠の質は最悪。
でも学校が終わった今、多少の寝過ごしと寝覚めの悪さは問題ではない。パジャマ姿のまま、用意されていた朝食を口に突っ込む。卵かけご飯は対して噛まなくても勝手に喉を通りぬけてくれるから助かる。
朝食時はいつもニュースを見る。今日も様々な不祥事や異常犯罪で“今日のニュース”一覧は満たされている。神妙な面持ちのコメンテーターの瞳の奥はとても嬉しそうだ。現にしゃべるときは興奮を抑えきれずに、所々に支離滅裂な独断が混じっている。
ニュースを見るのが好きだった。異常者のレッテルを貼られ、名前を晒される咎人たちは、その身を以ってして視聴者たちに正常の称号を与えてくれる。
でも今は、それでは満足できない。僕に何かを与えて、満足させてくれるのは、彼女だけだ。
ひょっとすると、僕はもう既に“壊れて”いるのかもしれない。
彼女の孤高を解消できなくてもいい。彼女の傍に居たい。
この願望を形容するには、破壊的という表現がぴったりだ。
未完です