落とし物注意
僕の高校二年も終わりが近づく。進学先に何を求めるわけでもないのに、志望校を一から四までとりあえず埋める。当たり障りのないことを志望動機の欄に詰め込むことも苦痛でしかない。
そこそこだった学業成績が災いとなり、担任教師は僕に執拗に難関大学への受験を勧めてきた。難関大学という的に向けて構えられた拳銃に、担任教師は僕を装填。来年はいくつの弾が的にその痕跡を残せるか。無念にも的を外れた弾丸は、二度と拾われないだろう。大事なのは、“中ったか、中らなかったか”。
入念に僕をクリーニングする教師の生暖かい手を振り払いたいのは山々だった。だがそれによって僕が得るものなどたかが知れている。自分への自分からの嫌悪が、自分へのみんなからの嫌悪になるだけだし、手にした自由は僕に時間を押し付けるだけで、決して翼は与えてくれない。
向う見ずな利己愛が生むのは、いつだってレールを外れ得る不安と恐怖。
打算的な利他心が育むのは、いつまでもレールの上を走れる高揚と安心。
今の僕にどちらがお似合いかは言うまでもない。
県内有数の進学校という事実もあり、校舎を高校受験で使用する一週間の受験休みにさえ、大量の課題が各教科担当からプレゼントされる。受験まであっという間だぞ、という学年主任からのありがたいお言葉も添えて。
少量の教科書類と教師陣からのたっぷりの愛情をカバンに押し込み、帰宅の途に就く。
幸い自宅が高校と近いため、電車などに乗らなくていい。自転車を転がしながら移りゆく景色を間近で感じられることに、最初は心が慰められていたが、最近はそんな小さな癒しさえ色褪せてしまっている。
もう少しで花を咲かす桜の木々を何の気なしに眺めながら、いつも通り病院横を通り過ぎる。
病院横。病院。
僕は自転車をこぐ足を止める。ふと思い出したことがあった。
県でも二番目に大きな市の、中央病院。タッチスイッチタイプの自動ドアの小さな入口をくぐると、一気に視界が開かれ、広大な土地に放り出された気分になる。
幅と長さとエレガントな照明灯を兼ね備えた通路、そこを歩く種々の人たち。高い天井の中央には鮮やかな色ガラスが取り付けられており、それらを通した陽の光は様々な色味を帯びて床を彩る。その床には不規則な、だけどどこかで規則性を見つけられそうな点と線による模様が描かれており、視線を横にスライドさせると目に入る、通路の左右に一つずつある自己主張の控えめなエスカレーターは、僕をきっと天井の色ガラスの近くまで運んでくれるのだろう。
病院という響きからは程遠いこの空間は、どちらかというと美術館の入り口のようだった。あるいは、入口どころか展示の一部として成り立つかもしれない。非日常を僕に感じさせるには十分すぎるほど幻想的な光景は何度見ても落ち着かない。病院とはどこもこんな感じなのだろうか、と素朴な疑問。
入り口で止まっていては出入りする人の邪魔になるので、立ち止まったままじっと眺めていたい気持ちを抑え、足早に目的のものがありそうな受付に向かう。
それは案外簡単に見つかった。というか、ちゃんと目につく位置に置くように決まっているものなのかもしれない。緑色のそれを取り、“臓器提供意思表示カード”と書かれていることを確認して、カバンの横ポケットに慎重に差し込む。
目的を終えた僕はとっとと帰ろうと顔を上げる。その視界の端に、大きな通路の奥にある広場が映る。
どうせ帰っても特にやることが、やりたいことがなかった僕は、そのまま広場に足を運ぶことにした。
広場はエントランスとはまた違った趣向だ。
真ん中にはどこかの赤道付近の島国に生えてそうな木が一本、穏やかにそびえ立つ。自分はこんな感じの木は“ヤシの木”しか知らない。木の幹に名前が書いてあるプレートがかかっていたが、わざわざ近寄って今すぐに確かめようとは思わなかった。
広場の方の天井はすべて透明なガラスで、日光を遮るものが何もない広場は、寒さの残る三月上旬とは思えないほど暖かい。木の周りには木製のテーブルと深い緑色の椅子が数組あり、いくつかには既に利用者がいた。入院患者と思われる人たちと、その付添いなのか、患者さんたちと会話をする看護師さんたち、他にも休憩中と見られる白衣姿のお医者さんや、患者の親族だろうか、スーツ姿の男性もいた。彼らは広場の隅の自販機で買えるのであろう缶コーヒーを、お医者さんは何かの書類に目を通しながら、スーツの男性は何処に目を向けるともなく飲んでいる。
その中で、たった一人、病衣に袖を通しながら、他の入院患者とは本質的に異なる雰囲気を身に纏った人がいた。
看護師と楽しげに談笑する女の子。
視界に入った瞬間、何かが引っ掛かる、そんな感覚を覚える。どこまで考えてもそれは直観とも呼べないような曖昧な感覚。
その子がこちらの方に顔を向ける。
その彼女の目が決定的だった。
自分の大切な“何か”を分け与える代わりに、僕に“何か”を求める瞳孔。
周りの虹彩は、彼女が貰ってきたものが飾られた琥珀のよう。
おびき寄せられた侵入者を、長い睫毛が逃がさない。
体の動かし方に関する記憶を抜き取られた僕は、広場の入り口で固まった。
制服姿はやはり浮いていたのか、しばらく突っ立ったままでいると、当の女の子と話をしていた看護師さんが、どうかされましたか、と聞いてきた。我に返った僕は何でもないです、とだけ答える。
すると先程の女の子が僕の方へ歩いてきた。
「こんにちは、高校生さんですか?」
自分に話しかけていると気づくまで少しの間があった。だがここに高校生を思わせる特徴があるのは、制服を着た僕以外にはいない。
「えぇまぁ、すぐそこの高校に通ってます」
「あれま…てことは相当優秀な学生さんということで」
彼女は“すぐそこの高校”が進学校だと知っているらしい。
「そんなことはありません、僕よりも優秀な人の方がたくさんいます」
またまたご謙遜を、とか言ってる彼女の声は想像していたよりも遥かに明るい。看護師さんと話していた時と変わらない笑顔は本心からの賜物だとすぐに分かる。周りと統一された病衣は、逆に彼女のありのままを強調している。学校の制服と同じ原理だ。
およそ病人とは思えないほど生命力を感じさせる彼女は、僕が今まで見てきた誰よりも人生に対して誠実さを持っていると感じられる。当然、僕よりも。
「どなたかのお見舞いですか? あ、すいません、学校の制服を着てここに来ている人を初めて見たので…少し気になったんです」
「そういうわけじゃないですよ、単なる野暮用です」
そのセリフを“訊いてほしくないです”というサインと捉えたのか、それまで笑顔を絶やさなかった彼女は少しばかり極まりが悪そうに、
「そうですか、余計なことまで訊いちゃってごめんなさい」
と頭を下げた。
「いや、別に言いたくないわけでは」
意図せず拒絶してしまったと焦る僕もまた、極まりが悪くなる。確かに今の返答ではそういう風にとらえられてもおかしくない。目の前の彼女は明るさと同様に人一倍の思慮もあるようだ。
そこで僕はさっき丁寧にしまったばかりの“野暮用”をカバンの横ポケットから取り出して彼女に見せた。
「昨日読んだ本でこれが出てきて、僕も持っていようかと思いまして。別に深い意味はないんですけどね」
彼女は僕の片手の“それ”を見ると、おぉ、と声を上げた。
「へぇ…すごいです。学生さんなのにそういう“誰か”のために行動できるなんて。普通は自分のことで一杯一杯じゃないです? あ、ひょっとして受験を終えた三年生さん?」
臓器提供意思表示カードは、自分の命が終わりを迎えた際に残された肉体、その中の臓器を、それを必要としている人に提供する許可を表明するカード。
魂の抜けた肉体に意志など残されていないのだから、許可も何もないだろうというのが持論だが、世の中にはいろいろ不都合があるのだろう。腐っていくだけの肉片がまだ魂の留まる“誰か”を救うのなら、そうしない以外に道はないように思う。
だから僕はこのカード自体はあまり好きではない。当たり前のことを明文化するのがこのご時世大事なことだとは重々承知だが、質量を得た意思が他の人の、とりわけ僕が嫌っている類の人の目に入ると、そいつらはまるで僕がこのカードを何かの栄典のように見せびらかしていると邪推し、わざわざ見せつけるために明文化したのだと非難するに決まっている。
かき集めた残滓のごとき厚意さえもが己を着飾る装飾品と思われるのは癪でしかない。らしくない厚意は、胸の内にしまっておくのが一番。
こんな捻くれた考えをよくもまぁ高校二年生まで後生大事に持ってきたと、半ば自分に呆れ果てていた僕に、彼女が褒めるような言葉をかけてくれたのは、正直かなり嬉しかった。
「まだ二年生です。本当に大したことじゃないです。僕は死んだ後に自分の体に戻ってくる予定とかありませんし、残った体を有効活用してくれるなら、誰だってそうするでしょう」
「んー、誰だってってことはないと思うよ。多数派だとは思うけど。あと私が言ってるのは、褒めてるのは、自分からそういう選択に進んで向き合ってることの方だよ。他人に強制されてやる分には、私はあまり興味がない。自信を持って、あなたはすごいことをしているんだよ」
嬉しい、嬉しいけど、そこまで言われるとあやされているみたいで小恥ずかしい。
そんなことないですよ、いやすごいよ、普通です、普通じゃないよ。何故か彼女も一歩も退かない。なんとも不毛な押し問答。人一倍の思慮と同様に人一倍の頑固さもあるようだ。
「…随分と僕を買ってくれて、光栄ですよ」
「照れなくていいのに〜」
“転んでもただでは”の精神で、白旗を武器に一矢報いようとするも、あえなくカウンターを決められる。
あんまりからかったらダメですよ、と彼女をたしなめる看護師さんの助け舟が僕をより一層情けない男にさせてしまう。優しさが痛い。
「高校二年生ってことは私と同い年ね、よろしく」
そう言って、手を僕の前へ。意地悪な笑顔から、包み込むような温かさを帯びた微笑みへのギアチェンジもお手の物だ。
「よ、よろしく」
あっさり話題を変える彼女の唐突な握手の要求に僕はまたもやドギマギする。人見知りで、特に女慣れしていないのが丸出しだ。
差し出された彼女の右手は仄かに温かいし、さらさらしていた。それが一層僕の脳みそを掻き回し、同い年という事実さえも頭から追い出す。
落ち着きのない僕とは対照的に、本当に対照的に、彼女は初対面の人との交流に全くもって動じていない。彼女の余裕は僕と同じ年数を過ごしてきた人のそれとは思えない。
だが。
彼女が手を離す瞬間。その刹那。彼女の瞳に薄い影が落ちると同時に。
彼女の掌からするりと落ちたもの――彼女の掌が掴もうとして、掴み損ねたものがあった。
確かな感覚。揺るがぬ直観。疑う余地などない。
正体は分からなかったけれども、その“何か”は彼女が持っておくべき物のように思えてしかたなかった。地面に落ちて粉々になってしまうのだけは防がなくてはならない。守らなければならない。何としてでも。
「話を」
彼女の手を引き留めて、あらんかぎりの勇気を振り絞る。
「少し話を、しませんか」
僕の勇気を聞いて、目を見開く。魅惑的な、その目を。
しかし、いきなり彼女ははじけたように笑い出した。馬鹿にするような笑いではなく、おかしさを前に自然と溢れるような笑い。
「おもしろいね、君」
広場は飽きたと言う彼女に連れられて、彼女の個室に向かう。
個室に僕のような見知らぬ人が立ち入っていいのか。看護師さんに訊いてみたが、
「彼女がいいと言うなら、私たちも断れません」
とのことだった。
道すがら、彼女の入院生活は小学校低学年のころからであり、物心ついてからのほとんどの年月を病院で送っている、と聞いた。そんなことを言われて、不謹慎だと自覚しながらも、“女子の部屋”への一男子の健康的な胸の高鳴りがますますうるさくなるのも無理はないはずだ。でもすぐに、期待は無意味なものだと思い知らされる。
廊下の奥にある病室。そこで彼女は足を止めた。
部屋番号の下には名前が書かれている。これがこの子の名前なのだろう。
彼女がスライド式のドアを開け、中に入る。僕もそれに続く。
彼女の個室は、あまりにも無機質だった。
電話、テレビ、冷蔵庫、椅子、ベッド、ロッカー、洗面台、シャワー、トイレ。
“備え付け”で一括りされるそれらからは人の存在を感じない。部屋の中に彼女の私物と思われる物は見当たらず、よれたシーツと水滴を残した洗面台だけが人の気配を窺わせる。
「サめた部屋でしょ」
「人が住んでなさそうですね」
「ご期待に添えなかったかしら」
わざとらしい声色。完全に図星を突かれた。テキトウなことを言って濁す。
改めて彼女の部屋を見回す。それでも第一印象となんら変わらない感想しか思いつかない。小学校低学年から高校二年生までということは、十年近くをこの部屋で過ごしたということのはず。それにしては生活感が無さすぎる。
長い間病院に閉じ籠っていたとは見えない彼女と、彼女が長い月日を送ったとは見えない部屋。ただただミスマッチ。明らかに異様だ。
「なんでこんなにさっぱりしてるんですか? 結構長い間ここに住んでるんですよね?」
「そういう君はいつまで敬語? 同い年なんだよ?」
「いや……なんでこんなにさっぱりしてるんだ」
「いいね、対等な感じがする」
僕が素で敬語を常用している人だったらどうしていたのか。
彼女は一人でうなずくばかりで一向に返答の兆しがない。答える気がないのかと思いきや、
「できるだけね、慣れたくないの」
と、あっさりと核心めいたことを口に出す。主導権は相変わらずあちら側にある。
「この部屋にか」
「病院の生活に、かな」
そういってテレビが置かれた机の下の引き出しから、黒い革のブックカバーに覆われた一冊の単行本サイズの本を取り出す。
「私がこの部屋に持ち込んでいいのはこれだけ。生活必需品は別だけど」
「随分と禁欲的だな」
「自分でもそう思うよ。始めたのはちょうど中学課程が終わった頃だから、あと少しで満二年だね。いつまで持つかわかんないけど」
自分の意志に口では疑いを向けながらも、その目は決意の強さをまざまざと示しているように、僕には見て取れた。
ここ中央病院は、県内唯一の院内学級を有した病院だ。中学課程はそこで済ませたのだろう。
その時期に契機でもあったのか、訊くべきか。あるいは、その訊き方はどういう風なのがいいか。
僕がもう一歩を躊躇していると、椅子に座って話をしていた彼女は、突然少し頭をおさえるような仕草をした。
それを見逃さずに一人慌てる僕を手で制して、彼女はベッドに横になる。背もたれの傾斜の上部に位置する枕に頭を置き、ゆっくりと深呼吸する。
「ごめん。無理させたみたいで」
「このくらい平気だよ。ただ同い年の人と話すことなんてほとんどないから、ちょっと張り切りすぎちゃったみたい」
顔色はそこまで悪くない。でも病気のことなんて全くの無知な僕は、彼女が本当に無理していないのか、いるのか、そんなことわかるはずもない。行き場のない不安だけが渦巻いて、僕の脆い心を侵す。
「よくわからないけど、もうこれくらいにしとこう」
そう、だね。ごめんね、すぐへばっちゃって。
苦笑いをする彼女の横顔からは、先程までの生気が消えかかっている。
すっかり淡くなった精彩と隙間を埋めるように割り込む諦観だけが残された目は、広場の彼女とは似ても似つかぬ別人のものだ。
両者を頭の中で重ね合わせてみる。
すると、彼女の求める“何か”の片鱗が、ふと掴めた気がした。あぁ、そうか。
確証はない。ただこの考えはどうもしっくりくる。
退出するべく、置いていたカバンを肩にかけて、扉に手をかけて、彼女に別れを告げる。
できるだけ自然に、抑揚をつけず、当たり前のことのように。
「んじゃ、また来るよ。…お邪魔でなければ」
やっぱり恥ずかしくて、最後は冗談めかした口調になってしまった。
俯いていた彼女が顔を上げ、こちらを向く。
憂いと黒をたっぷり含んだ豊かな髪がひと房こぼれ、ケガレを知らない白い頬にはわずかに赤みが差している。カーテンの隙間から射す光が、それらの色の彩度をより一層引き立て、部屋全体を神秘的な調和が支配する。
甘い蜜のような静寂だった。
一枚の絵画の中央にいる彼女は、今日見た中で最も幼げな表情で、僕に“何か”を与えてくれる。
「うん、またね」
新鮮な熱を体に残したまま、自宅のベッドに腰を下ろす。耳に、手に、そしてなによりまぶたの裏に、彼女の残り香がある。カバンの横ポケットから臓器提供意思表示カードを取り出すと、彼女からのお褒めの言葉が再び耳をくすぐる。
用済みになったカバンを机の横に掛けて、今日一日を振り返る。当然頭に浮かぶのは病院でのこと、彼女のことだけだ。
あの細い体躯に病気を抱えた彼女は、不思議な魅力もその身に宿していた。
確かに外見だって、男児の心を躍らせるプロポーションと顔立ちではあった。でもそれは彼女の魅力におけるただの表層でしかないと思う。もっと言えば、彼女の魅力は、そんな通俗的な美とは比べるのも烏滸がましいくらいに人の心を直接揺り動かすものだった。
彼女の傍にいたい。ずっといたい。そう思わせるくらいに。
疲れた体をベッドに放り投げる。仰向けになって天井の一点を見つめながら、彼女の目を思い出す。
勢いで“話をしませんか”とか“また来る”とか言っちゃった僕を何やってんだと恥じる反面、彼女との時間を延ばせたのだからいいやと思ってしまう自分が居る。
しかし僕の中に、彼女の心に付け込もうとする自分も居る。
時折彼女が見せる弱い目になら、僕は押し入ることができるのではと邪な考えを働かせてしまう自分。彼女が僕に与える“何か”を吸い尽くしてしまいたいと企む自分。
そんな僕の存在に、心底嫌になる。唾棄すべき存在だともわかっている。わかっていても、そんな自分は僕と切っても切り離せない僕の構成要素だ。
折角の浮かれた気持ちを僕自身の穢さで台無しにしてしまい、すっかりいつものネガティブさに戻った僕は、制服を着替えることもせずそのまま眠りに落ちた。