三途の川下り
(一)
体が緩やかに揺れている。
水のせせらぎが聞こえる。
木の軋む音が聞こえる。
生温い風が顔を通り過ぎた。
男は目を開いた。
ぼやけた視界が広がっていく。
霞んだ景色がそこにはあった。
靄のかかった、小豆色のような一面。
――ここは?
男は体を起こした。揺れが大きくなる。
――なんだ?
揺れの不思議に気付いた男は、今自分の置かれている状況を焦点の合わぬ視線で確かめた。
男は舟に乗っていた。男の身の丈、一・五倍ほどの小さな舟に。所々に苔が生え、欠けた木片が散らかる古びた舟。
――舟?
男は寝ぼけた様子で、今度は体の前方に視線を転じた。
川である。両岸が左右に迫っているので、それほど大きな川ではない。どちらかといえば小さいぐらいだ。川幅はおよそ十メートルか。赤茶色した水が緩やかに流れていた。
両岸の風景は、荒涼とした石河原。
――俺は?ここは?
男はようやく自分の置かれている立場に疑問を持った。川の上。舟の中。なぜここにいるのか記憶がない。自分の姿を見てみる。紺のトレーナーにズボン姿。普段から家の中で着ていた……いや――いたような?
記憶が、曖昧だった。
――俺は……誰だ?
男は頭を抱えた。瞬きを不自然に繰り返した。眼球がぐるぐると回る。反対に口は開いたままで放置された。
男は考える。必死に考える。混乱が頭を支配する。葛藤が底から突き上げる。考えれば考えるほど男の頭は恐慌をきたし、記憶の景色にかかった靄は深くなるばかりであった。
男は腹立ち紛れに、舟底を右の拳で叩きつける。当然男の体重移動で小さな船は揺れ、男は慌てて両手で縁を掴んで首を竦め固まった。揺れが収まるのを待つ。
揺れが収まった。すると体の緊張も解ける。と、どうであろう。心の緊張も僅かに解れ、脳にも涼風が吹きぬけた。記憶を隠していた靄が少しだけ薄くなり、見えてきた景色があった。
男は日本に住んでいた。そしてT県に住んでいた。それから……ここまでが限界だった。自分に関しての情報は、これ以上得られなかった。
男はこの、瞬間の出来事に疲れを感じて首を項垂れた。
――なんでこんなことに……
その問いには誰も答えてくれない。視界の中に人影は一つもない。荒涼とした大地に一本の川。浮かぶ舟。孤独な世界である。
改めて男は顔を上げる。不安に満ちた、怯える眼を。ここはどこなんだと。
もちろん記憶にはない。デジャヴも起こらない。見知らぬ土地。
とにかく一度、岸に上がろうと男は思った。こんな小さな舟では心許なかったのだ。それに迷った時は下手に動かない方がいい。このままではどこまでも流されてしまう。男の記憶が、針の先でチクリと刺したような警告を発していた。
舟の中に水を漕げそうな物はない。仕方がないので手で漕ぐ。ところが重みの負荷が偏り、舟が傾いて今にも転覆しそうになってしまう。男は手で漕ぐのを諦めた。いや、いっそ飛び込んで泳いでしまおうか?そう思いつくと、船から飛び降りようとした。ところが、今度は体が舟から離れない。まるで強力な接着剤でもつけられたように。足の裏。尻。手のひら。力を入れれば入れるほど、接着力は強くなるように思われた。
男は意地になって体を揺らす。このまま転覆してしまっても構わないとばかりに。しかし、船は大きく揺れて今にも転覆しそうになるのだが、ぎりぎりのところ、それこそ水面張力の山ができるのだが、そこからはまた別な力が働いているように水は一切浸水してこなかった。傾きもそれ以上にはならない。
「くそっ!」
男は声を張り上げて暴れてみたが、埒がなかった。諦めてぐったりとする。顔にかかった前髪が鬱陶しかった。掻き揚げようと右手を上げる。抵抗なく上がった。
男は手を額に当てた状態で、動きを止めて考える。唇の端が釣り上がる。左手も上げてみる。上がった。足も、尻も。
深呼吸をし、リラックスする。悠長に景色を眺める。
「それっ!」
突然男は跳ね上がろうとした。が、手足、尻はびったりと船底にくっついて離れなかった。舟も転覆しない。何度か試みるが、ことごとく失敗した。
ついに男は諦めた。思えばこれだけ暴れているのに舟の位置は川の中心から少しもずれていない。普通だったら、黙っていたってどちらかの岸に近付きそうなものだ。まさかレールでも敷かれているのか?
接着といい、レールといい、謎ばかりだが、男はそれを考えるのも億劫になってしまった。どうにでもなれと自棄になる。が、そもそもそんなに胆の大きな男ではないようで、すぐにまた不安になる。
一体なにがなにで、どうなってしまうのかと。
男は横になっていた。起きていても見えるものは荒涼とした大地と、どこまでも蛇行しながら続く川だけ。そんなものを見ていたら余計に不安になるだけだ。果報は寝て待て、ではないが、まさかこのままずっとなにもないわけでもないだろうと不確かな望みを胸に、長期戦を覚悟したのだ。
やがてその覚悟が実る。
どれだけ時が経ったのだろう。暑い靄に覆われて太陽も確認できず、時間の経過を知ることはできなかった。けれど夜にはなっていないから、大袈裟な時間の経過はなかっただろう。横になっていた男の耳に、人の声らしき音が微かに響いた。目を閉じていた男は咄嗟に跳ね起きる。
いつの間にか荒涼とした大地から、絶壁が左右の視界を遮る渓谷へと入っていた。黒々とした岩石の山。植物の緑は一切見えず、生き物の生存も不可能に思われるが、その渓谷に、人の叫び声のようなものが響いていたのだ。
川は蛇行し、人の姿はまだ見えてこない。だが、川を下るにつれて人の存在は確かなものとなった。先程から聞こえていた叫び声ばかりか、話し声も聞こえるようになった。しかも日本語である。それに紛れて、お経を唱えているような声も響いてきた。
男は歓喜に震えた。これで助けてもらえると。身を船の先端まで乗り出した。
舟は渓谷の川を行き、二本の柱のような大木が左右に立つ間を抜け、やがて蛇行して視界の開ける地へと男を運んだ。そこは渓谷にぽっかりと口を開いた、平坦な大地。
男の視線に、人々の姿が映し出された。
男は更に身を舳先から乗り出して、大きく手を振った。
「おーい!おーい!」
人は大勢いた。ざっと見ただけで数十人はいる。皆白い服を纏っているのは奇妙だったが、間違いなく男が望んだ救いの人々である。
男は更に叫んだ。
「おーい、助けてくれ!」
声が周囲の岩壁に反射してこだます。
声は人々に充分聞こえているはずだった。人々の声は男に届いているのだから。けれど、誰一人として男に応えてくれる者はなかった。
「お願いだから、助けてくれ!」
男は声を張り上げるが、やがて表情に影を差す。人々の様子に異様さを覚えたのだ。
渓谷を抜け、平地に出る。両岸は男が目覚めた地点のような石河原。正面すぐのところに橋が架かっていた。光り輝く橋。その輝きが黄金のものであると気付くのに時間はかからなかった。更に銀の意匠が側面を彩り、埋め込まれた七色の石が色彩の洪水を起こしていた。
その橋を渡る人がいる。手を合掌し、俯き渡る。次の人も、次の人も。皆白い着物を纏って。
左岸の橋の袂には人の塊ができていた。橋を渡ろうとする人々であろう。やはり皆一様に合掌し、俯き、橋を渡ろうとするのだが、よく見れば橋の上に足を踏み込めない人がいる。それも一人二人ではなく、ほとんどだ。足を踏み込める人の方が少ない。皆、見えない壁にぶつかっているように歩を進めど前進しないのだ。これでは一向に人々は進まない。だから袂で渋滞の塊を形成しているのだ。しかし、なにが異様かといえば、これらの人々に表情がないのだ。まるで皆、無表情の面を被っているように。
橋を渡れぬのであれば、なぜ悔しまない?橋を渡れたら、なぜ優越に喜ばない?また待つ人々は、なぜ場所を譲るよう声をかけない?怒らない?一切の感情、表情が彼らからは読み取ることができなかった。男も女も。若くても年老いていても。
「おい、無視しないでくれよ!頼むから助けてくれよ!」
男は苛立ち、怒鳴るが、人々は気付かぬ様子で、機械仕掛けの人形のように同じ行動を繰り返していた。
やがて船は橋の下を潜る。男は泣き顔で、
「なんでだよ」
右の拳を舟底に叩き付けた。舟が揺れる。
橋を越えると、それまで橋が遮っていた新たな光景が男の視界に入ってきた。男はその光景に呆然となった。
「なんだよ、これ?」
数百人と思われる人々、白い着物を纏った人々が両岸を埋め尽くしていたのだ。音も声も、一気に間近に迫る。
叫び声。呻き声。鳴き声。経を唱える声。怒声。罵声。笑い声。
石の擦れ合う音。ぶつかる音。水の音。布切れの音。木の折れる音。
岩壁に反響し、男の耳に届いていた音や声の源水が、ここにあった。
左岸には多くの人々が列を成していた。彼らが向っているのは先程の橋だ。遠く岩壁の切れ間から人が溢れ出ている。
行列はそればかりではない。おそらく橋を渡ることができなかった人々だろう。渋滞の塊から方向を変え、川沿いに下流に歩いていく。すると川岸に大木の杭が二本打たれた場所がある。そこにも渋滞の塊ができていた。押し合い、ぶつかり合い、そして川の浅瀬を渡っていく。川の深さは膝上程度だ。やはり合掌し、俯きひたすら歩く。
どうやらここでも渡れる者と渡れない者がいるらしい。渡れないものは、更に下流に列をなして歩いていく。
右岸では、不思議な光景が繰り広げられていた。川を渡った人々が、汚い衣を纏った醜い老婆に着物を剥がされているのである。老婆はまるで枯れ木のような四肢。顔は深い皺に埋もれ、疎らな癖の付いた白髪をなびかせていた。
人々はなされるがままだ。着物を奪い取った老婆は、それを同様の姿形の、乏しい顎髭を生やした老翁に授け、老翁は紫色の葉を茂らす木の枝に着物を掛けるのである。すると枝はしなる。ところが、見ているとそのしなり方に大きな違いがあるのだ。着物の重さ自体は、それぞれ大して変わらないだろうに。
更に老婆と老翁は、人々を大きな丸鏡らしき前に引き出し、覗かせている。すると覗いた人は時間が経つほどに頭を垂れ、ついには呻き声をあげて地面にひれ伏してしまうのである。老婆と老翁は、その様子を、腹を押さえ奇怪な笑い声をあげて眺めるのである。
このような光景が右岸全体で繰り広げられていた。老婆、老翁のいじめのような仕打ちを受け終えた人々は、再び合掌に俯き、全裸のまま岸壁の隙間へと吸い込まれるように消えていくのであった。
助けを求めるのも忘れて、男は信じられぬものを眺めるように目を丸くしていた。口も鯉のように丸く開けられたまま。
舟が浅瀬を通り抜ける。
「おい、危ない!」
気付いて男は叫んだ。丁度一人の老人が浅瀬を渡っていたのだ。老人は男の声に見向きもしない。
ぶつかる、と男が顔を顰めたのと同時に、舟は老人を引き倒した。ガタガタと舟が揺れ、まるで老人の体を引き摺っているようだった。
舟の揺れが止む。男は後ろの舳先に身を乗り出して、老人の沈んだ川を見詰めた。するとどうだろう、川の中に沈んでいた老人は何事もなかったようにむくりと起き上がって、再び歩き出したのだ。無事、川を渡りきる。そして右岸の二本の杭の間を通り抜けると、老婆に着物を剥がされ引き立てられていった。
男は息を呑む。ここは一体……と。
左岸には更なる列ができている。合掌し、夢遊病者のように目的地へと向っていく。
徐々に川の流れが急になっていく。水の量が急に増えたような感じだ。
蛇行した川を回り込むと、再び両岸に杭が打ち込まれた場所があった。どうやらここが最後の渡河地点らしく、左岸に列を成していた人々が杭の間を通って次々と川に入っていく。ところが、ここは水深が深いばかりか流れが異常に早い。また波がうねっていた。人々は次々に水圧に押しやられ、波を被り、水中に没していった。この時ばかりは人々も悲鳴をあげた。感情のこもった甲高いものではないが、くぐもっていてもそれとわかる声。渓谷に満ちていた悲鳴は、これだったのだ。
流されても、流されても人々は川に入っていく。男はさすがに見ていられなくなって、
「おい、止めろ!無理だ!」
と静止しようとしたが、やはり男の声は届かなかった。男の前で次々と人が川に沈んでいく。とても見られた光景ではなかった。
男は目を背け、項垂れた。もう嫌だと。
だが、男はすぐに顔を上げざる終えなくなる。舟の前方に大きな水音が響いたのだ。驚き見上げた男の目に飛び込んできたのは、顔の直径が三メートルはあろうかという毒々しい深緑の色をした大蛇の姿であった。川の中から鎌首を擡げ、口には数人の人を含んでいた。黄土色の眼に包まれた赤色の瞳で、男を睨む。
男はパニックを起こした。本能的な恐怖である。反射的に身が竦む。動けない。逃げたくても体が反応しなかった。目を瞑りたくても瞑れない。恐怖に叫びたくても、息は抜けてしまう。
ようやく男の脳が反応して駆け巡った思考は、己の未来である。目の前の惨劇。大蛇に食われた人の腕は捥げ、足は潰され、中には頭のない者まであった。自分もこうなるのかと想像し、恐れに身が震えた。
ある人の呻きが耳に染み入る。
ある人の無表情なうつろな目が、視線を釘付けにする。
舟は急激に大蛇に近付いた。
男は気が遠くなるのを覚えた。
が、大蛇は舟と接触するよりも早く川の中に潜ってしまった。下から突き上げられるのではと心配したが、それもなく通り過ぎることができた。
男は恐怖の感情を全て吐き出すように、大きく息をついた。未だ動悸がする。呼吸も荒い。一気に筋肉痛にでもなったような疲労が全身を包む。
男は少し落ち着こうと、再び身を横たえた。
と、その時だ。急に舟が傾いた。急流によって舟は強く揺れているが、それ以外の力がかかったようだ。まさか大蛇!
男は再び跳ね起きた。ところが舟の縁を掴んでいたのは、川に流された一人の人間だった。若い男のようで、無表情の中にも助けを求めているような様子があった。
「おい、大丈夫か?」
男は咄嗟に若い男の腕をとって舟へと引き上げようとした。舟は大きく傾くが、やはりぎりぎりのところ以上には傾きはしなかった。
男は力いっぱいに若い男の腕を引き、もう少しで引き上げられそうであった。その時だ、風を切る音がどこからともなく聞こえたと思うと、男の腕に衝撃が走った。それは直接受けたものではなく、間接的に。引き上げていた若い男の背に、鈍い音と共に一本の黒い矢が突き刺さったのだ。
続いて風が鳴る。今度は男が引っ張っていた若い男の右腕に、骨を砕く乾いた音を響かせ突き刺さった。それは男の手のぎりぎり先である。男は驚いて手を離してしまった。若い男は自分の体を支えきれずに、再び川の中へと消えていってしまった。
男は舟に尻餅をついていた。ついた角度で見上げる右岩壁の先に、数人の人影を確認した。いや、よく見ればそれは人のようで人にあらず。赤味を帯びた裸の上半身には腕が四本あり、二つの弓を同時に構えている。口元には大きな牙を生やし、頭からは雄山羊のような角を生やしていた。
彼らは、次々と矢を射る。男は自分が標的になっているのではないかと目を瞑って身を丸めるが、予想された痛みや衝撃は訪れなかった。おそるおそる顔を上げると、矢が標的にしているのは水面に漂う人々であった。次々と矢は飛来し、人々を刺し貫いていく。眉間に、目に、口に、耳に、体のあらゆる所に。血が迸り、マーブル模様の流れを崩して、川の色は紅の深みを帯びていく。
矢を射る者達はまるで互いの腕を競い合うように、見事に標的を捕らえた時には野太い歓声をあげていた。
男は恐ろしさの余り、両手で抱えた膝から顎を離すことができずに震えていた。
矢の豪雨はなおも続く。
呻きが止まぬ。
叫びが止まぬ。
矢が空気を切り裂く音にも、殺傷力があるように思われた。精神を仕留める刃。
更に、次に男が見たものは、切り刻まれた精神に止めを刺すような凄惨な光景だった。
舟の前方。川の水面に、人の手が突き出ている。手ばかりではない。足も、頭も、腹も、尻も。それらが蠢いている。数限りない数の人体が、もがき、あがき、積み重なっていた。
ここにも次々と矢が飛来する。鮮血に、川の色は完全に変わる。
舟は人体の川を進んだ。止まらないのが不思議なぐらいに人体が溢れている。その長さ、およそ百メートル以上。一体どれほどの人々がここに沈んでいるのか?
彼らは必死に上流を目指そうとする。だが、そこから逃れる術はなかった。
やがて人体の川が途切れた時、舟は急落下した。まるで滝から落ちたように。
男は咄嗟に縁を握り締めた。内臓が持ち上がるような感覚がする。
舟はそれこそ滝から落ちたようだ。だが滝壺に落ちても沈みはしなかった。衝撃は凄かったが、大破もしなかった。何事もなかったように川の流れに合わせて、静かに揺れながら進む。
男はなにが起きたのかと、弾む鼓動に唾を飲み込み、後ろを振り返った。そこには、人体の壁が出来上がっていた。網が川一面に張られ、流された人体が引っかかり、積み重なって、ダムのように川を塞き止めていたのだ。高さは十五メートルほど。川幅十メートル。全長百メートル以上。その人数を想像するだけで、男は吐き気を覚えた。
遠ざかっても見える。人々の表情が。
這い蹲っている。例えどんなに下の、どんな深くにいようとも。
壁は、蠢いていた。いつまでも。いつまでも。
男は笑った。
「あははははははっ!」
そして、顔を泣き笑いに歪め、頭を抱えた。
舟はゆく。静かに、静かに。
やがて微かに、歌声が聞こえてきた。
「一つ積んでは……二つ積んでは……」
憔悴しきった顔を、男はあげた。
右岸の河原に人の動く姿がある。それは小さな子供のようで。
「三つ積んでは……」
幼い声が、渓谷に響く。幾人もの子供達が河原の石を手に、それを積み上げていた。頼りない石の塔は今にも崩れそうだ。それでも慎重に。
しかし、そんな子供達の想いも無下に、青き裸身の大男が石塔を次々と足で蹴り、棒で叩いて崩してしまう。大男達は大威張りで、さも楽しげに子供達を泣かす。
歌に泣き声が混じり、掻き消す大男の笑い声が響く。
そこかしこで繰り返される光景。この光景に、終わりはあるのか?
ふと、男は一人の男性を見つける。たった一人だけ衣を纏った、剃髪した美しい青年。この光景には一人だけ不釣合いである。
青年は数人の大男に取り囲まれていた。ばかりか棒で殴られているらしい。それでも青年は耐えるだけで、一切手を出そうとはしなかった。
男は呆然とその様子を眺める。青年は痛みに顔を歪め――偶然、青年と男の視線があった。青年は、驚いたように男を見た。
けれども男は放心状態で、なんらのリアクションをとることができなかった。視線は目前の様子を捉えていても、思考活動はほぼ停止していた。
青年がなにか叫ぼうとする。けれどタイミング悪く、大男の棒が青年の頬を打った。
舟は過ぎゆく。
青年が大男に抵抗し、男の方へ体を向けた。その瞬間、青年の衣が翻り、中には二人の幼い子供の姿があった。怯え切り、青年の足にしがみついて。青年は、彼らを庇っていたのである。
「あっ!」
少しだけ男は反応した。けれど青年はすぐに、大男達に取り囲まれてしまった。青年の姿は見えない。
か細い歌声が遠ざかる。
泣き声が遠ざかる。
笑い声が、耳に残った。
(二)
両岸に作為的な大木の柱が二本ずつ立っていた。
男を乗せた船は、果てしない川路をどこまでも下ってゆく。
景色は峡谷。岩壁が威圧的に押し迫り、靄のかかった空は川筋の反映のようであった。
静かだ。先程までの喧騒が嘘のように。耳に聞こえるのは川のせせらぎと、舟の軋み、あとは風の音だけ。この舟の中で目覚めた、最初に戻ったようだ。時間以上の時間を、男は感じていた。
どうしていいかわからないまま、男は横になっていた。そして考える。今見てきたものはなんであったのかと。その切っ掛けを探れば、辿り着いたのは豪奢な橋でもなく、老婆が着物を剥ぐ場面ではなく、人々が川に沈む場面ではなく、最後の、子供達が河原の石を積み上げている光景であった。あれは、賽の河原ではなかったか。
男の記憶には靄がかかったままだ。それでも辿れる記憶もある。
――賽の河原は、確か三途の川のほとりに……
三途の川。男には思い当たる節があった。
最初の橋は『橋渡』で、生前の行いが良かった者が渡る橋であり、浅瀬は『浅水瀬』といって生前の罪の軽い人が渡る地点であり、最後は『江深淵』といって生前の罪が重い者が渡る地点。弓を射たは『鬼王夜叉』。老婆は『奪衣婆』であり死者の衣を剥ぎ、老翁は『懸衣翁』で、受け取った衣を『衣領樹』の枝にかけて罪の重さを計る。罪が軽ければ枝はしならず、重ければ重いほどしなる。大きな丸い鏡は『浄頗梨鏡』といい、生前の悪行が悉く映し出されるものである。これらは全て後に受ける裁きの事前折衝のようなもので、審査を円滑に行うためのものだ。例え生前の悪行を誤魔化そうとしても無理だということをわからせるためだ。そして、それらを通過した人々が向っていた岩壁の間の先にこそ、閻魔大王が治める閻魔庁が存在するのである。その更に先が――地獄だ。
と、ここまで詳しく、男は、思い出しはしなかった。そもそも知識がないのかもしれない。けれど、三つの渡しが三途という名の由来になっているという説ぐらいは知っていた。
ようやく男は自分の立場を理解しだした。どうやら自分は三途の川を下っているらしい。ということは、自分は死んだのか?いや、右岸にも左岸にも辿り着けないということは、きっとこれが臨死体験というものだろう。おそらく、自分はなんらかの原因で死にかけているのだ。あの世を彷徨っているという状態だろう。と男は推測した。
状況が掴めると、男は少しだけ安心した。だが、すぐに不安が満ちる。
――この先、どうなるんだ?
単純に考えればこうである。現世にある男の体が機能を停止せずに回復すれば、この舟は左岸に着く。もし回復しなければ、右岸について閻魔庁送りだ。だが、事がそう単純に運ぶであろうか。もし死を迎えたならば、このまま右岸に到達するのではなく、あの人々の行列に混ざることになるのではないか。死後の定石を考えれば、こちらの方が当然の成り行きに思えてくる。
男に、新たな恐怖が湧きあがった。頭を抱え考え込む。
――俺は……善人なのか?悪人なのか?
先程の地獄絵図が、みるみる脳裏に蘇ってくる。そればかりか、あの人々の中に自分の姿を想像して戦慄した。
男は必死に自分の現世での行いを思い出そうとした。自分にはどの渡しが用意されているのか不安で仕方なかったのである。けれど、記憶は蘇らない。日本国、T県以外に己に関する情報は皆無だった。抉じ開けられそうで抉じ開けられない、やるせなさのストレスに、男は身を振るわせた。頭を掻き毟った。
「くそっ!」
両拳を舟底に叩きつけて突っ伏してしまった。
――嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。あんな苦しみ。
右拳をテンポよく叩きつける。
――あんなの御免だ。俺には耐えられない。
開いた右手で、舟底の板を引っ掻く。
――三途の川であれなら、地獄は……
もっと恐ろしいに違いない。
男の恐怖は最高潮に達した。
「うわぁ!」
叫びを上げて立ち上がろうとする。が、手足、尻は舟底から離れなかった。
「俺は死にたくない!」
必死に左岸へ上陸しようとするが、舟が、それともなんらかの他の力が、男を放さなかった。
散々暴れ狂った挙句に、男は妙な冷静の時間を得た。俯き、視線が泳ぐ。
それは一つの事実。
――生けるものは、死ぬるものである。
例えここで左岸に辿り着き、生き返ったとしても、もしこれまでに自分が悪事を働いていたとしたならどうなる。結局は時間の差だけで、贖罪という苦痛に見舞われなければならないのではないか。それとも、人生をやり直すことで徳を積み、もし罪を犯していたとしても救われる手立てがあるのか。仏に祈るのか?しかし、それは確実な効果をもたらすのか……
たちまち男は生き返ることさえ恐怖に思え、僅かな身動きさえできなくなってしまった。
心の束縛は、体の束縛にも繋がる。
男は両膝を抱え、遠く川下を見詰めた。
――このまま、ずっとここにいた方が……
楽なのではないかと、思いながら。
景色は一向に変わらない。川筋のうねりだけが時間の経過を表現しているようだった。
あれから、数多くのうねりに身を任せた。
男は両手を腹の上で組み、横になっていた。目を閉じているが、眠ってはいない。
眠れはしなかった。恐怖、不安、絶望。男の脳は総力をあげて、あらゆるシミュレーションを映像とした。地獄に落ちた自分。拷問を受ける自分。恐ろしき化け物の表情。終わらぬ苦しみ。例え一縷の希望、橋渡を渡るイメージを得たとしても、すぐに橋は瓦解し、男は三途の川に流され、大蛇に食われ、鬼に弓を射られ、そしてあの人体溜まりに追いやられるのである。
考えたらきりがない。しかし、疑いを晴らす確証もない。自分はどんな人間だったのか。どんな生き方をしてきたのか。
この自信のないところに、男は後悔した。
――俺は胸を張って生きてきたか?
これもまた、詮無いことである。
罪とはルール違反のことである。ルールとは、人間が社会を形成するためのものである。その基本は、道徳である。道徳とは、人間性である。人間性とはすなわち、理性である。
それでは本能が罪かといえば、これは言い過ぎだろう。本能は根本である。しかし、動物的である。人間を人間たらしめているのは、やはり理性である。
極論に達するとするならば、罪とは人間性の否定であろうか。
男は、人間であったろうか?
男は、どこまでも流されてゆく。
静寂が支配する空間。いつしか聞きなれた水音と木の軋みも静寂にとりこまれ、静寂の音、とでも例えればいいか、耳鳴りに近い音が男の耳を塞いだ。
更に舟は数々のうねりを過ぎた。
ある時、男の耳に静寂以外の音が響いた。それは水が叩かれた音。
最初の音が聞こえた時、男は余り気にしなかった。この頃になると考えるのにも疲れて呆然としていたのだ。眠気はなかった。
だが、音はその後も続いた。断続的に鳴っている。どうやら舟に前方から近付いてくるようだ。
男は上体を起こした。力の失われた目で、前方を眺めやる。特に変わった様子はなかった。音も止んでいる。気のせいだったか?と男が再び寝転がろうとした時、ザバッと水音が弾けたと思うや、なにかが勢いよく川から飛び出して舟に乗り込んできた。
男は大きく揺れる舟の中で、慌てて縁に抱きつき、それに目をやった。白い奇妙な物体。
それは白い肌をしていた。まるでふやけたような白さの、ぬめり気のある肌。毛は一切ない。まん丸のぎょろついた目。顔の形は尖がっていて、鼻のような上唇のような、例えるなら魚のカジキのような。胴体はとても平べったい。腕も付いているが同じように平べったく、異常に長い五本の指の間には水掻きを持っていた。足らしきものもあるのだが、二本の足は薄い膜でくっつき、足首は真っ直ぐのまま立つことは不可能のように思える。
見た目は化け物である。それでもどこか人間の形状に似ていた。
いや、似ているどころか、
「……珍しい……」
たどたどしくはあったが、それは間違いなく男の理解できる言葉だった。
男は驚きを隠さずに、例えるなら魚人のような者との距離を、身を竦めてとった。
「なっ、なんだよ!」
「……そう、怯えるな」
「怯えるなって……言っても……」
「……ふふふ、私が怖いか?」
「いや、怖くは……」
ないはずがない。男は首を竦め、上目遣いに魚人を見る。
その様子に、魚人は甲高く笑う。
「ははは……初めてだ、無理はない」
「話せるのか?」
「……この通り」
魚人は人間のような、手を広げるジェスチャーを見せた。
男はこれで、少しだけ緊張を緩めた。ここまでも散々初めてのものを見てきている。多少は慣れたのかもしれない。縁から手を離して太腿を擦った。
改めて問う。
「どなたですか?」
おそるおそる様子を伺いながら。
魚人はまん丸の目玉をくるくると回す。
「……私は私だ」
「いや、そうじゃなくて……」
「……なにが訊きたい?」
「例えば名前とか」
「……名?名などない。ここでは名など必要ない。お前は名があるのか?」
「俺は……」
思い出せない。必死に思い出そうとするが、やはり無理だ。ならばないのと同じである。
「俺は……」
「……ないのだろ?」
「あるけど、思い出せない」
「……それでいのだ。ここでは必要ない」
「なぜ?」
「……存在だけいいではないか」
「存在?」
「……ああ、ここにこうしているということだ」
「……ああ」
余り納得していない様子で男は頷いた。理屈はわからないでもないが、やはり名称がないとわかりづらい。呼び方にさえ困ってしまう。
「えーと……あなたは、その……人間ですか?」
化け物ですか?とは訊きづらかったので、とりあえず問うてみた。間違っていれば自分から説明してくれるだろう期待して。すると、
「……そうだ」
との意外な返答だった。
確かに形状的に人間との類似はあるが、そのものとはとても思えなかった。
「本当に?」
「……ああ、本当だとも。こんな姿ではあるけどね」
信じられなかった。男は改めて魚人をまじまじと観察する。自分との違いばかりが目に付いた。
「それじゃ、その……例えば、以前は俺みたいな姿だったとか?」
半信半疑で自分を指差す。
魚人は、にやっと笑う。鋭い牙が覗いた。
「……そうだとも。かつては」
「嘘?!」
「……嘘ではない」
「信じられない。だとしたら、どうしてそんな体に?」
男がそう思うのも無理はない。ありえない話だった。明らかに人間のそれとは機能を異にしているようにしか見えない。突然変異、などという言葉が訳もなく浮かぶ。
魚人は更に、顔を崩して笑う。
「……適応しただけだ」
「適応?なにに?」
「……この環境に」
周りを見渡せば、左右は高い岩壁。この岩壁を越えられなければ、残るはこの赤茶色の川だけである。川に住むために肉体が適応して変化したというのか?それはありえない。確かに環境に適応して肉体が変化することはあるが、それは何千年、何万年とかけて徐々に起こる変化である。それとも、変化を遂げた一族が彼以外にもいるのであろうか。
「人間だったというのは、あなたのご先祖?」
「……いや、私自身だ」
男には理解できなかった。
それを察したのか、魚人は言葉を続ける。
「……人間界の常識で考えてはいけない。ここではそれが、可能なのだ。ここでは肉体が滅びても、何度でも蘇る」
「……肉体が滅びても?」
「……そうだ。何度でも蘇る」
魚人の言葉に男が思い出したのは、人体のダムのことだった。彼らはあそこに至るまでに激流に飲まれ、大蛇に食われ、鬼に矢を射られ、肉体を破壊されていたにも関わらず、ダムに至った時には五体満足の姿でもがいていた。現世なら死亡し、物と化す筈なのに。ということは、彼らの肉体も何度も蘇ったのか?
「……ここはそういうところなのだ。永遠に滅びない」
「永遠に?」
「……永遠に」
永遠に滅びない世界。不死とは人間の理想ではないか。
男は一条の希望の光を見た思いだった。ここならば、あの苦しみから解放されるのではないか。地獄へとも行かなくてすむのではないか。永遠に滅さぬ肉体。魅惑の現実が、今ここにあった。現世の肉体など、こうなれば不良品である。
男の心は一気に傾いた。
「俺も……ここに住めるかな?」
「……ああ、可能だ」
「本当に?」
「……ああ、本当だとも」
男の表情は喜びに変わった。これでいい。これで苦しまなくてすむのだと。
喜びに手を叩く男に、魚人が言う。
「……そんなに嬉しいか?」
「うん、嬉しい」
「……そうか。ただし、慣れなければいけないこともある」
「慣れる?」
「……そうだ」
「何に?」
「……食事だ。なに、すぐに慣れる」
飯かぁ、と男は納得した。確かに美味そうな物はなさそうだ。けれど、魚でも食べていればいいのではないか?
「どんな魚がいるの?」
一応、訪ねてみた。
すると魚人は三度笑って、
「……魚などいない」
言うや、どうしたことか自分の左腕に噛み付いた。そして鋭い牙で骨ごと一気に噛み千切った。肘から先が千切られ、両切断面から大量の血が滴った。
男は目を丸くした。その光景は、まるで男の肝まで食らわれるようだった。体の動きが一切止まる。
魚人は口に咥える左手を、右手に持ち直した。
「……別に食わなくてもいいのだが、腹が減ってどうしようもなくなる時がある。そんな時はこうする」
と言って、自分の左腕をバキバキ、クチャクチャいわせて頬張った。口周りが朱に染まっていく。
魚人の牙は、このために適応したのか?
男は信じられぬまま、搾るように言葉を吐く。
「……そんなことたら、腕が……」
「……腕?言ったではないか、肉体は不滅だと」
魚人が言うと同時に、左腕からの出血は止まり、断面が生き物のように蠢きだすと、ほんの数秒で腕を再生させた。まさに不滅である。
魚人は得意そうに左腕を男に見せた。自分の左腕をすでに平らげている。
男は言葉を失った。自分も、自分を食べるのか?
その時だ、突然魚人が身を乗り出した。男の肩を両腕で抑える。
「なにを?」
男は恐怖に身を縮めた。
魚人は言う。
「久し振りに、違う肉が食べたい。食わせてくれ」
男は背筋を凍らせた。食われる!
「嫌だ!」
必死に逃れようと抵抗した。ところが、こんな平べったい腕のどこにこれほどの力があるのか、男は身動きさえできなかった。
魚人は更に言う。
「……どうせ、すぐに蘇る」
と。
魚人は鋭い牙を見せて大きく口を開いた。赤紫色した口内が覗く。
男は目を瞑った。途端に、嫌な感触が首筋に走った。痛いが、すでに麻痺したような感触。刃で肉が抉られ、骨が砕ける振動だけは妙に響いた。
顔が己の血で濡れる。魚人の肌のぬめりが、耳にべっとりと付く。瞬間、首筋の肉は噛み千切られ、男の視線は傾いた。右耳が右肩にぶつかり、首が垂れるのと同時に視線は自分の脇に塞がれた。
クチャクチャと音が聞こえる。バキバキと鼓膜に伝わる。
今度は左腕に噛み付かれた。腕がもがれる。
――嫌だ!
耐え切れぬ不快の中で、男は気を失った。
丸まるようにして倒れていた男が目を覚ました時、魚人の姿はなかった。
顔を撫でる風が、男の不快な目覚めを幾分和らげる。
男はのっそりと上体を起こした。無言のままで自分の体を確認する。無事だ。しかし、トレーナーはボロボロに破れ、舟に散らばった切れ端には大量の血が染み込んでいた。夢ではない。確かにあの魚人に食われた。そして、蘇ったのだ。
無事に蘇った喜びはなかった。食われた瞬間の、あの嫌な感覚が鮮やかに蘇り、身も凍る想いにしかなれなかった。
周りの景色は変わらない。どこまでも続く絶壁と川。
男はまじまじと自分の左腕を見た。力を入れる。抜く。筋が浮き出る。消える。何度かそれを繰り返す内に、男はゆっくりと自分の口を左腕に付けた。口を大きく開き歯を当てる。が、すぐに男の体が震えだした。腕を凝視していた目も泳ぎだし、決意敗れて口から腕を勢いよく離した。まるで己の左腕が不浄のものであるかのように。
嫌悪感が男を襲った。
――無理だ。俺にはできない。
ここに住むならば、己を喰わなければならない。食事はとらなくても平気だと魚人は言ったが、腹は減ると言った。ならば空腹を耐えなければならない。耐えられるだろうか。いつまで?――永久に。
永久に空腹に耐えられるだろうか。いや、気が狂ってしまいそうだ。ならば己を食うか?――人間の理性を捨てても。
あの一瞬の希望の喜びは、すでに男にはなかった。あるのは迫る難題の圧迫感だけである。
――どうしたらいい……
誰か知る者がいれば教えてもらいたかった。自分の責任を放棄して、全ての選択を委ねてしまいたかった。自分ではどう判断したらいいのかわからない。苦痛は嫌だ。
なにも決まらぬまま、それでも舟は進んでゆく。このまま永久に漂い続けるのか。終わりはないのか。
男は空を見上げた。変わらぬ模糊とした空。果たしてこの空の彼方に宇宙は存在するのだろうか。地球のように、この大地は宇宙に浮かぶ星なのか。宇宙は広大だ。しかし、宇宙にも限りがある。
永遠という言葉に影が差す。終わりという言葉に光が当たる。
と、空を見上げていた男は変わらぬ空に、鳥のような影を見た。それは空中を旋回し、男の頭上を行ったり来たりしていた。やがてそのまま飛び去るものと思っていたが、予想に反してそれは男を目指して降りてきた。
それが近付いた時、男は目を見張った。鳥と思っていたものの異様な姿にである。
男は再び不吉を覚える。
それは静かに舟に舞い降りた。羽をたたみ、身を縮める。頭は、どう見ても人のものである。ただし、目尻が異常に切れ、つり上がっている。口元は、唇を抉じ開けて歯が突き出て、嘴のようになっている。羽は腕に薄い皮が付いていて、翼を広げていた時は蝙蝠の翼を見るようであった。胴体は貧弱で、足も異常に短いが、一方で足の指だけは長かった。肌の色は男の肌と同じ色だ。毛は一切ない。鳥人というべきか。
鳥人は睨みつけるように男を眺めた。
「珍しい、新入りか?」
鳥人も甲高い声で、やはり男のわかる言葉で話した。
男は身を守るように体を縮める。先程の悪夢を恐れて。
「どうした?俺が怖いか?」
「……いいえ」
下手なことを言って食われたくはない。男は短く答えた。
「そう、怯えるなって。なにもしやしねぇーよ」
鳥人は笑みと思しき表情を浮かべた。後退した唇が、更に後退したのである。
それでも男は警戒を解かない。
「参ったねぇ。まっ、いいや。で、お前はどんな進化を遂げるつもりだ?」
「……進化?」
「そうだよ、進化だよ。この俺を見てくれよ。どうだ、かっこいいだろ?」
鳥人は翼を広げて見せた。貧弱な胴体が露になる。かっこよくはない。けれど、機嫌を損なうようなことは言いたくない。
「……はい」
「だろ?なにせ、こうなるのに苦労したからなぁ」
鳥人は遠くを見詰め、昔を思い出すように語った。魚人よりも人間臭い。
その人間臭さも手伝って、男はおずおずと鳥人に訪ねた。
「あなたも……元々は人間?」
「そうだ」
「進化って?」
「俺のこと」
「でも、適応したんじゃ?」
「適応?おっと、川の中にいる奴と一緒にされちゃ困るな。俺はな、進化したんだよ」
「……?」
「わからねぇーかなぁ。のほほーんと水に浸かっていただけの奴とは違って、俺は空を目指して努力したんだよ」
「努力?」
「そうだよ」
「どんな?」
「そりゃぁな、お前」
鳥人は大きく翼を広げ、誇らしげに言い放つ。
「この岩壁をよじ登って、何万回と飛び降りたのよ。そしたらこの通り」
「飛び降りた?!そんな、あんなところから飛び降りたら!」
男は岩壁を見て絶句した。間違いなく――
「おっと、待った。知らねぇーのか?ここじゃ何度でも蘇るんだぜ。まっ、少し痛い想いはするがな」
鳥人は平然と言ってのけた。
男には信じられない。何回も飛び降りたということは、それだけの回数、肉体が崩壊したということである。少しどころの痛みですむはずがないではないか。それに、どれほどの恐怖心が襲うであろう。自分には無理だと、男は首を振った。想像するだけで震えがくる。それに進化というが、己の形状の変化を考える時に、男は強い抵抗感を覚えていた。故意に魚人にも鳥人にもなりたくない。なぜなら、まるで人間ではなくなってしまいそうだから。
「どうだ、凄いだろう?」
確かに凄いが、感心はしない。ただ鳥人の機嫌をとるために、
「はぁ」
とだけ答えた。が、この答えがまずかった。鳥人は嬉しそうに羽ばたくと、
「そうだろう。よし、気に入った!お前を俺の弟子にしてやろう。どうだ、俺と一緒に大空を羽ばたこうじゃないか!」
言うや、宙に舞い、足で男の肩を掴んだ。
男は慌てる。誰も弟子だなんて望んでない。もしこの鳥人に連れ去られたなら、岩壁から落とされるに決まっている。そればかりか、かなりの高度からパラシュートなしのスカイダイビングをやらされかねない。そんなのは御免である。それも何万回と。
男は必死に抗う。しかし、やはりどこにこれだけの力があるのか、抵抗は無駄だった。
ところが、鳥人が男を連れ去ろうとしても舟が、なんらかの力が許さなかった。どれだけ引き上げようとしても手足、尻が舟底に接着していて離れない。
「くそっ、なんだ?」
上下に体を引っ張られて男は苦しかったが、初めてこの舟の力に感謝した。
――嫌だ!嫌だ!嫌だ!
苦しさに声にならず、首を振って抗った。
「くそっ、なんだかわからないが諦めないぞ。よし、仕方ない。まずは肉体を破壊することに慣れろ」
鳥人は上へと引っ張る力を弱めたが、今度は男を押さえつけた。
「なにを?!」
「ついでだ、久し振りに違う肉を」
男の身と精神は凍りついた。抗うが無駄だ。強く、強く目を閉じる。
鳥人が大きく口を開き、男の肩口に齧り付いた。鮮血が迸り、一気に肉を食い千切る。
男は叫び声もなく、涙を流した。もう嫌だ、もう嫌だと。
鳥人は美味そうに食う。肩の肉を、腕を、足を、腹を、頭を。
舟は血の池を湛え、男の体はそれに沈んだ。
あの後、鳥人は幾度も男を釣り上げようと失敗し、幾度も喰った。しかし、その内に諦め、破門を言いつけて去った。
舟はゆく、どこまでも。
男は舟に横たわったまま、動かなかった。
その後も出会いが訪れては、男は食われた。食われるたびに、男は地獄の苦痛を味わった。一向に慣れなどしなかった。
永久に続く川の流れ。
永久に続く空の下。
永久に――
永久に――
永久に……
……
――ある時、男は浮遊感に包まれた。
(三)
男が目を開けて上体を起こすと、そこに岩壁はなくなっていた。川は未だに続いている。空も同じだ。
あの浮遊感は一体なんだったのだろう。男は久し振りに味わった変化に、新鮮な気持ちになった。
最早男にとって永遠とは絶望である。意識を放棄することも叶わず、終わりを迎えることもない。
時の観念が失われていく。時とは一体なんであったのだろう。
男は再び横たわる。男は今や全裸となっていた。壊れたものは戻らない。それを時の証明とするならば、今後男に時を証明する手立てはなくなってしまった。この肉体は、何度でも蘇る。
舟はゆく、同じペースで。
やがて再び、岩壁が立ちはだかる。空が狭くなる。一々男は反応しなくなった。
そんな男の耳に、微かに人の叫ぶような声が届いた。また魚人か、と関心なさそうに男は動かない。食われるのは嫌だが、抵抗も無駄と知っている。
更に多くの声が紛れ込んでくる。一体何人いるんだ?集団でいるなんて珍しいと思った。今までは単体行動の者ばかりだった。
進むにつれ、声が大きくなる。と同時に、男はむくりと上半身を持ち上げた。声の中に聞き覚えのあるリズムを聞いたのである。それは間違いなく経だ。それを聞いたのは、三途の渡し以来。まさか!
男は急激に感情を発露した。鳥肌が立ち、毛が逆立ち、涙が溢れ、声をあげた。
「あははははははっ」
なぜ笑ったのかも男にもわからなかった。ずっと感情を忘れていたのだ。残されていたのは嫌悪感と自棄だけで。
なにが希望というわけではない。なにができるとはわからない。ただ、帰ってきたという想いが男の体を震わせた。
見覚えのある大木の柱が見えた。それを抜けると、豪奢な橋渡が見えた。多くの機械仕掛けの人々が見えた。
男は奮い立つ。今こそ、舟を降りるのだと。人間に戻るのだと。
しかし、何度試みても舟との接着は離れなかった。どうしても男が舟から降りることを許さないつもりか?
男は諦めない。
「おーい、助けてくれ!おーい!」
あらん限りの声を出して助けを求めた。だが、機械仕掛けの人間は所詮意思を失っていた。誰一人として男に駆け寄る者はおろか、見向きもしなかった。
こうしてみると期待や喜びが、返ってより深い絶望を男に与え始めた。
――もう嫌だ、あんなのは。終わりにしたい、終わりに!
地獄よりも過酷だと今は思える。例え地獄にも、どんなに長くとも終わりはあるだろう。
意思ある永遠とは、時の牢獄に捕らわれたようなものか。
舟は流される。男の想いとは別に。橋渡を抜け、浅水瀬を抜け、江深淵を抜け、大蛇をやり過ごし、鬼王夜叉の矢を潜り抜け、人体ダムを越えて。
滝壺に落ちる。舟は沈まない。
男は力を失った。やはり駄目なのかと。
舟は静かに進む。見慣れ過ぎた景色が、男の絶望を誘う。
やがて聞こえる、幼い歌声。賽の河原。ここを抜けてしまえば、再び永久の世界。繰り返しも、結局は永遠の一部であったか。
「一つ積んでは……二つ積んでは……」
右手に賽の河原が現れた。変わらず幼子達が石を積み上げている。確か大鬼と呼ばれる大男達が、それを崩している。繰り返される時間。ここにも終わりはないのか。子供達に解放はないのか。
男は叫ぶのにも疲れ、呆然とその光景を眺めていた。うつろな光景。
と、ぼやけた光景の中で一際激しく動く者がある。それは子供ではなく、大男でもなく。気付いた男は、はっとして視点を動く者に合わせた。それは剃髪の美青年。
汚れた衣を翻し河原を走ってきた青年は、迷わず三途の川に足を踏み入れると、男の船に近付いて縁に手を付けた。
「あなたは、まだ死ぬべき人ではない。さぁ、ここから降りて!」
青年は彫りの深い顔に懸命の表情を浮かべて、通りの良い声で言った。
一瞬理解できずに唖然としていた男だが、青年の顔をまじまじと見ていてようやく覚醒した。初めて自分に気付いてくれた人間が目の前にいるのだ。歓喜が男を襲う。だが、一方では冷静な感情が働く。
「この舟から降りられないんだ!」
男は青年に訴えた。
それを聞いただけで青年は理解したのか、頷くと片手拝みに経を唱えだした。一体どんな経か男にはわからなかったが、効果は歴然と表れた。青年が横から舟を押すと、舟の進むコースが初めてずれたのである。徐々にだが左岸に近付き、僅かの間で完全に左岸に辿り着いた。
男は信じられぬ表情で青年を眺めていた。
青年は舟が左岸に着くと、一呼吸して笑った。
「さぁ、着きましたよ。これで大丈夫な筈です」
言われるまま、それでもこれまでの経緯のせいで半信半疑のまま、男は立ち上がってみた。立てる。足を舟から出してみた。出せる!男は勇んで飛び降りた。
ごつごつとした石の感触が足裏から冷たく伝わってくる。ついに男は河原に降り立った。人間の世界に戻ってきたという実感。
男は歓喜に打ち震え、そのまま泣き崩れてしまった。戻れた、やっと戻れたと。声を上げて泣く。
思えば、一度はこの大地を踏むのを恐れもした。人間存在の掟を知り、己の不徳から先を憂いて、人間であることから逃れることを願った。
けれど、結局は人間であることを捨て切れなかった。自分は人間であってそれ以外のものにはなれないと気付いた時、人間であることをまっとうするのを望んだのである。男は今、人間でいられる喜びを噛み締めていたのだ。
しばらくの間、男は泣き続けた。涙も許されぬ恐怖が、余りにも多過ぎたために。
青年は、ずっと見守っていた。
男が涙を手で拭って落ち着いた様子をみせた時、青年は静かに声をかけた。
「余程辛いことがあったようですね。しかし、あなたはまだこちらに来るには早過ぎるようです。さぁ、お戻りなさい」
男は静かに顔を上げた。青年と視線が合う。合った瞬間、男は心に熱いものを感じた。細められた青年の眼は慈愛に満ち、見詰められるだけで安らかな心地を得るようであった。
「俺は、生き返れるのか?」
「生き返れるというよりも、あなたはまだ亡くなっていませよ」
「人間に戻れるんだな?」
この問いには青年も少し困ったような表情を浮かべたが、
「はい」
涼やかに答えてくれた。
男はまた泣く。良かった、良かったと。
「ありがとう、あなたが助けてくれなかったら」
「いえ、それが私の役目ですから」
「あなたは、一体?」
「私ですか?いち修行者です」
青年はそれ以上語ろうとしなかった。けれど、その立ち居姿だけで男には尊い人物のように思えた。本人が語らないのであれば追求はしない。その代わり、青年の姿を深く心に刻んだ。
「さぁ、そこに現世へと戻る道があります。お行きなさい」
青年の言う通りその岩壁には裂け目があり、暗い口を開いていた。
「ありがとうございます」
男は深々と頭を下げ、ゆっくりと現世への道を辿り始めた。足取りは決して軽くはなかったが、河原の上を運ぶその一歩一歩が、新たな旅立ちの希望や決意に見て取れた。
裂け目に近付いた時、男は突然立ち止まった。青年を振り返える。
「あの……」
「はい?」
「あの……俺は正直、ここまでどんな人生を送ってきたか覚えていないけど、もし罪を犯していたら、地獄に行くのかな?」
青年は少し黙っていた。男の様子を伺う。伺いつつ、慎重に言葉を奏でた。
「人は、死ねば必ず一度は地獄を通ります。その時に、罪の重さによって罰が決まるのです」
「なら、もし罪を犯していたとして、これからの人生で償うことはできるの?」
男は固唾をのんで青年の答えを待った。人間に戻るにおいての唯一の懸案である。これによって、今後の生きていく上での覚悟が決まる。
男の顔が強張る。
青年は――反対に軽く微笑んだ。
「もちろんです。徳を積みなさい」
青年の言葉に、男は再び救われた。表情を和らげ、笑みを浮かべる。
「本当ですか?」
「はい」
「ありがとう」
改めて男は頭を下げた。そして顔を上げた時、そこから眺められる景色に視線を注いだ。嫌な空の色だ。嫌な岩の姿だ。嫌な川の流れだ。男にとっては、どれもこれもが嫌な記憶の連想に繋がる。けれども、今度本当に死んでここにきた時に、男は胸を張って橋渡を渡ることができるだろう。この経験を記憶に留めている限り。
――己が人間であることを受け止め。
男は一度大きく深呼吸して、残りの人生を送るために裂け目へと去っていった。
残された青年は、いつまでも男を見送っていた。
やがて空を見上げ呟く。
「誠実に生きなさい。それが一番です」
青年は、再び賽の河原へと戻っていった。
舟も消えていた。




