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塩桃奇譚《えんとうきたん》

作者: ヤギ次郎



丘の上に屋敷が見える。



木造りの塀に囲まれ中は伺い知ることはできないが、その敷地の広さが家主の裕福さを物語っている。



そこにはひとりの老人が、何人かの召使いを雇い、隠居生活をしているとのことだが、その老人の姿を見た者は、村では殆ど居なかった。




高貴な血を引いた末裔なのだとか、莫大な遺産を引き継いだ豪農の出であるとか、幾つかの話題には上ったことがあるものの、結局のところ最たる確証がないために、憶測の域を出ることはなかった。








私は、その丘のふもとで畑を耕し生計を立てていた。牛を引き、泥にまみれ、陽のある限り肉体を振るっていた。毎日の労働に、体は常に塩を欲していた。疲労には塩分がよく効く。



だが、山に囲まれた寂れたこの村では塩は大変貴重なものだった。





ある日のこと、昼飯にしようと、麦の握り飯と、竹筒に入った水を抱え土手に腰を降ろすと通り掛かりの二人の父娘らしき者らが私に声をかけてきた。



「すみませんが、かわやを貸して頂けませぬか?」

男が言った。



私はその男女をまじまじと見た。この村の者ではなかった。揃ってそれなりに小綺麗な格好をしており、男の顔は年齢の割に艶がよかった。


また、女はまだ若く、桜色の着物をまとっていた。この二人は、きっと旅の行商人親子なのだろう、と私は推測した。



「厠なら、うちの横にある。遠慮しないで使うがいい」


私は、厠の方を指差した。男は、ありがたい、と言い娘に「お前はここで待っておれ」と、ややきつい口調で放つと厠へと急いで行った。



残された娘は、荷物の入った風呂敷を抱え、その場に立ち尽くしている。私としては、これから飯を食おうとしているのに、目の前でただ立たれていては落ち着いて麦も喉に通らない。



私は、娘を座らせ男を待つように促した。娘は、少し戸惑った様子を見せていたが、うなずいて、私の隣りに腰を降ろした。




その時、不思議なことが起こった。




娘から甘い桃の香りが漂ってきたのだ。私はもう一度娘を見た。


綺麗な顔立ちをしているが、痩せていて、肌が病的に白かった。そしてどこか寂しげな目元をしていた。

桃の香りは何かの気のせいかと思い、気づかれぬよう、もう一度鼻に意識を集中した。



間違いない。桃の香りは確かにこの娘から漂ってくる。この娘の体臭が桃そのものなのだ。



私の思考は一瞬、宙に浮いた。

だが、咳払いをし、「これからどこに行くのだ」と尋ねた。



娘は丘の上の屋敷を指した。「あそこで新しい御主人のもと働きます……」



「わいは、あそこの屋敷については良くしらんが、あそこで働けるならきっと食いぶちには困らんだろう。きっと塩だって舐め放題だな」


「塩?」


「ほうじゃ。塩は高値じゃ。わいらみたいな貧乏人には正月にしかありつけん代物じゃ。まったく羨ましい限りだ」

私は笑った。



桃の香りのする娘は、口元だけ笑をつくり「本当に……」と頷いた。そして髪をかきあげた。甘い香りがより私の鼻孔を刺激する。





男はまだ厠から戻らない。娘は、私の手元の握り飯を見やる。


私は、なんだ腹が減っているのか? と言った。女は恥ずかしそうに頷く。


「ほれ、食え」


私は握り飯を渡した。女は珍しそうにまじまじと見つめ、それから一口食べた。


次の瞬間、女は麦飯をもどしてしまった。激しく咳込みながら私に「すみませぬ。初めて口にしたものですから」と、詫びた。



「いやいや、わいこそ麦飯なんかを食わせて申し訳ない。きっとそなたなら普段は握り飯と言えば米なのであろう? それにこの麦飯には塩もまぶしていない。さっきも言ったが塩は高級品でな。あ、いや、こちらこそ誠にすまなかった」



私がそう言うと娘は、目元を潤ませ、「米も食うたことがございません」と答えた。


「それでは何をーー」と言いかけた時、厠から戻った男が血相をかえて走って来た。



「貴様、この娘に何を食わした!」



男は私を突き飛ばし、娘の元に駆け寄った。「吐いたか? 全部吐き出したか?」


娘が頷くと男は風呂敷から実りの良い桃を3個取り出し「食え! 今すぐ食え! 不物を浄化させるのだ」と言った。



娘は、それまでのしおらしさの佇まいが一変し、一心不乱になって桃を食らった。涎を垂らし、目を血走らせ、その様はまるで獣のようだった。



私は呆気に取られ、その姿を釘付けになって見ていた。男が「ほうじゃ、食え! もっと食うのじゃ!」と、背中をさすっていた。桃の香りが一層強くなっていくような気がした。






桃を食い終えると、娘は、また淑やかな姿に戻り、私に「端ぬ姿を見せ申し訳ありません」と言った。



男は、ふん、と鼻を鳴らす。娘が男に「主様、この方に厠を借りたお礼を」と言った。


男は「厠を借りたくらいで何をやればよいのだ」と乱暴な口調で答える。



「塩、なんかは如何でしょう? これから私もこの村に御世話になる身。主様、私からの一生のお願いでございます」


男は少し考えてから風呂敷の中から小さな袋を取り出し、私に放り投げた。袋の中には、真っ白な塩が入っている。



「それではご迷惑をおかけしました」


立ち去ろうとする娘に、私は「なぜ、ここまで親切にしてくれるんだ?」と呼び止めた。



娘は、振り向き笑みで答える。


「だって麦なるものを馳走してくれたではないですか。あいにく味わうことは出来ませんでしたが、初めての体験でうれしゅうございました」


それは偽りのない笑顔なのだと感じることができた。



娘が遠ざかると、甘い桃の香りが消えていく。それが私の心をぎゅっと痛みつける。



そろそろ畑に戻らなければならない。陽は西に傾きはじめている。だけども足が動かない。






私は袋を握り締めたまま、丘を登る二つの影を屋敷の中に消えて行くまでじっと見つめていた。











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