夏の面影
最後の花火が散った。帰り支度をする人の疲れが見え隠れする感嘆の中で、僕は一人だけ取り残されていた。
明日、またこの山間の町を離れる。
少年期に過ごしたこの田舎には、さして思い入れがあるとは思わない。故郷を捨てて上京を決めたとき、厳格な父は
「どこへでも行け。だが、お前が家を捨てたことは忘れるな。」
と怒鳴るでもなく優しく言った。それ以来、僕には帰る家がなくなった。成人してからも遠い父の言葉が脳裏を過ぎり、家どころかこの町にすら近寄れなかった。
その父が死んだ。
気丈な母は父の遺言通り、僕には知らせず一人で葬儀を取り仕切ったそうだ。全てが終わってから僕に電話をかけてきた。
「四十九日にはお父さんの遺言もきっと無効になるわ。あの人、結局最後には私の意見を受け入れてくれるんですもの。だから、帰ってきなさいね。私が入るお墓、あなたが分かっていてくれないと大変だもの。」
それでも父の言葉は僕を縛り付けたままで、実家から少し離れた所に宿を取った。僕の中の父は、死んでも大きいままだった。
申し訳程度に参列した四十九日の法要も、既に一週間前のことだ。それでもなお僕はこの田舎に居座っている。
何年ぶりか分からないこの町は、僕の青春を過ごした町とは違うものとなっていた。見慣れないアパートが増え、優しいおばあさんがいつも店番をしていた駄菓子やはコンビニになっていた。数少ない変わらないものは、町の後方にある山くらい。すっかり古ぼけた母校。懐かしい雰囲気を感じながらも、校舎から出てくる生徒達に、時間の流れを見せつけられた。
あの頃から、この町の夏は短かった。
毎年恒例の花火大会が終わると、すぐそこまで来ている秋の存在に切なくなった。あの頃秋の近付く切なさを分かち合えた人は、たった一人。後にも先にも唯一の人だった。思い返すと彼女は、この町の短い夏のような人だった。
「おじさん、これ落としてない?」
少女の手には僕の宿の鍵が握られていた。
「あぁ、僕のだ。ありがとう。」
少女の手から鍵を受け取ると、屈託のない笑みを浮かべた少女は僕の隣に腰を下ろす。
「お嬢さんは一人?祭りは終わったよ。帰らないの?」
「まだいいの。屋台だって、すぐには片付かないわ。おじさんは一人?ここの人じゃないよね。」
「一人で旅行に来たんだよ。」
「楽しいの?」
決して責めている口調ではなかった。何も後ろめたいことはないはずなのに、少女の真っ直ぐな瞳を見ることができなかった。
「おじさん淋しそうだよ。楽しくないの?」
「そうかな。そんなことないよ。」
少女はつまらなさそうに立ち上がる。
「おじさん、いつまでいるの?観光案内してあげるよ。」
「明日には帰ろうかと思っているんだ。だから残念だけど。」
諦めてくれることを期待し、苦笑を浮かべる。僕は夏の終わりの切なさに押し潰されそうだった。
「じゃあ、今から行こうよ。」
「もう夜も遅いし、親御さんが心配するよ。」
「いいの!」
屈託のない真っ直ぐな瞳に、たくさん用意していたはずの暇乞いは全て逃げ去ってしまった。
軽やかな少女とは裏腹に、限界を訴える自分の体。かつて部活のウォーミングアップで走った坂道の傾斜に、今更気付いた。
息を切らして後を追う僕を、少女は山の中腹で待っていた。
「おじさん、早く!」
「もう若くないんだよ。」
「ほら、見て」
少女が指を指した先に広がっていたのは、ただの夜空だった。満点の夜空だった。
「ここはあたしのお気に入りなの。まだ誰にも教えてないのよ。」
呆然と立ち尽くす僕は、懐かしさに涙が溢れた。そうだ、ここは彼女が教えてくれた場所だ。
「自分でここを見つけたのかい?」
「ううん。教えてもらったの。」
ふと過ぎるのは、あの人の顔。
「誰に?」
「ひみつ。教えちゃ駄目って言われているから、本当はおじさん連れて来ちゃ駄目だったのよ。」
いたずらっ子のような笑顔に、僕は彼女の面影を重ねた。また涙が零れかけた。
夜空もあの頃と何も変わっていなかった。星座なんて知らない。星の名前も分からない。それなのにただ眺めていた。僕もあの頃と何も変わっていないのかもしれない。
風が冷たくなってきた。暗くて腕時計が確認できないが、携帯電話を開くのは野暮に思えた。この瞬間はかつてそうだったように、僕と少女だけのものにしたかった。
「お嬢さん、帰ろうか」
素直に頷いた辺り、少女は疲れていたのかもしれない。
帰り支度を終え、宿を出た。もう来ることはないだろう。すでに町は秋の空気を孕んでいた。この町で得たものは、昨日の余韻の筋肉痛だけだった。
人気のない駅で電車を待つ。日常へ帰る電車だ。
ふと肩を叩かれ振り返ると、昨日の少女がいた。
「やぁ、見送りに来てくれたの?」
「違うわ。偶然見かけたから声をかけただけよ。今日帰るの?」
「あぁ、帰るよ。僕にこの町は合わないみたいだからね。」
「また来るの?」
その声に淋しさは感じられなかった。
「いや、もう来ないと思うよ。きっと来ない。」
「そうなの。おじさんとはもっと仲良くしたかったのにな。」
「たった二日の付き合いだったのに」
思わず吹き出すと,少女は誇らしげに笑みを浮かべる。
「あたし、分かるの。おじさんとは気が合うと思うわ。でも、もう来ないなら仕方ないよね。」
やはり、少女の声に淋しさは感じられなかった。
電車の到着を告げるアナウンスが、人気のない駅舎に反響する。僕は荷物を肩に掛け、少女の頭を撫でる。
「笑ってよ。お嬢さんの笑顔は僕の初恋の人に似ているんだ。元気でね。」
屈託のない笑顔は、短い夏のようだった。
電車のドアが閉まる。少女はすでに去ってしまい、僕を見送る人はいない。
電車が動き出す。町を離れるに従って、車窓からの景色が夏に戻っていく。
短い夏を恋しく思った。