*高柳早苗 *
家庭の事情を書いてます。
出来るだけさらっと書いたつもりですが、人によっては嫌悪感があるかもしれません。
カラ、と静かに教室の扉を引く。
誰もいない美術室。
夏休みの間は、美術部は基本自由になる。学校で描く子もいれば、家で描く子もいる。
校庭とかでスケッチしている子も居るのかな?
夏の美術室は暑いし、絵の具の匂いがムッとするから、美術部員もあんまり長居はしない。
その分静かで集中出来るからいいんだけど。
窓を少し開けて、椅子を持ってくる。
この夏が最後の一枚になると思うから、いつもよりも一回り大きな水彩紙に描こうと、お母さんに無理を言った。
水彩絵の具、筆、水。
水彩紙が大きいからイーゼルと紙を留めておく板を引っ張り出して、準備完了。
「……よし」
静かな教室に、私の声だけ落ちた。
窓からはセミの声しか聴こえなかった。
鉛筆での下書きはしなかった。
記憶にある、たった一度だけ見た光景を、真っ白な紙に写し出す。
まだ、私がちっちゃい頃に見た、朝焼けの空。
真っ暗だった世界が、薄くなっていき、雲一つない空が、波のあまりない海が、一面紫になった瞬間。
それは数秒もしないうちに赤く染まり、水平線から太陽が現れた。
私の背後はまだ夜なのに、目の前は光に包まれていた。
夢中になって筆を走らせる。
暗闇から紫、赤から黄色へのグラデーション。
細波の海に、半分顔を出した太陽による光の路。
海岸に、三人のシルエット。
私とお母さんと…お父さん。
「っ、」
パレットに新しい絵の具を出す。
水でろくに溶きもせずに、たった今描いた絵の上からベタリと塗る。
「…っ、ふ、…ぅぐっ、…」
信じて疑わなかった。
家族なのだと。
離れて暮らしていたのは、単身赴任だから。あまり会えないのは、仕事が忙しいから。
私は、お母さんとお父さんの子供なのだと、私達は家族なのだと。疑ったことなんかなかった。
……全部、全部まやかしだった。
離れて暮らしていたのは、家族じゃなかったから。あまり会えないのは、後ろ暗い関係だったから。
私達は、家族でも何でもなかった。
お父さんは、お父さんじゃなかった。
単身赴任だと言って、うちに来ていた。
仕事だから、と私と遊んでいた。
お父さんには……、家庭があった。
きちんとした一軒家に、お母さんより若い奥さんと、私より歳が下の男の子と女の子の兄妹、飼い犬も。
あの日、お母さんが全てを打ち明けてくれた日。泣きながら、それでも私のために一つ一つ丁寧に、嘘いつわりなく語ったお母さんは、私の方が辛くなるほど静かな声だった。
お父さんは、`お父さん´ではなくなった。
`あの人´は二度とうちには来ない。
愛情をくれていると思っていた。可愛がってくれていると思っていた。子供だと、親だと思っていたのに。
`あの人´はお母さんを、私を騙していた。
お母さんは、`あの人´に家族がいることを知っていた。でも、信じていた。
私達を選んでくれると、いつも笑って言っていたのだと、悲しそうに言うお母さんは、疲れきっていた。
「ふっ…ぐ、んぅ…は、ぁ…」
視界が歪むけれど、よく見えないけど、ベタベタと筆を紙に押し付ける。
嗚咽が止まらないけれど、声に出して泣くなんてしない。
太陽も海も、海岸も。真っ黒に塗り潰す。
人のシルエットも、塗り潰した。
「……早苗ちゃん?」
カラ、と小さな音を立てながら、美術室に誰か入ってきた。
戸惑ったような声で私を呼ぶ、光希君。
「……光希君。どうしたの」
「………」
声だけに反応して、口角が少し上がる。
歪んだ視界には、光希君が映らない。表情が判らない。
けど、真っ直ぐ私の元に来たから、至近距離なら表情は判る。
「光希君が、そんな顔、することない、よ…」
「…早苗ちゃん……」
ふいに、視界が塞がった。
ぼろぼろ零れる涙が、光希君のシャツに吸われていく。
体に回る、お母さんよりも太くてしっかりした腕。私よりも高い体温が心地好い。
いつの間にか、光希君に優しく抱き締められていた。




