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デュアルライフ ~迷い活きる死者、惑い屍ぬる生者~

作者: 多里弥翔馬

プロローグ 希望の終焉



  ―遠く…サイレンの音が聞こえる―


 いや、実際には近い。数メートルも離れていない場所に救急車は止まっている。

 

 しかし、少年には響かない。

 

  少し早い時期に到来した梅雨の激しい雨音も……

  怖かった、と親に抱きつく同級生の泣き声も……

  わらわらと集まってきた野次馬のざわめきも……

 

 彼の意識は目の前にある笑顔に注がれている。

 久方ぶりに見る幼馴染の笑顔だった。

 彼はその笑顔を掻き抱こうと手を伸ばす。

 

  だが――手は空を切る。

 

 なぜならそれは、彼の網膜に焼付いた、残像なのだから……。


 

 それから半年……

 少年はうなされる、毎夜……毎夜……

 同じ夢を見る。


 隣にいる少女の笑顔が、無残にもトラックに跳ね飛ばされるシーン。

 救急車の赤いライトよりも紅い血に染まる自分の両手。

 周りには聞こえない、自分の心の叫び声。


 いずれも少年の世界を閉ざすには十分な要素を含んでいた。

 彼は沈んでいく。無自覚に、無気力に……

 底辺などない、底なし沼へ……


 

 救われたのは、冬も終わりかという季節…

 救ったのは、幼馴染と同じ笑顔、すなわち、彼女の妹の笑顔。


 救われた少年は気付く……

 底なしの理由を。沈んでいく沼の行先は、別世界であった、と……






第一章 そして始まりの刻は



「ふあぁぁ~~……」

 盛大にあくびをしながらも、握ったゲームコントローラは離さない。かといって、そんなに切羽詰ったアクションではなく、RPGであるため、戦闘に入りさえすれば、あとはオートで敵キャラと闘ってくれる。とはいえ、「ガンガン行こう」や「回復魔法」などの指示は出さねばならないので、気は抜けない場面もある。今はちょうどリザルト画面が表示されていて、ゲットした経験値やお金、アイテムの確認をおこなっていたところだ。

 買い続けているシリーズもので、初のオンライン化したことで話題になったゲームだった。だが、そんなものは無視して、俺はオフラインのみでダンジョンに潜っていた。一人でもストーリーは進められるし、やりこみ要素も満載だ。だが最大の理由は、俺は人付き合いというものが、大の苦手であるからだ。それには過去の出来事が関係しているのだが……。

 そうこうしているうちに、セーブポイントにたどり着き、メニューからセーブを選択し、タイトル画面に戻ってから本体の電源を落とす。慎重、悪く言えば臆病な俺は、セーブ画面で電源を落とすのを好まない。なんかしらミスってセーブが消えてしまった、などという事態に陥れば、今までの時間・労苦が泡のように消えてしまうので、どうしたって慎重にならざるをえまい。ゲーム好きな諸君なら分かってくれると勝手に思っています。

「んん~~」

 ひとつ大きめの伸びをして、壁に掛けてある時計を確認する。……もう夜中の一時を回りかけていた。あっ、明日の二時間目、英語の小テストだっけ……

「まぁ大丈夫だろ。範囲はわかっているし、単語と文法さえ一時間目に見直しておけば……」

「一時間目は斉藤先生の現国じゃなかったっけ?」

 不意に、声がしてそちらに目を向ける。半分開いた窓から上半身だけを乗り出して、こちらを見上げる形で佇むひとりの少女がいた。

「怜か。お前またそんなところに……」

「大丈夫よ。落ちはしないわ」

「それはわかってるよ。もともと浮いてるんだからな。俺が言いたいのはそういうことじゃなくて、ついさっきまで部屋の中にちゃんといたじゃねぇか。わざわざ窓の外に……」

「う~ん、なんとなくだけど、隣の家の幼馴染ってこんな感じでお話するのかなぁって」

「いや、隣、つっても、家の間はあいてるだろ。お互い窓越しならわかるが、相手の部屋までは来ないんじゃね?」

 もし完全に一体化していたら、不法侵入し放題だ。主に俺が。

「なによ、幼馴染の美少女が自分の部屋に遊びに来てんのよ? なんかこう……興奮、とか? しないわけ?」

「自分で疑問形つけるような問いをするんじゃない! あと自分で美少女言うな」

 まぁ普通に怜が近くにいることに関しては、嬉しいのだが。直接言ったりはしないけど。

「もう……素直じゃないなぁ……」

 ウッ! バレテル!?

「そんな細かいとこ気にするから、シュンちゃんには彼女ができないのよ……」

「うっ、うるさい! それは俺の気持ちの問題だ!」

 はぁぁ……、と怜が思いっきり脱力する。なんで嘆息をもらしてんだ、こいつは?

「で、話戻すけど、斉藤先生の時間に他教科の勉強ができると思って? 以前泣き言を言っていたのは誰でしたっけ?」

「ああ! そうだった……。忘れてた……」

 現国の斉藤先生、別名“タカの目の斉藤”と呼ばれ、そのするどい眼光ですくみ上る生徒は少なくない。ただ真偽は定かでないが、目が悪いのによく眼鏡を忘れ、注視しようとして目が細められているだけ、らしい。確かに、週一の確率で眼鏡をかけている姿を見かける。しかし、勘がするどいのは本当のようで、授業中の早弁・他教科のテストの予習、素行の悪い生徒のたばこ・悪事など、隠れているものを見つけ出すのは得意のようだった。

「あぁ……、休み時間になんとかするしかないか」

「あと、私との決まり事もお忘れなく」

「決まり事? あっ……」

 ばっと、壁掛け時計を再び見る。先ほどはまだ十分ほど余裕があったものが、すでに三分を切っている。

 怜との決まり事とは、午前一時までに床に就かないと次の日の朝は起こさない、というものだ。寝起きが悪い俺にとっては大問題、主に学校での遅刻、内申点に響くのが痛い。進学校に通いながらも成績は悪くはないとはいえ、好んで悪評価をいただきたくはないものだ。

「やばい……。でもまだ歯も磨いてないし……頼む! 五分だけ時間をくれ!」

 頭を床に擦りつけての嘆願。いわゆる土下座というやつだ。

 世間一般では、土下座は格好悪い、とよくいわれるが、俺はそうは思わない。挨拶や謝罪の腰の角度が決まっていることを考えたら、挨拶は三十度、深い謝罪は九十度、そして土下座は百八十度にも及ぶ。要するに、土下座とは最大の謝辞・懇願を態度に表したものであり、お金ではない誠意の表れではなかろうか。なにより、土下座は格好悪いから、という理由で謝らず、無駄に争いを起こされるのはたまったものではないし。

「そうやっていつもいつも頼むけどさ……ちゃんと五分で終わらせたことなんて……あれ? 毎回ちゃんと終わってる?」

「そうそう、ちゃんとしてるよ、俺は」

「延長を頼む時点で、ちゃんと、とは言えないけどね。いいわ、じゃ五分だけね」

「よし、すぐに終わらせる!」

 と、先を急ぎながらも律儀に敵と闘って剣を振りかざす勇者さんのようなセリフを吐き、洗面所に向かう。歯ブラシに歯磨き粉をつけ、口に含み、何げなく鏡の自分を見る。

 数ヶ月、生気のなかった頃からすれば大分マシになったと思う。ボサボサの髪は父親譲りだが、締まらない眼は事故の時の影響か。だが怜も、そして彼女の妹も優しそうだと表現した。『何も害がなさそうで』とは怜が付け加えた評価だが、喜んでいいものやら。

 そう昔を思い出しながらも、口の中を濯ぎ、歯ブラシを戻し、自室に帰る。そして床に就く。この間、ピッタシ五分。カンペキ。

「自慢しないでよ、これくらいで」

「まぁまぁ、大切なのは五分で終わらせたことじゃなく、有言実行した、ってとこだろ?」

「はぁ……ワタシも甘いのかな……」

 ぼやきながらもちゃんと五分待ってくれている(美?)少女・杜野怜は本当に優しいやつだと思う。俺の自慢の幼馴染であり、それ以上の関係になりたい、と望む女性だ。

「それじゃ、おやすみ。朝はよろしくな」

「しょうがないわね。わかったわ、起こしてあげる。おやすみなさい」

 そういうと彼女の気配は、隣の自分の家に消えていった。消える直前にこんな言葉を残しながら。

「よく考えてみれば、高校生が日を跨ぐまで起きてるって不自然よね。決まり事、もっと早くに寝かそうかしら……」

 自分の、自由にしたい一時間が削られそうになっていることに、少々焦りを覚えた高校二年四月末の夜だった。



 翌朝、怜にきっかり七時に起こされた俺は、寝ぼけ眼をこすりながら、一階の店内カウンターに腰掛けた。

 俺の両親は自宅で喫茶店を経営している。カウンターとテーブルを合わせても二十人座れない程度の小さい店ながら、住宅街の中にある立地と、両親の人柄の良さが相まって、それなりに常連客も多い。名前を「参虎之麗」。元ネタは中国の故事の発音だそうだが、意味は「虎も思わず入ってしまうような麗しさ」だとか。それが店の内装なのか、それとも母親本人のことなのかは定かではない(恐くて訊けない)。

 ここで紹介しておくと、父の名前が天聡颯太、母が悠華。父はボサボサの髪と無精ひげで一見すると身だしなみがなってないと言われそうだが、本人はそのスタイルを貫いている。なんたって髪もひげもわざわざセットしているのだから。母は、店のコンセプトである麗しさを体現している人だ。恐くて訊けないのもあるが、訊くまでもなく贔屓目に見ても同年代の女性よりは数段若く見える。母目当ての客も多いらしく、父は不満らしいがお客様だから、と我慢しているようだ。

 父と母も幼馴染なのだそうだ。お店での役割としては、父が店自体の経営と注文の飲み物系、母がその他料理全般を担っていて、ウェイトレスとして常連客の娘(大学生)を二人、バイトで雇っている。俺も小遣いが欲しいときなどに、時々ウェイターとして手伝っている。一応校則ではバイト禁止なのだが、家の手伝いは入るのだろうか……

「おはようございます、俊輔さん」

 無駄に退学などの心配をしている時に、クローズの札が掛かっているはずの店の扉を開けて、一人の少女が入ってきた。本日第一号のお客さん、ではなく、隣の家、杜野家の次女・杜野燐、怜の妹である。腰まで届きそうな黒髪は後で母さんに結ってもらうそうだが今はストレート、それにも負けずに主張する大きな目は小動物を連想させる。小さいころから変わらないその容姿は、自分の妹かのように可愛がってきた。成長しない身体のある部分に本人は辟易しているようだが。

「おはよう、今日も早いな、燐」

「俊輔さんこそ、昨日は夜遅くまで部屋の電気が付いていたのに、もう起きていたんですね。ちゃんと睡眠取れてますか?」

「高校二年が受験生に睡眠の心配をされるとは、な……」

 燐は俺たちの二つ下。つまり、現在中学三年生。受験勉強の真っ最中であるはずだ。俺が寝たのが午前一時。それを見ていたということは、燐はもっと遅い時間まで起きていた、ということになる。

「わたしは大丈夫ですよ。だって俊輔さんでも行けた高校ですから」

「……それはどういう意味かな? 燐」

「そういう意味でしょ? シュンスケ」

 うるせっ、と傍に浮かぶ怜を睨みつける。そんな即興コントを誰も見えていない状況でやっていると、カウンターの俺の隣の席に、ちょこんと座った小柄な少女は笑みを浮かべて答えた。

「俊輔さんと同じ学校に行きたいな、という、意味で、す……」

 言っている意味を途中から理解した燐のセリフは、最後に尻すぼみになり、恥ずかしそうに俯いた顔は少し赤らめて見えた。

 なんだ! そのかわいいセリフ! こっちまで小動物を愛でるような微笑みが出ちまうだろうが!

「相変わらず仲がいいわね」

 そんなやりとりをしていると、店の奥から朝食を盛り付けた皿を二つ持って女性が現れた。何を隠そう(何も隠す気はない)この人が俺の母親、天聡悠華である。

 実は、母にはファンクラブがついている。もちろん全国区に広がっているわけではなく、近所で寄り集まった小規模なものだが、ちゃんとした会則もあり、本人も渋々(とは言っていたがテンションは高いように見える)了承しているものだ。

 経緯としては、母目当ての客増加→父が追い出す→客足が遠のく→評判復活→追っ払う→復活……という流れが三回繰り返されたそうだ。お客の方も近づけないことに困ったので、ファンクラブ設立を提案した。その会則第一条が『母、ひいては店に迷惑をかけないこと。熱狂的ファンとして、熱狂的だからこそ、本人には礼儀正しく』というもので、これには父も、父こそ渋々了承せざるをえなかった。なにより母が楽しそうだったから。

 ゆえに、まったりとした客ばかりが来るようになったわけだ。

「おはよう、母さん」

「おはようございます、悠華さん」

「はい、おはようございます。これが今日の朝食ね」

 俺たちはそれぞれで礼を言うと、トースターで焼いたばかりのパンに食らいつく。なぜ隣の家の燐が、俺の家で朝食を食べているのかというと、杜野家の両親は共働きだからだ。母親の朋花さんがキャリアウーマンという感じで家計を担い、父親の憲太郎さんがその秘書として働いている、という関係のまま結婚したそうだが、怜と燐が生まれてからは憲太郎さんが専業主夫として家事をしていた。だがそれも、燐の小学校卒業を待たずに崩れてしまう。……まぁなんというか、俺の提案が通ったからだが。「飯くらい俺んちで食べれば?」と。主夫をしていた憲太郎さんが仕事に戻りたがっていたのを、鋭敏に察知した俺の提案だったが、自分の母の苦労を一つ増やしたことに、当時の俺はまったく気付いていなかった。こんの……親不孝者が?と後々になって自分で自分を叱っていたが、思い返せば、母さんも嬉々として受け入れていた気がする。まぁ小さいころからともに育ってきた俺たちだから、子供が増えた感じになっていたのかもしれない。

 そういえば一つ、いまだに腑に落ちないことが。俺がその提案をしたとき、燐は「一緒に朝ごはん……その……新婚さん……みたいですね……」ともじもじしながら提案を受け入れ、それを見た俺は何も気付かないまま「(トイレ行きたいのかな?)」などと無粋なことを考え、さらに二人を囲み暖かい目で見守る四人の親、という構図があった。今でもあの雰囲気を思い出すと、俺が罪悪感を抱くのはなぜだろうな。



 朝食を食べ終わった俺が一度自室に戻って学校の用意を持ってくると、燐はカウンターで母さんに髪をポニーテールにまとめ上げてもらっていた。それが終わると店を出る。

「「いってきます」」

「いってらっしゃい。気をつけてね」

 母さんに出かけの挨拶をし、俺たちは中学・高校へ歩き出す。といっても、敷地は違えど隣同士なので、行先は同じだ。


 俺たちが住む「黄沙市」は発展途上ながらも、人口は七十万を超え、大型都市となんら遜色ない、今もっとも注目されている中堅都市として知られている。その形は少し特殊で、いびつな円を二本の河川で四つに分割し、それぞれの地域の土地柄を活かした発展を遂げている。

 例えば北は、三方を山川に囲まれており、なだらかな扇状地と豊富な水で農業が発展し。

 南は同じく、豊富な水と海に接している点で工業が栄え。

 西は特別に、地盤が強固だとの理由で住宅街が一面に広がり。

 東に至って、昔から関所があり人が集まる場所であったため繁華街として昼の人口過密度が大型都市をも上回る時がある。

 そんな黄沙市に生まれた子供たちが最初に教えられることは、祀られている四種の動物、竜・虎・鳳・亀の像に挨拶をすることだった。すなわち、中国の風水思想に則った土地の編成をしているから、だそうだが、いまいちピンとこない。伝承であり、俺たちの生活を見守ってくれている存在なのだろうと勝手に思っているが。それは両親も同じだったようで、子供の頃は適当にやっていたそうだ。ということは、今は違うのか、と聞いてみたことはあれど、そのうちにわかる、とはぐらかされた。高校生になってもいまだわからないままだ。


「そういえば、スポ選に選ばれたんだってな」

 通学路をともに歩く道すがら、思い出したように燐に確かめてみる。すると彼女は少し驚いた風にこちらを見た。

「その話、なんで知ってるんですか?」

「え? なんでって……、怜に聞いたんだけど」

「もう、お姉ちゃんたら……。いつも一言余計なんだから……」

 燐は拗ねたように、唇を尖らせる。

 スポ選、正式名称スポーツ選抜。全国から選りすぐりの中学生・高校生が一堂に会し、自らの持てる力を競い合い、トップを目指す、中高生にとって一年に一度、最大のイベントである。それと対を成すように、文化選抜というのもあり、種目はさまざま。スポーツでは定番のサッカー・野球など、文化系は文学からパソコン、少し特殊とも思える部活までいろいろだ。条件は既定以上の競技者がいること、のみ。もし希少な部活動が存在しても、全国でも百人に満たない競技人口なら、さすがに選抜も何もない。選定基準は、選抜以外での公式記録に基づいており、地方大会で優勝したものや、学校対抗の成績なども含まれる。燐は小学校から続けているテニスで選ばれていた。

「まぁ、怜も悪気はないって。自分のことみたいに喜んでたんだから、許してやってよ」

「それは……わかってるんですけど……」

 これは……やはりいつものパターンかな?

「コホンッ……え~と、何か俺に伝えたいことがあるのかな? まだ燐からは何も聞いてないけど」

 途端に彼女は、ぱぁっと顔を輝かせて片手を挙げ選手宣誓のような姿勢をとった。

「はい! わたし、杜野燐は、今年のスポーツ選抜に選ばれました!」

 ……か、かわいい! いやぁ、この小動物みたいなかわいさは癒されるよな~……。……はっ、つい意識がほわわ~ってなっていた!

「そうか、よく頑張ったな」

 そう言うと、俺は燐の頭に右手をポンと乗せた。と、彼女は何やら赤くなりながら顔を伏せ、「あわわわわ……」と慌てだした。

「あ、ありがとう……ございましゅ……」

 ん? なんか熱いな、顔も赤いし。もしかして……

「熱でもあるのか?」

 一瞬ポカンという表情を見せた燐は、なぜかプイッとソッポを向いてそのまま歩き出してしまった。

「???」

 訳が分からない俺は、首をかしげながら、燐の後を追いかけようと走りだした。

「ちょっと!」

「のわっ!」

 その時、いつの間にか後ろにいた怜に蹴られ、思わずつんのめってしまった。

「うちの妹、怒らさないでくれる? 一度不機嫌になると、二、三日塞ぎ込む性格なんだから」

「いや、そんなこと言ったって……」

 原因がわからない俺にはどうしようもない。

「はぁ……これだから乙女心がわからない男子は……」

 むっ、なんかバカにされたことはわかった。けど、俺が原因だと言うなら、あとで燐に謝っておくか。

 そうこうしているうちに、燐はどんどん先に行ってしまう。

「あいつ、一人で歩いていて、ナンパでもされたらどうすんだよ」

 こんな朝っぱらからナンパするやつなんて、いないだろうけど。

「あら、燐のこと心配してくれてるの?」

「そりゃそうだろ。だってあいつは……」

「あいつは?」

 俺はひと呼吸置き、自分の気持ちをストレートに口に出す。

「あんな可愛い小動物、ほっとけるわけねぇだろっ?」

 ピキッッ……

 あれ? 今なにか切れる音がしたな。靴ひも……は切れてないな……。

「どこ見てるのかしら? 今の音は靴ひもじゃなく……ワタシの堪忍袋の緒が切れる音よ??」

「ぎゃぁぁぁぁぁ~~~~………………」

 ……怜の容赦ない蹴り十連撃により、閑静なはずの住宅街に、早朝から断末魔が響き渡るのだった……。



 ふらふらしながら燐に追いつくと、「大丈夫ですか?」と心配された。心配していたのは俺のはずなのに……。格好悪いので、「やっぱ寝不足みたいだ」と誤魔化しておいたが、燐は時々するどいので、怜が原因だということは気付いているだろう。

 そんな微妙な空気のまま、燐とは中学校の前で別れ、高校校舎に向かう。

「よっ、俊輔」

「おーっす、暁生」

 昇降口に向かう途中、後ろから肩を叩かれ振り返ると、クラスメイトの立華暁生が鞄を右肩に担ぎながら近づいてきた。校則ギリギリに染めた茶髪(なぜか地毛と主張)と黙っていればイケメンな顔立ち、そして一七○センチという高校二年にしては長身が特徴の俺の親友だ。そんな彼は今……周りをキョロキョロ見回して……何しているんだ、こいつは?

「今日は、燐ちゃんいないのか?」

「いや、一緒に来たけど……。ていうか、あいつはまだ中学生だって、何回言えばわかるんだ?」

「はっは、恋愛に年齢は関係ない!」

「まぁ、二つ下くらいだったら普通だろうけど……。じゃなくて、こっちの校舎には来ねぇ、って言ってんじゃねぇか」

「なら、来年から楽しみだな、おい!」

「こ、こいつは………」

 呆れを通り越して、無視することにした。下駄箱で下履きに履き替え、先に教室に向かう。

 事の発端は、半年前に遡る。

 俺が高校一年、燐が中学二年の秋。一年間重なった中学時代から朝は一緒に通学しており、俺が高校に上がった後も方向は同じということで続けていた。そんなある日、燐が昇降口まで付いてきたことがあった。そこに、今日と同じように暁生が出くわし「誰?」と聞かれて、燐も俺も初めて間違いに気付いた。そういえばその日は周りから視線を受けていたな、と今更ながら思い出すのだが、拍車をかけたのは去り際の燐の捨て(?)台詞だった。「いえ、あの…少しでも長く俊輔さんとお話していたくて……す、すいません! し、失礼します!」と。パタパタと駆け去っていく燐の後ろ姿を見送りながら呆然と立ち尽くす俺の周りでは、可愛さに見惚れる男子と健気さに悶える女子で一時騒然となった。

 以来、完全非公認のファンクラブができた、との噂もある。

「中学生のファンクラブを高校生が作るってどうよ……」

「何言ってんだよ、会長!」

「……はぁ?」

 なんか聞こえたな……、幻聴か?

「……会長、って、誰のことだ?」

「…………………」

 急に黙りやがった、暁生のやつ。問い質さねばなるまい。

「おい、暁生。答えろ。お前は、お前たちはいったい何を隠している。会長とは誰のことだ?」

「お前だ、お前。天聡俊輔」

「……何の、会長?」

「燐ちゃんファンクラブの、だな」

「……初耳、なんだけど……」

「そりゃそうだ。なんたって非公認だからな。ちなみに俺は副会長な」

「自慢してんじゃねぇよ! ていうか、いつの間に? 噂は真だったのか」

 教室前で大声で喚いて、抗議する。何事かと集まりだす同級生、この中にも会員はいるのだろうか?

「燐ちゃんが来た日の昼休みくらいだったかなぁ。お前が食堂に飲み物買いに行っている時に、他のクラスのやつが聞きに来たんだよ」

「なんでお前に?」

「俺も一緒にいたから、知り合いなのか? って聞かれてな。それで『これだ』と思って……」

「なにが『これだ』なんだよ?」

「いやぁ、俊輔がテニスやめてから面白いことがなくてさ……。からかいがてら、面白いことやろうと。もちろん非公認だから、お前や燐ちゃんには内緒にしてな」

「まじかよ……全然知らなかった……じゃあ、なんで今言ったんだ?」

「え? あぁまぁ……時の、そう、時のイタズラによって、今言うべきだと……」

「なんだよ、時のイタズラって。流れ、だろ。完全に……」

 朝からげんなりする話を聞かされ、とぼとぼと歩を進める。教室の机にカバンを置くと、後ろに座る暁生に、興味本意でさらに問いかける。

「それで、今何人くらいいるんだ?」

 すると暁生は、教室の一角に設置してある個人ロッカーから、何十枚あるかという紙束を持ってきた。まさかあれは……

「これな、会員のリスト。一枚に二十人書けてそれが十五枚あるから、半端分合わせて…三百十二人、だ」

「三百……この高校の生徒数が五百近くいるから、六割以上は入ってんのか……。それだけ多くて、秩序とか、守れてるんだろうな?」

「全員のクラスと名前は書いてある。何かあればすぐに問い詰めることができるさ。それから、住所・年齢・性別・家族構成に至るまで……は書いてないけど」

「あっ、それはないんだ……」

「あたりまえだ。俺らだけで、個人情報保護法とか守れるかってんだ!」

「ファンクラブ作ってる時点で、十二分に犯してると思うのだが?」

「いやいや、俺は俊輔から聞いた情報しか、皆には言ってないよ。会長さんの働き以上なんて、俺らには無理だって」

「……まさか知らぬこととはいえ、犯罪に加担していたとは……会長の任まで全うしているのか……」

「大丈夫だって。この紙は誓約書の代わりにもなってんだから。皆ちゃんと同意の上で、名前もらってるし」

「熱狂的ファンとして、熱狂的であるがゆえに……ね」

「? なんだ、それは?」

「母さんのファンクラブのモットーだよ。その人を好きであるならば、迷惑かけるな、ってことだよ」

「お、おう。もちろんそのモットーだよ」

 しどろもどろする暁生に、嘆息する俺。

「お前は本当に流れに生きるやつだな。中二の時も、お前が好きな女の子とミックスダブルス組みたい、っつって俺とケンカしたんだろうが」

「そうだっけか? ま、まぁ細かいことは気にすんな」

 そんな俺たちのやり取りの合間を縫って、クラスメイトの一人が近づいてくる。

「天聡くん」

「はい、なんでしょうか?」

 たしか彼女は……仁多亜由美。その天真爛漫な明るい性格とショートヘアで猫のような機敏な所作はクラス学年問わず受け入れられ、広い交友関係を持つと聞く。

「あいかわらず敬語なんだね」

「ああ、すいません」

「いいって、いいって。丁寧に喋られるのに抵抗があるわけじゃないし、距離置くために敬語で喋ってるわけでもなさそうだし。なら、天聡くんの事情を知らないわたしたちが不満垂れるのは筋違いだし、そこはみんな理解してるから安心していいし」

 つくづくクラスメイトには恵まれた、と思う。付き合い初めて長くて三、四年のやつらもいる中で、未だに敬語が取れない俺に対し、普通に接してくれている。

「ありがとう……ございます」

「うむ。感謝しているなら、これを君に託そう」

 と、彼女は抱えていた紙束を、ドンッと俺の机に置く。音からしてかなりの重量だが……

「えっと……これは?」

「授業アンケートおよび素行調査について、の用紙。一週間前に配られて、あと出してないのわたしと天聡くんだけだって。わたしは書いたから、これ、一時間目始まるまでに、職員室行って先生に渡しといてね。じゃよろしく~」

 仁多はそこまで言い切ってから、手を振り自分の席へ帰っていく。

「アンケート、って……ああ、そうか。教科書にしおりとして挟んだまま忘れてた。たしか今日あったはず……」

 ごそごそとかばんの中を探す。やがて引っ張り出した日本史の教科書からはみ出た紙を引っ張りだし、机の紙束の上に乗せる。すでに記入済みではあったため、あとは提出するだけだ。さて持っていこうか、と紙束を持ち上げたところで暁生に引き留められた。

「俺も半分持つよ」

 いつも通りの暁生の優しさに感服するが、こればかりは――

「いや、未提出は俺のミスだから、さすがに俺ひとりで運ぶよ」

「俊輔」

「?」

「俺にまで遠慮するな」

「ッ!」

 互いが互いを親友と呼ぶ間柄で遠慮されることがどれほど悲しいか……人付き合いの少ない俺にはわかるはずもないし、暁生はまったく期待を裏切らないやつだ。だがそれでも、今の暁生の真剣な、それでいて怒りを含む表情を見れば誰だって、自分が間違いなのだ、と気付かざるをえない。

「わかったよ。じゃあ、半分頼む」

「おう!」

 勢いよく応答した暁生は、俺が持つ束の半分を奪い取り、先に教室を出る。それを追いかけながら、前を歩く暁生が口を開いた。

「しっかし……亜由美も言ってたけど、なぁんで敬語取れねぇかなぁ」

「また、それか……」

 暁生と出会って早四年――何十回何百回と繰り返された対話の中に、小さな違和感を見出した気がしたが、小さすぎてすぐに消えてしまった。話は続く――

「だってよ、俺には完全にラフになってくれてんのにな」

「いや、お前は図々しいから……」

「おい、どういう意味だ?」

「どうもこうも、真実はいつも一つだろ」

「余計わかんねぇっつの!」

 そのまま憎まれ口を叩き叩かれながらも階段を降りる。職員室のある一階まで来たところで、暁生が話題を戻す。

「そういえば……佐崎とも仲良くなかったっけ? 俺とみたく、普通に喋ってたような……」

 思わぬ名前が出たことに瞬間驚くが、すぐにいつもの調子で返す。

「佐崎か。あいつは、なんていうか……同類だから、な」

「はぁ?」

 わけがわからない、という風に疑問を顔に出す暁生だったが、佐崎との約束もあり、暁生に口を滑らすわけにもいかない。こいつはこいつで俺の事情を半ば理解しているので、ばれてしまうこともあるかもしれないが、わざわざ率先して言うべきことではない、と判断し、俺は口を閉ざしたまま職員室に向かった。



 ――黄沙中学および高校校舎の上空――

 ワタシは二人が中学校の校門前で別れたのを見届けると、さて今日はどうしようかと(一瞬)悩んだ末、一週間ぶりくらいに妹の授業風景を見るのも悪くない、と思い教室に向かう。平日などシュンが高校に行っている間は暇なので、街中を彷徨ったり、タダで工場見学に行ったり、北に聳える黄葉山へ動物達と(一方的に)戯れたりしているのだが(さすがに授業の邪魔をしようとは思わない)、時々シュンとリンの学校生活を親の目線で観察するのも楽しみのひとつであった。

「さて、今日も仲良くやってるかな?」

 文字通り一直線で教室まで登ってきて(三年生の教室は三階)、窓の外から覗くと、ちょうど燐が入室したところだった。すると同時に、リンに話しかけにいった女の子がいた。確か名前は……春日部弥生といったっけ。肩に届くかというセミロングの髪を揺らし快活に笑う明るい娘で、運動は得意、勉強はちょっと……という典型的な(?)体育会系女子である。リンと同じテニス部で、中学一年からずっと二人は一緒にいる。ああいう友達がいると、見守るこちらとしても安心できるというものだ。実際彼女の周りには自然と人だかりができ、昔から自分とシュンにしか懐かなかったリンも、一人で孤立することはまずない。

 ただ正直不安なことは、リンにしてもヤヨイにしてもタイプの違う美少女で、違うからこそ周りの男の子の票を二分しやすい。今までは、リンが好意を寄せている人がわかりきっていることや、ヤヨイの人柄が良いおかげで、特に目立った動きはなかったが、これから高校に進学し、より人目につく場所にいって……この友情はいつまで続くのだろうか、といったことだ。

 もちろん現時点では疑う要素もないが、他人の気持ちを他人が理解することは難しい。それは人の間の結束が付き合いの長さに比例しないからだが、もしリンが何かのはずみで昔のようにシュンに依存したり、ヤヨイの気持ちが変動してリンから離れてしまうと、この関係も終わりなのだろうか、などと考えてしまう。実際、リンの側にその原因となりそうな事柄が存在するので、心配にもなる。だが自分にできることと言えば、シュンに忠告するくらいなのだが。

 しかし、シュンはリンに関する事柄を知らないのではないだろうか? やはり知らせておくべきなのか……などと思案していると、学校のチャイムが鳴り、担任の先生が入ってくる。

 こうして授業風景を観察する、引いては授業を(タダで)受けることにより、肉体は九歳で死しても、魂の年齢は相応分の知識を蓄えられている。さらにある程度自由にこの世界を動き回れることにより、学校では習わないような知識まで身に付けられることに対して、一途に両想いになれたシュンと出会えたことは本当に良かった、とも思える。

「もちろん、一緒に、っていうのが一番の理想だったけどね……」

 俯くと、自分の脚が見える。ちゃんと脚はある、だが、脚の裏から地面まで数メートル。その間には何もない。自分のこの現状に、否応なしに突き付けられる現実にため息が出なかったことなどない。それでも……

「それでも、これからもシュンと……みんなと一緒に過ごせる、という事実もワタシの存在意義になりえるんだから。しょげてなんかいられないのよ」

 決意を固めるように拳をぐっと握る。こういう恥ずかしいと感じる格好も幽霊ならではのもの、と再び小さく感謝した。

 考え込んでいるうちに、一時間目が終わろうとしていた。残念なことに、すでにこの世界の住人ではないワタシは、肌が合わないのか、留まっていられる時間は数時間ほどしかない。過ごせる時間は全力で楽しんでいるつもりだが、やはり制限があるのは物足りない気分だ。しかし、もし時間が過ぎてしまったら……何が起こるか知らないため、その愚も犯せない。『迷廻』における先輩の話だと、記憶が飛び、魂魄が消えてしまう、との噂がある、という。ならば、たとえ制限付きでもシュンとリンに会えるこの時間は大切にすべきなのだ。

 ふと、教室内の様子を見ると、リンは授業の最後の問題に答えるべく教室前の黒板に向かうところだった。スラスラとチョークで書き込み、先生に確認してもらってから席に戻るため、振り返る。

 その時に見た。手に付いたチョークを払うため二、三回ぱぱっと払う仕草をした後、片手を二回余分に振った。掌がこちらに見えるように。

 まさかワタシに気付いて……、まさかね……と思いながらも自分も去り際にリンに向かって手を振る。

 さて、あちらに戻りますか、と学校を離れる。その時のワタシと、席に戻った燐の顔は、一様に微笑んでいた。



 ――とあるプレハブ小屋――

「えぇ~、では本日の定例会議を始めたいと思う」

 時は夜中の零時を回ったところ。場所は『迷廻』に建てられた一部屋の家。といっても、本当に家の広さはあるほど、広い。だいたい六十畳くらい、と建築者は言っていたが、それを埋め尽くすほどの机と椅子。学校の教室のように配置された席が埋まっているのは半分ほど、おおよそ三十人と見る。より細かく言うと十五組三十人だ。

 そして建物の入り口には【○○村街興し対策会議本部】と書かれた紙が貼ってある。

 そう。ここは『迷廻』に新たに独自の町を興そう、という考えの人々が集まった家屋であった。

 『迷廻』というのは、簡単に言うと死後の世界である。ただし、大多数の死者が堕ちる『死海』とは違い、ある条件を基に認められた人々が住まう世界で、『生界』と『死海』の狭間、と言えるところだ。その条件とは、『生界』にいる特定の人物と想い想われ繋がることができること。死者からの一方通行であったり、生者の空回りの想いであったりした場合は、死者はそのまま『死海』に送られ、次の生に向けて転生の準備を行うことになる。”絆の糸”と呼ばれる想いを結ぶことができたペアが、晴れて『迷廻』での再会をすることになる。ゆえに十五組三十人、という言い方になるのだ。

「週一回の集まりでもう第五回目になる……今日こそは、村の名前を決めたいと考えているのだが、皆はどう思うだろうか?」

「あぁ、いいんじゃないですか……」「ですから、私たちの名前を採って、鈴木田中村が良いと何度も……」「もう村長が勝手に決めちゃっていいですよ」

 村長こと坂本氏が、今日の……今日も同じ議題を持ち出す。全体的に恐そうな雰囲気を醸し出す人だが、目と根は優しく、この対策本部を立ち上げようと周りに声を掛けて回っていたのも、坂本氏が始まりだった。その人の問いかけに各々で反応を示す。だが、ペアの相手しか見ておらず、基本自分たちさえ良ければ……という自己本位の彼らはまともな答えを返さず、全く考えようとしない者、自己中心的な者、他人任せな者など、会議はまとまる傾向を一切見せないまま回数だけを重ねていた。

「というか、村長の標準語はやっぱり違和感ありますね」

 仕舞い(会議は始まったばかりだが)には、議題と関係のないことを言い出す者も。

「最初はそうしとったけど、みんながわからへんていうから、頑張って標準で話してんねやないか」

「それはそうなんですけど……やはりその土地に生まれたからに土地の言葉で喋った方が楽なんじゃないか、と」

「そうか。西岡氏がそういうんなら、ワイは自分とこの喋り方で……」

「だから、まず土地の言葉。で、そのあとに標準に直してもう一度喋ってもらってもいいですか?」

「めんどくさいわ! もぅえぇ! あんたらが理解してくれたら、ええ話や。ワイは好きに喋るで!」

 完全に議題から逸れているのだが、ヒートアップした坂本氏は止まらない。

「だいたいワイの住んどる都市も、西の都、と呼ばれるほど栄えてんのや。あんたらがおる首都と変わらんほどにな。単に国主がおるからってエバくさりよって、何様のつもりや! 同じ人間やろが。こっちが西国語やったら、標準語じゃあなく、東国語とでも呼ばんかい」

 あ~ぁ、と嘆息しながら、『生界』の学校と同じ、窓際に陣取った席から俺・天聡俊輔は外を見上げる。光の反射によって蒼く視える『生界』の空とは異なり、『迷廻』は紅く目に映る。

 それはなぜなのか? という究明は遅々として進まない。それは空に限ったことではなく、この世界全体に言えることだ。

 それはなぜなのか? 先ほども少し説明したが、この『迷廻』に集まるのは基本的に自己本位な考えの人々であるがゆえ、他事に関心が向くことが稀なのである。自分たちの逢瀬さえ成功させることができれば、”絆の糸”が繋がっている限り、『迷廻』でも『生界』でも自由に会うことが出来るため、二人の内世界に引き籠ってしまう。ただしその稀が起きた時、所謂、内世界に閉じ籠らず何かをしよう、と考えるペアが現れた時、究明は進む。

 それにより、『迷廻』という名。分かれ道の条件。そしてこの世界を縛る二つの掟を知るに至る。

 だが、それだけだ。世界がいつから存在するのか? その意義とは? など多くの事象に関しては謎のままである。

 と、この世界の謎に思いを馳せながらも、そろそろ止めないと前回までの四回と同じになる、と判断した俺は、村長に声を掛ける。

「村長~、早く名前決めないと、先に進みませんよ~」

「……昔はワイんとこの近くにも都があってやな! ……あ? あぁ、せやな。あああぁぁぁまた三十分過ぎてしもうた~」

 頭を抱えて教壇(っぽい机)に伏せる。横には坂本氏の妻、という女性が座っていたが、おもむろに立ち上がり夫の後頭部を思いっきり、ゴッ!と凄まじい音がして――机にヒビが入るほどの力で叩いていた。この夫婦、イメージとしては完全に……そう極道だ。夫の容姿や妻の無言で殴る様など、まるでドラマや映画の中から飛び出してきたように、そのままだった。だがそれを確認した者はいない。……だって恐いしね。そんな二人の様子(茶番なのか日常なのかはわからないが)……あれは死んだな、と妻以外の全員が思う中、たっぷり十秒程気絶した村長は、ゆらりと顔を持ち上げ、何事もなかったように再び仕切り始める。

「さて、名前やったな。誰か案ある人は……ある人だけ手挙げて発言してくれや」

 挙がった手は二十本。ペアが両方とも挙げている場合も踏まえると、案は十個ちょっとか。そのほとんどが……「私たちの名前から採って!」or「僕たちの住んでる町の名前にしましょう」の自己本位のどちらかしかないのだが。あとは「迷廻村でいいんじゃないか」という、分かりやすいと言えば分りやすいが、そのままと言われればそのままのやつだったり。村長が言うには「村を造ろうとしている人らが、ワイらが初めてやとは思われへん。なら、ヒネリのない名前はもう使われてるやろ」と。

 確かにいつから在るかわからない世界ではあるが、別に重ねて使ったからどう、ということもないと思うけど……。まぁ自分勝手な人たちを招集した人物だ。とりあえずとはいえ、トップに据えた者の意見は聞くべきか。特に反対するわけでもないし。

「ん~ん……これじゃ今までと一緒やな。なんかこう……『迷廻』にも関係があって、親しみが持てるような感じの、そんなちょうどいい位置になるような……」

 注文がややこしい。

「そうだな……『迷廻』から採って”迷い村”でどうでしょうか?」

「いやいや、”迷い村”って、余計に人が来ね……いや”まよい村”か……漢字さえ変えればいい感じになりそや。あっ、今のはダジャレとかそんなんやなくてな。素で出ただけやから、素で」

 誰もそこは気にしていない。

「よし、それにしよ! みんな当て字でもええから、なんか考えて! あかん、もうこれに決定や。俺が決めたんやから、反論は認めん。一歩進んだだけでもえらいことやねんから、もう戻させんといてくれ」

 最後は村長のごり押しだった。何がツボにはまったかは知らないが、前四回はなんだったのか、というほど簡単に、簡潔な名前が受け入れられた。それが出来なかったくらい議論が錯綜していた、という事実もあるのだが。

 喧々囂々、意見が飛び交い、もはや誰が何を言っているかもわからない。これではまた同じ……と端から様子を見ていた俺や関わりたくない数名をあざ笑うかのようにすんなりと決まっていた。

「村長、平仮名でいいんじゃないでしょうか?」

「ひらがな?」

「漢字を決めてしまうとその意味で捉えられることしかないですが、平仮名にすることによって自由に意味を考えさせ、自由に街づくりができるものと思います。尚且つ、外国の人々にも読まれやすい平仮名は新たな呼び込みもできるでしょう」

 そう宣言した男は、『自慢じゃない、自慢じゃないけどね。私はエリートなんだ』と自慢しまくっていたやつだ。確かに才識人だとは思うけど、まぁ鼻持ちならない性格をしている。

「おお、そりゃええな。よし、それならひらがなで“まよい村”としよ。……すんのは、ええねんけど……」

「まだ何か?」

 その才識人を含めた全員が首を傾げる。

「なんでや……なんでこうもあっさり決まんのや? 今までの会議は何が原因やったんや?」

 そううなった瞬間、のびる三十本(マイナス一)の棒、棒、棒。その先にはさらに細いものが。つまりは全員(マイナス村長)が原因の大元を指差しているのだが、やはり一点は村長に集中していた。もし人間の指先からビームが出る仕様になっていたら、間違いなく村長は殺されているレベルのもの、すでに殺気のこもった視線で発火しそうな勢いではあるが。一点集中という言葉を、今ほど恐ろしいと実感したことはない。そしてそんな村長に再び忍び寄る愛の鉄拳……察した全員が耳を塞ぐ。

「…………」

 だが、想像した音は響かず、逆に目を疑う光景がそこにあった。観音様のような慈悲深き瞳で、夫を見下ろし、頭を撫でている坂本氏妻の姿があったのだ。しばらくはぐずぐずしていた坂本氏夫も、その微笑みを見た途端、目元を拭い、まっすぐに皆を見渡した。その瞳には、先程までの困惑はまったくない。

 なんという……

「アメとムチ……なるほど、一度殴って凹ませてから、慈悲で引き上げると、男は従いやすいのね……」

 横からくるナニカ得体の知れないモノに身を震わせる。おそらくそれは恐怖。これからの人生、支配される運命にあるのか、という……。

「さて……話がひと段落ついたところで、時間が来てしもうたな。もう夜中の一時や。まぁ今日は村名が決まっただけでもよしとしようや」

 教壇に立つ坂本氏が議会の終了を知らせる。週一回のペースで集まれる人だけ招集してきたこの議会は、日が変わった零時から一時間のみ、と取り決められており、時間が来ると解散となる。ちなみに初日のみ三時まで行ったのだが、まったくまとまる様子を見せない議論に対し提案されたのが、時間で区切ることだった。

「じゃあ、また来週、同じ時間に集まれる人はここに来てくれ。ほな解散!」

 それを合図とし、各々ペアで家を出ていくか、またはその場で『生界』に帰るか、と選択をする。俺は自身が眠たいこともあり、後者を選ぶ。

「じゃな、怜。俺はもう寝るよ。また朝に、な」

 欠伸を噛み殺しながら怜に背を向け、別れを告げる。と、その時、後ろから殺気! 咄嗟に片手で頭を庇う! 上から振り下ろされた手刀を防御! という格ゲー並みのアクションを披露する。

「何……やってんの?」

 半分振り向きながら応対すると、怜は考え込む様子でぶつぶつ言っている。

「……殴打が防がれた場合はどうするんだろ……もう一回殴る? でも警戒されると次は確率が下がっちゃうし……」

 どうやら寝ている場合ではないようだ。一度忠告しておかないと、本気で将来困りそうだ。

「怜、ひとつ言っておくが、殴られて喜ぶのは、坂本氏だけだ。俺はそういう性癖じゃないから、殴るのはとりあえずやめてくれ」

「ん。わかった」

 ひとつ頷く姿を見て(「ちょー待て! ワイは別に喜んでなんか…あたっ!」と遠くで聞こえていたことは無視しても問題はないだろう)、怜の理解が得られたと判断……

「じゃあ、どうすればシュンはワタシに従ってくれるの?」

 ……するには無理があったようだ。

「なんでだよ! なんで俺が従わなきゃいけないの? 今まで対等の立場だったじゃん!」

「最近考えていたのよ。やはり人間関係って上下があってこそじゃないか、って。かかぁ天下とか亭主関白とかも一緒のものなのよ。で、坂本氏夫婦のやり取りを見て決心したの。ワタシがS気質なら、シュンはМだろう、って」

「なんだ、そのわけわからん理屈は! 確かに怜はSだよ。それは認める。でも俺はMじゃない、断じてな」

「でもワタシのことは好きでしょ?」

「なっ!……それも確かな事実だが、それと立場の話は別個……」

「ワタシに振り回されるのが」

「それは否めない?」

 あっ……と思った時は時すでに遅し。自分の性癖を堂々と公言してしまっていた。目の前には、怜の意地の悪い笑顔。つまりこれは……

「やっぱりシュンは面白いね」

 からかわれたわけだ。

「いや、違うぞ! 今のはだな……」

「そうね。あなたはMじゃないわ」

「わかってくれたか!」

「ドレッドノート級のM。つまり、ドMってことね」

「ちっが~~う?」

 ぜぇはぁ、と肩で息をしながら抗議をする。目の前の怜は余裕の笑み。

「ほら。やっぱり振り回されてるじゃない」

「好きでやってねぇ!」

「じゃあ、ワタシのことが嫌いなの?」

「嫌いなわけねぇだろ! 好きだから、今ここにいるんだよ!」

「じゃあ、ワタシに従ってくれる?」

「応よ!……………あっ……」

 勢いよく張った胸は、半倍速で萎んでいった。あぁぁ俺は何を言ってんだ……

「師匠! できました!」

 ししょう? という疑問とともに目を向けた先には、なんと坂本氏妻が立っていた。

「よくやった! オンナの鑑やな。みんなも見習わなあかんで~」

 豪奢な着物の袖から、ぐっと拳を突き出す坂本氏に続き、「「は~い」」と女子一同。

「あんさんらも難儀なことになったなぁ……」

 坂本氏が慰めに来る。いつも慰められている側の慰謝は、妙に心に染みた。

「じゃね、オヤスミ、シュン。明日も起こしてあげるからね」

 そういって去る怜の後ろ姿は、とても楽しそうに見えた。

 ……まぁ、あいつが笑っていられる世界なら、あって損はない。素直にそう思える自分が、内世界に籠っていた昔とは変わったのかな、と自嘲しながら、途切れた糸を反転させ『迷廻』への想いを断ち、『生界』へと帰っていった。

 窓際にいた気の弱そうな兄弟の、外を見る心配そうな表情に気付かないまま……






第二章 大いなる邂逅を告げ



  ――八年前――

 ……その日は生憎の雨だった。

 それも当然。まだ梅雨入りには早いといえ、五月末、天候が不安定になり始める時期だ。


 歩道には二本の傘。二つの影。二人の姿。男の子と女の子。それぞれ紺色とピンク色の傘を差している。去年の誕生日、互いに似合うと選びあったプレゼントだった。


 だが今、その傘は並び進んでいない。道路を挟んで反対側、しかし同じ方向に帰っていた。

 時はこれより一か月前に遡る……


 幼き頃よりずっと一緒だった二人。むしろ二人の世界しか知らなかった。

 それゆえに他人がわからない。今までに起こったことのない出来事に遭遇すれば、相手はどのような反応を見せるのか。そしてその反応にこちらはどう対応すればよいのか。

 それは他人が多い外世界でも、自分たちしかいない内世界でも同じことだった。


 二人は仲違いをした。きっかけは些細なことだ。

 家族ぐるみで付き合いのある二人は、ある時、互いの親兄弟計七人で遊園地に遊びに行った。世間一般では、ゴールデンウィークと呼ばれる週で、人人人でごった返していた。


 燐を含めた子供たち三人を間に挟み、両脇を親で固める。もちろん迷子にならないための措置で、それは効を奏し、一度もはぐれることなく順調に遊びまわっていた。

 日の傾きが西空の半分まで達し、朝組と夜組の交代かという時期に、お開きにしようと最後に行きたいアトラクションを聞いたところ、意見が二つに分かれてしまった。

 一度入ったお化け屋敷と、行列で諦めたメリーゴーランドに。


 互いに譲らず、初めての対立に両親も困惑するばかり。救ったのは、燐の「観覧者乗りたい」の一言だったが(時間的に空いていた)。

 一見、二人の仲直りの構図に見えたが、ダメだったのはケンカのやり方。

 俊輔はアイスを怜の服につけ、怜はジュースを俊輔の顔にかける。喧嘩両成敗という言葉を知らない二人は、両親の説得にも耳を貸さず、いや、両親の言っている意味がわからず、仲違いは混迷を極めた。


 今、高校二年になっても思う。

 あの時、素直に謝る、ということを知っていれば、理解し実行していれば、歩道の片側を一緒に歩いており、事故に遭わなかったかもしれない。もしくは一緒に死ねたかもしれない……


 だがそれは、怜が魂魄となって再び『生界』に来ている状況からすれば、嘆いても仕方のないことだ。

 かといって、怜だけ死んでしまった現状を、是とするにも無理があるのだが……



 怜と繋がってから数年――

 『生界』と『迷廻』を行き来する二重生活にも慣れ、完全に日常の一部となっている。

 新しい出会いもあり、会えなくなったはずの怜ともう一度引き合わせてくれた『迷廻』という存在に感謝もしている。

 なにより怜にとっては、『生界』で生きた年数に、『迷廻』で活きた年数が迫る勢いなのだ。彼女自身、第二の故郷と表現するほどの親しみっぷりである。

 大切な怜が大切にしているものならば、俺が大切にせねばなるまい。

 そういった理由から、俺は『迷廻』を愛することに決めた。

 

 その愛する『迷廻』が危機に瀕している、と聞いたら、それは行動しないわけにはいかないだろう。

  

 報せを聞いたのは、○○村街興し対策会議で、村名が“まよい村”に決まった、翌日の深夜だった……。



【―其に住まうは死者――

 ―其に願うは逢瀬――

 ―其に集うは生者――


 ―其の界の名を『迷廻』と云う――

 

 

 生きる『生界』と死した『死海』の狭間

 古より在りし、だが誰も知ることのない

 生者と死者、結ばれる逢瀬のための中庭

 

 

 すなわち『迷廻』とは……

 死してなお生者を求める魂と、残されてなお死者を想う魂が再会する場所である。】

 

 

 過去よりそのように伝わる世界で俺たちは再会した。当時小学三年の俺にとって、その理を解するなど、到底できなかった。故に、認識できたのは、想い人・怜と再会できた嬉しさ、再認識したのは、彼女は本当に死んでしまったのだ、という悲しさだけだった。

 生前より頭の回転が速かった怜は、再び会すまでの数ヶ月で、おおよその仕組みを理解していたらしく、右往左往する俺にいろいろと教えてくれた。『迷廻』という名から逢瀬の条件、世界における二つの〈掟〉まで、俺にわかりやすいように。

 

 その『迷廻』がどう危ないというのか……俺は言われるがままに、自宅でベッドに横たわり、『迷廻』への旅路を望んだ。

 

 『生界』の自宅のベッドからのフェードアウト、数瞬の暗闇を経て、俺を出迎えたのは、俺の部屋だった。『迷廻』は『生界』の写し鏡と言える。ただそれは、地形に属する部類だけで、建築物や乗り物など人の手により造られたものに関してはそれに当たらない。遠くに聳える山々や流れる川のせせらぎ、紅く染まる空を流れる雲に至るまで、寸分の狂いもなく同じである。

 自分の部屋に降り立った理由だが、建築物に関しては、人の手……というより脳がイメージしたものは実体化されて触れることができる、というこの世界特有の〈掟〉のおかげだ。建築物だけではない。人がイメージしたものが具現化される。それが、想像による創造、〈万物想造〉の力。もともと生者が『迷廻』に来る条件に、死者との繋がりがあるが、これは二人ともが“二人の良関係”を想像したからこその具現化であり、〈万物想造〉の発揮なのである。

 この俺の天聡家と、隣の怜の杜野家は、俺と怜がイメージして造り上げたものだ。少しでもイメージが異なってしまうとうまく具現化できないので、結構シビアであり、より深い関係が求められる。ちなみに、対策会議本部室の家屋も坂本氏夫妻がイメージして造り上げたものだ。

 実家(?)の玄関から出て、暫し周りを見渡すが、これといって特に変わったことはないように思う。ただただ東京タワーが林立しているだけである。

「って、東京タワー!?」

「そうなのよ。ついさっき目が醒めたら外が……」

「スカイツリーじゃなくて?」

「ツッコむところ、そこなの?」

 声のした方へ目を向けると、隣の家から出てきた怜が周りを見渡しながらこちらに歩いてきていた。

 ちなみに怜の姿は死んだ当時九歳の身体ではない。俺たち二人が“ともに歳を重ね、ともに生きてそして死にたい”と望んだためだ。ゆえに彼女は俺と同じ高校二年に成長した(であろう)姿を取っている。特徴は想像しやすかった。何せ、見本がずっと近くにいるからだ、もちろん燐本人は内緒だが。燐と違うのは目が少し鋭いというくらい。それは幼いころから怜の気にするポイントだったそうだが、俺はむしろチャームだと思っていたんだが。それを本人に話すと、脱兎の如く逃げてしまった。いまだに謎の現象だったな。髪は燐と同じ黒で、燐のポニーテールに対し、横で小さく結えいている。俺と同じ黄沙高校の制服を着て隣にいれば、さながら一緒に登校しているように見える。が、もちろんそれは現実ではもうありえない。

「おう、怜。詳しく頼む。なぜスカイツリーじゃなく東京タワーなのか……」

「そうじゃないでしょ?」

 般若だ。あの笑顔の後ろに般若のお面が見える。

「……えーと、なんで東京タワーが立っていると、世界が危ないんでしょうか?」

「実はワタシもよくわかってないんだけどね」

「なんだよ、それ?」

 どこから説明したものか、という風に悩みながらポツポツと話し出す。

「この『迷廻』にも政治システムがあるのは知ってるでしょ?」

「ああ、たしか迷府ってやつだろ。でもあれってゲームとかでいうNPC、ノンプレイヤーキャラクターのような存在で、誰も見たことがないし、どこにあるかもわからない、〈掟〉破りの監視者的役割しかない、って話だけど」

 この『迷廻』の中心だと言われているシステムだが、『生界』とは違い、選挙による選出や、様々な人間の感情や欲が入る余地がない。まるでコンピュータが仕切っているようで、ある意味ではよほど信頼できるシステムだ。

 その迷府が明示している〈掟〉が〈万物想造〉ともう一つ、〈不干渉〉である。

 〈万物想造〉とはつまり、何でも出来る、ということだ。特定の二人が想像、という条件があるものの、もしその想像が悪意で標的が他人に向けられた場合が危険だ。

 それを縛るために設けられたのが〈不干渉〉だった。

 この〈掟〉は言葉通りである。想造した事象は他人には干渉できない、ということ。それは他人が干渉できないことでもあり、俺たちが造った家には俺たち以外入ることができない。ただし例外として、坂本夫妻が想造した家屋には、“他の人も入ることが出来る”という条件をつけたため、俺のほか三十人が会議できる場所となっている。

「その迷府が危機、だと? 誰も見てない、どこにあるかも知られていないシステムが危ないと言われても想像が難しいし、いまだに世界の危機と繋がらないんだが……」

「ん~、シュンちゃんを呼ぶ時のテレで男が暴れてる、って言ったと思うけど」

 テレとはテレパシーの略で、『生界』と『迷廻』の通信手段のひとつである。俺たちの場合は、怜から直接、頭の中にテレパシーで話しかけ、俺は携帯電話を介し怜と話している。そうしないと、俺は誰もいないところで喋っているように見え、危ない人扱いになるためで、そう偽装しなければならなかった。他に知っている手段としてメールでのやり取りをしている者もいる。

「その男が迷府で暴れている、と?」

「暴れている、っていうのは、ワタシの比喩表現だけど……むちゃくちゃしてる、って意味では合っていると思うわ」

 ひと呼吸置いて怜は、

「破棄されたのよ。〈不干渉〉が」

 すぐには理解不能なことを告げた。

 〈不干渉〉が破棄された、ということは〈万物想造〉のリミッターが外された、ということで、まさに“何でも出来る”ことになる。わざわざ“他人でも入れる”という条件をつけなくても、皆が干渉でき、自由に出入りしたり、壁に落書きしたりできるし、逆に“他人は出入りできない”と条件をつけなければ、俺たちの家も危ないかもしれない。

 要するに、人間の欲が解放される、ということであり、それの何が悪いかというと……

 想像できるだろうか?

  望むままに行動を起こせると知った時の人間の底なしの欲を――

 もちろんマイナス方面に向かうだけではないだろうが、プラス方面の欲に関する想造、例えば他人への助勢などは、制限されていない。それを判断するのは迷府だが、その迷府が混乱しているらしいことを考えれば、マイナスの欲を抑えるものはなくなり、それが危険だと怜は言うのだ。

「とりあえず危機感だけは伝わってきたけど――それでも東京タワーが林立してる理由には繋がらないんだが」

「あー、うん。それはただの実験だって言ってた」

「は? 実験? 言ってた、って誰が?」

「え~と、もうちょっと待って。そろそろ始まると思う」

 と、なぜか上空を見上げる彼女。その数秒後――



《あ~あ~テステス………なんか音大きない?》



 突如、響き渡った大音量に思わず耳を塞ぐ。頭に直接鳴っていることで、これがテレパシーだと理解するが、それでも耳を塞いでしまうのは条件反射ゆえか。

 ブチッと何かが切れる音。辺りは静寂に戻ったはずだが、頭の中ではキンキンと残響が跳ね回っていた。

「なに? なんだったの、今の?」

 いまだクラクラする頭を押さえつつも、隣の怜に問いかける。

「い、今のが、むちゃくちゃしてる、って言った男の演説、のはずなんだけど……」

 怜もふらつきながら応答する。が、どうも歯切れが悪い。

 その理由を知るために待つこと数秒――



《あ~あ~よし、次は大丈夫そうやな。いや~すまんすまん。まさか二回目でミスるとは思おてなかったわ》



 聞き覚えのない男の声の言動と怜の歯切れの悪さから察するに、この演説(?)は二回目。一度目では音量調節を失敗せず、普通に喋ったのだろう。

 数瞬、間をおいて演説は続く――



《まずは自己紹介やな。わいの名前は琴吹獅童。っつっても、一時間前にもこれ、やらしてもろうたから『迷廻』の魂魄はみな知っとるやろ。で、『生界』の人間、連れてきてくれたかいな。まぁ迷府にいる限り、九割集まっとんのは丸わかりやねんけどな。いや~、ここってほんま便利やわ》



 このセリフの中にもいくつか重要な情報が含まれていた。

 まずは、一時間前にも、という言葉。これは俺の推測を裏付ける情報であり、怜が俺を呼んだ原因でもあるだろう。

 それと合わせて『迷廻』『生界』という世界の表現方法。だがこれに関しては、事の起こりが『迷廻』であるがゆえに、予想できたことだ。

 そして三つ目、迷府が示唆する場所と意味。誰も知らないとされてきた迷府にいるという事実、または、いると思わせることの彼のメリットとは、いったいなんなのか? 仮に迷府からのテレパシーだとして、彼の言動にはNPCっぽさが欠けている。NPCとは基本、インプットされた言葉しか喋らない、いや喋れないと決まっている。もちろん西国の方言を話すNPCがいないわけではないだろうが、それならば後ろで操っている人物がいる、ということになり、どっちにしろそいつは迷府と関わっている、ということになる。



《さて、『生界』のみんな、ようこそ『迷廻』へ。いまさら言うことやないとは思うけど、今この世界はわいが牛耳っとるさかいの。あえて、うぇるかむ、と言わしたってな。その証拠に全国いたるところに東京タワーを建てさせてもろた。来たばっかりの時はビビったやろ》



「だからなんで、東京タワーなんだよ。まさかこいつ、西国の人だから、スカイツリー知らない、とか言い出すんじゃないだろうな」

 先ほどからの疑問をもう一度、つぶやいてみた。すると、まるでそれが聞こえたようなタイミングで琴吹は演説を続ける――



《なんで東京タワーなんやって? それはわいがスカイツリーをよく知らんから……ってのもあんねんけど、東京タワーって電波塔やろ? せやから、みんなに喋りかけんのにこれほどの通信機器はないわな~。まぁ別にタワーやなくても、テレパシー飛ばせんねんけど、気分の問題や》



 「なんじゃそりゃ」と、おそらく『生界』の人間全員がツッコみを入れたであろう、これまた丁度のタイミングで、がはは、と豪快な笑い声が頭に響く。



《んで、さらに言うと、見てほしいんはタワーやのうて、その規模や。迷府におる限り、わいは全国どこにでも、なんでもできるっちゅうことを示すためのな。それが、東京タワーと今この世界にいる魂魄へのアプローチや》



 もう誰も言葉を発せなかった。いやもちろん周りには怜以外いないため、実際はどうかわからないが、少なくとも俺自身はそういう気持ちだった。



《せやけど、こんなわいでも異世界の壁を越えることはできんかった》



「異世界の……壁だって?」

 この『迷廻』と『生界』、そして『死海』の三つの世界――それぞれを客観的に見る方法がないので、はっきりとした位置関係はわからない。だが、『生界』が生者の世界、『迷廻』と『死海』が死者の世界であり、『生界』と『迷廻』が直接的に繋がれることから考えると、純粋な生『生界』と純粋な死『死海』の狭間を彷徨う『迷廻』と想造するのが妥当だ。

 その壁を越えるとなると……『迷廻』から『死海』へ行くには、ただ『生界』への想いを断ち切ればいい。そうすることで、鎖がなくなり自然と『死海』へ導かれる。わざわざ迷府に行ってまですることではない。ならば、彼は『生界』で生き返ろうとしているのだろうか?



《わいにはある目的があるんやが、それを成し遂げるにはどうやら、わい一人の力では無理みたいなんや。そこでみんなに協力を仰ぎたい。たくさんの想いがないと壁に影響与えんのができないんやそうや》



「協力、って言ったって目的も知らないんじゃ……」

「今から言うから、ちょっと黙っときなさい」

「あい………」

 なぜか怒られた……。ショボンとする俺を差し置いて、琴吹と名乗る男は右手を高らかに上げ……たような声音で堂々と宣言した。



《わいの目的は、『生界』『迷廻』『死海』の壁を取っ払って、三つの世界を一つにまとめてまうことや! そうすることで、死、っちゅう別れ方をまず失くす。輪廻転生とかクソ喰らえ。わいらがむざむざ記憶消されるまで大人しゅうしとるか、っちゅうとそうもいかんやろ。この世に蔓延る悲しみの連鎖、それに終止符を打つんが、わいの最終目的や!》



 そこまで喋りきったところで、ブツッ、と放送は途切れた。さっきは個人的な意見だったが、今回は妙に自信がある。一度聞いた『迷廻』の住人はともかく、『生界』の人間で言葉を発することができている者はいないだろう、と。

「死を失くす、ねぇ……本当にそんなことができるのかしら?」

「さぁ……な。少なくとも百パーセント賛同できる話ではないかな」

 静寂を破る怜の言葉になんとか返すが、頭の中は混乱から抜け出せずにいた。しかし、何かしこりが残っているような……

 と、そこへ再びマイクのスイッチを入れる音が――



《あ~あ~、いや~すまん。目的だけ言うてテンション上がってもうてたわ。詳しいこと、なんも伝えとらんかったな》



 そう言われればそうだった。協力云々だけ言って、何をどうしてほしいか、などの情報が一切なかった。



《まず意識の共有せなあかんねんなぁ。それが一番難しいらしいねんけど、今の『迷廻』の魂魄がだいたい一億人。それらと繋がる『生界』の人間がもう一億人おるそうや。でも数が問題やのうてな。世界歪ますほどの想造すんねやったら、その場にいる魂魄の半数以上は同じこと願わんと叶わんらしいんや。せっかく迷府におるっちゅうのに、『迷廻』以外に及ぼす権限は一般人と同じやっちゅうから、ほんま、わいにとっては難儀な話やで》



「こいつ、さっきからおかしくねぇか?」

「おかしい、って何が?」

 琴吹の演説を漠然と聞きながら、ふと思ったことを口にする。

「なんていうか……さっきから『らしい』とか『だそうだ』とか連発してっけど、それって誰かから聞いた情報ってことだよな」

「つまり?」

「つまり……琴吹のバックに情報源がいて、そいつが黒幕、世界の統一を目論んでる、ってことだ」

「誰が?」

「………さぁ?」

 それがわかれば苦労はしない。さすがに怜も気付いたのか、呆れのため息も吐かず、琴吹の演説を聞きに入る。



《しかし、みんなも急なことで混乱しとるやろ。せやから、『迷廻』の魂魄、および『生界』の人間の諸君には一週間の猶予を与えよと思うとる。一週間後のちょうど零時、わいがこの演説始めた時間やな。その時間に三つの世界の統一を願うてくれ。イメージは漠然とでええ。ただし、舞台は『生界』を基本にな。新しい世界の創造やなくて、『生界』に、生きとるもんも死んだもんも一緒くたになったイメージや。よろしゅう頼むで》



 再びブチっという音と共に、頭の中は静寂で満たされた。

「よろしゅう頼むで、って言われてもねぇ」

「…………」

 横で怜が嘆息するあいだ、俺はあることを考えていた。その統一世界では、魂魄は他人にも視ることができるのだろうか……

「シュンちゃん?」

「あ、ああ。どうした?」

「どうした、って聞き返されるほどのことじゃないけど……何か悩んでる、迷ってるようだったから」

「ああ、まぁな。ちょっと考え事」

「なに?」

「いや、取り立てて言うほどのことじゃ……」

「なに?」

「言いますから、そんな怖い顔しないでください」

 怜は「失敬な!」と頬を膨らませた。可愛いな、と堪能するのは後回しにして、その考え事を伝える。

「もしその統一世界で、一般的に霊が視えるようになるのであれば――燐は、いや、俺たち三人でまた笑い合えるのかな、とか考えてみたりしたわけですよ」

「え………?」

 最後は照れを隠すように怪しい表現になったが、当然と言えば当然、怜はそこを気にしてはいなかった。

「なんで……?」

「な、なんで、お前、そこは聞き返すところなのかよ……まぁそうだなぁ、あえて理由付けするなら――止まっている時間をもう一度動かしたいから、かな」

「時間? 止まっている、って……」

 真剣な怜の眼差しに気圧されながらも言葉にする。

「俺と怜は『迷廻』で再会して、数ヶ月の間があっても二人一緒にいる。んで、俺と燐もずっと『生界』で生きていて今も一緒にいる。でも……お前と燐は、死に別れてから一回も顔を突き合わせてない。だから俺たち三人の時間も八年前で止まったままなんだ。俺はもし叶うのならそれを動かしたいと……」

「シュンちゃんの……バカ?」

「ぐはぁ!」

 真剣に怜に引かれるように力説していた俺の顔面に鉄拳が飛んできていた。前のめりになっていたため避けることも叶わず、後方約五メートル付近までゴロゴロと転がっていく。

「な、なにすんだよ!」

「シュンちゃんのバカ!」

 もう一度言われた。だがその言った本人は、両拳をぎゅっと握り、心なしか肩が震えている。

「シュンちゃんはワタシの、ワタシたち姉妹の八年をどう見てきたの? ワタシもリンも、一度だって会えなくて寂しい、って表情したことあった? ワタシたちの絆を嘗めないで!」

 彼女が後ろは振り向くと同時、俺の視界は暗転した。数瞬後には自宅のベッドの上に寝ている。怜が『迷廻』から俺とのコンタクトを切って、俺が『生界』に戻されたことを理解したのは、視界が回復してから数分後のことだった――。



 明くる朝、ブラインドの隙間から差し込む陽光が、俺の網膜まで届き、時計の設定時刻より早めに目覚めさせた。昨夜の琴吹という男の演説がリフレインのように耳にずっと残っており、頭がぼぉぅとしたままなかなか回復しない。

「ぽけっとしてるわね。まぁ気持ちは解らなくもないけど」

「ぎゃ~怜!」

「な、なによ? お化けでも見たような顔して」

 昨日の別れ方からしてしばらくこっちに来ないと思っていたので、新鮮な反応をしてしまった。事実、怜は一般的にお化けと呼ばれる存在なのだがら。

「いや、すまん。昨日顔も見たくないほど怒ってたから、今日いちにちくらいはリンクしないかと……」

「別に怒ってないわよ」

「ほんとに?」

「……ちょっとショックだっただけ、その時は、ね。でもよくよく考えたら、シュンちゃんもワタシもリンも心配してくれてるからこそ、悩んでくれたんだ、と思ったらすっきりしちゃった」

 屈託のない笑顔を浮かべる怜に、俺は返す言葉を思い付かなかった。思い付かない、というよりは、やっぱりバレてんだな、という気持ちの方が強かったからかもしれないが、ポカンとした表情を弛緩させ、ふっと笑う。

「早めに起きちゃったし、少し散歩でもするか」

「そうね。そのボケた顔を覚ますには、朝の空気が一番かも」

「一言多いんだよ……」

 服を軽装に着替えてから、家を出る。五時を回り東の空は白み始めているが、空気はかき回されておらず、夜の静寂なままだった。

「シュンちゃんとこうして散歩するのって久しぶりだね」

「そうか? う~ん、そういえばそうかな。高校にあがってからは初めてだったな」

 俺たちはそのまま、昨日の出来事を整理しながら、しばらく歩き(浮き)続けた。

「そういえば、コトブキが統一世界の名前を自慢げに話してたわよ」

「名前、ってもう付けてんのかよ」

「よりイメージしやすいだろう、ってさ。彼曰く《境を明らかにするを止むる世界『明境止世』》」

「『明境止世』……なんか四字熟語っぽいな」

「それが自慢するポイントらしいわよ。あと三つの世界『生』『迷』『死』の音が入ってるからだって」

「最後だけ無理やりだな。どうせならちゃんと考えて欲しかった」

 まぁ、確かにねぇ、と二人して笑い合う。

「あ、あと、動機についてもつらつらと長話してた」

「動機……そりゃそうか。何にもなしに世界変えるとかできないわな」

「昨日、シュンちゃんを追い返してから三時間くらいずっと喋ってたの。意識を切ろうにも頭の中に直接響くからそれもできないし、堪ったもんじゃなかったわ」

 はぁ、とため息を吐く怜。道理で朝見たとき、げっそりとしていたわけだ。

「簡潔に話すと、コトブキは結婚寸前に事故で死んでしまって、奥さんになるはずだった恋人と繋がれたんだけど、そのすぐあとに彼女も強盗に遭って殺されてしまった。死者と死者は繋がれないから、そのまま恋人の魂魄は『死海』に流れ……もう一度会いたいために迷府を占拠。でも思い通りにいかず、今回の事態を引き起こした、って感じね」

「なんつーか………不憫な話だなぁ」

 今も迷府にいるであろう琴吹と『死海』に別れた恋人を想い、軽く遠い目をしていると、横から辛辣な言葉が飛んできた。

「どうせ、同情票集めでしょ」

「あれ? そういう泣ける話には弱いはずの怜がめずらしいな」

 怜を窺うと、怒っている、というよりは、疑っている、という風に見える。

「なんとなくの直感でしかないんだけどね。その話をストーリー仕立ての人形劇でやったのよ。あの東京タワー使って映像出して、ね。それがどうも作った話っぽく思えて仕方がなかったの」

 俺は見ていないのでわからないが、怜がそう思うのならおそらく俺も同じ気持ちになっただろう。ということは、琴吹に傾倒し心配するのは間違いなのだろうか。

「ふん、恋人が殺された、ね。動機としては十分だけど、確かにありふれた復讐劇だよな」

「そう。それともう一つ、気になることがあるの」

「お、おう。なんだ?」

 ずいっと身を乗り出してくる怜に対し、少し体勢を仰け反らせる。

「燐のファンクラブについては、シュンちゃんはどう思ってるの?」

「話題の転換が激しいな!」

 思わず全力でツッコむほど、怜の思い出し方は頓狂だった。

「ま、まぁ、そうだな……俺が燐のファンというか、応援しているのは間違いないからな。俺が不満なのは、暁生でさえ何も言わなかったことだ」

「じゃあ、言った方が良かったのかな」

「……お前、知ってたのか?」

 訝しげな目線を向けると、怜は、何をいまさら、という顔をしていた。

「当たり前じゃない。ワタシの加護対象には、もちろんリンも入ってるのよ。シュンちゃんとリンについて知らないことはないわ」

「言われてみればそうだな。で、なんで黙ってたんだよ?」

「怒るかな~、と……あと、リンはおれだけのものだ! ってずっと言っててほしかったし」

「そんなこと言った覚えないんですけど!?」

「寝言だよ、寝言。言ったでしょ? 知らないことはないって」

 寝言とか、意識して制御できるもんじゃないぞ。これからは常に気を張らないと、弱みを握られる一方じゃないか。

「じゃあ、リンのファンクラブを認めるの?」

 俺は一度、思案してから答えを出した。

「『迷廻』に行った時点で、人が人を想う形、ってのは無限大なんだ、と知ったからな。今更他人を否定できるはずもないだろ」

 それを聞いた怜は、なぜか、よよよっ、と泣き出した。

「……なんで、ウソ泣きしてんの?」

「シュンちゃんも成長したんだなぁ……って感心しちゃって」

「怜も魂が生きてる年数は一緒だろうが!」

 朝の静寂を破る大音声。その余韻が消えるかどうかという時に、後ろから足音が聞こえてきた。俺以外には怜を見ることはできないので、端からは、俺はひとりで騒いでいるように見えてしまう。最初はこのギャップに苦労したものだ。最近は慣れてきたと思っていたのだが、やってしまった、と思った時にはすでに遅く、音はすぐ後ろまで迫って来ていた。どうか、無視してくれる人でありますように、と祈りながら振り向こうとすると……

「あれ? 俊輔さん?」

 聞き慣れた声がした。

「燐? なんでここに?」

「俊輔さんこそ、こんな朝早くに珍しいですね。何かあったんですか? さっき一人で喋っているように見えましたけど、もしかして……」

 俺が祈ったのは、無視してくれるやつだったけど、それ以上の幸運だったようだ。なんたって燐は……

「もしかして、そこにお姉ちゃんがいるんですか?」

 燐は、怜の存在を信じているのだから。

 燐曰く、信ずる理由は至極簡単、だそうだ。

『だって杜野怜はわたしの姉ですから。……何より俊輔さんが言うことですから、全て信じられます……』

 最後の方は俯いてよく聞こえなかったが、考えてみれば当たり前のことだ。怜は俺を選んで糸を結んでくれたが、燐への想いも紙一重だったはず。それと同様に、燐も姉を想っているだろう。肉体は死んでしまっても魂はここにあるんだ、と信じる、信じたいのは当然のこと。

 それが昨夜、怜の言っていた姉妹の絆、というものだろう。

「さすが、よくわかったな。この状況を理解できるのは燐だけだから、助かったよ」

「いえ、そんな……」

 燐ははにかみながら少し顔を赤らめた。そこでようやく燐の恰好に気付く。

「そういえば、なんで燐はここでジャージを着ているんだ?」

 それを聞いた燐は、自分の姿を見下ろして……(この間五秒)……あわわわっっ、と擬音が聞こえるほど盛大に慌てだした。

「あ、あの、これはですね、もうすぐスポ選も始まりますし、その準備と言いますか、トレーニングは欠かせないですし、ジャージを着ているのは汗かいても大丈夫なようにで、汗といってもそんなにかいているわけではないので匂いとかしないと思いますし、朝お店に行く前には必ずお風呂入ってますし……」

 そろそろ止めないと、後ろにいる姉からの視線が怖い。ということで、頭に手を乗せ軽く撫でる。

「大丈夫だって、燐。燐が頑張ってることも、赤色が好きで、練習着からジャージ、ラケットまで、赤色で統一してることは全部知ってるよ」

 頭を撫でられて一瞬、真っ赤に染まった燐の顔だったが、すぐに怒ったような表情で宙の一点を睨みつけた。

 ちょうどそこは怜のいるところで、燐には視えないはずなのだが。やはり姉妹の絆というものか。

「通訳……しようか?」

「いえ、大丈夫よ」「大丈夫です」

 さすが、というべき反応で、二人に拒否された。いや、拒否されたというより、分かりきった問いをして、至極当たり前の答えが返ってきただけだ。

 かといって、俺も何も分からず、聞いたわけではない。何せ、赤色情報は怜に教えてもらったのだから、この状況は予想の範疇ではある。

 数秒間待っていると、二人の脳内テレパシーが終わったのか、どちらかともなく目線を逸らした。むしろ、やはり機嫌が悪い燐の方がソッポを向いた感じだ。

 ふと、思ったことがあるので、燐に聞いてみる。

「そういえば……燐は、自分のファンクラブのことは知ってるのか?」

 すると燐は、一瞬こちらを見て怒り顔から困り顔へと変化させ、また少し俯いた。

「一応聞いたことはあります。好いてくれるのはありがたいと思っていますが、一介の中学生であるわたしに、ファンクラブは大仰すぎるとも思っています」

「なんとも曖昧な答えだな。何か思うところがあるのか?」

 燐の様子は、言いづらい、というよりも、半信半疑なことに期待してしまっているような目だった。

「えっと……聞いた話だと、俊輔さんが会長だ、とか……それはその、俊輔さんが作ったファンクラブということですか?」

 ああ、なるほど。期待の眼差しはそういうことか。自分でも意図していないものだったので、そういうことになっているのを、すっかり忘れていた。

「……残念(?)だけど、あれは俺のしらないところで勝手に進められた話でな。仲が良いから、という理由で祭り上げられた地位だよ」

「そう……ですか……そうですよね。人付き合いがあまり上手でない俊輔さんがファンクラブなんておかしいと思ってました」

 ……そんな苦しそうな笑顔をされて、俺が耐えられるわけがない。俺の罪悪感、燐の苦しさ、双方を溶かすために燐の頭にぽんっと手を乗せる。

「確かにファンクラブの会長は成り行きだけど、俺が燐を大切に想う気持ちは、会員全員を合わせたって勝てやしないさ」

 だが、燐の顔はなお晴れない。

「俊輔さん、前々から聞こうと思っていたことがあるのですが……」

 俯いた顔を上げる代わりに、先程とは逆の、答えを聞くことを怖がっている様子の質問がきた。

「俊輔さんが、わたしを大切にしてくれていることは、わたし自身とても嬉しいことです。ですがそれは……お姉ちゃんの、杜野怜の妹、だからですか? それとも、杜野燐個人として、言うなれば異性として俊輔さんの恋愛対象に入っているのでしょうか?」

「「えっ!?」」

 唐突すぎる燐の質問に俺だけでなく、怜も驚いたようだった。だがそんなことを確かめる余裕もなく、ただただ何時にない燐の強気に、気圧されるだけで何も返す言葉が出てこない。

「えっと……」

 だが、この場合、沈黙、または言い淀むことが回答のひとつだった。

「俊輔さんは小さい時から知っています。最初の記憶は三歳の時、転んで泣きそうだったわたしの頭を撫でて『大丈夫だよ』って言ってくれました。おそらくその時から慕っていたんだ、と思います。ですが、当時は兄として。もちろんはっきりこうだ、と言えるほどの年齢ではなかったですが。それが変わったのは……」

 ここで一度言葉を切り、目を伏せる。

「……お姉ちゃんがいなくなった時です。あの時、俊輔さんの泣きじゃくった顔が可笑しくて」

 思い出したようにふふっと笑う。

「可笑しいって、お前な……」

「あっいえ、バカにするとかそういうマイナスな意味ではなく……。なんというか、わたしを守ってくれていた人もこんなに脆くなるんだな、って思って。七歳だったわたしに『守ってあげたい』と思わせたのですから、相当凹んでいたんですね。家族であるわたしよりも泣くので、泣くタイミングを失っちゃいました」

「あぁ、そんなことも、あったかな……」

「ワタシの知らないシュンちゃん……」

 ため息を吐く俺の後ろで、何かに期待するような目をキラキラさせている幽霊がいたが、とりあえず今はそういう内容の話ではない。

「でも同時に理解してしまったんですよ。俊輔さんがどれだけお姉ちゃんのことが好きだったかを。到底勝てるものじゃないなって……だからわたし……」

 燐は、ぐっと拳を握る形にして、まっすぐにこちらを見た。

「お姉ちゃんを超える決意をしました! 最終目標は、俊輔さんにわたしを見てもらうことでしたが、お姉ちゃんのどこを好きになったのかはわからなかったので、とりあえずあらゆる能力の向上を目指したんです。運動以外はそれなりにハイスペックなお姉ちゃんを超えることは容易ではなく、数ヶ月を要してしまいましたが……」

「運動以外ってどういうことよ! まぁ確かに、走り回るのとか苦手だったけど」

「まぁまぁいいじゃねぇか。事実は事実だし。で、その途中で、俺が怜の糸に気付いてしまった、ってわけか。しかし、二年離れている姉に追いつけ追い越せなんて、よく考えたな。しかもそれを数ヶ月で……」

「いえ、いくら小学生とはいえ、二年の差を縮めるなんて、そう簡単にできません。確かに勉強も運動も最低限の努力はしましたが、それはわたし自身の好きなことだったんだ、と後で気づきました」

「文武両道なんて、さすがワタシの妹ね!」

「勉強も運動も両方好きで、両立させていることが、燐の凄いところだよな」

 改めて感心するが、それに対し燐は首を横に振る。

「でも結局、能力の向上は、俊輔さんを振り向かせることには直接繋がっていません。だって競争相手が絶対的に対等ではないのですから」

 まぁ確かに、時間に制限のある生者と、ある意味自由になった死者では、できることからして違ってくる。競うためには、基本的に同じ土俵に立たないと意味を成さない。

「じゃあ、燐は何で怜に追いついたと……?」

「気持ち、です」

「はっ?」

 あまりにも簡潔な答えに、今までの前口上はなんだったのか、と疑問に思う反応をしてしまった。

「気持ち、って……そんな曖昧な……」

「曖昧なものではありません。はっきりと口に出して宣言できることです」

 一旦、言葉を切った燐は、覚悟を決めたようにそうはっきりと宣言した。

「わたし、杜野燐は、天聡俊輔さんのことが好きなのです。もちろん、兄ではなく、異性として」

「「…………」」

 予想はしていた。だが、俺の覚悟が足りなかったのか。燐の宣言に対し、言葉は出ず、ただただ沈黙のみが場を満たす。だが俺の後ろ、怜の沈黙は俺とは別種のものと感じる。言葉が出ないというより、これ以上言うことはない、といった感じだ。

「燐………俺は………」

「ああ、ストップです、ストップ! えぇと、答えを聞くために、告白したのではありません。一種の宣戦布告です」

「布告、って誰に、何のだよ?」

 燐は宙の一点を見つめる、再び、俺の後ろにいる怜を(度々言うが、燐には怜が見えていない)。

「もちろん、実の姉に、俊輔さんは生者として、わたしの傍にいるべきだと」

「「…………」」

 今度の沈黙は少し毛色が違う。それは燐の言葉に違和感を覚えたからだ。

「生者……として? とはどういう意味だ?」

「?? そのままの意味ですが……。別に俊輔さんの言葉を疑うわけではありませんし、お姉ちゃんの存在を信じないわけでもありません。ですが……やはり、というべきでしょうか。死者と生者が共に暮らし成長し生きている、と錯覚することを、認めることはできません」

「お前それは……八年前にも説明して、受け入れてくれたと思っていたんだが……なぜ今になってそんなことを言い出すんだ?」

 少し問い詰めるような言い方になってしまったかもしれない。しかし、俺と怜の絆を否定することは、たとえ燐であっても俺には許しがたいことに感じた。燐は、そんな俺の詰問にも動じず、答える。

「それはあくまで、小中学生の環境での話です。わたしも来年から高校生になりますし、現実に対し思慮深くならなければいけない時期だと、自身で判断したからです。それに今更の話ではありません。言ったはずです、前々から考えていた、と」

 燐の毅然とした態度は、俺も怜も気圧されるのに十分なほどだった。それは、その燐の指摘は……内世界に閉じこもった俺たち二人とも、どこか隅で感じていたことだったから。

 しかしだからといって、すぐに内世界を否定できるほど、俺たちは互いを軽く想っていない。

「燐、そう簡単に怜との絆を切れるわけは……」

「はい、分かってます。だからこその宣戦布告です」

 そこで彼女は、今朝出会ってから初めて笑った。

「これからですよ、わたしと俊輔さんの物語、第二幕は!」

「トレーニング中なので、失礼します」と一礼してから、燐は昇り始めた朝日の光を受けながら去って行った。それを見送る俺たち。それまでほとんど口を開かなかった怜が、言葉を発する。

「……今、何を考えているの?」

 十数年の付き合いの俺たちにしては、めずらしい質問だった。でも……

「さすがに、わからないよな。今の燐の宣言からじゃ……」

 俺は自嘲気味に笑う。

「俺が一番大事に想う人は怜、お前だ。それは変わりない。今は、な……いや、これからも一番は変わることはないだろう。それが二人になる、かもという話だ」

「それは……ワタシたち二人、どちらかを選ばないということ?」

「いや、選ぶさ。二人ともを守る道を。怜が在る『迷廻』も、燐が生きる『生界』も二つとも護ってみせる」

「じゃあ、琴吹のはどうするの?」

 逡巡……のち回答

「いや……燐の感情は生者ならではのものだ。彼女を守るということは、やはり生は棄てられない。混ざったらダメなんだよ。だから、琴吹には乗れないな。断固反対!」

 先ほどの燐のように、拳を握る。

「でもワタシたちが反対したとところで、巨大な権力に抵抗するいち市民みたいなものよ? 過半数超えたら統一世界は完成するみたいだし」

 そして、すぐにそれを解く。

「具体的な策は……」

「……何も考えてないのね……」

 だって、しょうがないじゃないか。今思いついたばかりだもの。だがさらに、一計を思いつく。

「いっそのこと、琴吹の悲しみを解決してやったらいいんじゃないか?」

「悲しみを? 解決?」

 さっき怜に聞いた話を思い返す。

「確かあいつの動機って、恋人を殺されたことなんだろ? なら、どうにかして、その恋人を連れて来られれば……」

「どうにかして、ってどうやるの?」

「…………どうやるんでしょうね?」

 はぁぁ、と横で盛大にため息をつく霊・もとい怜。呼吸は必要ないので、もちろん息は出ていないが、落胆の意を示すのに、ため息は有効な手段なのよ、と以前、怜が言っていた。

 な、なんだよぅ……これでも足りない頭で必死に考えてんだぞ……という視線の抗議も、わかってる、わかってるから……と視線を外されることにより、却下された。



 その日の朝も、『生界』は何も変わらず回り続けていた。

 『迷廻』での出来事など素知らぬように。実際に状況を把握しているのは、今の『生界』にいる人間の中でも一握りといないのだが。

 その中の一人、天聡俊輔。

 八歳の時に怜を亡くし、それ以来、他人との付き合いが怖くなった。他人の発する感情に対し、自分がどのように対処すればいいのかが、わからない。普通なら、多くの人と交わり、経験を積んでいくのだろうが、少年にとって世界とは、天聡家と杜野家のみ。そんな未知の事象に立ち向かう時ほど、臆することはない。少年の場合それは、人間関係という人生における最も重要と言えるものだった。

 少女を亡くしてからの数ヶ月、少年の心はボロボロだった。目に意思は宿らず、身体からは生気が抜け、自分の言動にさえ彼が意識を向けることはない。むしろ、哀しみに支配されていなかった分だけマシだったのか。そうなってしまえば、自らの命を絶つことも辞さなかったのかもしれないのだから。

 そして少年は救われる。あの日取り逃がした、少女の笑顔に触れることによって……

 事実として、その笑顔は亡くなった少女本人のものではない。彼女の妹・燐のものだった。だが、心が病んでいた少年には真と虚の区別はつかない。数日間、本気で怜が生き返ったのだと主張し続けた。

 そしてそれも終わりを告げる。少女から目覚ましの平手を、左頬に受けることによって……

 少年は心を取り戻す。それは同時に、哀しみを、怜が死んだという事実を認識しなければならないことだった。彼は泣いた。一生分の涙を出し尽くしたのではないのか、というほど泣いた。その間、ずっと慰めていたのは、もちろん燐だ。そうして漸く少年は立ち上がる気概を見せるようになる。

 ――数週間後――少年と少女、俊輔と怜は再び出逢う。

 二度目の始まりの鐘が鳴る。それまでが怜の知らない(むしろ俊輔も意識がないが)燐と俊輔の物語――


 自分(達)しか知らない物語がある……それが燐を強気にさせた要因である。

 スポ選の件でもわかるように、自分の姉は、何かあればすぐ俊輔に告げ口をしてしまう。いや理由は分かっている。嬉しさを誰かと共有したい、というのは誰にでもある感情だ。だがしかし、それでも俊輔には、いの一番に報告したい。父や母よりも先に、『あ、あたまを撫でてもらいたい……のかな』という気持ちでテニスを頑張っている自分が否定できない、と最近気付いた。

 昔……幼稚園のころは、姉と自分と俊輔さえいれば(両親は言わずもがな)、世界はそれがすべてだ、と本気で信じていた。

 それが今の――恋、と呼ばれる気持ちに昇華されたのはいつのことだろうか……

 記憶に残らないほど自然に、この人がわたしの運命の人なんだと信じることができたのは、なぜなんだろうか……

 それは彼女の中で、永遠に解決を見ないであろう問題として認識されつつあった。

 而してそれは、今となっては大した事柄ではない。今、最も大切なことは、幼稚園のころより、姉が知らない空白の数ヶ月より、絆を取り戻してからの数年より、そして今この時より……これからずっと先、天聡俊輔が世界中の誰よりも好きだ、と公言できることなのだから――


 そんな気持ちを知ってか知らずか、燐の亡き姉・杜野怜は今日も授業風景を観察する。

 一日の大半を『迷廻』で過ごす彼女らは、それぞれ思い思いに行動する。まだ見ぬ『迷廻』の探索を行う者、気が合う仲間同士で駄弁る者、そして一日中寝倒す者(怜は三番目)。そんな日常を送る彼らも、琴吹の演説に対しては戦々恐々と……している者は、ごく一部だった。やはり彼らの大切にすべきは、自分たちの幸せであり、それを侵す事象には立ち向かうが、その限りではないもの(琴吹の件はこれに当たる人が多かったようだ)は我関せずを貫くようだ。

 杜野怜も実は、我関せずを貫くつもりでいた。大変な出来事が、とは言ったが、どこかイベント程度にしか考えておらず、世界が統一されようと、生者死者の区別が無くなろうと、俊輔との絆さえ保つことができるのなら、それでもいいと思っていた。

 だが、俊輔は違った。燐の告白というきっかけもあったろうが、やはりそれはきっかけでしかなく、俊輔自身、『生界』『迷廻』『死海』三つの世界が均衡を保ってこその狭間であると考えていたせいであろう。

 そして燐の「生者として……」という言葉の意味。九年間で尽きてしまった自分の人生を思うと、それは羨ましくもあり妬ましくもあり、かつ寂しさも入り混じった複雑な感情図を造り上げていた。もちろん二人のことが嫌いになった、とかそういうことではない。しかし、この『生界』に生まれ出でてから十七年。一時的な別れはあったものの、俊輔の言う通り、魂魄の生きた年数、意識上ではずっと一緒にいた意思の通じ合う二人と、自分が違う意見を考えてしまう……それだけで一抹の不安を感じざるを得ない。

 『迷廻』における絆の消滅……その先が示す場所を誰も知ることはない。いや言い方に語弊がある。誰もが予想しているが、誰も口にしない。すなわち、迷府によって『死海』に送られ、転生のための準備=記憶の消去を行うこと。今まで築き上げてきた関係はリセットされ、新たな絆を構築していく……一聞すると、それでもいいじゃないか、と思う人もいるかもしれない。だが、『迷廻』に依存する人々にとって、死の宣告ほどの衝撃となる。死した者に死の宣告とはおかしい、と思われるが、一度失ったはずのものが、実はまだ持っていて、しかし再び喪失の憂き目に会う……本来の”死”と呼ぶにふさわしかろう。

 そして今――彼女はその運命を、あることのために費やす決意をしている。

 それは、生者としての彼女の想いであり、死者としての彼女の悲願であり、生者たらんとする彼を導く光となること。

 そのためには努力を惜しまない。そのためには自分の考えと違っても俊輔に合わせる。そして必ずこの世界を護ってみせる……

 彼女の人知れずの決意は、快晴の蒼に溶けるかのように、異世界の紅に映えるかのように、両界に染みわたっていった――



 その後の朝も、いつもと変わらず過ごす。やけに燐が笑顔なことに対し、母親が何も訊きに来ないのが、逆に少々気になったが。

 店を出、学校に向かい、教室に着いたところで、ポケットに入れている携帯が鳴った。

 黄叉高校の校則では、一応携帯の所持は禁じられている。だが暗黙の了解として、不測の事態に対処するため、という名目で、所持自体は学校側も認めている。もちろん授業中に無為にいじくったり音が鳴ったりすると、没収されるのだが、それは当然と言えば当然だろう。ただその没収期間が一週間、という現代の若者にとっては驚異的な長さのため、大っぴらに携帯を使用する者はいない。

 一時間目開始まで余裕をもって登校してきている俺にとって、今携帯を開くことに何の障害もない。画面を見るとメール、送り主はクラスメイト・佐崎真彩だった。

《私がよく行くお店は知ってるわね? 相談したいことがあるから、今日の放課後、そこで落ち合いましょう。》

 絵文字なしの簡素な文で、放課後デート(互いにそんなつもりは毛頭ない)の約束が書かれていた。すでに自分の席に座っていた佐崎と、瞬間視線を合わせ、俺も簡素な文面で返す。

《あのスイーツ店、たしか「甘虎登利」っていう店だっけ? でも俺、場所なんとなくしか知らないんだよな。》

 携帯を開くと、焦ったように返してきた。ここからはほぼタイムラグなしのメール会話。

《ち、違うわよ! 学校から『亀』に行く途中のファミレスの方。》

《いや、そっちこそしらねぇよ。俺の行動範囲じゃない場所は無理。そしてなぜお前はメールでキョドってんだ?》

《うるさいわね。あなた、私にも従いなさいよ!》

《嫌だね》

《なんで?》

《昨日は成り行きでそうなったけど、今は冷静に考えられる時間があるし。それに佐崎は俺の恋人じゃない。》

 そのメールが届いたタイミングで、佐崎は目を伏せた。何を考えているかは、わからない……やがて再び指が動き返信が俺に届く。

《いいわ。「甘虎登利」で会いましょう》

 彼女の考えはわからないが、今は素直に返した方が良さそうだった。

《了解。》――と。

 メール会話がひと段落し、自分の席に座ると同時に、誰かに肩を組まれた。

「しゅっんすっけく~ん」

 暁生だった。なんだ? その呼び方は、気持ち悪い。

「あれだけ長い時間、佐崎さんと何メールしてたのかなぁ?」

「お前、見てたのかよ……」

 趣味悪いぞ、というオレの言葉は発されずに、暁生の言葉が遮った。

「趣味悪いとは聞き捨てならないな。教室に入って数分間、佐崎さんと向かい合ってメールしてたら、そりゃぁ誰だって興味持ちますよ、ねぇ?」

 いつのまにかクラスの男子四、五人に囲まれていた。

「ほら、見てみなよ。佐崎さんにも三木島たちが詰問に行ったよ」

「詰問てな、お前……」

 まだ朝の澄んだ空気であるためか、佐崎を含めた三、四人の会話が聞こえてくる。

「ね、真彩。天聡くんと何喋ってたの?」

「え? な、何って……他愛のない日常会話よ」

「それをあんな見つめ合ってするかなぁ……」

「真彩は天聡くんのこと、興味ないの?」

 いきなり核心キタ――、と周りのやつらが騒ぎ出す。佐崎は俺の方を、ちらっと見たかと思うと、態度を決めたようだ。

「あんなやつ、興味ないわよ。あんな重度のシスコンで、一途で、従属癖のあるやつなんて」

 それは、御尤も。ただ、今それを暴露するべきではないだろ、コノヤロー!

(三木島)「ふ~ん、そうなんだ……」

(立華)「ほう、お前にそんな性癖が、ねぇ……」

(佐崎)「な、なによ? 美紀。それがなんだっていうのよ?」

(俺)「ってか、なんで俺と佐崎で、そこまで盛り上がってんだよ?」

 ほぼ同時の質問に、ほぼ同時の答え。

(三木島)「別に、たいしたことじゃないんだけど。真彩が天聡くんと付き合えば……」

(立華)「いやなに、もし、もしもな。お前が佐崎とくっつけば……」

(三木島&立華)「「燐ちゃんをオレ(わたし)のものにできるからさ(よ)?」」

 声が被った意思表明は、バカ丸出しだった。ほんと、めでてねぇな、こいつら。

(三木島)「なによー立華。わたしの恋路の邪魔しようってわけ?」

(立華)「なんだと? 三木島こそ、オレの真似すんじゃねぇ」

(三木島)「なによー」

(立華)「なんだよー」

 あとは、いつも通りのケンカ。そして暁生をを止めるのは俺の役目。

 まったく……振り回される側の身にもなれってんだ……


 時は移り放課後――場所を移し喫茶店――

 スイーツ店として全国に轟く名声を持つ「甘虎登利」。その名前の元の意味とは裏腹に、埋まらない席はなく、行列も途絶えることはない。客層もスイーツ好きの女性たちから仕事疲れのサラリーマン、そして制服、いわゆるメイド服目当てで訪れるヲタクと呼称される種族(?)まで、幅広くリピーターも多い。極めつけは、現会長がその成長を一代で成し遂げた、という事実。あらゆるメディアで報道され、海外進出も目論んでいる、とウワサの、今もっとも旬なデートスポットである。

 その店の二人掛けのテーブルを占める一組の男女。コーヒーとパウンドケーキを注文した男とオレンジジュースとフルーツの盛り合わせを頼んだ女。ともに黄沙第一高校の制服を着ている。学校帰りの俺と佐崎真彩だ。

「しっかし、あの燐のファンクラブはどうにかなんないかな?」

 俺はケーキをフォークで切り分けながら、昨日今日と立て続けに起こった騒動に愚痴る。

「嫌だったら、はっきりそう言えばいいのに」

 ジュースをストローで啜りながら、それに答える佐崎。

 彼らは、昨夜『迷廻』にて発生したテロ行為について、相談するために集まっていた。テロ行為とはもちろん、琴吹の演説のことだ。

 佐崎がなぜ、『迷廻』の出来事を知っているかというと、彼女の姉と”絆の糸”で結ばれているからだそうだ。名前は佐崎絵理。だが今まで会ったことはなく、こちらも踏み込んで聞く体制にはならないので、いまだに顔も知らなかったりする。

「別に嫌、というわけじゃないんだが……燐も言っていたが、好くことに制限はないだろうし、しっかり規律正しく取り締まれている現状なら、口出せる部分がないしな。ただなんというか……好きすぎて争う、ってのは矛盾してるだろ。だから目の前でぎゃーぎゃー言うのは耐えられねぇんだよ」

「むしろ好きだから争うんじゃないかしら。三角関係がいい例ね。まっ今回は不特定多数だけど」

 佐崎とは中学からの付き合いである。知り合った当時は、自分と同じ『迷廻』との繋がりを持つ者が他にいるとは、ましてやそれが身近に現れるとは思っていなかった。発覚は、佐崎の独り言。彼女は姉と話していただけだが、その絵理さんは他人には視えないし声も聞こえないため、見つけるのが俺じゃなければ、危ない人扱いだった。俺もその情景を見て、彼女が同類だ、と直感できた。

「数が問題じゃないんだよ。燐はどこにでもいる中学三年生だぞ。ファンクラブなんて大仰すぎんだって」

「別にファンクラブじゃなくてもアイドル的存在は、学校にひとりくらいいたりするんじゃない?」

「そう……なのか? そういうのって漫画とかの中だけだと思ってたよ」

 それ以来彼女とは、親しい、というよりは同じ境遇の仲間として、相談し合ってきた。他人との接触方法がわからず、無意識下で抑制してしまう俺にとって、怜と燐以外に自分のことを話せる存在として、心の支えとなっていたことは否めない。

「さてと、そろそろ本題に入るか」

「ええ、そうね。え~と、なぜ天聡くんがM気質になったか、だったかしら?」

「いやそれは……俺を取り巻く環境のせいだと思うね。周りの女の子が天然ボケばかりするから、必然俺がツッコみをせざるを得ないという」

「そうは言っても、乗り気じゃないとできない芸当よね?」

「そうなんだよ、そこが問題でさ~。慣れってのは怖いもんで、自分でも結構楽しんでたりするんだよね……って違ぇよ!」

「えっ? なにが?」

「話の主題が、だよ。本題に入ろう、って言ったじゃん」

 ほら見ろ。やっぱりボケが激しすぎて、ツッコむしかできないじゃないか。

「そっかそっか、ごめんごめん。で、なんだっけ? この店のフルーツ盛り合わせになんでマンゴーがないのか、だったよね」

「そうだよな。何が目的で、琴吹は異世界をひとつにしようとしているのか」

「やっぱり彩りって大事だと思うのよね。皮付きリンゴは赤で、ブドウは紫で、メロンは緑色で」

「『迷廻』と『死海』をいっしょにしたって、死に別れた妻に百パーセント会えるとは限らないのに」

「まぁミカンもオレンジ色だけど、色合いのバランスが取れてた方が、よりおいしく見えるしね」

「殺された腹いせに、めちゃくちゃにしたい、とかそんなのかな?……ってズレてるよ、論点が! 今は盛り合わせの話をしてないし、マンゴーは季節の関係もあるから、入ってない時期もあるんじゃないかな!」

「おおぉぉ~~」

 パチパチと拍手する佐崎。感心されるようなことは何ひとつしていないのに。

「さすがだね。ツッコみ職人! こう――ズレてる話の内容まで、深く抉り込んでくる辺りが」

「いらねぇよ、んな称号!」

 肩で息をする俺の向かいの席で、本当に楽しそうに笑う佐崎。こいつのこんな笑顔、初めて見た気がする。

「で、結局、天聡くんはどうするの?」

「どうするって何が?」

「琴吹の件よ。何のために相談してると思ってるのよ……」

「混乱したのは誰のせいでしょうかね?」

 嘆息しつつも、答えを返す。

「俺はもう決めてるよ」

「えっ? ほんとに?」

 素直に驚き、フォークをケーキに突き刺したまま固まった。

「……結論は?」

「琴吹には否定派だ。好くことに制限はない、って言ったけど、やっぱり今この世界に生きている人間の想い、ってのも重要だと思うしな。俺たち、いや俺と佐崎は違うけど、死んだ人間の一方的な力で世界を捻じ曲げるのは、良くない事を引き起こすだろ。何のために生と死があるか、って話だよ」

「……何のため?」

 そう問い返された俺は言葉に詰まる。もともと、燐のため、という気持ちだけであったので、今付け足したような理由を問われると……

「え、え~と、それはだな……人間の……感情が原因かな」

「感情?」

「おう、感情だ。例えば、嬉しさだけの世界だと、皆ハッピーになるかもしれないが、想像してみると……なんか気持ち悪くないか?」

 苦虫を潰したような表情の俺を見て、逡巡した佐崎も同じような顔をする。

「確かに……皆がみんな笑顔、っていうのが理想ではあるけど、現実離れすぎてありえない、という方が強いかな」

「だろ? だからその反面として、悲しみや怒りといったマイナス面の感情が存在するんだよ。生きる喜びと、死ぬ哀しみが」

「で、その感情があるからこそ、一緒くたにするのは問題があるってこと?」

「ま、まぁそういうことだ。納得したか? 今考え付いたことだが……」

 胸を張りながら自身無さげの俺の答えに、佐崎は真剣に考えているようだった。

「いや、別にそこまで考え込まなくても……取って付けたような回答だぞ?」

「どう思うかは私が判断することよ。共感すれば考えるし、できなければ突っ撥ねるし」

 片手を顎に持ってきて思案顔をする。というか、聞いておいて突っ撥ねる、って……いや正論でもあるのか。

「で? それを聞く佐崎はどうなんだ?」

「わからないから、先に聞いたのよ。それなのに、答えを出している、とか偉ぶるから、私が何も考えてない、みたいになったじゃない!」

「偉ぶってないし、それにその二つは別問題だ」

 最早、怒っているのか拗ねているだけなのか、判断しかねる表情で、でもケーキを運ぶ手を止めない様は、自棄食いにしか見えなかった。

「……どうやって決めたの? やっぱり杜野さんのため?」

 軽く俯き、それによって上目遣いになった体勢で、二つ目の質問を投げかけてくる。

「あぁまぁ……直接関係がないわけじゃないんだが……決め手は怜の妹だよ。知ってるだろ? 燐のこと」

「そりゃ、知ってるけど……でも燐ちゃんは『生界』の人間でしょ? なんで関係するわけ?」

 俺は今朝の会話を、簡潔に佐崎に説明する。

「ふ~ん……で、返事は?」

「はっ?」

「『はっ?』じゃないわよ! だから、燐ちゃんの告白に対する返事はどうなった、って聞いてるの!」

「俺の決心までの過程を聞いておいて、食いつく所がそこかよ……」

 ……事ここに至り、俺はやっと、暁生にしか話さないと思っていた事件を、佐崎に喋っていたことに気付いた。表面は平静を装っていても、内心いろんなことで動揺している、ということだろうか。

「……返事はまだ……ってか、燐が聞きたくない、って言ったんだよ」

「そんなの照れ隠しに決まってるでしょ! 女の子待たせるなんて、最低ね! これだから男は……」

「むっ! 今のは聞き捨てならないな。でも、最初ストレートに言われた時に、詰まっちまった俺も俺だけどさ……」と言いたかったのだが、目の前で不機嫌一直線の佐崎を見ていると、これ以上は墓穴を掘るようなので止めておいた。

 燐にはもちろん、ちゃんとした返事を返すつもりでいる。しかし、今まで『妹』として接してきた彼女を、突然『恋人』として考えるのは、やはり無理があるように感じてしまう。その状態で返事をしても、表面的な感情しか掬い取れないだろう。だからこれからは、一人の女の子として、燐を見るつもりだ。その上で、よく考えて結論を出そうと思っていた。

「話戻すけど、結局佐崎の考えはどうなったんだよ? さっきから携帯画面見てるけど、絵理さんからのだろ? 何かまとまるようなこと、書いてないのか?」

 『迷廻』にいる彼女の姉・絵理さんとはメールのような方法で意思疎通をしているらしい。ちなみに俺は、同じく携帯を使うが、通話するような形を取っている。何か誤魔化す方法がないと、一人で喋っているようにみえてしまうので、そこは各自の工夫だ。

 画面を見つめる佐崎は、怒り顔のままフォークを一旦さらに置き、落ち着くためかジュースを一口飲む。

「……姉さんは昨日から《真彩が出した答えなら、全て肯定するわ》の一点張り。でも私は何が善で、何が悪か、まったくわからないの……」

 それを聞いた俺は、一言だけで返す。

「そんなの、俺にもわからねぇよ」

「えっ?」

 俯きがちだった顔を上げ、俺の目をまっすぐ見てくる。

「善悪とか、理屈で考えるから、自分の答えが出ないんだよ。そもそも『迷廻』では、自分たちの欲求のまま事象を起こすことができるんだ。そこに、これが良い悪い、とか、あれは世間体があるからダメだ、とか、考えてるか? 正直、自分たちさえ一緒に居られればそれでいい、ってもんだろ。誰も他人の目を気にしてるやつなんかいないんだよ」

「それは、そうだけど……」

 俺も一口コーヒーを口に含む。砂糖もミルクも入れてなかったので、完全なるブラックだったが、この苦味が先の動揺も隠してくれるような気がした。

「ちなみに、現実的な否定の理由もあるぜ。〈万物想造〉がこの『生界』で実践される危険性だ」

「それは理解できるわよ。何でも出来る、って知った連中が何しでかすか、わかったもんじゃないものね」

「それもあるんだが……俺が考えるのは、もっと違った方向だ」

 佐崎はジュースをストローで吸い上げながら、どういうこと? といった感じで首を傾げる。

「何でも出来て喜ぶのは、悪人だけじゃないという話さ。〈万物想造〉の詳しい定義は、〈最も強い絆の糸で結ばれた二人が想像した事象が創造される〉だ。つまり、例えばそうだな……俺と怜のような幼馴染が、二人で一緒に叶えたい夢を見る。『宇宙に行きたい』とな」

「なんで宇宙?」

「えっ? あぁそこは何でもいいけど。たまたま思いついたのが宇宙だっただけ。んで、〈万物想造〉は、頑張れば将来……とかいうものじゃない。想像したことが今、現実になるんだ。要するに、二人で想像した瞬間、宇宙空間に飛ばされ呼吸できずに死亡、というパターンがあり得るんだよ。あくまで例だが、今のご時世で考えられないことでもないんだ」

 俺の話を理解した佐崎の顔は、青ざめてきていた。それもそのはず。俺自身も、この考えに至った昼休みの終わりに、昼食を戻しそうになり、暁生に大層心配された。

「あ~酷なようだが、俺の想像はまだ終わりじゃない」

 青ざめた顔で、嫌々、と首を振られると胸が痛むが、これも佐崎に考えさせるため、と先を進める。

「さっきの二人だが、まぁほぼ同時に死ぬと思われる。その場合の三世界の定義も覚えているか? 〈相互干渉、つまり、『生界』で死ぬか『死海』から転生するとき、いくら絆が強かろうが、それはリセットされる〉と。死んだ二人は宇宙で彷徨うのか、地上に戻ってくるのは知らないが、浮遊霊のまま互いを認識することもなく、どこに向かうかもわからぬ状態で転生を待つんだ。まぁ次生で新たな絆を築くかもしれないが、前生で遭遇った幼馴染ともう一度会える確率なんて、何億分の一なんだよ。大体の事情を知っている『迷廻』の魂魄は、それを見送ることしかできないのさ。……耐えられるか? そんな世界」

 話し終えて、ぎょっとした。佐崎が……彼女が泣くところなんて、この数年の付き合いで初めて見たからだ。……あと周りの視線も痛い。

「まっ、まぁ、今のは極端な例だよ。『宇宙に行きたい』よりも『宇宙飛行士になりたい』の方が多いかもしれないからな。そしたら、宇宙服を着ただけの集団の完成だ!……尤も、俺はそっちの方を危惧しているんだがな」

 制服の袖で涙を拭きつつ、先を促す視線を送ってくる。

「つまり、夢だけ叶えた未熟者が、菌のように増殖する、ということさ。資格も何も持たないただのガキが、偉そうに『~~になった!』とか、騒ぎだすんだ。今からでも混乱が目に見えるよ」

 少量の毒を吐きながら、何とか場を持たせようとする。それにより、ある程度回復した佐崎が、俺の意見を肯定する。

「……確かに、それは危ないわね。たとえ絆の条件があったとしても、止められそうにないわ」

「まっ、俺もこの理由は後付けだけどね。感情論で他人を説得できるとも思ってないから、朝、佐崎に誘われた時から考えていたんだ」

「それにしても、もうちょっと言葉を選ぶとか、できなかったの?」

「それについては、少し悪かったと思っているよ。理由に辿り着いたとき、納得と嗚咽が同時にきたから、一番手っ取り早いと思った言い方を採ったつもりだったが。やはり刺激が強すぎたか」

「……よく説得できると思ったわね……?」

 呆れたように、ジト目でこちらを見る。

「まぁ、俺の感情と理由を聞いて、佐崎がどうするかは、任せるさ」

「そうね……そんなえげつない想像をする天聡くんが恐ろしい、とかはもう考えないわ」

「えげつない、ね。俺自身もそう思うけどね……」

 少し悲しくなるが、佐崎が考え込み、場が静まってしまったので、俺ももうちょっと気の利いた説明がないかな、と思考を巡らす。

 ――互いに思案する間、数分間。ケーキとフルーツを食べ切り、コーヒーとジュースをそれぞれ飲む。

「唐突なことを聞くけど……」

「んん? なんだ?」

 コーヒーを啜っている最中だったので、反応が少し遅れる。

「最近……数ヶ月くらいかしら? 『迷廻』と、私なら姉と、天聡くんなら杜野さんと、繋がりにくくなったこと、ってない?」

「……はぁ?」

 唐突に、そして可笑しな質問をされて、思わず睨んでしまう。

「そんな表情しないでよ。だから唐突だと前置きしたじゃない」

「いや、すまん。ありえないと思う問いだったから、思わず……えっと、繋がりにくく、って具体的には?」

「私もまだ数回しかないから、原因とかわからないけど……いつもならすんなり結べる糸が、弾かれるみたいな衝撃を受けるの」

「弾かれる? それは向こうが拒否してる、ってことか?」

 元来、『生界』の俺たちと『迷廻』の死者が双方を求めて糸は結ばれる。確かにどちらかが拒否の感情を抱けば繋がれないが、想像したくはないことだ。

「意識の違いってことか? 絵理さんがお前を求めてない、と?」

「……まだ確認してないから、ここからは私の想像だけど……求めてないのは誤り、でも意識の違いはあると思う」

「つまりは……絵理さんが佐崎と一緒にいることより、『生界』での暮らしを強く望んでいる、ってことか」

 怜と繋がってから数年間、考えなかったわけではない事象だ。〈万物想造〉でできる条件は、互いの想いが統一されていること。怜が俺と同じ齢に見えるのは、二人ともが、怜の成長した姿を一致させたからだ。どちらかが成長前を考えていれば、糸を結ぶことはできなかったろう。やはり結構シビアな条件だと思う。

 そしてその〈万物想造〉は、何も姿かたちだけに影響するものではない。おそらく彼女たちは……

「自分が成長したところを姉に見せたい妹と、妹を心配するあまり突き放そうとする姉、か……なかなか難しいすれ違いだな」

「やっぱり天聡くんもそう思う? どうしたらいいのかしら……?」

 再び泣き出しそうな雰囲気の佐崎に対し、免疫のない俺はしどろもどろする。

「そ、そうだな……俺は兄弟いないからわかんないけど……ちょうどいい姉妹がいるし、今度別々に聞いといてやるよ」

 『生界』での時間制限のある姉と、姉との会話を聞かれない妹。確かにちょうど都合がいい。

「うん、お願いしておくわ。じゃあ、今日はこれでお開きにしましょうか」

 気付けば互いの飲み物は空になっていた。行列ができる店だけあって、あまり長居すると申し訳ない気分になる。

 会計を済ませ外に出ると、日はすでに沈もうとしていた。

「送ろうか?」

「大丈夫よ。そんなに遅くはないし、走って帰れば暗くなることはないわ。お気遣いありがとう」

 一礼し「それじゃね」と手を振って去っていく彼女の背中に、寂しさと、何かの決意を見たような気がした……。






第三章 新たな道を示し



「結論から伝えると、可能といえば可能デス」

 目の前の少女は、そう答えた。少女と出会ったのは三十分ほど前。


 半日遡った佐崎との会談の解散後は、いつも通り家事手伝いで時間が過ぎ、学校の宿題を終わらせ、日が変わると同時に、『迷廻』へ来た。何をするでもなく、怜とあたりをぶらついていたのだが――


「ぃぃぃぃぃいいやあああああああ!!!!!」


 上斜め前方から落ちてきた(?)塊に胸を強打され、一緒に倒れこみながらも激しく咳き込む。

「だ、大丈夫!? シュンちゃん!」

 怜が心配して駆け寄ってくるが、俺はそれ以外の衝撃に襲われていた。塊を抱く体制になっているが、それが人の形を取っている。そして、手で掴む感触が「もふもふ」なのだ。間違いでないとすると、これは背中の方、だろうか。

「ぁっ……ぁふっ……」

 ……胸元から声が聞こえる。手を「もふもふ」から離すと声も途絶える。掴むとまた……、と遊んでいると、いきなり顎を強襲された。

「ナニしとんじゃ、ボケェ?」

 胸と顎へのクリーンヒットに悶え苦しむ。呻きながらも、荒い呼吸のする方へ目をやると、俺の胸元までしかないんじゃないか、というくらい小さい女の子が、背中を庇うようにして立っていた。

 見た目、白い塊でしかない。ショートボブの髪も着ているワンピースも透き通った肌も、すべてが白い。涙目で睨み見上げられる様は嗜虐心を……間違えた、罪悪感を覚える。

「えぇっと……誰?」

 女の子は一つ咳払いをすると、まるでそれまでのことがなかったかのように、涙を引っ込めて自己紹介を始めた。

「アタシの名前は、アーリャ・サクラン。『神界』における“神使”をやっておりマス」

 『シンカイ』ってどこ? とか、“シンシ”って何するの? とか、どうして上から降ってきたの? とか、聞きたいことは山ほどあったがとりあえず……

「その背中の“それ”は飾り? それとも本当に生えてるの?」

 アーリャと名乗る少女は、くるりと振り返り“それ”をピコピコと動かし

「この“翅”は本物デス」

 と、答えた。

「さっき声がおかしかったようだけど?」

「そうでしタカ?」

「なんか感じてるみたいに……」

「そんなことないでスヨ」

「もしかして、性感帯?」

「ちゃうゆうてるやろ! アホォ?」

 結論=面白い。どうやら、感情が高ぶると、方言が出るらしい(二回とも俺が高ぶらしたんだが)。はぁはぁっ、と肩で息をしながら、俺を睨みつけてくる。こんな小さい子に睨まれたら、さすがに罪悪感しか湧いてこないな。つーか、隣からの視線の方が痛い。

「悪かった、すまん」

 俺の謝罪に、とりあえず矛を収めたのか、軽く深呼吸をして再度向かい合う。

「翅は感覚が鋭敏なだけデス。っと、それはもう済んだ話題でスネ。どうせ、いきなりでわからないことだらけでしょうから、何でも聞いてくだサイ。一つずつ答えていきますノデ」

 随分な対応だった。じゃあ、お言葉に甘えてさっき思いついた順に質問しよう。

「まずは……『シンカイ』ってどこ? っつーか、何?」

「ハイ。『神界』とは、神の住まう世界。天井の上の監視者、と称し、『生界』『迷廻』『死海』の三世界を創り管理することを生業としている者が在る世界デス」

「三世界を創り管理……? でも『神界』なんて聞いたことないな」

「それは当たり前デス。基本的に管理者という者は表舞台に立たないですカラ。なので、三世界の住人はもちろん、今迷府にいる琴吹獅童も知らないコト」

 要するに、生者にしても死者にしても、今まで信じ続けてきたカミサマが実体を伴って顕現なされた、ということか。

「じゃあ、次。“シンシ”とは?」

「“神使”とは、神の使いと書きまして、文字通り『神界』から三世界へ派遣される使者の役割を持ちマス。『生界』での世界情勢のバランス調整、『迷廻』での掟、〈万物想造〉と〈不干渉〉の一線を越えたものの処分、『死海』での転生までの安全確認などデス。まぁトラブル処理班の意味合いの方が強いですケド」

「それなら、今回のコトブキの一件は、すぐに片付くんじゃない? 神使の力で、彼を消し去ることはできないの?」

 怜の素朴な疑問に、アーリャと名乗る神使は首を横に振る。

「アタシたちの規則では、あくまで〈掟〉破りに対する処分だけが決められているので、琴吹獅童の一件に関して、彼は自らの意思でトップに立ち、〈掟〉を改ざんしただけですから、対象にはならないだろう、という御上の判断デス」

「三世界に影響する力を持ちながら、様子見とは……随分と勝手な神だな」

「力、といっても、所詮は監視者ですカラ。調整者であって破壊者ではないんデス」

 これも理解。カミサマであっても、この事件を収拾できない、いや、するつもり(今のところ、と思いたい)がない。その世界の〈掟〉に背かない限りで、俺らが対処するしかないということ。

「…じゃあ、三つ目。どうして上から降ってきたんだ? あれか? 天井の監視者、だからか?」

「……いえ、上から降った、というより、単に『神界』から転送される際、出現する座標を間違えてしまっただけデス。普通ならちゃんと地面にすぐ降り立てる位置に現れるのですが、三百メートルほど上空に出てしまいまシテ……なにぶん、新米ですカラ」

 こっちは理解するまでもない、想像しうる簡潔な理由だった。

「四つ目。その“神使”が俺たちの前に現れて、何をどうしろ、と?」

「アタシが受けた役目は、『神界』と“神使”についてと三世界との関係性を示唆し、それを聞いた魂魄がどう判断するか見届けヨ、ト。また、その魂魄が行動を起こすつもりなら、可能な限りで手伝え、とも言われていマス」

「質問を受け付けたのもその役目ゆえ、か」

 頷くアーリャ。話の展開が早かったのは、彼女の仕事観からきたものだった。

「行動に起こす、ね……具体的には“神使”って何が出来るの?」

「その質問については、答え兼ねマス。なぜなら、やること自体は多すぎて、説明に時間がかかりすぎますノデ。実際、めんどくさいデス」

「……本音が出たわね……」

 誤魔化すように、もう一度咳払いをするアーリャ。

「アタシはあくまで補助のために今ここにいまマス。行動を起こすか、何をするかについての決定権はアナタ方にあるので、アタシは口出ししまセン」

 結局やっぱり、様子見、ということじゃないか。

「他にもこうやって、胸と顎を強打された魂魄がいるのか?」

「ア、アホォ? 胸と顎を強打したんは、ウチだけや? ……い、いえ、アタシだけです、三世界に降り立ったノハ」

 おちょくると極端に面白くなるな、こいつは。

「一人だけ……なら、なんで俺たちなんだ?」

「抽選デス」

「えっ?」

「神王様が『迷廻』にいる魂魄の名簿をパラパラとめくり、たまたま止まったページのたまたま指差した名前が、そこにいる「杜野怜」だっただけデス」

「……それはどれだけの確率なんだよ?」

「今現在『迷廻』の名簿に登録されている人数は、ひと月前の界勢調査によると、延べ一億四十九万六千四百五十七人。少しずつですが、今この瞬間も増え続けていマス。其れ分の一ですから、まぁまぁの確率でスネ」

 基本自分本位のこの『迷廻』に、総勢どれくらいいるかなんて考えたこともなかった。まぁまぁどころではないくらい、小数点以下のゼロが多い。ましてや、たまたま選ばれた魂魄、またはその絆の糸で結ばれた人間が、琴吹の件を解決できる、かもしれない方法を考えている、という確率は、それこそ奇跡と呼べるものだ。

「これも運命なのかな……。なら、俺の選択肢は、行動を起こす、だ」

 アーリャは少し、いやかなり驚いた表情を見せた。

「これは……意外でスネ。『迷廻』の魂魄は総じて自分本位であると聞いていたノデ……正直何もなければラッキー、と考えていまシタ」

「お前……感情の高ぶりがなくても、本音出まくりだな」

 呆れ顔を向ける俺を、再び咳払いで一蹴し、彼女はペースを持ち直す。

「わかりまシタ。では、その先をお教えいただけまスカ? アナタが何を考え、アナタ方がどのように進んでいくのカ、ヲ」

「その前に一つ、確認させてもらっていいか?」

「ハイ?」

 昨日の佐崎との会談と、アーリャが現れてからの会話を思い出し重ね合わせる。

「さっきお前が言っていたことだが、『神界』は三世界の監視者で、『死海』についても、魂魄の安全確認をしている、ということだったが」

「その通りデス。いくつか詳しく説明すると、『死海』に入った時刻、『生界』に引き寄せられた時刻のチェック。この差が前世として『生界』に存在した時間よりも短ければ、完全に記憶が消えていない状態で、次の生を受けることになりますカラ」

「それだと何かまずいのか?」

「特別まずい、ということもないですが……前世の記憶と混線して時々人格破綻者が生まれるくらいデス」

「淡々と話してるけど……それって大丈夫なの?」

「アタシたちにとってはそれほど稀有な事例ではないので、重要視されていませンガ……『生界』では大丈夫ではないのでしょウネ。異常者という存在は、集団の中に居れば敬遠されるものでショウ。まぁ自分が見ている風景と頭の中に浮かぶ光景が違えば、誰だっておかしくなりマス」

「それは確かにそうだが……何とかできないのか?」

「無理でスネ。そもそも転生とは、『生界』で生まれた肉体と『死海』を彷徨う魂魄が共鳴し合い行われる行為デス。アタシたちはそれを見守ることしかできません。もしも死や転生に神の力が影響した場合、アタシたちにとっては最大の禁忌、となりますノデ」

 取りつく島もなく断られた。だが、彼女らなりのルールがあるのなら、それが守るべきものならば、仕方のないことだ。

「話を続けるぞ。で、俺が聞きたいのは、ある特定の魂魄が今どこにあるか? また、それを『迷廻』に送ることはできるか? ということだ」

 予想の斜め上をいった質問だったのか、アーリャはしばらく考え込む仕草を見せた。

「結論から伝えると、可能と言えば可能デス」

 時間は再び三十分後を指す。

「ただし、前者に限った回答デス。後者に関しては……アタシはあくまで監視者であり、それぞれの世界の情勢を管理するノミ。やることは多いと言いましたが、出来ることはそんなに多くはないのデス」

「そうか……まぁ送ることに関してはダメ元だったからまだいいとして……今どこにあるかも曖昧な答えだったけど」

「確かにアタシたちは、出入りの時刻を監視していますが、その間の行動はアタシたちにもわかりまセン。生死を操作できない、というのは、干渉できない、とイコールなので、結局のところ、彼ら任せで前生を振り返ってもらっていマス。また、〈掟〉破りなどで魂魄を『死海』に送ることはありますが、その逆はあり得まセン。処罰として送還はあっても、褒美として召喚はないですカラ」

 アーリャは、お手上げ、といった表現で首をすくめる。

「今のは理由の否定部分デス。肯定の部分は……時間を掛ければできなくもない、といったところデス。まず名簿から『死海』に入った時刻を調べ、それからどれくらい経つのか、『生界』における存在年数も関連事項なので、それも含めて歩測を計算、現在地を割り出す、という方法がありマス。ただし、普段はしない行為で慣れていない上に、通常業務の合間を縫うとなると……最低でも三日、くらいは見積もっていただきたいデス」

 丁寧だが、徐々に自信なさげな説明になるアーリャ。余程難しいと思われるミッションなのか、俯きかけの表情は優れない。だが、その丁寧な説明に対し俺は、その行為に納得の意を示す。

「三日……次の月曜日か。琴吹が設定した期限は来週火曜。ぎりぎりだけど、大丈夫かな?」

 曜日を指折り数えながら、さらに問いかける。

「なら、あと一つ……いや二つ質問。この『迷廻』から魂魄を『死海』に送ることができるか? そしてちゃんと帰って来られるか? だ」

 一瞬「人の話聞いてた?」という顔になったが、後半の部分を聞いて、今度はすぐに返答する。

「えぇ、それはできまスヨ。二つとも、というよりは、この場合それは、一つの行動にまとめられマス。つまり……そうですね、竿に餌を括り付け池に放り込み、餌を取らせずに引き上げる、といった感じデス。竿、釣り糸はアナタ方の絆の糸、池は『死海』、そして餌は魂魄。今回でしたら天聡俊輔になるんですカネ」

「餌……ぷぷっ」

 怜が餌という言葉に反応する。おそらく彼女の頭の中では、糸に吊るされた俺が大海を彷徨っている風景が浮かんでいるのだろう。

「なぜ喩えが釣りなんだ?」

「これは『死海』の絶対的なルールなんでスガ……魂魄が『死海』に入ると同時に、転生の準備、つまり記憶の消滅が始まりマス。それは『生界』からでも『迷廻』からでも変わらずで、アタシが天聡俊輔を『死海』に垂らした時点からそれは起こるのデス」

 アーリャの言葉を理解するなら、それは絶望ともいえることだ。

「つまりは、『死海』に入った瞬間から記憶が消滅し始め、今話していることも、『生界』でのことも忘れていく、ってことか?」

「ハイ。そして消滅は一番新しい記憶からなので、誰を探しているのか、なぜここに来たのか、下手をすれば、琴吹のことさえも忘れてしまう可能性がありマス。ただ、消滅にかかる時間は、刻まれた記憶の時間とほぼ同期間となるので、早ければ早いほど失う記憶も少なくなりマス。そのために、探す魂魄の現在地を把握することに、手間を惜しんではいけないのデス」

 ……ちょっと感動した。こいつはこいつなりに、俺たちのこと、『迷廻』のことをちゃんと考えてくれていたことに。さすが“神使”と名乗るだけはある。つまり、『迷廻』から俺が記憶消滅にならないか気遣い、目的の魂魄を見つけられるよう導き、タイミングを見計らって引き揚げてくれる。するって~と、なんだ? 俺の役目は……

「やっぱり餌じゃねぇか」

「ハイ。って今頃納得したのでスカ?」

 『迷廻』から俺が記憶消滅にならないか気遣い(監視し)、目的の魂魄を見つけられるよう導き(釣り糸を操作し)、タイミングを見計らって引き揚げてくれる(竿を引く!)。完全に上から目線じゃねぇか!

「しかもただの餌じゃありませンヨ。今回の釣り堀に住む主は、記憶消滅という大物デス。しかしそいつの食らいつきを躱しながら、目的の、自分が落とした長靴を引っ張り上げる、という餌側にも高度なミッションなのデス!」

「いや、長靴は落としてないから。そしてその理論では、魂魄が長靴扱いになってるんだが」

「『生界』を観察している時、たまに嬉々として長靴を釣り上げている人がいるので、自分で落としてまた釣る、という行為を繰り返していると思っていまシタ」

「どんな思い込みだよ……全国の釣り人に怒られるぞ。あれは、以前に誰かが落としてしまった長靴を釣り上げてしまっただけで、本人にとっては失敗なんだ。そして、魂魄=長靴の理論には反論なしか」

「いえいえ誰も、魂魄が長靴以下、だなんて思っていませンヨ?」

「そういう言い方をするやつは、大抵言ってることと反対なんだよな」

「……だって……」

「だって?」

「ずっと流れるだけの川見てるよりも、狙った獲物を観察しとった方がよっぽどおもろいやないか! そういう意味では、今回のミッションの標的は長靴に値するやろ?」

 方言が出ている、ということは、釣りにはまっていて興奮しているのか、……ただ単にバカなだけか……。おそらく比率では後者が高いだろう。っていうか、テンション高っけぇな。

「そいえば、『死海』で〈万物想造〉は通用しないのか?」

 ふと、感じたことを質問してみる。

「それは無理ですね。〈掟〉は『迷廻』にのみ適用するように決められましたから」

「そうか、〈掟〉が通用すれば探すのも楽だと思ったんだが……」

 俺が楽する方法を考えていると、アーリャの言を聞いた怜が質問する。

「じゃあ、コトブキの目的ってなんなのかな? 〈万物想造〉が通用しないのなら、統一世界にする意味がないじゃない」

 俺は、そういえばそうだな、と思ったが、アーリャは困った反応をしていた。

「実際、『迷廻』にのみ〈掟〉を付けたのは、我々の目的に因るものでスガ……それが統一世界で通用するのか、という質問には答え兼ねマス。『神界』では考えたこともない事象なノデ」

 やはり琴吹は止めるしかないのか、と思う中、もう一つ質問をする。

「そもそもなぜ、『迷廻』だけに〈掟〉が存在するんだ? ほかの世界にも付けてやればよかったじゃないか」

 するとアーリャは、わかってないなぁこいつは……と両手を肩辺りで振る。

「これだから何も知らないガキは……いいでスカ? この『迷廻』で起こりうる現象には限りがあるんですよ、一応」

「え? 何でもできるんじゃないの?」

 この際、イラッとする仕草は放っておいて、気になることを優先させる。

「『迷廻』での現象はどのように起こるか、知っていまスカ?」

「えっと……”絆の糸”で結ばれている二人が完全に同一の想像をした時に、それが現実に起こりうる。が俺の認識だが」

「フム、まぁ当たらずとも遠からずといいまスカ……方法としてはその回答で問題ないですが、それがすべてではないのデス」

 よく分からないことを言う。方法さえ確立してしまえば、何を立証しろというのか?

「アナタ方はこの世界でマイホームを創りましタカ?」

「家? マイホームというか、『生界』にあるのと同じ状況にはしてるけど」

「ではその家、イメージで創り上げたと思いますが、何でできていると思いまスカ?」

「何って……想像だろ?」

「この場合は、理由を問うているのではなく、材料の話デス。アナタ方が踏みしめる家の床、兄弟が遊ぶためのサッカーボール、バカップルが想造した遊園地に至るマデ。想像がつきまスカ?」

 バカップルって……というツッコミはさて置き――そんなことわかるわけがない。俺たちはただ一緒にいられればそれでいい。この世界の理にさえ興味がない。そう思っていたのだから……

「人の骨、ですよ」

「………もう一度言ってもらえるか?」

「聞こえなかったはずはありませンガ。まぁ認めたくない気持ちはわかりマス。自分が他人の頭蓋骨踏んでいる、なんて想像したくはないでショウ」

「そりゃ……そうだろ、お前……なんで、そんな……」

 まさかの情報に、思わず手で口を抑える。怜も顔を青ざめさせていた。

「厳密に言うと、人骨のみではありまセン。『生界』で生を終えた動物・植物問わず、その死骸が材料に使用されマス。土に還る、という言葉で表現される現象は、実際はこの『迷廻』の《万物想造》で使われることが多いのデス」

 さらりと口にしているが、ゆとり、という温床で育ってきた俺たちには想像もつかないことだ。この世界をイメージで創造している割に、それ以外が想像できない、とのたまうのは何とも滑稽な話だが……。

「でもどうしてそんな?」

 俺が捲し立てて詰め寄ると、一瞬アーリャは顔を赤らめたが、すぐに戻り堂々と答えた。

「等価交換デス」

「等価……交換………あの錬金術とかによく持ち出されるあれか?」

「そうでスネ。その認識で大丈夫デス」

 講義をする教師のように、右手人差し指をピンと立て、説明を始める。

「『生界』を生者の世界、『迷廻』『死海』を死者の世界と認識していることとは思いますが、もともと一つの塊を生と死に分けたものがこの三つの世界デス。ですから、バランスが崩れると歪な形の円になってしまい、三世界や『神界』にまで影響を及ぼす可能性がアル。ゆえに、アタシたちは破壊者ではなく調整者なのでスヨ。それはもちろん魂魄のみならす、物質の質量なども監視しなければならず、そのために〈万物想造〉で消費させることにしたのでスネ」

 アーリャの説明、『神界』の考えは理には適っている。しかし、それを簡単に受け入れることはできないほど、精神的ダメージを俺は受けていた。だが、怜は頭脳の回転を発揮し、冷静に事態を捉えている。

「なるほどねぇ。だから、『神界』はコトブキの件を静観しているのね」

「どういうことだ?」

「結局は、最初の一つの塊に戻るだけだからよ。統一世界とは言ってるけど、客観的に見ている『神界』からすれば分けたものがくっつくだけだから、何が起こるかわからないというより、何も起こらないだろう、と考えているから、ワタシたちを試すだけにしているだけなんじゃないかしら?」

「それだけではありませんけドネ。質量などの調整をしないまま、元に戻そうとすることはアタシたちにもどうなるかは、わかりませんセン」

「琴吹が世界を、俺たちの概念から言えば壊そうとしているのと、俺たちが護ろうとしているのと。どっちが強い思いなのか、ってところか。やっぱり監視者ってのは、趣味が悪いのな」

 当然と言えば当然、アーリャは俺の言に憤慨する。

「それは心外でスネ。創造主たる『神界』に歯向かうというのでスカ?」

「いや、それこそ心外だけどさ。歯向かう気持ちは一切ないよ。むしろアーリャを送ってくれたように、チャンスを与えてくれているんだ。感謝こそすれ、反発はしないね」

 アーリャは胸を反らせふんぞり返る。

「いいですね、その気持チハ。敬う気持ちは大事でスヨ」

 燐といい、アーリャといい、小さい子が背伸びしている姿は何度見ても可愛いなぁ。俺は思わず彼女の頭に手を乗せていた。

「じゃあ、俺は餌役を買って出るから、釣竿と糸の手配を頼むよ」

「………………」

 なぜか無言のアーリャ。どうしたのかな、と思って覗き込もうとすると……再びの顎にクリーンヒット。

「子ども扱いすなぁぁぁ!!」

 後方に吹っ飛ぶ最中、呆れる怜の顔が見えた。だが、気絶による暗転で『迷廻』との繋がりが切れ、『生界』の自分の部屋のベッドに帰ったあとも、朝まで気を失ったままだった……。



 神使アーリャとの邂逅から二日――

 その間も『迷廻』で起こっていることなど知る由もなく、『生界』はいつも通り回っていた。

 恒例行事となっている暁生とのテニスは、月二回のペースで行っており、今日がその日曜だった。場所は黄沙市西区の端にある市民運動場を借り、三時間ほど汗を流す。みっちり練習、というわけでもないが、三時間ぶっ続けで試合をした時などは、その日いちにち身体が動かなくなったこともあった。もちろん未だテニスを続けている暁生に敵うわけもなく、毎度ボコボコにされるのがオチだが。

 え? なぜ部活ではなく、別のとこでテニスをやっているかだって?

 それはまた後に語る……機会もなさそうだから、今言っておこう。事件の発端はそう……俺たちの我が儘だった。

 暁生との出会いは中学入学当初。怜の死の件もあり、まだ他人との付き合い方がわからなかった俺は、なるべく関わり合いをしないようにしていた。そこに図々しくも話しかけてきたのが、同じクラスになった暁生だった。後々になって理由を訊いてみたが……直感らしい。こいつとは一生の友になれそうだ、みたいな。あの時から俺は、新たな道を開いていたのかも。そう同性愛という道……ではなく、暁生に誘われたテニスが面白く感じていたことだ。

「よぅ、俊輔」

「おーっす、暁生」

 いつも通りの挨拶を交わし、合流する俺たち。正式な待ち合わせの一時間前だった。

「今日もいいテニス日和だなぁ」

「あぁそうだなぁ……ってそういう話じゃないんだよ」

 ほんわかした雰囲気を演出した俺に、怒声を浴びせる暁生。

「なんですか、今どきのキレる若者ですか? お前は」

「その目線のお前は何者なんだ? って話……でもねぇよ! 一時間早く呼び出した理由を言え、って言ってんだ。おかげで紫苑ちゃんの番組見逃したじゃねぇか!」

 紫苑ちゃん、というのは、最近突出してきたアイドルで、暁生が最もはまっている芸能人の一人なんだそうだ。朝の情報番組のコメンテーターでも活躍しているらしい。

「それについては謝ろう。まっ、俺の知ったこっちゃないがな」

「謝る気ゼロか、このやろう!」

 目元を右腕で隠し(嘘)泣きをする暁生を置いて、本題を促す。

「で? 聞きたいことって何?」

「……俊輔が相談したいがある、って話じゃなかったっけ? 昨日の夜、メールしたのはお前だろ?」

「う、ん? そうだったかな……? まぁいい。そこまで聞きたければ話してやろう」

「いや、そこまでは聞きたくないかも……」

「燐に告白されたんだ」

「聞けよ! ってまじか! ええぇっ!」

 怒ったり驚いたり忙しいやつだ。

「それで? 返事は?」

「……まだしてない」

「なんでだよ! 二つ返事だろ、そこは」

 それはわかっているんだが……

「俺にもいろいろと事情が、な」

「さてはお前、ビビってんな? 今まで家族としての付き合いしかなかったから、いきなり妹から恋人に変わる、って考えができないんだろ?」

 おちょくるような言い方だが、時々暁生には感心させられる。

「お前は本当に、俺の気持ちを理解してくれるなぁ」

「な、なんだよ、急に。そしてほんとビビってんのか?」

「その表現は正しくないとは思う。ただ踏ん切りがつかないだけさ」

 普段はそこにいて、でも今はいない者を見るような遠い目をする。

 市民運動場の入り口で合流してから更衣室に向かうまでの間に、俺の相談事は終わってしまったが、致し方ない。結局は答えが決まっている問いの答えを、誰かに聞いてもらいたかっただけなのだから。

「で、まだ一時間前に呼び出された理由を聞いてないように思うんだが?」

「……やっぱりわかってた?」

「当たり前だろ。それが立華暁生と天聡俊輔の付き合いだぜ」

 今更ながら、頼もしい友を持ったと思う。考えが筒抜けってのも少し不安ではあるが。

「まぁ俺の相談事が関係ないわけではないけどな。本題はお前に関することだ」

「へっ? 俺?」

 きょとん、とこちらを見返す暁生。

「あぁ、そこまでは予想していなかったか」

「な、なにおいうか! ヨソウしてなかったわ、わけがないだろ」

「いや、キョドりすぎだから。別に読めんことだってあるだろ」

 更衣室に入り互いにテニスウェアに着替え始める。紺のウェアに黒のジャージが俺。そして黄沙第一高校の黄の正式ウェアとジャージを着こんだのが暁生だ。中学高校で統一されているが、高校生になればウェアは自由に選択できるようになる。着替えの間はさすがに無言で、しばらく衣擦れの音が響いたあと、ロッカーを閉める音が合図だった。

「結局、俺に伝えたいことって何?」

「そうだった。そんな話だったな」

「ボケたか?」

「ないね。むしろまだ気付かないお前を心配してやるよ」

「うぐっ……べ、べつに知りたいなんて思ってないんだからね!」

「ツンかよ。しかもデレる様子がまったくないな」

「そこまで言うなら、教えることを許さなくもないわよ?」

「今度は高飛車お嬢様ですか。キャラブレすぎだ。固めろよ」

「キャラがブレるというキャラを確立しているが、なにか?」

「へぇへぇ、もういいですよ。言えばいいんでしょ、言えば」

 呆れつつも受け付けホールの一角にあるベンチに並んで腰掛ける。

「つまりは、燐が俺に告白してきたってことは、あいつが俺を選んだってことだ。そろそろお前も自分の気持ちに正直になるべきじゃないか、って話だよ」

「俺の……気持ち、だと?」

 さっきから言っている通り、俺たちはお互いのことをよく知る仲だ。俺のこと(『迷廻』のこと以外)も彼は気付く部分も多いだろうし、俺も暁生のことを察していると自負している。そんな仲だからこそ通ずる……まっ本人の口からはきいてないので、憶測の域は出ないのだが、恋愛観というものがある。彼が燐に対して本気じゃないことは、最初から分かっていたし、そのうち本命が別にいることにも気付いた。だからこそ、けじめをつけさせるために、わざわざ日を選んで打ち明けたというのに……

「………………」

 暁生は考え込んだまま、動かなくなった。この時間も考慮した一時間だったが、気持ちの整理は間に合うだろうか?

 そしてその見通しが別な部分で甘かったことに、待ち合わせ二十分前に痛感することになった。

「俊輔さん、立華さん。お二人とも早いですね」

「おう。燐と……春日部さんだっけ? そっちも充分早いよ」

 招待した女性陣も到着した。春日部さんとは以前、燐と買い物中にたまたま出会い、紹介されていた。

「今日はお招きいただき、誠にありがとうございます」

 あれ? こんな固い子だっけ?

「わたしのことは弥生でいいですよ。お手柔らかにお願いしますね、お兄さん」

「あぁ、じゃあ弥生ちゃんで……ってお兄さん!?」

 呼ばれ慣れない呼び方だったので、思わず反応してしまう。

「あれ、いけませんでした? いつも燐から話を聞いてて、お兄さんみたいだな、って印象だったので、そう呼ばしてもらったんですけど……」

「いや、べつに悪いってわけじゃないんだが……で、いつも燐からはどのような?」

 話の一点に興味を持ち、身を乗り出してみる。

「ふふふ……それは……」

「ちょっと、弥生?」

 燐の慌てふためっぷりからすると、相当に恥ずかしい内容のようだが……

「乙女ズの秘密です!」

「あっそう……まぁならいいや」

 と、拗ねる燐の頭にポンポンと軽く乗せる。あぅあぅ~、と混乱しまくる燐をとりあえず置いて、空いた手でいまだ悩ましげな暁生の頭を殴る。

「え~と、春日部さ、じゃなくて、弥生ちゃんは初めてかな。こいつが同じクラスの立華暁生。んで、この子が燐の同級生の春日部弥生」

「はじめまして、立華先輩」

「あ、あぁ、よろしく……」

 あまりのテンションの低さに、ハテナマークの女の子二人。

「どうしたんですか? 立華さん」

「あ、あぁ、どうやら彼にとってショックなことがあったらしくてね。まぁ試合までには治しておくから、準備してきたら?」

 二人は「わかりました」と言って、更衣室に向かう。この間になんとかせねば……

「おい、暁生。念願の燐とダブルス組めるんだぞ。なんとか気を持ち直せ。原因が俺らにあるのは知ってるが、燐に心配させるなよ」

「しんぱい……心配、か。そうだな。かわいい後輩の前で無様な姿は見せられん! よぉ~し、俺はやるぞぉ~!」

 まったく……これじゃよくブレる奴よりも、ただ単純なバカと表現した方がいいな。

 しばらく暁生のテンション上昇に付き合っていると、女子陣の着替えが終わり、更衣室から二人が現れた。二人とも黄沙中学テニス部所属であるので、懐かしの黄ウェア黄ジャージだった。ただ燐のジャージは自前の赤だが。

「もう二年近く着てないなぁ、それ」

「お前も着てくりゃ、みんなで揃えられたのにな」

「まっ、俺はもう部員じゃないんでな。それよか、もう時間だし行こうぜ」

 受付でコート代を支払い、四人で移動する。第一試合は暁生の望み通り、暁生・燐ペアVS俺・弥生ちゃんペア。じゃんけんでサーブ権とコート取りをし、それぞれの位置に分かれる。……そこで思いがけない相談を受けることになる。

「お兄さん」

「ん?」

 後ろを歩いていた弥生ちゃんから呼び止められ振り向くと、屈託のない笑顔でこう尋ねられた。

「燐に聞いたんですけど、お兄さんも見えないモノが視える、って本当ですか?」

「……も?」

 燐に何を聞いていたんだ、とか、些細と思えることはどうでもよくて、聞きとがめたのは一点だけだった。

「弥生ちゃんもその、大切な人が……?」

「え? 別に大切とかではないですよ。そこら中にふよふよ浮いてる人たちですから」

「……へっ?」

 どうも話がかみ合っていない気がする。

「いや~、昔っから霊感強くて、みんなと喋ってる時に誰もいないはずの方に話しかけて、よく引かれてました。あははっ……」

 彼女は普段通り(普段はあまり知らないが)笑っているように見えるが、今までの苦難を思い出しどこか寂しさを感じさせる笑顔だった。弥生ちゃんがいつ、そのことに気付いたかはわからないが、『迷廻』との確固たる絆があり、携帯での通話やメールなどで誤魔化している俺たちとは違い、偽装の手段なんて思いつかなかったのだろう。周りの大多数とは異なる、というだけで排除の対象になる。多数決という制度は、民主制が生み出した少数派を潰すためのものとしか思えない。彼女はそれを打ち明けられる人に出会うまで、どれほどの苦汁を嘗めたのだろうか。

「そっか、見えてしまう、のか……なら俺とは少し毛色が違うかもな」

「? どういうことですか?」

「俺も確かに霊が見えるんだけど。それは俺が望んだものなんだ」

「望んて、って……よくわかりません」

「まぁそうだろうな。説明も難しいからしたくないし。わるいな、ちょっと力になれそうにない」

 俯く彼女に、俺は何もしてやれなかった。さすがにこのまま試合に入るのは連携的な部分で無理があるので、一計を案じることにする。

「でも後で、暁生に相談するといいよ」

「立華先輩に? あの人も霊が視えるんですか?」

「いいや、あいつは何も知らないよ。でも他のやつとはちょっと違うんだ。だって俺の親友だからな」

 親指を立ててグッドポーズをする俺に対し、きょとんとする弥生ちゃん。膠着が解けたのは、彼女が噴き出したからだった。

「……笑うか」

「ごめんなさい。だってあまりにも自信満々に言うもんだから、可笑しくって……じゃあお言葉に従って、後で立華先輩に相談してみます。初対面なのに恥ずかしいですけど」

「そこは俺が場面をセッティングするから」

「お願いしますね」と彼女は言い残し、前衛の初期位置に走る。なんとか場を解し、臨戦態勢に入る。コートの反対側でも(一方的に)テンションは上がっており、勝負の気運も高まってきていた。

 ――結果は――なかなかの好勝負だった。敗戦にはなったものの、現役二人を相手にラリーの応酬やポイントの取り合いなど、見る人がいれば拍手もくれそうな試合だった。その要因は、弥生ちゃんが生粋のダブルス選手だったから。

 先も言った通り、ダブルスには二人の連携が欠かせない。個人でカバーできる部分もあるが、やはり攻守の要となる声の掛け合いなどは、二人が数年来の信頼でもない限り、意思疎通の面で重要になってくる。彼女は、試合前の沈んだ空気などなかったかのような明るい雰囲気で俺を引っ張ってくれた。俺も足を引っ張ったとは思っていないが、それを上回るのが、対戦相手二人の個人技と連携の高さだった。プレースタイルとしては互いに似ている。暁生は相方を引っ張るタイプだし、燐はシングルス選手であるために個人技は相当なものだ。さすが東西対抗代表に選ばれるだけはある。

「いや~なかなかいい勝負だったな」

 試合が終わり握手をして傍らのベンチに腰掛ける。暁生の第一声に皆が同意する。

「そうですね。まさか俊輔さんがあそこまで食らいつくとは思っていませんでした」

「確かに。取れないんじゃないか、っていうボールまで何度か拾っていましたね」

「はっは、走るだけが取り柄だからな」

 胸を張って威張る俺につられ、皆も笑う。試合後の疲れよりも、楽しかった、という気持ちの方が大きいのだろう。それだけ集中して真剣に打ち込めた、ということだ。

「さて、まだ時間はあるし……十分くらい休憩したら、ペアを変えてもうひと試合しようか」

 皆がそれに頷き、暁生が提案する。

「そうだな。じゃあ、次は燐ちゃんと俊輔、弥生ちゃんと……」

「いえ、わたしと燐で組みます。わたし達で対抗のダブルスも出るので」

 そうだった。燐のシングルスだけを祝っていたが、怜からの情報にはダブルスも含まれていた。

「ほう? 試合前に凹んでも知らないぞ?」

 暁生の挑戦的な口調に、弥生も好戦的な態度で応じる。

「いいですよ。むしろ凹ましてもらいたいですね。試合前に欠点があるなら見つけておきたいですから」

 バックに竜虎イメージを出現させ、にらみ合う二人。この後、相談を持ちかける相手に好戦的でいいのだろうか?

 休憩の十分が過ぎ、再びコートに入る。ダブルスが久しぶりな俺たちは作戦の確認のため、一旦コートの端に集まるが、彼女たちは談笑しているように見える。それだけ余裕、というわけではなく、互いを信頼し、それが自信に繋がっているのだろう。

 ――結果は――俺たちの完敗だった。ダブルスが久しぶりとか、俺の練習不足とか、そんなのは全く言い訳にもできないほど精錬された連携で、欠点を探す、という当初の目的は果たされるはずもなかった。互いのフォローも完璧で、後ろが見えないはずの前衛も後衛の掛け声なしで動き、後衛も前衛にフィニッシュのボレーをさせるためにラリーをしている。これぞダブルス、といった感じだ。今になってやっと、内世界にこもっていた燐が弥生と友になった理由が分かった気がする。

「見ましたか、立華先輩、お兄さん? わたし達の実力を!」

「お、御見逸れしました……」

 おーほっほっほ、と口元に手を当て高笑いする女王の前に項垂れる家来二人の構図は、コートの中央で繰り広げられたため、暫し周りの注目を集めることとなった。


 コートの占有時間が終わり、更衣室に戻った俺たち。道すがらも楽しく話せており、いい雰囲気になったのを見計らって場面をセッティングする。

「あ、そうだ、暁生」

「なんだ?」

「俺、店の買い物頼まれててさ、スーパーに寄らなきゃいけないんだよ。燐も手伝ってくれる、っていうし、弥生ちゃんを家まで送ってってくれるか?」

「ああ、いいぜ。任せとけ」

 弥生にはもう話してあるから、これで万事OK。あとは弥生の勇気と暁生の気遣いに懸けるだけだ。

 ――時間は過ぎ、夜の十時――

 気になっていた結果を確かめるため、暁生に電話を掛ける。

『もしもし、俊輔か?』

「おっす。今日はお疲れ様」

 定番の挨拶で会話を切り出す。

「弥生ちゃん、送ってくれてありがとな」

『なんでお前が礼を言うんだよ?』

「燐の代わりだよ。あいつも心配してたからな、弥生ちゃんの貞操を」

『襲わねぇよ! お前らそんなことを心配してやがったのか』

「嘘だよ。純粋な感謝だ」

 憎まれ口を叩きながら、盛り上げる。やがて暁生の方から話題を振ってきた。……そう仕組んだんだけど。

『そういえば、弥生ちゃんから相談を受けたよ』

「へ、へぇ。どんな?」

 知っていることであるため、平静を装うのが難しい。

『それが、お前と同じなんだよな。他人には見えないものが見える、っていう。なんか関係あんのか?』

「いや、関係はわからないけど……で、お前はどう答えたんだ?」

『だから、お前の時と一緒だって』

「そうか。で、弥生ちゃんはちゃんと笑って帰ったか?」

『ああ。最後は普段通り、って普段は知らないけど、明るく笑ってたよ。これ以上ないくらいに、な』

「そうか。ならよかった」

 やはり暁生の単純な気遣いに懸けて正解だった。俺の時と同じようにうまく解決できたようだ。弥生ちゃんの番号は知らないので、今確かめようがないが。

「暁生」

『なんだ?』

「……ありがとう、本当に」

『な、なんだよ、突然? キモチ悪い』

「キモチ悪い言うな。普段から思ってる純粋な感謝だよ」

『へぇへぇ、そうですか。んで? お前の言う、俺の本当の気持ちとはなんだ?』

「えっ? まだ気付いてなかったの?」

『考えたさ。でも何も思い付かなかった』

「そうか……じゃあ、ストレートに言うぞ」

 俺は心を鬼に……しなくてもいい話題なんだけど、暁生のため、と一歩踏み込む。

「暁生……お前、仁多のことが好きだろ? いつまでも燐のことばかり言ってていいのか?」

 覚悟を決めて発した言葉に、暁生は数秒間沈黙し……

『亜由美か? ああ、確かに好きだし、むしろ付き合ってさえいるけど』

「………………」

 今度は俺が絶句する番だった。ぞして静かに……通話ボタンを切った。

「ふうぅぅ………まじか~~~~~~!!」「(うるさいぞ、俊輔!)」

 階下から父の怒鳴り声が聞こえた気がしたが、俺はお構いなしに絶叫していた――


 俺が暁生に救われたのは、出会って間もないころ。図々しかった期間中だ。

 弥生と同じような悩みを抱えていた俺は、打ち解け始めていた暁生に、思い切って打ち明けてみた。今となってはなぜなのかはわからないが、彼にはそうさせるだけのオーラがある、ように感じている。

 彼の答えは――『霊が見えるなんて凄いじゃねぇか! 他人と違うことは立派な個性だろ。恥じたり隠すことはないと思うけどな』

 この言葉がきっかけで、悩みが解けていった。他人とは違うことに囚われていたが、置き換えれば、自分にしかない部分である、ということ。そう気付けば周りの視線を気にしながらも、怜を霊と普通に受け止めることができた。

 弥生の場合は少し結果が異なる方向にいくかもしれないが、解決には違いあるまい。この際、暁生を利用したことについては目を瞑り、俺は最善の策を練ったんだ、とプラス評価を下し、明日の準備のために――ゲーム機の電源を入れるのだった――






第四章 而して其は絶望への



 週明けの毎朝行事も、学校でのイザコザも、バイトの繁忙も、いつもと変わらず『生界』で流れていき、アーリャが提示した三日目の夜が訪れた……

 琴吹の演説から毎日開かれているらしい対策会議に出席する気も起こらず、零時を過ぎた時点でアーリャとの集合場所である『迷廻』での自宅前にトリップする。

 『迷廻』から糸を繋ぐ怜はいて当然だが、肝心のアーリャがまだ来ていなかった。彼女が琴吹の妻(怜の話だと名を千影というらしい)の魂魄使用を許諾されないと、俺たちの計画の根本から崩れ去ってしまうのだが、胸を張って請け負ってから一切の音沙汰がない。もしやこのまま、時だけが過ぎ、琴吹の宣う統一世界『明境止世』が完成してしまうのではないだろうか……。それにより何が起こるのか、神使であるアーリャにさえ予測不可能な事態に対し、不安に思わないわけがない。それゆえに策を練ってきたのだが……

「遅いな。神使ってやつは、登場の方法も時間もアバウトなのか?」

 思わず零す愚痴に対し、隣から叱責が飛ぶ。

「待ってあげようよ。アーリャんも許可されるかわからない、って言ってたじゃない」

「いやまぁ、そうなんだけどさ。自分で新米だって言ってたし、あんだけ自信満々になれる理由があるんだ、ってこっちも期待しちまうだろ」

「まぁ……それはワタシもちょっと思ったけど……」

 確かに三日前、彼女の去り際は少し変だった。俺が気絶から目を醒ましたあと、念のためともう一度『迷廻』で会ったのだが、明らかに口調が変化していた。

 曰く「アタシに任せてください。必ず魂魄使用の許可取って、アンタ等への土産にしたるからな! よっしゃ、初任務や! いっちょやったるで~!」と。

「新米……初任務…………俺、とんでもなく重要なことを、とんでもなく危なっかしげなやつに頼んじまったのか……?」

「……大丈夫なんじゃない? 仮にも三世界を統べる『神界』の神使なんでしょ?」

 だといいがなぁ……、としばらく待つこと数十分。ついに彼女が現れた。

 ……俺の真上に……

「ぎゃんっ!」

「よ~し、今回は座標の修正がうまくいきまシタ。前みたいにはるか上空に出現したりしませんデス。よいしょット」

 現れたアーリャは翅の推力を利用して立ち上がる。

「こ、こんばんは。アーリャん」

「こんばんは、レイさん。アレ? 少し身長縮みまシタ? それともアタシが高くなったんですカネ。いや~最近牛乳一杯飲んでますかラネ。自分でもこんなに成長が早いとはビックリデス。……そういえばシュンスケさんはまだでスカ? まったくこれだから男の人は……レイさんも時間にルーズな男なんて棄ててしまった方がいいでスヨ。ってこれ、『迷廻』の人に言っても無意味なのかナァ」

 そこまで言い切ってから、ようやく怜が指を差す方向に気付いたようだった。つまりは自分の足元に横たわる探し人の存在に……

「オヨ? シュンスケさん、そこで何してるんでスカ? そんなところで寝ていたら踏んでしまいまスヨ?」

「もう……踏んどるわ~~!!」

 気合で起き上がる。振り落すつもりでいったのだが、やはり翅の存在は大きく、うまく着地されてしまった。

「こんばんは、シュンスケさん」

「はい、こんばんは……ってなるか! っていうか、ずいぶんキャラ変わってない?」

「せっかく朗報を携えてきたというノニ。なんですか、その言いぐサハ? あげませんよ、コレ」

 そう言って彼女が懐から取り出したのは、直径五センチほどの透明な立方体だった。中には、オレンジ色の淡い光が入っている。

「これが……琴吹妻の魂魄?」

「魂魄の原型、って初めて見たわね」

 二者それぞれの反応を示す。

「アタシから見れば、皆に魂魄の色が光っているのですガネ。まぁこれも普段知ることのない貴重な出来事デス」

「ちなみに俺たちの魂魄って何色なんだ?」

「……それを教えるのは、一応禁忌に当たるのでスガ……それも『生界』に限った話ですからまぁいいでショウ。綺麗な青色ですよ、アナタ方のは」

「なんで『生界』では禁忌なの?」

「魂魄の色というのは、惹かれあうものは当然同色なのデス。同色でない二人が共にいることは観察者からみれば、ちゃんちゃら可笑しいでスネ。別れること請け合いですカラ」

「……観察者ってのは、他人の不幸を笑う仕事なのか?」

「……アナタ方は、つくづくアタシたちを誤解しているようでスネ。人間には魂魄は視えていないのですから、別に失敗すること自体バカにしているわけではありまセン。アタシが不思議なのは、それを幾度も繰り返すことデス」

「だから、それこそ……」

「魂魄が視えないから、と? 魂が視えないことと、学習しないのは関係しませンヨ」

「学習しないって……」

「歴史が証明している、という言い訳をして、栄枯盛衰を繰り返ス。好いたはずの相手と別れて、しかしもう一度同じ人と契りを結ブ。そこが理解できナイ。一緒にいたいと思うことが好意を寄せる最大の理由ではないのでスカ?」

「それは……個人の主観というか、気持ちが不安定というか……」

「それも所詮は言い訳デス。でもまぁ……先代たちが人間というモノをそのように造ったのですから、真っ向から否定もできませンカ」

「てめぇ……!」

 俺はいい加減アタマに来ていた。神か何だか知らないが、言わせておけば……と少しビビらして口を閉じてもらうつもりだっただけなのだが。アーリャの首元に出した右手を捉えられ、身体が宙を舞い、背中を打ちつけられて何も言えなくなったのは俺の方だった。

「うぐっ」

「シュンちゃん?」

 怜が心配して駆け寄ってくる。

「だ……だいじょう……ぶだ」

「もう一つ、重要な勘違いをしているみたいでスネ」

 胸元までしかないアーリャを見下ろしていた時とは逆に、這いつくばる俺を見下ろしながらアーリャは言った。

「アタシは……『神界』は特にニンゲンの味方というわけではありまセン。アタシは神使としての仕事でアナタ方を手伝いますが、それ以上でもそれ以下でもないのデス。ですから、アナタ方が辛辣だと感じるアタシの言葉は、本心から出るもので否定される覚えもないんですヨネ」

 辛辣と感じるのは、彼女が神という異なる存在でも、見た目は俺たちと変わらないからか。創造主の言い分だろうか、立場が違えばこうも話が噛み合わなくなる。だが……なんというか、それだけではない気がする。

「お前……人との間に何か、あったのか?」

 そう言われたアーリャの肩がびくっと反応する。罰が悪そうにソッポを向くが、何も語ろうとはしなかった。

 代わりに発した言葉は、予想外過ぎるものだった。

「サテ! ではここでクイズです。アタシたち神使とアナタ方人間の身体の構造、どのような違いがあると思いますスカ?」

 一瞬、面食らった俺たちだったが、俺は立ち上がり、迷わず背中を指す。誰の、とは言わないが……

「そうです。アタシはアナタ方でいう超常現象、超能力が使えることでスネ。〈万物想造〉の条件なし、と考えてもらえれば……」

「いや、違う違う。翅、翅があるかないかだって」

 二人からの全力のツッコミにたじろぐアーリャだったが、すぐに取り直す。

「翅でスカ? これは大した違いにはなりませンヨ。だって飛べたりはしませんカラ」

 そういって彼女は、懸命に翅を動かす。すると、ふわっ、と浮き上がり地面から五十センチの辺りで浮遊する。おおぉ~、と感心するのも束の間、ものの数秒で降りてきた。

「はぁっ……はぁっ……」

 翅を動かすことは、相当に疲れるようだった。息を整えつつ彼女は続ける。

「はぁっ……飛べるの……なら、出会いがしらに……アナタにぶつかったり……しまセン」

「たしかにそうだった。三百メートル上から落ちてきたんだっけ」

 ここ一週間でいろいろ有り過ぎて、ひとつひとつの事柄が小さく見えてしまっているが、アーリャとの出会いは最悪だった。

「とにかく……ふぅ……超能力が使えるからといって、身体の構造的には何の変りもないのです」

「いや、超能力だけでも大分違うと思うんだけど……」

「それでも、死ぬ、という現象に変わりはありまセン。包丁で刺されれば血が出ますし、銃で撃たれれば穴も開きます。当然核を食らえば即死するでしょウネ。アナタ方と同じよウニ。ゆえに変わらない、と申し上げたまでデス。まぁ普段は関わることはないので。この議論も一切の意味を成さないのでスガ」

 彼女の言葉の裏に、少量の寂寥感を覚えた。おそらく実際にあったのだろう。人間に関わったがゆえに『生界』で命を落とした神使の話が。彼女の態度は禁忌もあるのだろうが、拒否といった方がわかりやすい気がする。

「サテ! そんなことはどうでもいいのデス!」

 いやそんなことって……言いかけたが、俺たちにはやるべきことがあることを今更のように思い出した。

「あぁ、そうだったな。じゃあ、その魂魄を俺に……」

「その前ニ! シュンスケさんにはある場所に行ってもらいマス」

「ある場所?」

 なんだろう? なにかミッションに関連するところだろうか?

「イエス。そこである人がある格好である告白をするために待っているので、使命を果たしてきて下サイ」

「使命、って聞くとミッションっぽく感じるが……告白ってなに?」

「それは行ってからのお楽しみデス。アタシは頼まれただけですノデ」

 このいたずらっぽい笑顔は癖なのか? やっぱイラつく。

「頼まれた、って誰に?」

「だから、お楽しみや、言うとるやろ! 早よ行かんかい! 場所は黄沙中学校や。もちろん『迷廻』の、やけどなぁ」


 彼女の真意を量りかねるまま、黄沙中学校(『迷廻』所属)に向かう。実際に住む『生界』の黄沙市が再現されているわけではないので、いつもと異なる通学風景を暫し楽しむ。だが、そのいつもの目印となる、珍しい名字の表札がかかった家や色とりどりの花で飾られた塀、よく吠える犬などが見当たらないため、区画や距離感のみで辿り着かねばならなかった。学校ほどの大きい建物なら、吹き抜けの土地ならばすぐに見つかりそうだが、どうやら想造の条件を近くにいないと見えないようにしているようだ。

 そしてその推察が間違いでないことを、十数分かけて知ることになる。

「ようやく来たわね」

 中学校で待っていたのは、予想外といえば予想外、しかし学校を指定された時から感じていた欠けたピースがはまった気分もある。ということは……

「佐崎が、制服で、何の告白をするために待ってたんだ……?」

「ちょっと? なんでそこまで知ってるの?」

「え? アーリャにそう言われたからここに来たんだけど……」

「もう……あの子ったら……」

 責めるような拗ねるような態度をとる佐崎真彩。アーリャの話によれば、彼女が俺を呼び出した張本人らしいが、その本意はいまだ読めない……というのはさすがに嘘かもしれない。だが薄々気付いているとしても、信じられるかどうかは別問題だ。

「で、話ってなに?」

「急かすのね。そんなにせっかちだったかしら?」

「確かに一日余裕があるといえばあるが、早く行くに越したことはないのも、事実だからな」

「ふん、まぁそれもそうね」

 と、彼女は一拍置いてから話し始める。

「話というのはね……私が卑怯者だ、ということよ」

「………はぁ?」

 さすがに予想外の告白に、素っ頓狂な声を上げる。ちょっとドキドキしながら学校を目指していた気持ちが、大分削がれてしまった。

「え……っと、詳しい説明を求めてもいいのかな?」

「説明しなくてもわかるのなら、積極的にするつもりはないけど?」

「……いえ、お願いします」

「わかればよろしい」

 いつの間にか、話を聞きに来た立場から、聞かされに来ているように変わっている。どうして俺の周りの女子は、こう主導権を握るのがうまいんだろうな。……俺がスキを見せすぎなのだろうか?

「この学校の敷地に入った時から、恰好が変わっていることに気付いてる?」

 そう言われて初めて、自分の胸元以下に視線を移す。

「ほんとだ。これ……中学の時の制服か?」

 黄沙校は中学校と高校が一貫のため、学生服のデザインがほとんど変わらない。黒を基調としたもので、男子はツメ入り、女子はセーラーと一般的なものとなんら違わない。学年ごとにネクタイとリボンの色が決められており、一年から順に青、黄、赤となる。唯一の違いといえば、高校の制服に濃い部分と薄い部分が縦縞で入っていることだけである。

 今、俺(目の前を確認すれば佐崎も)が来ているものは、完全な黒の学生服に青のネクタイ、中学一年の制服だとわかる。

「しかし、なんで中学の制服を?」

「周りを見て、何か思い出してくれないかな?」

 そう言われて……改めて、中学校であること以外に意識を向ける。こういう時に状況判断力の低さが露骨に出るのが悲しい。

 今いる場所といえば……もちろん見覚えがある。黄沙中学の裏庭、校舎による日陰で光が全く差し込まない。ゆえに誰からも避けられた、ゆえにはぐれ者、一人でいたい者が集まる、そんな場所だ。そして、俺と佐崎がはじめて喋った場所でもある。

「そうか。ここで佐崎が独り言をぶつぶつ言ってたのを聞いたのが最初だったな」

「あっ、ちょ、ちょっと、それを言うのはなしで」

「でも思い出せ、ってのは、そういうことだろ?」

「それはそうなんだけど……あのころはまだ分別ついてなかったから、隠れて姉さんと話すしかなかったのよ」

「ふ~ん、まぁいいけど。で、さっきから後ろの木の陰にいるのがその人?」

 ここに着いたときから気付いていたのだが、せっかく話題に上がったので振ってみる。

「あっうんそう。この人が私の姉、佐崎絵理よ。実際に会わせるのは初めてだっけ?」

「はじめまして、天聡俊輔さん。いつも妹の真彩がお世話になっております」

 佐崎真彩に、五年ほどの月日と落ち着きとその他諸々を足したような雰囲気を感じさせる人だった。すらりと腰まで伸びた黒髪や、柔らかい物腰など大人びた印象だが、果たして亡くなった当時の姿なのか、それとも俺たちのように成長した姿なのか……

「でも最近では想造できる姿がブレる時があるのよね……いつもは真彩と一緒に育っている仮定なんだけど、今は死んじゃった時の姿なのよ」

 俺の心中を読んだのか、的を射た回答をする絵理さん。

「ここに来てもらったのも、アドバイスをもらうためだったの」

「アドバイス?」

「そう。このあいだ、喫茶店で話したでしょう? 時々『迷廻』と繋がらないことがある、って」

「あぁ、そういえば……」

 四日前、琴吹の革命演説に対する意見交換会、という名目で佐崎と二人、「甘虎登利」で相談をしたことがあった。その時、最後の話題になったのがそれだ。

「別れる寸前に、杜野さん姉妹に訊いてみる、って言ってくれたじゃない。それでどうなったのかなぁ、って思ってて」

「すいませんっした?」

「謝るの早くない?」

 正直、忘れていた。佐崎には悪いのだが、その日の朝の出来事で、頭の中が一杯だったためだ。だから迂闊に口を滑らしたりもしたんだ。

「何か、言い訳とかしないわけ?」

「言い訳したら、許してもらえるのか?」

「いや、そんなわけもないけど……」

「なら、あれこれ言って場を乱すよりは、すっきり謝った方が早いだろ」

 謝る時は躊躇しないのが俺の流儀だ。いろいろ喋るよりも楽に会話を終わらせられる、というマイナスな理由もあるが。

「……まぁ二人には訊き忘れてしまったから、俺の個人的な意見なわけだけど……繋がれないことを悔やんでたけど、相手を大切に想っているからこそすれ違う意見、ってのもあると思うんだ。だったらあとは、その気持ちをちゃんと理解して受け入れるだけだ、と思うんだけども……如何かな?」

 それを聞いた二人の佐崎は、互いに顔を見合わせ、数秒間固まる。端からみれば、百合シーン突入か? と思われるほど、熱く見つめ合っていたが、この二人にも怜と燐のようなテレパシー的なものが使えるだろうことは想像に難くない。やがて、それぞれ一様にふふっ、と微笑む。会話内容がまったくわからない俺からしたら、置いていかれた感が半端ないが、なんとか解決したようにみえるので何よりだ。

「さすが。まーちゃんが選んだ男の子ね。的確なアドバイスで助けてくれるしっかり者じゃない」

「ちょっと、姉さん。これからその話をするのに、バレるようなこと言わないで」

「はいはい」とずっと笑顔の絵理さんが数歩、真彩の後ろに下がる。選んだ、とは、どういうことだろうか? でもそんなことよりも……

「まーちゃん、って呼ばれてるんだな」

「食いつく所、そこ?」

 怜と同じようなセリフでツッコむ。今だけは俺のペースのようだ。彼女はひとつ咳払いをする。

「コホンッ。じゃあ本題に入るわよ」

「え? 人物紹介が呼んだ理由じゃないの?」

「それもあるけど、あくまで理由の一つよ。最初に言ったでしょ? 私が卑怯者だ、って話」

 そう言われればそうだ。インパクトが強すぎた告白だったため、逆に根幹を忘れていた。

「で、なんで卑怯者、っていう結論が出るんだ?」

「これから記憶がなくなる人に、自己満足を満たす行為をしようとしているからよ」

 一瞬、ポカンと呆けてしまう。なぜ佐崎が記憶消去のことについて知っているのか、俺が『死海』に入ることを知っているのか、自己満足とはなんなのか、に対する総評が――

「なんかいろいろ知られてるみたいだね……」

 呆けた後に落胆するのは、気分的にいいものじゃない、と今知った。

「アーちゃん、って扱いやすいのよね。神使の新人だかなんだか知らないけど、教えてください、って言うと嬉々として全部しゃべってくれるの」

「あ、悪女だ………」

 目の前に悪知恵の働く人がいますよー危ないですよ、あなたの妹さんーなどと視線で絵理さんに訴えてみたが、案の定すべてを理解している上で、微笑みで流された。

「まぁ、知られたことを別に隠すこともないけどさ。でも自己満足って何?」

「え! そ、それは………」

 急にもじもじとし出す。まさかこれは――

「トイレに行きた」「くなってないわ」

 まさかのボケを封じられた? 恐るべき佐崎真彩……

 しかしそうなると、佐崎の自己満足、それを卑怯と表現する、そして俺の記憶消去――これらの点から考えられる佐崎がしようとしていることとは……

 俺の中ではなかったことになるのを重々承知の上で、自分の気持ちだけを伝えようとしているのだ。

 ………そんなこと、させるものか!

「佐崎、お前の自己満足はここでは満たさせない」

「ふぇ? なんで?」

 いきなりの俺の拒否に、慌てる佐崎。

「だから俺は、今ここで一つ約束をしよう」

「約束?」

 俺の決心を知ってか知らずか、彼女は可愛く首を傾げる。

「俺が『死海』に入ることで記憶の消去が行われようとも……今の佐崎真彩の勇気だけは絶対に忘れない、と」

「私の……勇気……?」

「ああ、勇気だ。だって、そうだろう? これから、もしかしたらすべてを忘れてしまうかもしれない異性を好きになって告白までするのは、勇気と言わずして何と言う?」

「だから、卑怯だって……」

「卑怯な告白なんてあるものか。人が人を想う気持ちは美しい。俺たちはそれをよく知っているはずだ。だからその気持ちに、マイナスの言葉を合わせるのは無しだぜ」

 俺の追随を許さない論に絵理さんまで止まっているが、もう気にするレベルではない。

「それに言ったろ? 互いを大切に想うからこそ、すれ違うこともある、って。佐崎は俺のことを心配してくれて。そして俺はその気持ちにちゃんと向き合うために。それぞれがそれぞれの言い分を通せる状況もある、って話だ」

 言い切って数秒間……二人とも止まったままなので、ふんぞり返っている状況に気恥ずかしさを感じ、視線を少し彼女らに向けた途端、腹を抱えて笑い出していた。

「「あっはははは!」」

「な、なぜに笑う!?」

 納得のいかない俺は反論を試みるが、それは必要のないことだった。

「ごめんごめん。あまりにも天聡くんらしいな、って思ったから……」

「さすが。まーちゃんが選ぶだけあるわ」

 ようやく笑いを納めた佐崎姉妹。その妹が再び問いかけてくる。

「初めてこの裏庭で会った時、言ってくれたこと、覚えてる?」

「え~と……『ど、どちらさ、様でしょうか……?』だっけ?」

「それは二回目。出会ったあと、教室で話しかけた時でしょ」

「……よく覚えてるなぁ。もしかして喋ったこと全部記憶してる、とか?」

「な、何言ってるの? た、たまたまよ、たまたま」

 そっぽを向く佐崎を、俺も横目で見ながら思案する。

「う~ん、そうだなぁ……『さ、佐崎さん、だっけ? これ落ちてたよ』か?」

「それは五回目。生徒手帳拾ってくれた時ね」

「じゃあ『今日は雨が降りそうです。傘は持ってきましたか?』で合ってる?」

「それは九回目。しかも私が教科書の英文を読んで、それを和訳しただけじゃない」

「ほんと、よく覚えてんね」

「だ、だから、たまたまよ、たまた……まじゃないわね。もうここまで来たら認めないわけにはいかないわ。そうよ、全部、とまではいかないまでも、ほとんで覚えているわ」

 かく言う俺も今例に出したように、少しずつではあるが覚えている。……理由としては、生徒手帳の裏に予備の千円札が挟まっていたから、とか、その和訳をしたすぐあとから大雨が降り始め、予報も見ずに傘を忘れたのは俺だった、とか、何かとイベントが起こったからだが。

「私にとってはひとつひとつのことが特別なの。何気ない日常でも、それが特別だって思える――好きになるってそういうことじゃないかな」

 悟ったように虚空を見つめる。微妙に質問内容からずれている気がするのだが、この際、どうでもよかろう。

「俺も……佐崎は特別といえる存在だよ」

「えっ?」

 意表を突かれたのか、正常ではない反応を示す佐崎。

「ななな、なに言い出すかなぁ……そんなこと、欠片も思ってないくせに……」

「どうしてそう思う?」

 それに答える佐崎は、こちらと目を合わせようとしない。

「だ、だって男なんて……男に限らず、みんな自分と違うものは偏見持って話すんだから。表では親しくしてても陰で何言ってるかなんて……想像したくないよ」

 おそらく想像ではないのだろう。実際に体験しないと、ここまでの怯えは出ない。

「じゃあ、俺とお前はどこが違う? いや、聞くところを間違えた。同じ部分があるだろ。そこから信用を得ることはできないか?」

 まっすぐ佐崎を見つめてやる。おどおどした動物には目を見て「敵ではない」ということをアピールせねばならない。確か最初の出会いも――

 どれほど経ったろうか。時間に数秒間だが、昔を思い出していたようで、長らく呆けていた気がする。それは彼女も同じだった。

「……姉さんが死んで落ち込んで、また会えて嬉しくて、でもそれは他人とは違っていることでまた落ち込んで……感情の整理が追い付いてなかった時だった。天聡くんと出会ったのは」

「そうなのか。そういえば泣いていたもんな、あの時、木に話しかけながら」

「そ、それは言わないで。ってか木には話しかけてない」

「わかってるよ。でも霊は他人には視えないんだからしょうがないじゃないか」

 だからこそ、奇異な目を向けられる運命にある。今でこそ携帯などを駆使してごまかしをしているが、佐崎も俺も、その苦労は痛いほど理解できる。だから俺は――

「そうか。俺は最初『なんだ、同類か』って言ったんだっけ」

「正解」

 瞬間、周りの景色が一変した。目の前の姉妹も驚いている。景色が、というよりは季節感が変わった、だろうか。先ほどまでは植林による木々が繁茂している状態だったのに、辺り一面に花が咲いている。『生界』と年月日や時間は秒にいたるまで同時進行しているが、季節という概念はない。四月に桜は咲かないし、八月に太陽が照りつけることはない。十月に焼き芋を食べるのは自由だが、一月に白銀の世界に招待されたりもしない。

 もし、今の現象が季節のそれではないとすると――

「まさか、俺と佐崎の記憶が呼び起されて同期し、この景色になったってのか?」

「そんなはずは……だって〈掟〉だって“絆の糸”で繋がった二人の想造でしょ? 私と天聡くんは同じ『生界』の人間だし、二人が想い合ってる、っていうのは……」

「そもそも、その概念が間違ってたのかもな」

「どういうこと?」

 自分の考えをまとめながらなので、少したどたどしくあるが、なんとか言葉にする。

「その〈掟〉――〈万物想造〉は、“絆の糸”で繋がった二人が想造、っていうのは、事実だろう。でもそれだけじゃない、ってことじゃないか? この『迷廻』が確認されてから今まで、探究者は数少ない、って話があっただろ? なら、〈掟〉の最終結論には早いかもしれない」

「じゃあ、〈掟〉にはまだ私たちの知らないルールがあるってこと?」

「考えうる限りではそうだろうな。知らないと言うよりは、発見していない、という方が正しい表現だろうが。まぁ誰かが確立しているルールじゃない限り、推測の域を出ないんだがな」

 俺たちはこの世界を創ったわけじゃないし、もちろん〈掟〉を決めたわけでもない。そして何より途中参加者であるがゆえに、最初は前者より伝えられているルールを信じ、飲み込むより他ないため、縛られるという形になってしまう。そして多くの魂魄たちは他に興味が湧かないことで、それを打破しようと考える者は現れなかった。

 この世界ができて数千年経つらしいが、探究者の情報に、へぇそうなんだ、と頭の隅に追いやる事しかしなかったことが原因だ。

「だから、“絆の糸”の繋がり、というよりも、想い合う二人、が正確かな。俺たちが互いに『生界』の人間でも『迷廻』にいる限りはその〈掟〉が通じる、ということだな」

「想い合う……? 私と、天聡くんが……?」

「ああ。だって、同じ日を連想したろ? 初めて会った、あの日を、あの情景を――」

 頷く佐崎。これは俺の思考を裏付けさせる現象でもある。想いの形は数多く存在する、という――

「……もう一つ、可能性があるんじゃないかしら?」

 と、今まで佐崎の後ろで黙っていた絵理さんが口を開く。

「もう一つの可能性って?」

「〈掟〉のルールの方じゃないんだけど……この情景がみんなに見えるようになった条件について、ね」

 聞く二人はわけがわからないという風に首を傾げ、絵理さんの次の言葉を待つ。

「あなたたちが初めて会った時って、まーちゃんがワタシと話してた時でしょ? なら、ワタシも当然その場にいたのよ。だから、まーちゃんとその記憶を頭に思い描けば、この情景が現れるはずなの。で、今って確か――」

「そうか! 今は琴吹の政策のせいで、〈不干渉〉がなくなってんだ。じゃあ、姉妹が共有した情景を、俺にも見せようと思えばそうすることもできる、ってことか!」

「そうね。……それで思い出したけど、大分長話したんじゃない? そろそろアーちゃんが痺れを切らしてるかも」

 いきなり主旨が変わったので、一瞬面食らったが、すぐに立て直す。

「ああ、そうだったな。でもいいのか? 佐崎が俺を呼んだ理由、って達せられたのか?」

 すると彼女は少し俯くが、すぐに顔をあげ、俺でもぎこちないと悟れる笑顔を作る。

「ええ、大丈夫よ。本来、言いたかった言葉は言えてないけど、意識の共有、ってのを天聡くんとできただけでも、今は満足しているわ。だから早く、問題を解決して……ちゃんと帰ってきてね、『生界』に」

 張りつめた彼女の笑顔に、さすがの俺も応えざるをえず、改めて決意をする。

「ああ。絶対に帰ってくる。そしてまた、佐崎に呼び出されるさ」

「えっ? また呼び出さなきゃならないの?」

「だって、言いたいこと言えてないんだろ? 我慢は身体によくないぜ。だからまた聞くよ」

 その言葉を聞いた真彩は、張りつめた顔を弛緩させ、ひと呼吸置くと、今度は屈託のない笑顔をこちらに向けた。

「わかったわ。たとえ天聡くんの記憶が消えてしまっても、私の記憶は消えないもの。必ずまた共有させてみせるわ」

 そう彼女が決心したのを見た絵理さんも、満足気に頷く。だが――

「二人とも気付いてないようだから言っておくけど、天聡くんが何気に言っちゃってたわよ。真彩の気持ち」

「「へっ?」」

 一様に、驚く俺と真彩。記憶を探っていくと……たしかに言っていたような……

 横で気付いたらしい真彩の顔がみるみる紅潮していく。

「……天聡くん……?」

「はひっ」

 まさかの声音に恐怖を感じた。

「記憶――失くしてきなさい」

「………」

 本来なら、それはできない相談だ、とでも言うべきところだが、彼女の気持ちを考え、そしてその表情を見て……俺は頷く事しかできなかった。



 怜とアーリャのところに三人で戻ると、彼女らは何やら、ひそひそと話していた。そのせいか、こちらにいまだ気付いていない。

「……なに、してんの?」

「「ひゃあ?」」

 二人一様に飛び上がる。なぜかアーリャは翅をバタバタさせていたが、推力は薄いため、すぐに疲れて降りてきた。

「もう! 驚かさないでよシュン!」

「そう……ぜぇ……ですよ……シュンスケさん!……はぁ……心臓が飛び出るかと……思いまシタ!」

「うん、最近の漫画でもそうなシーン見たことないよ、アーリャ。お前はいったいいつの時代の神使だよ」

「え? 新人ですから、現代と言うべきでしょウカ?」

「素で返すなよ……ボケツッコミだよ、今のは」

「ボケツッコミでスカ? なかなか高度な技でシタ。『生界』のお笑い好き、と『神界』では有名なアタシが気付かないトハ……腕を上げましたね、シュンスケさん」

「お、おう……いらない評価をありがとう……」

 素の対応、素の評価に仕掛けた俺がつんのめってしまった。アーリャが人間ではないからなのか、いろんな部分で会話に齟齬が生じる。不快感はないからいいけど。

「ちなみに、新人といってもアタシはアナタ方の倍は生きていますけドネ」

 回復したアーリャが右手人差し指を立て、自慢げに自慢してきた。

「「「「えっ? まじ?」」」」

 俺、怜、佐崎姉妹、四人の疑問が重なる。

「まじでスヨ。といっても、神使はある意味、三つの世界とは一線を画した世界デス。以前、シュンスケさんやレイさんに説明した通り、身体の構造自体は変わりませんが、寿命が人間の三倍はありますので、三十年見習いをやって、ようやく正式な神使と認められるわけデス。とはいえ、人間に換算すると十歳をすぎたあたりなので、見た目相応と言われても文句はないのでスガ」

 感情の起伏の激しさと、妙に達観した世間への見解。同居するはずのないものがしていたことにずっと疑問ではあったが、そういうことか。まさに、見た目は子供、頭脳は大人、というわけだ。

「ふふふっ……驚いたでしょう、皆サン。もっと年上を敬ってもいいんでスヨ?」

「まぁ、そんなことはどうでもよくて」

「そんなコト?」

 佐崎のどうでも発言にショボンとするアーリャ。

「その背中の翅、って本物なの?」

「ああ、やっぱり聞いちゃう? てか逆に、まだ聞いてなかったの?」

「う~ん、ずっと気になってはいたんだけど、自分の目的優先だったせいか、見逃してた」

 と、そこで俺は、アーリャが言った「敬う」ということを実行に移してみた。

「これはな、なんと本物の翅なんだ! アーリャはこれで少しだけでも浮くことができる。しかも、触るともふもふして気持ちいいんだぞ!」

 アーリャを持ち上げる高演説しながら、さりげなく彼女の後ろに回り、翅を撫でる。

「あっ……あふぅ……」

 途端に、艶めかしい声を出すアーリャ。ここぞとばかりに他の三人を誘う。

「さあ、みんなも堪能してみないか?」

「「「わ~い!」」」

 完全に俺の企図に気付き、悪乗りした怜と姉妹は、ゾンビよろしく両手を突き出しアーリャを襲う。俺に翅をいじられ抵抗できない彼女は、為す術なく快感の世界に堕ちていった……

「ほんとだぁ、もふもふしてるぅ」

「わっ………わふぅ……」

「この手触り……『生界』にはないわね。さすが神使」

「………あっだめ、です……」

「こんな布団で寝たら安眠どころじゃないわね。天にも昇れそう」

「……そこは………ああぁ」

 端から見れば、寄ってたかっていじめているみたいだ。だが、いじめ側三人は微塵もそんな気はないし、アーリャも三人とは遊んでいるだけだろう。復讐の標的は――

「(きっ)」

 ――俺だ。

「お前……餌の覚悟はできとるんやろうなぁぁぁ」

 怒りによって出現した方言。だが、十歳前後(と見える)の女の子に怒られたって可愛いものだ。

「よろしく頼むよ」

 右手で軽く応える。彼女はまだ頬を膨らませているのだが、釣竿を握るのは彼女自身。アーリャを怒らせることは自殺行為かもしれないなぁ……だとしても、この可愛い膨れっ面を解くのも気が引けるし……まぁ彼女の新人としての仕事意気に賭けるしかない。

「というわけで、行きますか、『死海』へ」

「どういうわけやねん……」

 無理やり本題に戻した俺に、呆れる四人。……なぜアーリャ以外も呆れてるんだか。

「「「(………ロリコン)」」」

「……………」

 聞こえなかったよ。俺は何も聞こえなかった。この耳を塞いでる両手もあれだよ? 蚊がいたんだよ? 決して聞きたくない言葉が周囲を舞ったからとかじゃないよ?

「でも、ほんまにここでええんか? 入り口作んの」

「ああ、大丈夫。やっぱりここが一番イメージしやすいからね。……どれだけ記憶を失くそうが絶対に忘れない場所だし」

 怜は照れたように顔を逸らし、佐崎は拗ねたように顔を俯かせ、絵理さんはそんな彼女の気持ちを察し優しく微笑む。三者三様の態度を示したこの場所は、俺と怜、アーリャが待ち合わせた自宅の前から少し移動した、どこにでも見掛ける公園だった。

 滑り台、ブランコ、砂場……定番の遊具はだいたい揃っている、どこでもある公園。だが、俺にとって、そして怜と燐にとっても特別であろう場所。幼稚園に入園する前から親に連れられて遊び、内世界にずっと籠っていた俺たちは、怜が死ぬまで実に八年間、お世話になった思い出の場所。だから、絶対に忘れないと断言できる。……忘れる時は死ぬ時だ。

「ほんじゃま、行きまっせ」

 ほっ、という掛け声とともに、指で輪っかを作った両手を前に突き出す。その輪が指に沿って光り、彼女が両手を広げると、それに釣られて光の輪も大きくなり、地面にすぅ、と降りていく。最後にひと際大きく光ったと思うと、輪の中は土の表面ではなく、暗闇が奥に続いていた。

「ふぅ……何とか成功したな。ああ、緊張した~」

 際どいせりふが聞こえた。

「やっぱり初めてだったのか……?」

「アホォ、ベテランかて誰一人、こないなこと、せぇへんちゅうに。言うたと思うけど、アタシらの基本の仕事は観察日記やで。極力関わらんのが信条やのに、今回はなんでこんなにしんどいんや」

「え……っと、なんかごめん」

 思わず謝ってしまったが、彼女は手でパタパタと仰ぐ仕草を止め、きゃはは、と快活に笑う。

「まぁええで。これはこれでおもろいしなぁ。歴史に名ぁ、残せんで」

 ………さっきからまったく方言が取れていないのは、俺への復讐心ではなく、イベントが面白いからテンションが上がっている、ということにしよう、そうしよう。

「んで、お次は、っと」

 今度は両手で何かを受け止めるような仕草で暫し止まる。数瞬後、掌に小さな光がともったと思うと、それは長く伸びていき一メートルちょっとの棒状のモノになった。光が消えると……

「なに、それ?」

「ん? 釣りには釣竿が必要やろ」

「……竹竿じゃん!」

 まさしく竹製だった。

「何が不満なんや?」

「なんかこう、カーボンとかグラスファイバーとかもっと高級素材のやつ、ないの? リールも付いてないじゃん」

「ああ……こんな感じか? よっ、と」

 竹竿を光が包んだと思うと、一部を変化させながら、眩しいくらいの光量を放ち、それはすぐに消え……

「おお! すげぇ!」

「ふっ、こんくらいの創造は簡単や」

 日除けの帽子、ポケットのたくさん付いたベスト、黒光りする長靴、右肩には高級竿が、左肩には長いヒモがかかり、その先にはクーラーボックス、見紛うことなき……

「…………」

 釣り人だった。

「あっれ~? 俺は釣竿だけの高級感を求めたんだけど……なぜか完璧になってる」

「こういうイベントはやっぱり気持ちから入らんとなぁ。安心してええで、しっかり釣り上げたるからな」

「はぁ……ありがとうございます……」

 まったく気持ちのこもらない感謝なんて初めてかもしれない。

「でもやっぱり竿はこっちやな」

 と、また光が包み、竿だけをカーボンから竹に戻す。

「ちょっ、なんでだよ?」

「? 餌に合わせよ思ったら、竹の方が合っとる気がしてな」

 もう返す言葉もなく、地面に両手をつく俺。その耳に怜の抗議する声が聞こえた。

「アーリャん、さすがに竹竿は可哀そうじゃない?」

「怜……」

 若干瞳を潤ませながら顔を上げる。やはり持つべきものは幼馴染だ。

「シュンの気持ちも考えてあげて。いくら竹竿がマッチしていようとも、やっぱりそこは高級なやつにしてあげて。お願い!」

 ………俺はフォローされてるんだよね? 追加ダメージで毒・麻痺とかすべての状態異常食らったりしてないよね? もうそれ死亡ルート確定だよ?

「むぅ、レイさんがそう言うんなら、しゃーないなぁ」

 ここは感謝しとくべきなのか? いや、そうではないだろう。誰が何と言おうと、この状況で俺は感謝するべき立場ではない、と考える。

 竿を再び、高級竿にしたアーリャは、クーラーボックスを脇に置き、いつのまにか出現していた組み立て式の椅子に腰かける。

「では、シュンスケさんはこれを腰に巻きつけてください」

 座ったままで、竿の先端をちょんと指で突く。すると、そこから光が伸びてきた。だが今度のは形状変化ではなく、そのまま伸び続け、まるで糸のようになる。糸の先っぽは俺の近くまで漂ってきた。

「それは魂糸。読んで字ぃの如く、魂を繋ぐ光の糸や。太さは一定やけど、繋ぐ二人の心が途切れない限り、どこまでも伸び、絶対に切れない、正に最強の糸、っちゅうわけ」

「最強の糸を見たことがないから、正に、かどうかわからないけどね」

 ブツブツと言いながら、魂糸を腰辺りに回し、身体の前でぎゅっと縛る。

「(おい、聞こえるか~?)」

「えっ?」

「ん、どうしたの?」

 聞こえた声に反応する俺だが、佐崎以下三人は不思議そうに俺を見ている。ただアーリャだけがにやにやしていた。

「さっきのはアタシの心の声や。シュンスケさんにしか聞こえんかったやろ?」

「何か喋ってたの?」

「ああ。『聞こえるか?』って言われただけだけど。聞こえなかった?」

「私たちは全然。ねぇ?」

 ほか二人に同意を求める佐崎。怜も絵理さんも頷くのみだ。

「これが魂糸の性能や。どんなに近くても他人に聞かれることはないし、どんなに遠くても二人の声は互いに届く。優れモノやろ?」

「まぁ、たしかに……」

 光の粒子に感心する俺以下四人。まるで未来の便利道具みたいだ。

「せやから、想いの強い場所を選んでもろうたんや。まぁなるべく竿を持つやつも繋がりが強いレイさんの方がええんやけど、どうする?」

「……いや、いいよ。それも神使の仕事だろう。だから、アーリャに任せるよ」

 右手親指を立てる、という古臭い動作を自覚しながらも決めてみる。人間三人は若干引いていたが、アーリャは何かに感動したようで、瞳をうるうるとさせていた。

「……うん、アタシ……がんばる!」

 しばらく小さい子(実年齢は俺たちの三倍)の健気な姿を見守っていると、泣き止んだアーリャが元気よく声を上げた。

「さて、準備もできたし、本題に入ろか」

「え? まだ本題じゃなかったの?」

「アホ。今までのはただ場を整えとっただけや。今から核心に迫る話をするんやないか」

「……はい、お願いします……」

 なぜかはわからないが、アーリャに『アホ』と罵られると、だいぶ凹む。

「んじゃ、改めてこいつを渡すか。ほれ」

 懐から取り出し、無造作に投げてきたものは、数時間前に一度見たモノ、オレンジ色の光を閉じ込めたキューブ、つまりは琴吹千影の魂の原型だ。

「これが、魂……」

 はじめて見るらしい佐崎姉妹が身を乗り出して、キューブを凝視する。やはり、と言うべきか、俺たちと同じような反応だった。

「ねぇ、アーちゃん。私たちの魂は何色なの?」

 一度、禁忌を破っている(わけではないのかもしれないが)アーリャは、開き直ったようにすんなりと答えた。

「二人は……綺麗なピンクのも見えるし、時々暖かいオレンジっぽくにもなるな。光の明滅はあまりいい印象がないで。それだけ不安定、っちゅうことやからな」

「「…………」」

 神使にずばりと心情を当てられた姉妹は暫し互いに俯く。事情を知らない怜はともかく、俺としてはやはり心配だ。しかし、こればかりは俺はアドバイス止まり。姉妹が自分たちで解決せねばならない。

「ま、まぁ、今はそれは置いといて、早く続き続き。ごめんね、アーちゃん。途中で止めちゃって」

「え? いやまぁ、それはええけど……」

 何かを吹っ切るように明るく振る舞う佐崎。怜は困惑したままだが、アーリャは使命感で先に進む。

「じゃあ、オホン……『死海』ってどんな世界か、イメージ湧くか?……あ、あとこれな。これに魂入れといたら、ちょっとやそっとじゃ落ちんから」

 そう言って放り投げたのは、ところどころに傷みが覗えるねずみ色を基調とした巾着袋。

「それを魂糸につけといたら大丈夫や」

 言われたままに、魂を入れた巾着を取り付ける。

「ぶふっ……よう似合っとるのぅ……くっくっ」

「え、なに? ここ笑うとこなの? これから決戦に行くって時に笑っちゃうの? おい、怜。お前からも言っ……ってお前らもか!」

 よく見れば、佐崎や絵理さんまで肩が震えている。そ、そんなに変かな?

「いや、ワタシは……さっきの親指の思い出して……ぷぅくすくす……」

「そっち引きずってんのかよ! もう終わったよ、その話題!」

 約一名はズレていた。このやり取りのあいだに回復したアーリャが再度、質問する。

「で? 『死海』のイメージは?」

「ああ、そうか……う~ん、そうだなぁ……この『迷廻』と同じように、地形は『生界』と変わらずで、ただただ無数の魂魄が漂ってる、って感じかな?」

「ふむ、まぁ半分正解半分間違い、といったところやな。図で説明してやろう」

 すると、彼女は〈想造〉による力で、すぐ隣にホワイトボードを出現させる。

「まずアナタ方の世界『生界』がこれな」

 そう言って、マジックで上の方に線を一本引く、いや引こうとする……。つま先をピンと伸ばし、プルプル震えている姿を見ていると、燐の小学生時代を思い出し、思わず握り拳を作り、『頑張れ!』と心の中で応援してしまう。ただ今の状況ではまずかった。

「? ………………」

 魂糸によって心の内がバレバレだったのだ。アーリャは数秒間、俺を睨み続けると、ホワイトボードに掌を当てた。すると、ボードの脚が一瞬光り、消えた時には、少し短く、アーリャでも十分届く高さになっていた。

「「ごめんなさい」」

「謝んな、ボケェ? 余計や?」

 燐をよく知る怜も同じ気持ちだったのだろう、俺たちは同時に謝ったが、逆効果だったようだ。

「プンッ……話、続けんで」

「「お願いします」」

 しかしなんというか、ひとつひとつの所作が可愛くみえるなぁ。さっきの拗ね顔も可愛かった。などと考えているとまた、ぎゃーぎゃー言われるので自制する。

「で、これが『生界』やとする。んで、こっちが『迷廻』な。知っての通り、この二つは、地形的に一緒やから、まぁこんな感じか?」

 上の線には家らしき絵をたくさん、ボードの真ん中あたりに書いた線には少なく描く。

「この『迷廻』の下にあんのが、『死海』やな」

 今度はボードの下の方に、上が開いた四角形を描く。その開いた部分の少し下に波線で左右を繋ぐ。それは世界というよりも……

「『死海』はその名の通り、一見すると海に見える。でも客観的に、『神界』から見ると、超巨大な水槽なんや。その中に億、兆単位の光の粒――魂が漂っとる」

 俺たちの状況で分かりやすく例えれば、理科の実験におけるプランクトンの観察だろうか。水槽の中のモノがはっきり見える見えないかの違いはあるが。

「これがアタシらの『神界』から見た三世界の客観図や。今は説明のために『生界』『迷廻』『死海』の順で書いたけど、本来の存在意義やったら、『生界』『死海』有りきの『迷廻』やから、順序としては逆やねんけどな」

 そう言いながらマジックでボードをとんとんと叩く。と、気付けば俺の隣で怜が手を挙げていた。

「どないしたん、レイさん? なんかわからんとこ、あった?」

「わからないと言えば、わからないんだけど……そもそもなんのために『迷廻』を造ったの? 生き死にだけなら、『生界』と『死海』で間に合ってるのに」

 実に根本的な質問だった。そしてこれは、何十年何百年と続いてきた探究家たちの探究心を大いに踏みにじる行為だ。いや、目の前に答えが用意されているなら、誰だって見たいと思うだろう。別に怜が非難される筋合いはないのだが、なんというか……何も表現できない悲しさがあるように思う。

 だが、その答えを得ることはできなかった。

「………そればかりはお答えすることはできまセン。『神界』における禁忌中の禁忌事項で、もし無断で『神界』の外に話を持ち込めば、処罰を受けるばかりか、最悪、神使権剥奪、または『神界』追放もありえますノデ」

 ……それ以上は誰も追及できなかった。ついさっきまで興奮していたアーリャが、いきなり素に戻るほど、冷静に対処かつ深刻な問題なのであろう。……もはやどちらがアーリャの素なのか、わからなくなってきたが。

「では気を取り直シテ……シュンスケさんはこの『迷廻』から餌として『死海』に突入し、どこかを漂っているチカゲさんの魂魄を探し出してくだサイ」

「いやいや、無茶言うなよ。そんな広大な場所から、どうやってたった一つの魂魄を見つけ出せ、と?」

 アーリャは両手を目一杯まで広げると、少しずつ間隔を狭めていった。

「同種の魂魄は、ある一定以上離れていると、互いに導きあうようにその方向を示しマス。なので、『死海』に入ったら、巾着袋に注目してくだサイ。遠ければ動くはずなノデ」

「それなら、見つけるのは簡単そうだな」

「ところがそうもいかないんですヨネ」

「どういうことだ?」

 今度は、掌をギリギリまで近づける。

「その一定距離よりも近づくと、反応はなくなってしまいマス。それまで進んできた方角にいるはずですが、魂魄は基本自由に動き回るので、あとは目視のみでしか見つける手段がないのデス」

「なんで、そんなめんどくさいことに……」

「なるべく多くの親の元に子を届けるためでスヨ。魂が惹かれあってばかりだと、一か所に集中してしまう恐れがあるノデ。まぁ時々その無反応さえも通り越すほどの強い絆で一卵性双生児が生まれたりするのでスガ」

 だいたい三つの世界の仕組みを理解できた。アーリャに喋る気がないので『迷廻』の件は放っておくしかないとして、『生界』で生きることの意味、まだ見ぬ『死海』の役割などが一気に現実味を帯びてきた。だが、現実感がありすぎて、魂への執着とか、天国地獄への畏れなども一気になくなった気もする。

「では……世界の概要の説明も終わったことですし、改めて『死海』へ入る際の注意点を申し上げマス」

 アーリャはもう一度ボードに向き合うと、『迷廻』の線の真ん中あたりに、丸を一つと棒を五本、書き加える。……あれはいわゆる、棒人間というやつか。

「これがアタシです」

「お前、確かに小さいけど、そんなにひょろかったか?」

「? これはあくまで描写デス! ア、アタシは絵がそんなに得意ではないノデ……」

 少し涙目になりながら、しょぼんと俯くアーリャ。三人の女性陣の視線がイタイ。

 アーリャに平謝りしつつ、先を促す。

「……ぐすっ……で、これがシュンスケさんデス」

 復讐のつもりなのか、俺に至っては、丸一つで終わった。怜が横で笑いを堪えてやがる。

 続けてアーリャ(棒人間)から俺(丸)へと線を一本伸ばす。

「これが魂糸でスネ。申し上げた通り、これは普通には切れることがないので、自由に探索してくだサイ。魂糸を通してアタシが、消えていくシュンスケさんの記憶を補完していきマス」

 最後に『死海』をぐるっと囲み、ボードを使った説明は終了した。

「そして一番の問題点ですが、波線で書いたことからもわかるように『死海』はアタシたち特製の、魂を浄化、記憶を消去する液体で満たされていマス。かといって、それは『生界』での液体とは違い、呼吸も普通にできますし、溺れ死ぬこともなく、イメージすれば何もないところに足をつけることさえできます」

「へぇ。なら、死者の最初の試練ってその液体に慣れることだな」

「いえ、死者に関しては、すでに死んでいることもあり、その液体に自然と溶け込んでいきマス。ですが、生者であるシュンスケさんは、“生きる”という思いによって咄嗟にもがき苦しむように感じるかもしれまセン。パニックに陥らずに冷静に呼吸すれば、自然と慣れていきますので、間違ってもそんな無様な死に方をしないでくださイネ」

 にっこり笑顔で、とても辛辣なお言葉を頂戴した。

「……努力するよ」

 まだ見ぬ世界への不安――四十パーセント、アーリャへの得も言われぬ恐怖――六十パーセントに耐えながらなんとか返す。

「しかし、アーちゃんの敬語、って何か違和感あるね」

 唐突に佐崎がそんなことを言い出した。

「違和感と言われましテモ……こちらが一応、お仕事スタイルなノデ……」

「じゃあ、方言が出る方が普段なの?」

「まぁ、『神界』でも滅多に出しませんが、自宅では独り言で出ている自覚がありマス」

 神使の自宅、ってどんなんだろうな……という妄想は今は置いといて――

「俺はその方言が出る方がいいけどなぁ」

「エ? そうでスカ? ほかの神使から、粗雑だと指摘を受けたので、何とか抑えているのでスガ」

「うん、でもやっぱり親しみやすさは段違いよね。敬語だと距離感があるというか」

 四人の人間に対し、一人の神使。当然、神使の方が分が悪く、困惑する一方だった。

「俺は方言出ているアーリャがいいな。魂糸もそっちで頼むよ」

「しかし、長らく抑えていたせいか、テンションが上がらないと出ない、というのも自覚済みで、やれといわれても、できるかどうか……」

「じゃあ、こんなのはどう?」

 いたずらっぽい笑みを浮かべた怜。ああいう時は俺に不利になるのだと、経験則から理解したが、今まで逃れられたことがない。

 アーリャに何か耳打ちしたかと思うと、俺の方に寄ってきて、『死海』へ繋がっている光の輪の傍に立たせた。その後ろにアーリャが控える。まさか……まさか、な。

「……まで……今まで散々弄んでくれやがって……シュンスケさんのアホォォォ!!」

「やっぱり?」

 突進してきたアーリャは俺のお尻を思いっきり蹴り飛ばし……俺は絶望の淵から真の絶望へと堕とされたのであった………。



 ほぼ同時刻――『生界』のある地点――

  多くの乗客を乗せたジャンボ機が山肌に墜落した――

  ナイトクルージング中の豪華客船が謎の事故で沈没した――

  震度六強の大地震による津波で小さな島すべてが呑み込まれた――

  どこかの大国の陰謀により内紛地域で小規模ではあるが核実験が行われた――

 

 後に、今世紀最悪の一日、と呼ばれるこの日。死者の合計数はなんと、一万以上にも及び、そのほとんどが一斉に『死海』へと流れ込んだ………

 

 

 

 


第五章 想いを断ち切る狼煙とならん



 ――『死海』サイド――

「(ぶ、ぶふぁ――び、びず――ごぎゅうが――)」

『まったく……あんだけ言ったのに、もう取り乱してやがんな』

 『生界』から『迷廻』へ、またはその逆と同じ感覚、視界が暗転してからの別世界で俺は………溺れていた。

『はい、シュンスケさん。一回深呼吸しましょうかぁ。吸ってぇ』

「すぅぅぅ」

『吐いてぇ』

「はぁぁぁ」

『吸ってぇ………って何さらすんじゃ、ボケェ!!』

「げほっげほっ……いきなり止めるなよ。調子狂うだろ!」

『シュンスケさんが不甲斐ないからやろ!――まったく……あんだけ言ったのに、もう取り乱して』

「二回言うな。生物の生存本能だからしょうがないだろう」

『生者であるシュンスケさんは気を付けろと……』

「ごめんなさい!」

 なんかもう、居た堪れなくなって、キレ気味に謝ってしまった。

『もう、ちゃんと謝りなさいよ、シュン』

「あれ? 怜の声が聞こえるよ?」

『この魂糸はな、後付けすると、同時通話もできるんや』

「へぇ、そりゃすごい」

 正直、実際に見ないとその凄さはわからないので、適当に返事をする。

『でも本幹はアタシのやつやから、シュンスケさんはずっとアタシのことを考えとくんや』

「お、おう。わかった」

 本人に他意はないはずだが、人間の世間では愛の告白ともとれる発言を軽々としてくる。適当な返事へのからかいという復讐か、とも思ったが、彼女の隣にいるはずの怜や佐崎の息を飲む気配がすることから考えても、アーリャ本人は屈託のない笑顔を浮かべているのだろう。怜ですら、謝罪の件を忘れている。

『で、調子はどう? 地面に足がついているイメージはできた?』

 本当に楽しそうに笑うアーリャと、彼女を警戒する怜と佐崎の緊張の合間を縫って、絵理さんが声を掛けてくれた。

「はい、それはもう大丈夫です。ありがとうございます」

『もしこの三人が頼りないと思ったら、いつでも私に切り替えてもいいからね?』

「えっ? あ、その」

『ちょっと、姉さん?』

『ふふっ……妹の好きな人を盗る、っていうのも楽しいかもしれないわね……』

 あれ? 絵理さんって、第一印象はとても清楚で佐崎のいいお姉さん、て感じだっただが……実は危ない人なのか?

『もう姉さんたら……』

『ふふっ、冗談よ冗談。からかって戸惑うまーちゃんを見ている方が楽しいわ』

 どっちにしろ、妹で遊ぶSな人だった。

『んじゃ、話戻すで。今、静止してる状態やろ? 巾着はどうなっとる?』

 言われて腰に着いていた袋を手に取る。

「今は掌に乗せると、少しずつ動いてますね。え~と、これがどうなるんでしたっけ?」

『? もう忘れかけてる?』

 糸で繋がっている四人が驚愕している。それもそのはずで、俺の記憶の消去が始まっているのだ。それは俺も覚えている。

『まぁええ。道中、説明しなおすわ。とりあえずその巾着が動く方向にシュンスケさんも行ってくれ』

「おっけ、わかった」

 言われるがまま行動した方がいいと判断した俺は、巾着袋が示す方に歩き始めた。それから十分間、アーリャや三人から説明を受け、だいたいの事情を理解――思い出していた。

「ふむ。じゃあ、まずはこの袋の動く先に千影さんって人がいる、と。その人を見つけてから、アーリャのところに帰りたいと強く願えばいいんだな?」

『『ダメよ!』』

「えっ、違うのか?」

『『いや違わないけど……』』

 二人分の声が重なって聞こえる。これは怜と佐崎のものか。

『もうシュンのバカ。どうしてアーリャんがいいなんて、言ったのよ………』

『もし釣り師に私が立候補したら、天聡くんは私を採ってくれたかな………』

 二人の思念が重なって、よく聞き取れない。

「で、結局どっち?」

『アーリャさんで合ってるわ。大丈夫よ』

 黙っている二人に代わって、絵理さんが補足してくれた。

「わかりました。それじゃ、しばらく歩き続けてみます」

『こっちも一旦、待機や。糸は繋いどくから、何か見つけたら連絡してな』

「了解」

 すぅ、と何かが薄れる音がする。おそらく通話の音量を下げるようなものだろう。

「さてと、どこまで行けばいいのかわかんないけど、とりあえず目指してみますか、ウィン○ルドン……じゃなかった。千影さん魂魄探し!」

 俺は意気揚々と、歩を進めた。

 それから数十分後――世界を混ぜ返すような激流に襲われるとも知らずに――



 ――『迷廻』サイド――

 アーリャは三本の魂糸をまとめて消しながら、釣り竿を大きめの石で固定する。

「アーリャんの釣り師イメージ、って大分偏ってる、っていうかごちゃ混ぜになってる、っていうか……」

「ん? なに?」

「いや、なんでもない」

 彼女の釣り師感は置いといて、ワタシは別の発言をする。

「で……このまま待っていればいいの?」

「ん、せやな。持ってるときは気付かへんかったかもしれんけど、魂糸は繋がっとるあいだ、喋るたびに震えとんねん。やから、今シュンスケさんからの連絡あったら、竿も震えるからすぐわかる」

「連絡を振動で伝えるって……まるで携帯みたいね」

「逆や逆。『神界』に似せて造られた世界が『生界』やから、魂糸みたいやのが、携帯やねん」

「ああ、だから『生界』だけは『神界』と同じ文字が入ってるのね」

「そういうことや。まぁ『生界』に超能力なしにしたから、文明発達するまで数千数万年かかったけどなぁ」

 また一つ、世界の神秘に近づいたワタシや佐崎姉妹は、感心したようにため息を吐いた。

「ほぁ……アーちゃん、って本当に創造主のいる世界の住人なんだねぇ」

「せや。どうや、すごいやろ……っていまさらかい?」

 全力でツッコむアーリャに、笑い合う三人の女性陣。まるでここだけ世界の危機などないかのように。

 と、何かに気付いたように、絵理さんが口を開く。

「まーちゃん、そろそろ切らないと、時間来ちゃうよ」

「あ、そっか。もう二時間くらい繋がってるっけ?」

 現時点で、『生界』から『迷廻』、またはその逆に繋がっていられる時間は、最大で三時間ちょっと、と調べられている。しかし、それ以上いられるのかどうかは、なかなか探られていない。何せ、時間が過ぎたらどうなるかがはっきりとしない状況では、チキンレースの様相を呈しており、誰も率先して留まろうという気にならないためだ。

「じゃあ、私は一度もどるから、何かあったらメールで知らせてね」

「うん、わかった。またあとでね」

 姉妹で別れを済ませ、佐崎真彩は足元の影に溶け込むように沈んで消える。それとほぼ同時、新たな声が二つ、加わった。

「あれ~、怜ちゃん? こんなとこで何しとんの?」

「あら、女の鑑やないの。奇遇やね~」

 ここ数日、対策会議でずっと顔を合わせている坂本氏夫妻だった。

「師匠、どうしてこんなところに?」

「久しぶりに夫婦で散歩しよか、って思うて、いろんなとこをぶらぶらしてたら、なんか光が見えてなぁ。近づいてみたら、鑑がおった、っちゅうわけ」

「その……鑑って呼ぶの、止めてもらってもいいですか?」

「なんでやの? あの彼氏を手玉に取る姿、私から見ても立派やったで」

「それは……ありがとうございます。でもやっぱり……恥ずかしいんですよね」

 鑑と呼ばれること。だがそれ以上に、シュンを彼氏と認識されていることに、ワタシは頬を赤らめる。自分たちは両思いだと自覚しているはずだが、改めて言われると恥ずかしい。

「で、こないなとこで何しとんの? 彼氏……たしか天聡俊輔くんって言うたかな? 彼はいないんか?」

「ああ、それは………」

 さきほど、記憶を失くしかけているシュンに対して行った説明を、もう一度坂本氏夫妻に説明する。今度は琴吹の演説の件から客観視点も交えての説明なので、倍ほど時間がかかったが。

「ほぇ~なるほどなぁ。わしらが『迷廻に村を!』とか叫んでる時に、あんたらは世界の危機に立ち向かっとってんなぁ」

「そんな大層な気持ちはないですよ。ただ自分たちの住む世界を護りたかっただけで……」

「それが立派なもんやろ。ふつー遠くで起こってる災害やら戦争やら、悲観的な感情は浮かんでも、実際に行動起こす、起こせるやつなんてそうそうおらんで」

 夫妻に褒め称えられて、気恥ずかしさで俯いてしまう。その間に、夫妻は話しかける標的をアーリャに変えた。

「んで、こっちの小っさい子がその“神使”のアーリャ・サクランくんやな」

「あ、どうも、初めシテ」

 話しかけられた瞬間に、方言が取れ、対人語に戻っていた。ワタシたち以外には方言は使わないのか、それとも結構な人見知りなのか……。

「『生界』『迷廻』『死海』を造った『神界』なぁ。考えなかったわけやないけど、その住人やっちゅう実物見ると感慨湧くなぁ……」

 “まよい村”を作ろうとした人だ。この人たちも浪漫を追い求める気持ちが強いのだろう。

 やがて、何かを決心したように、夫妻で視線を合わせてアーリャとワタシに詰め寄る。

「よっしゃ! わしらに何か、手伝えることないか? できることなら、何でもやるで」

「う~ん、これ以上今できること……」

 ワタシとアーリャと絵理さん、三人で顔を見合わせるが、ぱっと思い付くことがない。

「そういや、その琴吹の妻、千影の魂を引っ張り上げたとして……それをどうすんねん?」

「えっと……琴吹獅童に引き合わせて、気を静めてもらおうと……」

「でも、その琴吹って迷府にいるんやろ? その迷府って……どこにあんの?」

 その言葉を聞き……ワタシと絵理さん、坂本夫妻、四対八個の目がアーリャを射抜く。なぜ今まで思い付かなかったのか? 神使がいるなら、知っているはずだ。聞けば答えが――

「ごめんなサイ。アタシはまだ新人ですので、迷府について事情は知っていても、場所まデハ……」

 ――そう簡単には行かないのが世界というものか。

「でも三十年生きているんですよね? 神使の研修とかあったんじゃ?」

「研修の時には確かに行きましたが、『神界』からのワープという手段を採りましたので、『迷廻』のどこにあるか? と聞かれても詳しくお答えすることができまセン」

 運動会のリレーでコケてしまった小学生よろしく、しょぼんとするアーリャ。

「ま、まぁ、ええやろ。今このタイミングでわしらがここに来たのも、運命やっちゅうことやな」

「えっ?」

「せやから、わしらが迷府を見つけてやろう、っちゅうことや。わしら夫婦が力を合わせりゃ、できないことはない、ってのが信条やからな」

「坂本氏……」

「どうせやったら、会議のメンバーにも手伝わせよっか。琴吹の演説にどうとも反応しない暇なやつらやろうから」

「師匠も……」

「そないな顔せんでええよ。私らからしたら鑑も俊輔くんも、自分らの子供みたいなもんや。子供を応援せん親がどこにおる? 大船に乗った気持ちで待っとってくれたらええねん」

 二人の声援に思わず瞳が潤む。たとえ世界を憂いているのがワタシたちだけだとしても、それを乗ってくれる人はいるんだと思うと、とても熱い気持ちになる。

「ほな、テレパシーで皆に伝えてみるか。五組十組くらいならすぐに集まるやろ」

「はい、お願いします。“まよい村”一致団結の時、ですね!」

 テンションが上がって方言が出そうになるが、まぁ知らないものは出なかった。

「じゃ、またあとでなぁ。見つかったら連絡するわ」

 手を振り合って別れる。夫妻は来た道を引き返しながら、坂本氏夫が地面に沈む。おそらく『迷廻』を師匠が、『生界』への連絡を坂本氏が担当するのだろう。

「よっかたね、アーリャん。これならすぐに見つかりそうだよ!」

「ええ、そうでスネ……」

 なぜか浮かない顔をするアーリャ。

「……どうしたの?」

「レイさん、あの二人は誰でスカ?」

 坂本氏夫妻の行先を見詰めながら、呟く。ワタシもそちらを見るが、すでに師匠の姿もなかった。

「ワタシとシュン、エリさんとマヤさんもでしたっけ? 今『迷廻』で新しい集落を作ろうか、という話になっていて、最近、プレハブ小屋を想造して連日連夜、会議をしてるの。その先導者があの夫婦で、ワタシたちも参加してる。十五組の魂魄を集めたのも、師匠たちなの」

「…………」

 アーリャはずっと凝視したまま、視線を外さない。

「何か、気になることでもあるの?」

「実は……迷府の場所、知っているのデス」

 外さないまま、彼女は言葉を発した。

「えっ? 知ってるの? じゃあ、なんでさっき……」

「出会った時から、違和感を覚えたからデス」

「違和感?」

「ハイ。なんというか……すべてを知っている上で、アタシたちの説明を聞いていたよウナ……この局面をどこか遠くから愉しんでいる気がしましたシタ」

「楽しんでいるのは、ワタシも同じ気持ちがないとは言えないけど」

「いえ、『面白い』のではなく、『可笑しい』の方デス。影から観て笑っている、という風ナ」

「まさかぁ……師匠がそんなこと……」

「まぁ、初対面のアタシが感じた気配ですから、付き合いの長いレイさんの方が彼らを知っているでショウ。ですから、そちらを信じまショウ」

 すっ、と身体ごと視線を逸らし、ワタシに向き直る。

「そう? それならいいけど……」

「でも、迷府の場所を知っているのはどうして?」

 絵理さんも会話に加わる。

「さきほど言った、先輩との研修の時にしっかりと地図をもらってますカラ。『迷廻』経由で行ったことは確かにありませんが、それを見れば場所はわかりマス。坂本氏夫妻がいる時は違和感により思わず躊躇ってしまいましタガ」

 アーリャは掌を上に右手を前に出し、目を閉じる。すると、竿の時と同じように光が灯り、消えると一つの巻き物が出現していた。彼女は紐を解いて、地面にくるくると紙片を広げ始めた。

「これが『迷廻』の地図デス。地形的には『生界』と同じなので、何度も見たことがあるでショウ」

 それは紛うことなき、世界地図だった。白抜きで右にアメリカ大陸、中央から左にかけてユーラシア大陸、下にオーストラリア。そしてそれらの周りに広がる紅い海らしき地域。

「『神界』で使われるのも、日本を中心としたものなんだ」

「いえ、これは今いる場所の緯度を中心に表示していマス。なので、今は日本がある緯度が真ん中ですが、アタシがこれを持ってアメリカで広げれば、そこが中心として表示されマス」

「へぇ。じゃあ、これを持ちながら移動したらこの紙面の世界も動くの?」

「まぁ、理論上はそうだと思いますが、近場で動いても何も変わりませんし、遠い地区に移動するなら転移装置を使いますので、試したことはありませんケド」

 しばらく談笑してから、ふと気付く。いや、本当は最初から気付いていたけど、あからさま過ぎてツッコめなかった。

「……で、ここが迷府、ってわけね」

 ある一点を指す。それは北極。

「そうデス。よくわかりましタネ」

「うん、それは……そうだね」

 本人には悪いが、苦笑するしかなかった。何せ、青いペンで“めいふ”と平仮名で書かれているのだ。わかるわからない以前に、気付かない方がおかしい。

「でもなんか……予想通りって感じね」

 絵理さんが地図を覗き込みながら、指摘する。

「まぁ、そうですね」

「えっ! わかっていたんでスカ?」

「う~ん、わかってた、っていうよりも、『迷府はどこにある?』ってアンケート取ると、上位三位には入ってきそうな、ありきたりな場所というか」

「あんまり驚きがないですよね」

 二人して顔を見合わせ笑う。ふと見ればアーリャがいない。いや、公園の植木の方でしょぼんと膝を抱えていた。

「別に……アタシがそこに置いたんじゃなイシ……驚いてくれないと、最初に興奮して方言出てしまった自分がバカみたいじゃないでスカ………」

 絵理さんと二人、内心『子供か!』とツッコみながら、駆け寄って宥めにかかる。

 その後ろ、シュンを繋いでいる竿、引いては魂糸が、激しく揺らいでいることに気が付かないまま………



 ――『死海』サイド――

 俺は今、生命の危機に瀕していた。

 呼吸なんてどうだっていい。足が地面に付かなかったって問題ない。

 ただただ、激流に呑まれ、本当の意味で身が引きちぎれる一歩手前だった。

「……??………ごばっ……ぶごっ………」

 痛みに耐えていると、今度は魂を浄化するという液体もどきに翻弄される。呼吸はどうだっていい、とは思ったが、やはり本能は素直だった。

 咄嗟に息を止めるが、これも長くは続かないと理解はしている。だが、身体は言うことを聞かない。

 突然、襲い来た激流に混乱し、疲弊し、本能が働きながらも、この状況下で冷静でいられるわけがない。

 やがて、酸素がなくなった俺の身体から意識が離れ、気絶したまま、流れに身を任される結果となった……



 ――『生界』サイド――

 ~午前四時~

《次のニュースです。本日午前三時ごろ、アメリカ大陸を縦断飛行中の旅客機がロッキー山脈に墜落しました。三百人以上を乗せたジャンボジェット機で、現地の消防隊員が必死の救命活動を行っておりますが、いまだ生存者は見つかっておりません。また、乗客名簿には二十三名の日本人の名前も載っており、安否確認が急がれています。現時点で確認されている死者は五十三名、行方不明者は二百六十五名にも及んでおりますが、現場が山岳地帯ということもあり、救助は困難を極めています。

(え、あ、はい。わかりました)

 ……臨時ニュースをお伝えします。大西洋をナイトクルージング中のバイエルティア号が原因不明の事故により沈没した、とスペインの海洋警備隊より情報が入りました。当号はフランスからイベリア半島を回りギリシャへと向かう航行中で、フランス・ギリシャ・スペインの三国の警備隊が連合して救助に当たる模様です。また新たな情報が入り次第、お伝えします。

 では、次はお天気です。………》


 ~午前七時~

《おはようございます、朝のニュースです。本日未明、フィリピン沖の近海で震度五強の地震が発生し、M島など複数の島の沿岸部を津波が襲い、多数の行方不明者が出ている模様です。また気象庁は数時間後には沖縄諸島にも津波が押し寄せると予測しており、周辺地域に強く警戒を呼び掛けています。日本政府はこれに対し、二年前の教訓を活かすとして救助隊を編成し、現地へ向かわせると発表しております。》


 ~同日午前十時・中東~

 長らく周辺諸国を巻き込んで続いていた内紛は、この日、終焉を迎えることになる。

 ある大国の陰謀で、地面に埋め込まれ、忘れられていたはずの核が暴発する、という形で。


 この日、死者は一万人を超え、後世の全国の歴史の教科書に《人類史上最悪の一瞬》と載り、深い爪痕を各所に残した。



 ――『迷廻』サイド――

「えっ? うん、わかったわ。すぐに繋げる」

 アーリャをなんとか宥め(一時間以上)、再びシュンからの連絡待ちに戻った怜たちは、まったく動かない竿を眺めながら、暇を持て余していた。すると、そこに絵理が独り言を喋り出したのだ。いや、理由は分かっている。『生界』から真彩のメールが入ったのだろう。

「どうかしたんですか?」

「なんか『生界』では大変なことになっているそうよ。今すぐ呼ぶわ」

 絵理が瞳を閉じて数瞬後、彼女の隣の足元に影ができる。その影がすぅ、と立ち上がり人の形を取ったと思うと、だんだんと色を成し実体へと変わる。もちろん真彩だ。

「ただいま」

「おかえり……じゃなくて、何があったのよ? あんなに慌てて」

「そう、そうなのよ。あのね……ってなんでアーちゃんがまだここにいるの?」

「? ここにいるのは、アタシが本来の任務とは離れているからでスガ……まだ、とはどういうことでスカ?」

「知らないのは任務から外れているからかなぁ」

「慌てているにしては冷静でスネ……いったい何があったというのデス?」

 真彩は一拍おいて、事態を伝える。

「『生界』で事故が起きまくってんの! だいぶ死傷者も出てるみたいだし」

 言っていることが理解できず、呆ける三人だったが、三秒後、何を思ったか一様に笑いだす。

「また『迷廻』の仲間がたくさん増えるかな」

「どうでしょう? 事故って言っても日本だけではないでしょうから」

「道理で、『神界』との通信を切っているアタシには連絡が来ないんでスネ」

 三人で三角形を作り、笑う。頭の隅ではその事故が何を齎すか、うっすらと理解しながら。そしてそれは、真彩から告げられることになった。

「三人とも、なに笑ってるのよ! 死んだ人が大勢いる、ってことは、『死海』にも影響があって、天聡くんが危ないんじゃないの?」

 怜たちは、ロボットよろしくカクカクと首を動かし真彩を向く。そして一驚。

「ええええぇぇぇぇ~~~~~?」

「……反応、遅っ」

「アーリャん、大量に死者が出たら『死海』ってどうなんの?」

「えっと、どうなんねやったかな……ああ、もうわからん!」

「と、とりあえず天聡くんに聞いてみましょう……ってどうやって聞くんだっけ?」

 目の前を右往左往する三人の女子を見詰めながら、自分も騒いだことは騒いだが……と嘆息する真彩。それを無視して、『死海』への入り口の傍に放置されている釣り竿を手に取り、俊輔との通信を試みる。

「もしもし、天聡くん、聞こえてる? 聞こえてるなら返事して」

 しばらく待ってみるが、答えはない。そのうち、いくらか正気に戻ったらしい怜が竿を横取りし、ぶんぶんっと振り回す。

「聞こえてるなら、返事しなさいよ、シュン~~」

 だがそれでも、答えはなく、竿は回され続ける。やがてあることに気付いた怜はその動きを止める。

「これ……なんか軽くない?」

 そう言って竿に付いている魂糸を引き上げ始める。

「ちょっと? まだ早いんじゃないの?」

「いや、でもこの先に何もないみたいに軽いんだけど……引っ張ってみてよ」

 受け取ったアーリャは確かめるように竿を何度か、くいっと動かす。そして確信したかのように、猛烈な勢いで魂糸を引いた。

「ちょっ! アーちゃんまで?」

「マヤさんから知らせを受けた時、ある危惧が頭に浮かびまシタ。おそらく同じことを思って、マヤさんも連絡してきてくれたのでショウ」

 喋るあいだも、糸は引き上げられていく。

「それは……お話した通り、『死海』は巨大な水槽のイメージデス。そこに大量の異物を放り込めば、中がかき混ぜられるのは必然。その中のプランクトンなどどんな被害を受けるのか、もはや想像もできません」

「それが、シュンにも起こっていると?」

「おそらクハ……その事態の最中、もしこの公園を、アタシを強く念じることが難しくなること、気絶などしてしまえば、魂糸は途切れ、シュンスケさんの記憶は普通よりはるかに速いスピードで消えていきマス。何より、探索する方法がなければシュンスケさん自身が死……最悪のタイミングで転生が行われてしまえば、前世のほとんどの記憶を保ったまま、次生に臨み記憶障害で精神が壊れる恐レモ……」

「そんな……それを防ぐ方法はないの?」

 佐崎の必死の嘆願に、応えたのは怜だった。

「あるよ」

「えっ?」

 その時ちょうど、アーリャが魂糸をすべて引き揚げ終わった。そして当たってほしくなかった予想通り、魂糸の先は捩じ切れるように千切れていた。

「レイさん、まさかあれを使う気でスカ? あれは最終手段ダト……」

「今が最期じゃなくて、いつがそうなの? ワタシにとってシュンは……かけがえのない人なの……次の人生でもまた絶対一緒にいたいし、別々になるなんて考えられない……だからワタシも命を懸ける。シュンと一緒に帰ってくるわ、ここに……そして『生界』に?」

 泣きながらの決意に、事情を知らない真彩と絵理さんは困惑するばかり。

「えっと……とりあえず説明くれる?」

 目元を拭いながら、怜が再び真彩に答える。

「実はね……シュンが持って行った巾着袋には、最初からワタシの魂魄も一緒に入れておいたの」

「ふむふむ、それで?」

「だから、ワタシもここから『死海』に落ちれば、シュンの持ってる魂とワタシ自身が引かれあって見つけられる、ってわけ」

「そうかそうか、なるほど……ってそれ、下手したらあなたも巻き込まれるんじゃない?」

「そうだけど……それが?」

「それが? ってねぇ……あなた死ぬのが怖くないの?」

「ワタシもう死んでるけど?」

「いや、そうだけど、今回のは訳が違うじゃない。今まであった自我も消えて、ただ薄れいく存在になるかもしれないのよ?」

 怜は目を閉じ、両手を祈るように組んで胸の前に持っていく。

「それでも……シュンの腰にワタシの魂魄が付いている限り、彼がもし記憶を失くしてもワタシと一つになれる。そうすれば転生しても、同じ身体か、双子か、幼馴染みかはわからないけど、またずっと一緒に居られる気がするから」

 最後は満面の笑みで締めくくった怜は、アーリャから魂糸を受け取る。真彩は俯いて固まった。

 やがて、肩を震わせながら顔を上げると、勢いよく宣言した。

「それでも! ……それでも私は負けないわ。まぁ今はあなたに頼るしかできないけど、もしあなたが天聡くんを連れ帰ってくるなら、私はあなたに勝負を申し込むわ。絶対に天聡くんを私に振り向かせてみせる! ………だから、あなたも一緒に帰ってきなさいよね………」

 真彩の勢いに押されたのか、少したじろぐ怜。だが、ふっと肩の力を抜くと、真彩の視線を正面から受け止める。

「ありがとう。アナタなりの声援として受け取っておくわ」

「あ、いや、声援とかそういうんじゃなく……」

「ふふっ、見事なツンデレっぷりね」

「姉さんまで! ツンデレじゃありません!」

 必死に抗議する真彩に、怜、絵理さんの二人で笑い合う。アーリャは、話について行けずきょとんとしていたが、ふとこんなことを思った。

【この最悪な状況下でも笑っていられる間柄。一歩間違えればバカの集団だけれど……友達っていいものだな】と。

 一頻りじゃれ合った後、腰に魂糸を結んだ怜が『死海』への入り口に立つ。

「じゃあ、行ってくるね。マヤさんのためにも、二割くらいの気持ちを持って帰ってくるわ」

「……残り八割は自分のため?」

「いえ、ワタシの分は四割。そして残り四割は妹のリンのためよ」

 現時刻は朝の七時半。俊輔の魂失踪紛いの事件を、事件にする前に必死に奔放しているだろう妹に想いを馳せる。事前に打ち合わせていたことだが、『生迷死界』はすべて同時進行のため、『死海』で半日過ごせば、『生界』でも半日過ごすことになる。となると、今回のように何らかの問題が発生した時、『生界』ではフォローが必要だ。そこである程度、事情を把握している燐に任せたのだが……さて、どうなっていることやら。

「そういえば、燐ちゃんも天聡くんのことが好きなのよね?」

「………どうしてそれを?」

 馳せていた想いを引き戻し、さきほどよりも錆びついたようなギギッとした動きで振り返る。

「どうして、って……天聡くん本人から聞いたんだけど。琴吹の演説があった次の日で、それについて相談しよう、って私が持ちかけて……」

 その言葉が言い終わるかどうか、という時には、すでに怜は『死海』への突入を敢行していた。アーリャが慌てて竿を持つ手に力を込める。

「ど、どうしたのでスカ? レイさん」

『シュン……一発殴らないと気が済まないわ……』

 まだ魂糸を繋いでいなかったので、アーリャからその言葉を聞いた真彩は震えあがった。

「やっちゃった、かな……?」

 何とか無事で……怜さんの拳を避けて……と願いながら、真彩は怜からの知らせを待つことになった。時間も時間だし、一度学校に行かなければ、と絵理さんに言われ、仕方なく『生界』へ戻る真彩。心配ではあるが、怜のあの調子だと、必ず連れ帰ってくれるであろうと信じ、影に沈む。

 俊輔を燐のところへと連れて帰り、今度こそ気持ちを伝えさせると意気込む怜。

 初任務、そして誰も為したことのない偉業と褒め称えられるために頑張るアーリャ。

 世界に復讐するために、中枢を乗っ取り壊そうとする琴吹獅童。

 アーリャの直感によれば、何かを企んでいるらしい坂本氏夫妻。

 そして……気絶したままの俊輔。

 五者五様の思惑や思想を包み込んで、時は刻まれる。

 狭間の終焉に向かって………



 ――『死海』サイド――

 今、俺は天国にいた。

 天国が本当にあるかもわからないし、それ故どんな感じかも知らないが、もしあるのなら、そんな雰囲気なんだろう、と全人類が夢見てきたことだ。

 だから天国とは、指示語でしか表現できないし、妄想の範疇を越えないのである。

 そして俺は、その妄想の中にいた。

「……ん……むにゃ………」

 自宅のベッドではない。毎夜、こんなに幸せな気分になれるのならいいが、そうでもないし、母親が敷布団を変えた、という報も聞いていない。

 となると、妄想ではなく、本当に天国なのだろうか? 天国ならば俺はもう死んでしまったのか?

 だが、そんなことはどうでもよくて、今はただこの気持ち良さを堪能しよう、と寝返りを打とうとしたところで、右頬に何かが刺さる。

「いたっ………ふえ? ここは、どこだ……?」

 寝ぼけ眼で上半身を起こす俺。はっきりと覚醒しない頭と目で周囲を確認するも、見覚えはまったくない。ふと、右を見ると、これまた見知らぬ和服美人が佇んでいた。その右手はちょうど俺の顔があったであろう場所を指差している。いや、刺していた。

「あなた、は……?」

「ウチ? ウチは琴吹千影ぇいうもんどす。お初にお目にかかりますなぁ、坊や」

「ことぶき……ちかげ……? ………琴吹千影ぇぇぇぇ??」

 突然の驚愕に千影と名乗った女性も驚く。それは当然のことだ。初対面であるはずの子供が自分の名前をさも知っているように叫ぶのだから。

「なんや、どこかでお会いしたことあったやろうか? ウチは高校生のくらいの知り合いはおらんと思ぉとったんやけど」

「あ、いや、すいません、突然大声出して……」

 思わず立ち上がって、腰から九十度の謝罪をする。

「いや別にええんよ。ただウチの記憶、最近薄れてきてもうてなぁ。もう齢やろか?」

「そ、それは……」

 はっきり、あなたは死んでいる、と告げるべきなんだろうか? もし、この人が死を自覚していなければパニックに陥り、最悪ミッションに支障を来たす恐れも……

「わかっとるえ。ウチはもう死んどるんやろ? 記憶が薄れてんのも、忘れてるんやなく、忘れさせらとんねやろ」

「えっ……知っていたんですか?」

「そりゃぁ、はじめここに来た時は、なんでウチが? とも思ぉたけど、確かシドウさんもここに来たはずや、と思うとなんや急に元気出てきてな。どうせやったら、また会いたいなぁ、って探しとったんやけど……そう上手くはいかんもんやなぁ」

「…………」

 俺はこの人に、真実を告げることができるのだろうか? ここに、この『死海』にいては、絶対に会えないのだ、と……告げなければミッションは成功しないのだが、千影さんの遠くを見詰める瞳を前にしては、何も言葉が出てこなかった。

 だから俺は、言葉が出ない代わりに、話の聞き手になることにした。

「俺は……ある場所で琴吹獅童さんと話したことがあります」

「ほんまに? どこでや?」

「まぁ、そのうち、わかりますよ。でもその時は時間が短かったのであいさつ程度だったんですが、お二人が凄く互いを好きなのが伝わってきました」

「いや~そんな恥ずかしいなぁ」

 でも、伝わっているのは事実だ。現時点でどこまで記憶消去が行われているかわからないが、少なくとも獅童の死、という場面を千影さんは覚えていた。直感でも、超感覚でも、同じ死者の国にいることを気付いていたのであろう。それは相当な絆がないとできない芸当だ、と、実際に“絆の糸”で繋がっている経験則から判断できる。

「ですから、お二人の馴れ初めなんかを聞かせてもらえるとありがたいのですが……どうでしょうか?」

「ほんまに? なんや、やっぱり恥ずかしいけど……まぁええよ。そんなに聞きたいんやったら……」

 そう言って、彼女はぽつりぽつりと過去を話し始めた。


『あれは、ウチが高校生のときやったかなぁ。ちょうど坊やくらいの歳で、ピッチピチの制服っ娘やったんやで。当時はウチの家で軽い商売しとってなぁ。まぁ簪とか和の装飾品売っとる小さな店でな。周りには大きな和の専門店もあって、お得意さんか数人の観光客くらいしか寄り付かんとこに建ってた。まぁもちろん、金銭的には苦しゅうてな。毎月食べるだけで精一杯。贅沢は敵だ、ってこの時代には合わんやろ? でもウチらはそれが普通やったし、家族、オトンとオカンがおったらそれでええぇ思ぉとった。

 でも学校で遊びに誘われてもずっと断っとったから、そのうち誰も声かけんようになって……そんな時に声かけてくれたんが、シドウさんやった。お金ない言うても、一緒に居れればいい、って言ってくれる人でな。いつしか家族と同じくらい好きになっとった。めっちゃ恥ずかしかったけど、勇気出して、告白してオーケーもろた時は、ほんまに泣きそうやった。

 でもそれは……全部あの人の演技やったんや…………シドウさんは金貸しの人と繋がっとってな。ウチの店の経済状況とか調べるために、ウチに近づいて家族同然に笑い合っとった。

 それを聞いたときは、告白以上に泣きそうで……いちゃもんつけて店になだれ込んでくるならず者を、足が竦んで見てるしかなくてな。オトンは瀕死の重傷負ってそのまま、オカンはそれが祟って心労で……ウチは高校出る前に、路頭に迷ぉてもうたんや。笑えるやろ?

 ………まぁ、そんな反応やわな。今でこそ当時の記憶として話せるけど、ウチとてその時はボロボロやった。友達もおらんかったし、親戚も関わりとぉない、って誰も助けてくれへんかったし。

 えっ? じゃあ、なんでシドウさんと一緒になったか、って?

 そうね、今の話じゃ分からないわよね。それが分かるのは、五年後、ウチがなんとか頼み込んで住み込みで働かしてもらっていた知り合いの旅館に、彼が泊まりに来た時やった。しかも、金貸しの人たちとね。

 そりゃぁ、びっくりしたわ。彼らがウチの顔、覚えてたらまた絡まれるかもしれん、と思ぉたら、仲居の仕事なんか手ぇつかんし、他のお客さんに心配されるほどやった。布団の数間違えるわ、配膳遅れるわ、お客さんが入ってる時にお風呂の掃除に向かうわで、散々やった。そのうち、恐れていた時が来てなぁ。その人らが宴会するぅ言うて、大会場の準備しとったら、開始時間間違えた一人がウチを見た途端、部屋に飛んで帰ってって……ウチは戦慄したよ。あの悲劇がここで繰り返されるんかと思うと怖くて……裏口で縮こまって震えてたのを、よう覚えとるわ。

 その時、ウチを見つけて、また手を伸ばしてきたんがシドウさん。もう騙されへん、と思いながらも手ぇ取ってしもうたウチはすぐに後悔した。案の定、大会場に連れて行かれて……なぜか全力で謝られたわ。なんや、あくどい商売が親会社にバレて全員クビ切られたんやと。今は心入れ替えて、いい金融さんでやっとるらしいで。ああ、後悔したっちゅうんは、一時でも疑うてしまった自分に対してな。まぁ一度裏切られたから無理もない話や、って言うてくれはったけど、やっぱり自分も悪い思ぉてひたすらに謝っとった。そないなヘンテコな雰囲気やから最後は皆で笑ってなぁ。泊まっとった人ら全員で、旅館挙げての大宴会や。もちろん謝られても笑っても、オトンとオカンは戻って来ぉへんねんけど、シドウさんがおってくれただけで、ウチの心は満たされてた。

 そんな雰囲気の中で、シドウさんと二人、会場抜け出して……ああ、この話は坊やにはまだ早そうやなぁ。……そない拗ねんでもええやないの。ふふっ……

 え? 親会社の名前? 確か、『坂本金融』て言うたかなぁ。今そんなん関係あんの? まぁええけど。

 んでから、そのままゴールイン……かと思われた矢先やった、シドウさんが車で轢かれて亡くなったのは。

 年末年始のお祭り騒ぎの真っ最中やった、ってのももちろんあるんやろうけど、訪ねる病院全部断られて盥回しにされて……ウチは家で待っとったから、どういう状況で轢かれたか、まったく知らんねんけど、警察の方が言うには、ブレーキ痕がなく、浮かれて飲酒運転しとったか……または故意か。

 別に不思議なことはないやろ。昔はウチみたいな被害者がたくさん、かどうか知らんけど、おったはずや。なら、受け入れるべき運命かもしれん。……と思い直した時やね、死んだシドウさんともっかい出会ったんは。耳と目とすべてを疑うたよ、はじめは。せやかて、生きとった時と同じように陽気に笑うシドウさん見とって、これは本物や、と気付くまで時間はかからんかった。

 ……と、覚えてんのはそこまでやな。ウチがなんで死んだのかは、もう記憶が消されてるんか、どうしても思い出せへん』


 聞き手に回ったら回ったで、言葉を失ってしまった。

 心変わりした昔の獅童を責めることもできないし、裏切られた人をもう一度信じた千影さんは称賛に値する。もちろん世間はすべてが善良に染まるわけではない。今度こそは……と思った信用が二回、三回と壊されることだって多々あるだろう。一歩間違えれば千影さんがそうなった可能性は正直高い。それでも信じる、そしてそれに応えた獅童……さんの関係は、昨今では稀有な例だ。

 もう俺は琴吹獅童を世界の敵、と思えなくなっていた。だが、敵ではなくとも味方でもあるまい。世界の崩壊(だと推測される)は止めなければならない。

 彼女の話の中に妙に気になる一点があるように思いながらも、今は端に追いやり、意を決して、現状況を打ち明けることにした。

「千影さん、お話、ありがとうございました。それで、さきほどの……獅童さんと出会った場所ですが……」

「せやせや、その話。そのうちわかるぅ言うてたけど、それっていつなん?」

「今から俺がお話しすることは今、別の世界で起こっている現実です。どのような内容でも受け止めてくれますか?」

 千影さんは俺の眼をじっと見る。俺も見返す……と、彼女はにっこり微笑んだ。

「わかった。坊やからは真剣みが伝わってきた。そないな人間が嘘吐かんのはよう知っとる。話してみぃ。ウチが聞いたるさかいに」

「ありがとうございます。では……」

 と感謝と前置きをし、今までの経緯――『死海』と『迷廻』の差、世界の法則性を利用して琴吹獅童が何をしようとしているか、そして自分が実は生きている人間であることも。

 話し始めは、絶対に越えられないカベに寂しそうな顔をしていたが、シドウさんの演説辺りで険しい表情になり、最後は俺が生者であることに驚いていた。

「ほぉ、坊や、まだ生きとるんか。そないな人間が死者の国に来て大丈夫なんか?」

 この質問は俺にとっても苦しいものだった。なぜなら――

「……大丈夫、じゃないですね。俺にはもう帰る手段がありませんから」

「どういうことや?」

「これ……最初から腰に巻いて、変だと思っていたでしょ? この光ってる紐は魂糸と言って、繋がっている二人が互いを思い合っていれば絶対に切れない、という代物なんですが……ご覧のとおり、切れてしまいました」

 そう言って、魂糸の先をヒラヒラと振る。アーリャたちが『迷廻』で見た(ことはもちろん知らないが)状態と同じ捩じ切れた端から、光の粒子がさらさらと零れ寂寥感を増す。

「魂糸で『迷廻』と繋がりながら、千影さん、あなたを探し出し、また引き上げてもらい、獅童さんにあなたを会わせて統合を止めてもらおう、というのが俺たちの考えた作戦だったんですが……もう無理です……ね。もう俺は……『迷廻』に……『生界』に……みんなのところに帰ることもできない…………覚悟はしてきたつもりです………でも………いざその時になると………」

 俺は自分でも知らないうちに涙を零していた。だが拭う気も起こらず、ただ流れるのに任せる。そんな俺の頭を柔らかい感触が包んだ。でも今のテンションで、天国だ、とか言ってられない。

「ちょっ! 千影さん?」

「黙っとき! ………黙って泣き……男でも女でも泣きたい時に泣いとかんと、上には上がれへんもんや。せやから、今は泣き。全部ナミダ流したら、あとはずっと幸せか……死や」

「へっ?」

 頭を抱かれながら、驚くべき言葉に驚愕する。思わず振りほどこうとするが、なぜかがっちりホールドされて解けない。仕方なく、そのままの状態で聞き返す。

「幸せか、死、ってどういう選択ですか?」

「ウチは高校の時に、全部流した。あとは生きてるあいだはずっと上向きやったし、最期は死んでもうた。ナミダはなぁ、生きてる人間の特権の一つやで。死んだ人間は悲しなっても何もできへん。けど、生きてる人間はそのままあとも生きていくんや。死んだ人間が生きてる側に頑張ってほしいんは、自分のために流したナミダの分だけ、ずっと必死で生きて欲しい、と思ぉとるから。葬儀の時の涙は、死者が流せんかったナミダの分や。せやから、深い、とても重い気持ちが詰まっとるんやで」

 実際に死んでしまった人の言葉だからだろうか? それとも失った経験をしたからだろうか? 千影さんの言葉に妙に納得してしまった俺は、そのまま彼女の胸に顔を埋める。

「ナミダが全部流れ切らんねやったら、それはまだ生きろ、て証拠やね………時に坊や、大切な人はおるか?」

「え、ええ、もちろんいますよ。いなければ『迷廻』には来れてませんて」

「その娘って、長い黒髪で白いワンピースにピンクのベスト着とる?」

「そうですね。さっき別れた時はそんな服装でした。……ってなんで知ってるんですか?」

「うん……そないな娘がね……凄い形相でこっちに走って来よるよ」

「まさか、そんなこ………ええぇぇぇぇ?」

 さすがに離してくれた千影さんからの頭を上げ、彼女の視線を追うと……紛れもない怜が走ってきていた。……運動が得意ではないため、ちょっとスピードは遅めだが。

「れ、怜……なんでここに?」

「やっと……ぜぇ……見つけたわよ……シュン………で……なんで………知らない人とイチャついてんのよ!!」

 全力で走って全力で息が切れているくせに、最後の止めは一気に言い切った。

「べ、別にイチャついてない! この人が琴吹千影さん。俺たちが探してた人だ。知らない人じゃない」

「でもそれは……ふぅ……頭を抱かれる理由になるのかしら? ずいぶんとご機嫌だったようだけど?」

「それは見解の相違だ。慰められていただけで、俺に他意はない」

「じゃあ、あなた……チカゲさんの方には他意があるんですか?」

「いや、ウチもかわいい坊やを慰めてあげよぉ思ぉただけやで。そこにたまたま飛び込んできたんが、あんたやないの」

「うぐぐぅぅ……」

 当事者二人にそう主張されれば、怜も何も言い返せない。だがそれで気持ちが治まるはずもなく……

「とりあえず、一発殴らせなさい」

「なんで?」

「罪状は……マヤさんとお茶したこと、その際にリンとの一件をバラしたこと、そして今回。これだけ集まればワタシが怒っても何も問題ないと思うけど?」

 にじり寄る怜に後ずさる俺。情けないと自覚しつつ、最後の砦と千影さんに視線で助けを求めるが……

「あかんわ。それだけ証拠揃えられると、警察だってぐぅの音も出せんで。今回は受けとき」

 そんな~、と嘆く声はバシッ、と頬を打たれる音にかき消された。

 ――数分後――痛みが引くまでたっぷり蹲った俺は気を切り替えて、怜に質問した。

「なんで怜までこっちに来たんだ? ……てのは愚問か。糸切れてんだもんな。でもなんでこの場所が?」

「巾着袋」

 その短い返答で、目が醒めてから初めてそれを取り外す。あの、身を引き裂かれる思いをした激流の中、外れずにいたこの袋はどんな原理でくっついていたのだろう、と疑問は後回しにして、入り口を開き中からオレンジ色のキューブを取り出す。

「なんや、それ? なんか懐かしいような、でも今も身近にあるような……」

「これは千影さんの魂魄の一部です。死んだ人は審判の間で『死海』か『迷廻』に振り分けられる際、魂の一部を削られて、それを寄せ集めてまた新たな生命を誕生させるらしいので、その時切り分けたものを『神界』から取り寄せてもらい、探すことにしたんです。魂同士は引き合うから、と。そして懐かしい気がするのは、“絆の糸”で結ばれる魂魄は同質のものらしいので、これは獅童さんの魂でもあると言えるわけですね」

「これが……シドウさん……」

 ゆっくりと手を伸ばし、俺からキューブを受け取るとぎゅっと抱く。

「死んでるはずやのに……鼓動みたいにどくっどくってしてるわぁ……」

 しばらくその様子を見詰める俺と怜。ふと、巾着に違和感を覚え、握ってみる。

「あれ? まだなんか入ってる?」

 と、俺は右手を中に入れ、手にしたナニカを引っ張り出す。

「これは……お守り?」

「そ、そうよ。それがワタシの一部」

 お守りの小さな口からは、アーリャが言った通り、俺たちの魂の色である青の淡い光が漏れ出ている。そして、千影さんが言った通り、懐かしいけど今も大事に持っている気もした。

「念のため、と思ってアーリャんに頼んでおいたの。二重三重の策を練るのは当然でしょ?」

 ほんと、こういうことは抜け目がない。それは小学生のころから変わらないな。

「まっ、そのおかげで助かったんだし、もういいじゃない。さぁ早く帰りましょ」

「そうだな……ほら、千影さんも行きますよ」

「……そうか、初め坊やを見たとき、シドウさんに似ていると思ったのは、このキューブが原因か」

「そうですね。だから俺と千影さんが出会えたんですけど。あと俺の名前は、天聡俊輔です」

「そうか、ええ名前やな、シュン坊」

「……坊は止めませんか?」

「ウチから見たら、あんたら二人とも子供やさかいなぁ。坊で間違いあらへんやろ」

「ワ、ワタシもですかぁ?」

 三人でじゃれ合い、笑い合いながら魂糸の下を辿って、歩き出した。


 この時点で午前九時五十九分――そして一分後――

 中東の内紛地域で核が暴発したのは、まさにこの時だった。

 

「「きゃっ?」」「おわっ?」

 俺にとって二度目の激流(一回目は旅客機墜落、この時点で気絶)は、なんとか意思の力で足を地に固定することで耐えることができた。千影さんも何度か体験したのであろう体捌きでその場に踏みとどまる。

 だが怜は……初めての急流に飛ばされていた。幸いしたのは、俺の前を歩いていたこと。なんとかギリギリで手を掴むが、俺自身も足の固定が精いっぱいで、動けそうにない。

「な、なんなの、これ?」

「おそらくでしかないけど、『生界』で一気に人が死んだんだ! 全員が全員、『迷廻』に行けるわけじゃないから、大半はこっちに来て、それが原因だろう!」

 激流の最中、互いに叫びながらだが、正直余裕はまったくない。千影さんもなんとか寄ってこようとしてくれているが、彼女も固定が限界なのだろう。

 そのうち、俺の手も限界がきて、離しそうになってしまう。が、必死に堪える。

「手を離して、シュン!」

「はぁ! 何言ってんだ、怜? これで流されたらお前を救うことができなくなるだろ!」

 巾着は取り外していたせいで、もう手元にも目で追える範囲のどこにも見当たらない。つまり、怜を『死海』に離してしまえば、彼女は転生まで記憶を消される旅に出ることになる。そんなことは……

「ぜったいに! 離さねぇぞ! たとえ俺も流されて死ぬことになってもだ!」

 再び流れ出るナミダを俺はまた止めることもせず、全部流し切ってしまう決心をしていた。

「もう! 二度と! お前を失くしたくない! もうあんな思いはしたくない!」

 ここでナミダを流し切り、死ぬ決心を。

「もう、嫌なんだよ……自分の一部を失うのは………」

「シュン………」

 一度、顔を俯かせた怜は、しばらくしてまた上げると、力のない微笑みを浮かべていた。

「シュン、ワタシ……あなたと出会えて、本当に嬉しかった……楽しかった……いっぱいいい思い出をもらったよ。まぁそりゃ最期、一緒に死ぬまで生きたかったけどさ……それでも死んだ後もずっと一緒で、生き死に関係なく笑って怒って振り回して……あなたと生きた九年、いえ、十七年間は、この魂の前世たちの幸せ、全部合わせても負けないくらい、ワタシにとってかけがいのないものだよ……でもだからこそ! あなたには、ワタシが生きられなかった分まで、ちゃんと生きて欲しい……じゃないと、ワタシの十七年間が全部パァになっちゃう気がするよ……だから………」

「いやだ?」

 俺は無我夢中で叫んでいた。何を叫んでいたのかもわからないまま、彼女が大事だと言った十七年間を否定する言葉を。

「俺はお前がいなきゃ生きてる意味がないんだ! 世界中の誰もお前との幸せには届かない! それは前世の記憶とか関係ない。俺はお前が好きだからだ! 愛しているからだ! だから、お前を見棄てない! お前と一緒にこれからも生きていく。それが無理なら、一緒に死ぬ!」

「ダメよ?」

 今度は怜が叫ぶ番だった。

「シュンには……あなたを生きる拠り所としている人がいるの。その人はあなたにとっても大切なはず……あなたが生きて、その人と結ばれることが、ワタシが死んでなお、シュンを求めた理由の集大成なのよ………」

「なんだよ、なんだよそれ……誰だよ?」

「リンよ」

「??」

 瞬間、蘇ってくる数日前の記憶。この『死海』で忘れていたはずの。怜との散歩中に起こった衝撃的な告白。返事はまだしていなかった、必ず答えを出すと決意しながら。

「でも……俺は………」

 どちらかを選ばなければならない……そんな場面で本当に選べる人間がどれほどいるだろうか? ましてや、それが生死を分ける問題の時は? ……そんな自問自答に血が出るほど唇を噛み締める。

 その俺の様子を見た怜は、にっこりと笑みを浮かべた。まるでこれが最期だと言わんばかりに……

「じゃあ、ワタシと一つ、約束をして?」

「やく……そく……?」

「そう、約束。ワタシを必ず、シュンの傍に転生させて」

「! どうやって?」

「簡単じゃない。シュンがリンと『生界』で無事に結ばれて……子供を産めばいいの」

「っ! それは……」

「大丈夫よ。必ず成功するわ。シュンもリンも、もちろんワタシも………また三人で顔を合わせて笑いあえる、って信じているもの!」

 最後に最上級の笑顔を作ると、おもむろに空いた左手で腰の魂糸を解き始めた。

「なにを……っ!」

「これはまだ『迷廻』に繋がっているわ。これで帰りなさい。みんなが待っているから。アーリャんも、エリさんも、……マヤさんも」

「佐崎……?」

 名前をつぶやくと同時に、また蘇る記憶。これは『死海』に来る直前の映像。彼女としたのは一つの約束。絶対に、彼女の勇気を忘れない、と。

 もう手も気持ちも限界だった。怜への想いよりも、彼女とした約束や『生界』『迷廻』に残してきた未練の方が強くなってきていた。

「はい、これ。絶対今度は離さないでよね」

 怜は無理やり、俺に魂糸を握らせる。その握った分だけ、怜の手にいくはずの握力が弱まった。残酷にも、激流はその時を逃さなかった。

 勢いそのままに、流れていく怜……ただ見送るしかない俺……二人を隔てるものは何もない。何もないはずなのに、足は地から離れなかった。そして最後に怜が発しようとして届かなかった言葉も、一生、眼に残るだろう。


『バイバイ…………またね』



 流れが治まり、視界がひらけた時にはすでに何もなかった。呆然としたまま千影さんに連れられ、離さないでと言われた魂糸だけは離さず、道中ひと言も互いに話さず……実際、どうやって『迷廻』にまで戻ったのか覚えもないまま、気付けば心配そうなアーリャと視線を逸らす佐崎姉妹が目の前にいた。

 千影さんが必死に場を取り成そうといろいろ紹介したり、今までの経緯を話したりしているが、魂糸はずっと繋がったままだったのだ。彼女ら全員が事情を把握しているだろう。

 そのあと、どうやって迷府に行き、獅童を宥め、世界を救ったのか。俺はずっとうわの空で語れるところがないため、客観視点でざっと説明する。


 まず、迷府の場所を知っている、というアーリャが、事前に転移装置の神使以外の申請許可も受理してくれていたおかげで、すんなりと迷府内大義堂にワープでき、驚くNPC(『神界』が設置したもの。占拠中は獅童に操られていた模様)を余所に、そこからは千影の独壇場だった。昔の負い目があるからか、終始、低姿勢な獅童は千影に言われるがままに皆に謝り、占有を解き、神使であるアーリャに支配権を返した。これにより、一連の事件は終焉を迎える。


 二人の身柄は『神界』が預かる、と言うアーリャと別れ、『迷廻』の魂魄は留まり、『生界』一行はそれぞれの自宅に帰った、という場面で俺の意識は覚醒した。俺が横たわるベッドの傍には、なぜか燐がいたからだ。いや、事前の打ち合わせ通りなのだから、いて当然なのだが、まさか覗き込まれているとは思わなかった。

「うわっ」「ぎゃんっ」

 ゴツンッ、と激しい音がして、互いに自分のおでこを抑えて苦悶する。

「いつつ……なんで覗き込んでんだよ、燐」

「いたた……ごめんなさい。だって俊輔さんの顔が、途中からすごく青ざめていたので」

 もしかしてずっと看ていてくれたのだろうか。いや、それも事前の打ち合わせにあるのだが、ちゃっかりと実行する燐も律儀なやつだ。学校への連絡はどうしたんだろう?

「父さんたちにはなんて? 学校にはちゃんと連絡したのか?」

「風邪で体調不良のようだと。店で忙しいでしょうから、一日中看病します、って言ったら、なぜか嬉しそうに頼まれましたけどね」

「普通は学校に行け、って言いそうなもんだけどな」

 そこは天聡家と杜野家の特殊関係ゆえか。

「学校には、風邪で休むと伝えました。嘘を吐くのは忍びないですが、他ならぬ俊輔さんと姉さんの頼みですので」

「そうか……ありがとな、燐」

 頭を撫でてやると、いつものように、あわわわわ……と慌てだす燐。だが、それも数秒だけで、手の下からこちらをじっと見上げる。

「ん? どうした?」

「俊輔さん……何かありましたか? 気を失っている最中も青ざめてしましたが、今もどこか……寂しそうです」

 やはり子供のころから……怜が死んだ後もずっと俺を見てきたという燐には敵わない。

 俺は燐の頭から手を離すと、彼女の茶色がかった瞳を見詰めた。

「いいか、燐、よく聞いて、理解してほしい………お前の姉である怜にはもう……会えない。だから、俺たちで『レイ』を産むぞ」

 五秒、十秒、三十秒……そろそろ一分経つか、という頃になって、ようやく燐の顔が紅潮し始めた。

「……え、えっと……あれがそれで、それがこれで……これがどれで、どれがあれで……?」

 ひとこと一言を理解していくうちに、朱は彩度を増し、地球上にこんな赤があるのか、というほどの彩色となった。俺も若干、どころじゃないほど熱くなっているのを自覚する。

「え、えぇぇぇぇぇぇぇと…………これが、その……この前の答えですか……?」

「ん、そうなるな。まぁ言わば、プロポーズというやつだ」

「告白、通り越して、プロポーズって……どんなドラマでもそんなのありませんよ」

「これはドラマじゃない。現実だからな」

「いや、まぁそれはそうですが……素で返されると本気で萎えますね」

「嫌なのか?」

「嫌なはずがありません! でも……その……早すぎるというか、わたしたちまだ高校生ですし……」

「燐は中学生だけどな」

「だから、素で返さないでください!」

 いったい燐は何が不満だというのか?

「別にいますぐ、ってわけじゃもちろんないぞ」

「ふえ? そうなんですか?」

「そりゃそうだろう。俺も燐もまだ結婚できる歳じゃないし、少なくとも九年後の話だ。『レイ』を産むのはな」

 それを聞いた途端、身体の力が抜け、へたり込む燐。顔の紅潮も薄まり、ぶつぶつとつぶやく。

「……なんですか、今かと思って、まだ心の準備が、と思ったのに……九年後、って人生設計立てすぎでしょ……て、なんで九年後なんですか?」

 最後のは俺に対する質問だったようで、少しボリュームを上げていた。

「……怜の記憶がなくなるまでが、生きた年数、つまり九歳で死んだ怜は消去に九年かかるからだ」

「記憶……? 消去……?」

 俺は燐に、この世界に繋がる別世界の話をした。実際に見たことがないものにはファンタジーすぎる話題だろうが、燐に関してはそうはならない。こいつは俺の言うことをすべて鵜呑みにするからだ。……そのくせ、聞きわけるところはしっかりしているが。

「ふ~ん……なるほど。だから、姉さんの存在はずっと俊輔さんの近くにあったわけですね。しかもわたしが会う早朝ばかり……道理で、俊輔さんと朝の挨拶をする時に必ず、ライバル心が燃え上がっていたわけですよ」

 両腕を組んで、うんうん、と頷く燐。毎朝、そんなもの燃やしてたのかよ。

「わかりました。では結婚しましょう、わたしたち」

「お、おう。また急だな」

「もちろん今すぐではなく、大学出てから、などがベストですか。そしてその間、俊輔さんがわたしのモノであるという証拠に、ちゃんとお付き合いしましょう」

「……セリフ的には俺のやつだと思うんだけどな……ファンクラブの件もあるし」

「当然、ファンクラブには解散していただきます。ケジメですから。そしてそれ以上に!」

「な、なんだよ……?」

 人差し指を立てて、ずいっと身を乗り出す。

「佐崎さん、という方の告白を、ちゃんと断ってください」

 思わぬ方角からのパンチに動揺を隠しきれなかった。

「お、おう。もちろんそのつもりだよ。次に会った時にな」

「いえ、ダメです。善は急げと言うでしょう? 気持ちが揺るがないうちに、さぁ早く」

「いや、でも俺今日、風邪で休んでるんじゃ?」

「……では放課後。放課後、学校外でなら、問題ないでしょう。さぁ早く待ち合わせのメールを」

「いや、この時間帯、授業中だろ。もしマナーモードし忘れてて鳴っちまったら携帯一週間没収で、あいつに一生恨まれる……」

「………………」

 燐のジト目は、さすがに姉妹、怜を想い起こさせ――寂しいよりも恐怖が勝る。

 と、そのタイミングで携帯の着信音が鳴った。

「誰だ、こんな時に……って佐崎からだ」

「えっ?」

 これには燐も驚いたようで、画面を覗き込んでくる。文面はこうだ。


《大丈夫?》


 ……のみ――

「あんにゃろ……」

「これでは意味がわかりませんね~」

「まぁ『迷廻』での俺を見ているからの文章なんだろうが……もうちょっとなんかあったんじゃ……」

「まぁこれもいい機会です。相手はメールを受け取っても大丈夫なようですし、待ち合わせの約束をしちゃいましょう」

「やけに必死だな、燐……」

 覗き込んでいたために少し密着する形になっていた身体を離し、俯きがちにつぶやく。

「それはそうでしょう……姉さんとの約束があるとはいえ、わたしの十五年間の願いがやっと叶うのですから。それに全力を尽くさない理由がありません」

「……まぁそうだな。俺もやるよ。覚悟を決めたからには、燐とともに過ごし……『レイ』とまた会うんだ」

「……ええ、その意気ですよ」

 その後、佐崎とのメールのやり取りにより、彼女が体調不良を理由に保健室で休み、そこから『迷廻』へ行ったこと、今も保健室にいて携帯がギリギリ使えること(保健の先生に見つかってもアウト)を知り、放課後の待ち合わせ場所を『甘虎登利』にすることが決定された。



「お待たせ」

 両親には『少し体調も戻ったし、外歩けば気分も良くなるかも』と言って、燐と一緒に家を出てから『甘虎登利』へと向かう。午後の授業が終わるより少し早めに出たので、佐崎を待つことになった。

「そんなに待ってないよ……いや、待てないよ」

「……そうね」

 相変わらずの盛況ぶりで、俺の五分待ちでも罪悪感が湧くほどだ。燐と一緒に入ってなければ、俺一人で重圧に押しつぶされていただろう。四人掛けの席を、待ち合わせがあるから、と二人で陣取っていたのだから、なおさらだ。

「なんで、燐ちゃんも一緒なの?」

「こいつももう関係者だから」

「はじめまして、ですね、佐崎真彩さん。俊輔さんの幼馴染で彼女の杜野燐です」

「ぶふっ!」「……なんですって?」

 先に注文していたコーヒーを吐きだしそうになり、なんとか堪える。……吐き散らしては、いない。

「お、おい、燐……」

「あら? この店内の賑わいで聞こえなかったんですか? もう一度言いますね。俊輔さんの、彼女の、杜野燐です」

「…………」

 燐の挑発的な行為に、佐崎のいかりのボルテージがグングン上がっているのが目に見えるようだ。だが、燐に挑発的意図はない、とは言えないかもしれない。だが彼女は事実を言っているだけだ。だからこそ、性質が悪いとも言えるが。

「……天聡くん?」

「………はい」

 解放されるはずのいかりは当然に俺に向けられることは予想できたが、こうもはっきりだと打つ手がなくなる。

「私は……なんて答えればいいの?」

「……とりあえず、自己紹介には自己紹介で返しといたら、いいんじゃないでしょうか?」

 思わず敬語に……敬語になるしかない俺の言は、一応まだ逆鱗には触れなかったようだ。

「はじめまして、燐ちゃん。一応私もファンクラブの端くれだから、初めてって気はしないけど……天聡くんの同級生で、数年間同じ秘密を共有していた、佐崎真彩です」

「(……ピキッ)」「ひぃっ」

 なぜ、挑発に挑発で返す?

「共有していた、ってことは過去形ですよね。今はわたしも事情を知っていますし、真彩さんはもう過去の女、ってことですね」「(……ピキッ)」「ひぃっ」

「燐ちゃんと天聡くんは中学でも高校でも一年しかかぶらないはず……でも私は中学高校大学と十年間同じ学年同じクラスにいることになるの。この意味がわかって? 中学三年生」「(……ビキッ)」「ひぃっ」

「こ、これから一緒にいるのはわたしも同じです。彼女ですから、学校では会えなくても、放課後や休日、家も隣ですから、いつでもイチャイチャし放題です」「(……ビキッ)」「イ、イチャイチャ……」「キッ」「ひぃっ」

 挑発に挑発を重ね、いつのまにか立ち上がり、額を突き合わせていた燐と佐崎。もちろん周囲の目を引いている。そんな二人が次に言葉を発したのは同時だった。

「「こうなったら……」」「へっ?」

「「俊輔さん(天聡くん)! わたし(私)か真彩さん(燐ちゃん)、どっちを選ぶの?」」

「えっ、あ、その………」

 彼女らに気圧され、言葉が詰まる。もう決めたはずの答えが出てこない。それは周りの野次馬が原因の一端を担っていた。

『修羅場か?』『修羅場だね……』『こんな間近で修羅場なんで初めて~』『まま~シュラバってなに~?』『シュラバっていうのはね、男の子が女の子のために頑張る事よ』『じゃあ、ぼくとさゆちゃんとたかくんはシュラバだね~』『え? どういうこと?……』なんか一組の親子がとんでもないことになっているが、こっちはもっと大変だ。

「しゅっんすっけく~ん」

 店内の喧騒を縫って、俺を呼ぶ声が聞こえた。この気持ち悪い呼び方は……

「暁生。お前なんで、ここに?」

 肩を組んできた親友に、まさかすべてバレていたわけではあるまいな。

「言ったろ? 亜由美と付き合ってるって。学校じゃあまり大っぴらにしてないけど、放課後とか結構遊びに行ってるんだよ」

 向かい側に視線を向けると、佐崎に仁多が詰め寄っていた。

「で、どうするんだ? 俊輔。お前にこの危機を乗り切れる術はあるのか?」

 そこで俺は思い出したように、そういえば……と切り出す。

「暁生、お前に渡すものがあったんだよ」

 と、わざとらしく後ろポケットを探り、組んでいる彼の右手に握らせる。

「ん? なんだこれ?」

 暁生は確認しようと手を俺から離し目の前に持っていく。それは二枚の紙――俺と燐の伝票と、千円札。

「おい、これどういう……あっいねぇ!」

 そう叫ぶ声を聞いたとき、すでに俺は店の自動ドアを開けていた。

「じゃ! お金はよろしく。二人はまた別の機会に!」

 俺も叫び返し、脱兎のごとく、夕闇に染まり始めた街へと飛び出す。

「燐ちゃん、追うわよ!」

「わかりました! 立華さん、お金はよろしくです」

 開いたままのドアから二人の追尾宣言もギリギリ聞こえてくる。自動で閉まりきる前に再び開き、店内から燐と佐崎が飛び出してくる。当然の如く、二人の背後には般若のお面が追随しており、俺はますます止まれなくなった。

「待ってください、俊輔さん!」「待ちなさいよ、天聡くん!」

「待てるか! 恐いんだよ、二人とも!」

「「なんですって~?」」

 追いつ追われつの三人を笑うように、現実世界でカラスが確かに『アホォアホォ』と叫ぶのが聞こえた――。


 過去を忘れず、現在を楽しみ、未来を期待する。

 そんな当たり前な『生界』の日常で、非日常である『迷廻』を隣に感じることのない二重生活が、ここから再スタートしたのだった――。






エピローグ 絶望の転生



 ――『迷廻』某所――

 学校の教室大のプレハブ小屋に、教室のように机と椅子が並べられている。

 だが、その場にいる二人は、生徒ではなく、教師が陣取る教壇の位置に置かれた椅子に座っていた。

「なんや、コトブキが失敗したらしいの」

 プレハブ小屋の入り口には、何も書かれていない木の板が吊らされていた。しかしこれは、表も裏も同じような模様だ。

「しかも一人のガキにやて。あいつも丸ぅなったのう。自分の妻ぁ騙すんはそりゃ見事な手際やったのに」

 時刻は、午前三時をすでに周り、部屋は暗い。と言っても、時間で『迷廻』の風景は変わらない。中が暗いのは、カーテンで仕切っているからだ。

「まぁでもそれも、十年近く前の話やろ? 人は変われるっちゅうけど、ほんまなんやな」

 他に誰がいるでもなし。しかし、彼らの声は自然と小さくなっていた。

「でもええんか? 結構優秀な手駒や言うてたのに」

「べつに、手駒ならいくらでもおる。わしらの会社は顔が広いからのぉ」

「せやけど、コトブキの例もある。誰が味方か敵か、はっきりした奴の方がええんとちゃうの?」

「そりゃもちろんやけど……今回の実験で、予想以上の大物が引っ掛かりおったから、そいつを使わん手ぇはないやろ」

「……神使やって名乗ったガキか?」

「せや。『神界』なんて見たことないから、簡単に信じんのもどうかと思うけど、あの地面についてた穴、見たやろ? 少なくとも時空に干渉できるチカラを持っちゅう、ってことやろ」

「まぁ、そやろな」

「それと、もう一人……」

「もう一人?」

「天聡くんやないか。彼のおかげで実験つぶされたんやし、なんらかの形で償いしてもらわななぁ」

 くっっくっくっ、と喉の奥を鳴らし不気味に笑う男と、それを嗜虐の笑みで見つめる女。

「わしら……坂本金融は『生界』の裏社会だけや満足できへんねや。この世界すべてわしの支配下に治めたる!」

 男の宣誓は、誰も気が付かないままひっそりと、『迷廻』の小屋の中で反響していた……

自分の処女作となる作品です。どうぞ気楽に読んでください。酷評も受け付けますが、それなりに内容に則したものでお願いします。

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