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春の海  作者: もんちょ
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よん

 はるにとっての夏は一息で終わりを告げた。彼女の心に憂鬱の種を蒔いたその日は思っていたよりも早くやってきた。まだ残暑の残る九月中旬、佳代と十三の娘、和子がはるたち一家の家に来た。


「こんにちは」

「久しぶりねぇ。遠いところから二人ともご苦労様」

「こちらこそ、本当にありがとう。和子も挨拶なさい」

「今日からお願いします」


母の血を濃く受け継いだ顔つきは、やはりはるの苦手なものだった。佳代の少し後ろから高めの頼りなさげな声と頭を下げた和子のおかっぱに違和感を覚えつつ、二人の手に余った荷物を部屋に運ぶ。荷物を運び終えたはるは母の横に座って和子を見つめる幸雄を抱き上げた。幸雄に見つめられた和子はじっとはるの腕の中にいる赤ん坊を見つめ返した。


「はるちゃん、大きくなって。弟?」

「はい。幸雄です」

「随分大人しいのねぇ。ね、和子」


はるに言わせてみせれば和子のほうがよっぽどだった。黙って首を縦に振る和子を見て、ほらと母が目線ではるに訴えた。渋々、顔には出さず和子の腕にゆっくりと弟を寝かせると、たどたどしい動きでぎゅっと抱える。険しく難しそうな顔で幸雄を抱く和子を、隣で佳代が目を細めて微笑んでいた。はるの隣にいる洋子も似たような表情でそれを眺めている。心に蒔かれた黒い種に水を注ぎ込んでみるみる肥大化していくそれと、養分を取られてなお健気に咲いた小さな花の二つがはるを大きく揺すった。種を摘みたいのに摘めない、それどころか徐々に増殖していくようであった。


「そういえば、はるちゃんも年頃でしょう」


その言葉が意味することを一瞬で眼前にたたき出して、はるは畳の網目に視線を向けた。流されやすい洋子はそのまま話に呑まれはるの不快などよそにとんとんと話を進める。思わず立ち上がったはるは、自分の出来るだけの気遣いをして部屋を出た。佳代という女が今まであった人の中で一番恐ろしく見えた。第三者的立場から見ると逆恨みでありながら彼女の目には悪魔としかうつって見えない。

 夕方の今から眠るわけもいかず、そんなことよりも夕食を作らなければならなかったのにはるの重い腰は中々上がろうとしなかった。窓の日が差したところを見つめるだけでただ時間が過ぎていく。億劫な時をただ過ごすのも出来ない矛盾に、ふと棚の上に置いてあった手紙を手に取った。近くおろそかにしていた文通も並べれば畳一畳はすぐ埋まるほどある。仕舞い忘れていた手紙の内容はこの間届いた物だった。先日返事を出したばかりのその手紙の内容は、さらさらと水が流れるようにはるの頭の中を抜けていく。なんて返事をしただろうと考えれば、答えははっきりせずもやが脳内を立ち込めた。

 座布団に座りなおし、ペンをとる。字が滲まないように服の裾をちょいと引いた。急かされるような気持ちでペンをとったもののそこで思いとどまってしまう。先日出したばかりで彼は驚くだろうか考えて、はるは息を止めて字を綴りはじめた。一文書いては息を吐き、また止めて書き始める。夜明けのような寂寞感と半ば自棄になって吐露した一枚の手紙が出来て、彼女はそれだけでじわりと滲む何か思いを感じた。



 俊は手紙の内容が、梅雨の頃と違うのに最近気付いた。書面を眺めながら力のない字に好奇心に似た感情が宿る。純粋な気持ちだった。

 五月の頃に比べると二人の手紙のやり取りは少なく、理由は俊が体調を崩したこととはるの憂鬱で億劫な気持ちからだったがそれでも惰性の失われてきたやりとりを続けるのは、彼女のおかげで人の気持ちを近くに感じることができたからだった。たとえ静のように構う母や、俊を暖かく見守る文子であっても彼の心をくすぐれない。小さな弟のことや学校のことを話してくれるはるだからこそ自分の好奇心を紙に綴ることが出来るのだ。ふと『つれづれなるままに、日ぐらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとを……』兼好法師の随筆を思い出して、文の最初から最後までもう一度読み直した。はるの、手紙の内容を考えている様子が頭に思い浮かんで俊は失笑した。


「夕方のお薬です」

「ああ、置いといて。母さん達は?」

「もうそろそろ帰られると思いますよ」


窓際に寄せられている机の上に、ついこの間処方された薬と透明の水が置かれた。伸びた前髪を払って俊は目元を緩やかにし文子にじゃあ今度頼むよと書き終えたばかりの手紙を預けた。手紙を受け取った文子はそっと割烹着の中にしまいたった今思いついたような顔で声を発する。


「前髪お切りになったらいかがでしょう」

「そうだな。そうしよう」

「奥様には伝えておきますね」

「いや自分でやるからいいよ」


そうですかと不思議に思ったものの、すぐなんでもないように机の花瓶を手にとって文子は部屋を出て行った。またすぐ戻ってくるので、俊はかちこちと音の立てる宮型時計に耳を傾け布団から上半身を起こしたまま色づく山の上を眺めた。太陽の光に焼かれた木が目に痛いくらい黄色に輝いている。秋口というのに緑色の青々しい葉を輝かせる木はどこか生き急いでるようだった。

 戻ってきた文子の持つ花瓶は桔梗にかえられていた。深い青の色はしっかりと落ち着き払っていて今俊の見ていた風景とはだいぶ違っていた。


「綺麗な青でしょう。今年も立派に咲きましたね」

「どこから摘んできたんだい?」

「庭に咲いていたのです」

「文子は怖いもの知らずだな」

「どうか奥様には口を閉じておいてくださいませ」


快活に笑う文子が軽く俊に頭を下げると彼もおかしそうに笑う。どうせ私が育てているんですものと文子は同年代の女よりも若く見える物言いでふんと威張る。それがこれまでの文子の幼い時から変わっていないことを物語っているようだった。なんとも愛嬌のある寛容な心を持った少女に違いない。それは今も変わらずなのだろう。



 饒舌な俊に拍子抜けしたのは言うまでもなかった。文子は夕食の用意をしながらざわつく胸中に花の綻びを隠せずにいられない。にんじんを切る軽快なリズムとともに今日の俊の心情の変化を思い出していた。やはり彼は青年のままであったのだ。

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