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春の海  作者: もんちょ
1/4

いち

 はるはマイペースで素直な女の子だった。雰囲気もかたいものではなく、むしろ普通の人よりもやんわりとしていて壁をつくったりなどしない。しかし彼女の性格が裏目に出たせいか、最初は彼女に近づいていった同級生たちも、空気を感じ取れないはるの言動に皆離れていった。思春期はどうしても周りを気にしてしまう。はるは自分のことを、歳をとり過ぎた学生だと随分前に思ったことがある。

そんな彼女は一人、放課後を迎えて行くところは家以外に無かった。いたって普通の一軒屋で、はるの生まれる前から彼女の両親が暮らしている家。庭には梅の木が一本生えていた。普段穏やかな父がはるの誕生木として植えたものだ。流されやすい母が上手い具合に言いくるめられ、今では母の趣味は梅の木の水やりであった。いつもの道から家に帰ると、丁度梅に水をやっている母が出迎えてくれるのだが今日は違っていた。暖かいこの時期になると、はるの地元からバスに乗って三つほどバスストップを走りぬけた先の古風な大きい家の木にうぐいすが止まっているのを彼女は知っていた。今日は週末、暖かさも程よい春の陽気に誘われて近くのバスストップに止まっているバスに乗り込んだ。この時間に乗るバスは人が少なくていつも楽である。流れていく景色を見ていると、徐々に道が狭くなり人が少なくなってくる。はるの地元も人が少ないのだが、山へと近づいていくに連れて人は二人、一人と影を無くしていく。やっと目的のバスストップに止まり、小銭を袋から出してバスを降りて息を一息深く吸い込んだ。かばんを肩にかけ直し、また走っていくバスの排気ガスに手を横に払った。

 さて、うぐいすの家に行こうと歩きだして数分、はるは一人の青年の背中を見て首をかしげた。神社の近くにあるそのうぐいすの声を聞くのに一番いいベンチがとられている。足をゆったりと伸ばして猫背気味に手元を見る青年は本を読んでいるのだろうか。背後からではどうも分かりづらいので、はるは神社の鳥居をくぐり青年の視界に入らないようにちらりと見た。黒い髪に隠れた顔は薄い口元以外分からなかったが、まだ三月といえども暖かいこの日に真冬のような格好をしていた。一つも汗をかかず日向で本のページをめくる青年が、はるの視線に気付いて右手で前髪を押さえて、目線だけをはるに向ける。二人の目線が交わる。しかし、何も喋らない。はるは、彼の隣にあいているスペースへ腰掛けた。うぐいすの鳴く声と梅の香りが二人の感覚をくすぐる。居心地の良い空間であった。

 青年が砂利をこする音を聞いて、おぼろげになっていたはるの頭の中がぱちりと覚醒する。ため息をついてずれてきていた体を少し起こし背骨を伸ばす。覚醒したからといって何もしていなかったはるはぼうっと神社の境内を眺めていたが、青年が本に栞を挟んだのを視界の隅に映ってそちらに顔を向けた。


「海って見たこと、ある?」


青年の声ははるの思っていたより高かった。耳障りではなく、落ち着いている声音であった。はるに目を向けないで、本の表紙を撫でながら青年は彼女の答えを待った。少しの間を置いてから、はるはついにあるよと答える。四歳のとき、一回だけ親に連れられて行ったことがあった。震災が起きた後の海であった。親から聞かされていた、あの青い海がうなり声を上げて家屋を飲み込み、人を水平線まで攫っていった津波。まだ幼いとき話を聞いただけだったがはるの頭にこびりついていた。その時のことを、いいなとはるの頭の中に繰り広げられた悲惨な情景とは反対の穏やかな言葉が耳に入る。思わず下を向いていた視線を上げて青年を見ると、切なさをかきたてるような目と目が合った。


「……じゃあ、見に行こう」


はるは言いながら立ち上がる。立ち上がった途端、周りの木に止まっていた鳥が青空へ飛んでいった。青年は声を上げることも無く、驚いたような表情ではるを見る。もどかしさを感じたはるは青年の右手を掴み急かすように引っ張って立ち上がらせた。向かった先ははるが先ほど降りたバス停。次に来るのは二十分も後のことだった。青年は、いつの間にか離されていた右手に本を持ち替えて、懐に忍ばせた。少し肩から落ちた羽織を元の位置に戻しながら、落ち着かない事態に初めてはるに汗を見せた。


「暑いなら脱いだらいいのに」

「俺、行っていいのかな」

「なんで?」


すかさずはるの疑問がとぶ。まだ来ないバスを待ちながら、彼女は道の先を見ていた。人通りの少ない道とはいえ、数人の人が二人の横を通りすぎる。焦燥感に似た気持ちの青年の心情に気付かないはるが、来たバスにほらと青年の手を引いて足をかける。すぐに動き出したバスに身を揺さぶられながら、心地よい風に髪を揺らす。二つに結ばれたはるの髪が青年の肩に触れる。それほど二人の距離は近かった。しかし、二人ともそれを気にするような性格ではない。人が次々と降りていくバスの中、最後にははると青年二人だけになってしまった。


「私も最近行ってないんだ。誰も行ってくれる人いなくて」


独り言のように呟いた言葉に青年もうんと頷く。それっきり二人の間には会話は無く、長い道のりを青年は前を、はるは首を後ろに向けて景色を眺めていた。

海の見えるバスストップで止まったバスに、はるは小銭袋の中から二人分のお金を出して降りる。その後を追うように青年も降りた。途端、感じたことのない潮風に思わず手で髪を押さえる。海へ向かうはるは彼を気にも留めず、さきさきに海へと近づいていった。


「…………」


砂浜を踏むと、砂に混じった貝殻がじゃりと音を立てて沈む。下駄では歩きにくいその砂の上を新鮮な気持ちで踏み進めていく。青空を仰げば白い鳥がひゅうと風に吹かれるように飛んでいた。

丁度いい岩を見つけた二人がそこに腰掛ける。青い水平線を眺めながら潮風に吹かれる。初めて海を見た青年は、子供のように目を輝かすことも声をあげることもなく静かな衝撃に心を奪われていた。ほうと安心したような感嘆のため息を漏らして小波に耳を傾ける。細かい白い砂を攫う海を眺めて、はるは母の言葉をラジオを再生するように思い出していたが、心の中は随分穏やかであった。久しぶりの感覚に心を休めていると、セーラー服だけで潮風に晒されたはるが肩を擦る。気付いた青年が羽織を脱いではるの肩にかけると、大丈夫だよと羽織を返そうとして彼女が手をかける。それを遮るように青年ははるの肩をやんわりと押した。困ったような嬉しいような、複雑な表情をしたはるはありがとうと一言返したあと海に視線を戻す。


「なんか、太陽の匂いがしてあったかい」


顔の前に羽織を寄せて微笑むはるに、青年も表情を崩した。突然、あという青年の声にはるは彼を振り返った。青年の見ている先には、大きな音を立てながら電車が走っている。清水には最近通り始めた電車だ。東京のような場所ではたくさんの電車が府内を走っているだろうが、静岡のこんな田舎では中々見れないものである。二人は電車が目の前を走り抜けた後もじっと線路を見ていた。

とうとうなにをしたわけでもなく、日が暮れてきた。はるが帰ろうと青年に声をかけて岩から降りると、青年は腰を曲げて足元に光っていた貝殻をひとつつまみ上げた。朱色の燃えるような太陽が水面に揺れて、清水を照らしている。貝殻の隙間から見える夕焼けに目を細めて、青年は自分の羽織を両手で引き寄せているはるの方へ歩き出した。



 二人は夕焼けに染まる風景を見ながら、人のいないバスの中でそれぞれのことをしていた。青年は貝殻を手のひらで転がし、はるはただ海を見つめていた。青から朱色に染まった海は暖かそうだった。ラジオの声は彼女の頭から落ちたように影も見せない。

 だんだんとはるの地元に近づいていく。春といえどもまだ三月、あたりはすでに薄暗く二人の心を急かしていった。羽織を脱いで返そうとしたはるを青年はまた遮って、結局彼女の降りる場所に着いても着たままだった。ほらと背中を青年に押されて抵抗することも出来ず、乗ったときと同じように二人分のお金を支払って地面に足をつける。走ろうとするバスの窓を見れば、小さく手を振っている青年を見つけて彼女も振り返した。

 家に着いたはるは、心配の声を上げる母にとやかく言われた。無論羽織のことも言われ多少うるさく思いながらはいはいと謝る。どこに行ってたのか何度も聞かれたが、それだけはなぜか言う気になれず誤魔化して部屋に行った。よく見てみれば、随分と仕立てのいい羽織だ。はるはそれをたたんで机の上に置いたあと、母が彼女の名を呼ぶまでセーラー服のままごろりと寝そべった。



 青年はバスを無事に降りた後、一人で夜道を家まで歩いた。神社の傍にある大きな屋敷の門を手で開け、下駄を鳴らしながら家の戸を開く。外とは打って変わって明るい光に目を窄めながら下駄を脱いで床に上がろうとしたとき、まあと驚きの声を上げた女が青年を見て口を押さえた。この女は母でもなければ、姉でもない。青年には兄弟がいないのだからそれは当たり前のことだ。実は、家政婦なのである。文子という名前の家政婦で、青年がまだ幼い頃にこの屋敷に稼ぎにきた。彼女は取り乱した様子を隠しもせず、奥様と大きな声で奥に叫んだ。その声を聞いてとんでやってくるのが、彼の母親である、静であった。


「俊、あなたこんな時間までどこへ行っていたの!」

「ごめん」


抱きしめられた青年、俊は静の質問に答えず謝った。文子が良かったと安堵している後ろから、白髪交じりの険しい顔をした父の信治がその光景を見つめていた。俊がその視線に気付いて目を向ければ視線が合ったが、父は何も言わず背中を向けて部屋の奥へと行ってしまった。もともと寡黙な父で、俊はそれに何の気も留めなかった。肩を掴んで体を離した静は、苦しそうな顔をして羽織はと俊に問いかける。それを聞きながら床に足を上げた俊は、必然的に目下にいる静を見て飛ばされてしまったと答えた。心配性な母はきっと、本当のことを言えば泣き崩れてしまうだろうと俊は分かりきっていた。


「少しの間だけと約束したでしょう?こんな所とはいえ何があるか分からないのよ。

 あなたはもう少し体を大事にしなさい」

「うん」

「本当に分かってるの俊?」

「奥様、俊様のお体も疲弊しきっているでしょう。今日はお休みを優先なさいましては」


見かねた文子が控えめに咎めると、最後に釘を刺すようにゆっくりお休みなさいと俊に声をかけ、信治と同じように奥へと消えていった。その背中を見送ってから、俊は目線を外して自分の部屋へと向かう。文子の声を背後に入った部屋は簡素で、本ばかりがあった。懐に入れておいた本を机の上に置いて引かれていた布団に座り込む。思えば、今までこんな暗くなったそとを出たことなんてなかったかもしれない。病弱な俊の体を、静はいつも口うるさくそれこそ耳にたこができるくらいああだこうだと身の回りの環境について言っていた。静かで空気の綺麗なこの地に居ついてからはそれも少なくなったというのに、また明日からうるさくなるのかと思うと気が重い。自分のことを思ってのこととはわかっていたのだが、ついため息がこぼれた。手に握ったままだった貝殻を見て、それを使っていない布の上に乗せて枕元に置く。うつ伏せに寝転んで貝殻を眺めているとほのかな潮の香りが鼻腔をくすぐった。





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